第14話 邂逅
京極の方を振り返り、ダニエルは息を呑んだ。
翁面を見つめる京極の瞳は、美しくカットされたダイヤモンドのように煌めいていた。その無数の光は、宇宙を彷徨う星々が爆発したかの如き苛烈さを帯びており、狂気すら感じられるほどだった。
「ふ……我々と同じ『ロストナンバー』か。他にも生き残りがいたとはな。独立行動をしているところから推測するに、陸軍特殊武装戦術群の連中も補足していない個体か。面白い……!」
興奮を隠しもしない京極を見て、月城は呆れ交じりに忠告した。
「やれやれ……相変わらずだな。楽しんでいる場合ではないぞ、京極。あの翁面も面倒だが、逢坂や須賀も放ってはおけまい」
「問題は無い。二代目桜龍会の組員に命じ、二人を追跡させる。さらに、外では《エスペランサ》のメンバーがこの工場を取り囲んでいる。そこを突破し逃げ出すなど、ほぼ不可能だ。どのみち奴らは詰んでいるのさ」
「だが、逢坂にしろ須賀にしろ、それなりのアニムスの使い手だ。甘く見ない方がいい。逃げ切られる可能性もあるぞ」
「それはそれで構わない。奴は負傷している。どこへ逃げようとも、行きつく先は分かっている。後は《女教皇》に任せることとしよう」
もちろん、ここで逢坂を自害させることができればそれが最上だった。だが、計画に狂いが出るのは珍しいことではない。ならば、それも見越して動くだけのこと。
京極にとっては、ただそれだけの話だ。
そこへ再び翁面の攻撃が京極たちに襲いかかる。
「まずはあの『ロストナンバー』の攻撃を封じるぞ」
言うや否や、京極はその瞳に赤光を宿らせた。
動いたのは彼だけではない。月城やリチャード、ダニエル、三人の瞳にもまた赤い光が閃く。
翁面のアニムス・《天之尾羽張》と、京極らの放ったアニムスが真正面からぶつかり合った。そして廃工場は轟音と爆発に包まれたのだった。
その頃、逢坂忍は廃工場の裏手へ続く廊下を須賀黒鉄と共に進んでいた。
だが、黒鉄の負傷は深刻で、歩くことさえもままならない。そのため、逢坂たちは思うように進めないでいた。
逢坂だけであれば、全速力で駆け抜けることも難しくはなかっただろう。しかし、何があっても黒鉄を置いていくわけにはいかない。
そうこうしているうちに、狭い廊下の後ろから、二代目桜龍会組員の追撃が雨霰のように襲いかかって来る。その先頭に立つのは、つい先ほどまで逢坂の部下だった鮎沢甘助だ。
「いい加減、往生際が悪いですよ、逢坂さーん! 権力にしがみつき、無様に生き残る事ばっかりで、何一つ責任を取りはしねえ……結局、あなたも保身まみれの年寄りたちと何ら変わらなかったってことですよねぇー? あー、失望したなあ。期待してたのになあ!!」
逢阪の持つアニムス・《ツイスト》が強力であることを知っているからか。甘助は決して必要以上に近づいては来ない。ただ、こちらが力尽きるのを待っているのだ。
逢坂らの体力を削ろうと、無数のアニムスが容赦なく襲いかかる。それが時おり、逢坂や黒鉄の体を掠め、さらなる負傷と激痛をもたらす。
逢坂は須賀を抱え、うち捨てられた工作機械や積み上げられた段ボール箱などの陰に身を隠しつつ、どうにかこうにか逃げ続ける。
「黒鉄、あともう少しだ! 耐えろよ!!」
「逢坂……さん……。俺の、事は……もう……」
言いかけて、黒鉄は激しく咳き込んだ。その弾みで口から血が溢れ出す。
「……!! 無理して喋るんじゃねえ!」
「京極……だけじゃ、ない……! 下桜井組の組員も、逢坂さんを探して……!!」
「黒鉄!? おい、しっかりしろ! 黒鉄!!」
しかし返事はない。黒鉄はもう殆ど意識がなく、朦朧としている状態だった。一刻も早い治療が必要だ。せめて体を横たわらせ、休ませなければ。
(くそ……絶対に逃げ切ってやる! 黒鉄のためにも、ここから逃げきってやる!! そして二代目桜龍会を取り戻すんだ!!)
何とかアニムスをかわしつつ前進し、曲がり角を曲がったその時。
目の前に大きな体格をした男が立ちはだかっていた。
逢坂はぎょっとして足を止めた。暗闇の中でも、彼が日本人離れした風貌であることがよく分かる。
圧倒されるような褐色の肌。《新八洲特区》の《アラハバキ》下部構成員がよく好むブランドもののスーツを纏っているが、この若者は《アラハバキ》の構成員ではない。何故なら、《アラハバキ》は保守的かつ排他的な組織であるため、外国人は断固として受け入れていないからだ。
ただ、例外が一つだけある。それは京極の経営するカジノ店・《エスペランサ》だ。京極はその辺のこだわりが全くないらしく、優秀な人材であれば民族や国籍を問わず積極的に採用している。
年齢やファッションを考えても、《エスペランサ》の従業員であると見て間違いないだろう。
(……つまり、こいつは京極の手下か!)
逢坂の頬を冷や汗が滴り落ちる。常に抜け目がなく、したたかなあの男のことだ。万が一、逢坂に逃げられた時のことを考え、工場の周囲に部下を配置していたのだ。
「……!! くそっ、先手を打たれてやがったとは!!」
《エスペランサ》の従業員がここにいる理由はただ一つ。逢坂と須賀を捕えること、そしてそれが不可能だった場合、確実に命を絶つことだ。
逢坂は絶体絶命の危機に陥った。
これだけの至近距離で、しかも逢坂は須賀を抱えているのだ。もはや無防備であるも同然だった。
辛うじて攻撃を防ぐことができたとしても、背後には追っ手である甘助が迫っている。前狼後虎で、このままでは挟み撃ちに合うのは火を見るより明らかだった。
どうすればいいのか。
せっかくここまで逃げてきたのに、須賀もろとも大人しく殺されるしかないのか。
焦る逢坂だったが、不思議とその従業員は何も手出しをしてこなかった。仁王立ちし、静かに逢坂たちを見下ろすだけだ。
逢坂は怪訝に思って、《エスペランサ》従業員をまじまじと見つめた。真っ黒いサングラスをしているため、どんな顔をしているかはよく分からない。だがふと、頬や顎のあたりに既視感を覚える。
まさか……いや、間違いない。
ひらめきは徐々に確信へと形を変える。
「お前……《グラン・シャリオ》の九鬼聖夜か……!? その服装……まさか《エスペランサ》の一員になったのか!!」
「……」
《エスペランサ》の従業員は、逢坂の問いに答えなかった。それどころか、何の身じろぎもしない。まるで最初から、そう尋ねられることを知っていたかのように。
逢坂はその反応で彼が九鬼聖夜であると悟った。
二代目桜龍会の事務所で会った時とは、髪型も髪の毛の色も全く違うし、ファッションの種類も全く違う。心なしか、全身から発する雰囲気も。
それでも、彼は九鬼聖夜なのだ。
《グラン・シャリオ》の副頭であった九鬼が、なぜ《エスペランサ》の従業員になっているのか。その理由は教えられずとも明らかだった。
(《グラン・シャリオ》を皆殺しにした《彼岸桜》は、みな俺の子分たちだった。こいつにとって俺たちは百万遍殺しても殺したりないほど憎い怨敵に違いない! ……つまり九鬼は、《彼岸桜》によって虐殺された《グラン・シャリオ》の敵を討ちに来たんだ!!)
実際は、《彼岸桜》は京極の《ヴァニタス》によって操られていたのだが、そんな事は九鬼にとって知ったことではないだろう。九鬼は《彼岸桜》の親であった逢坂をさぞかし憎んでいるに違いない。だから逢坂を殺して仲間の仇を討つため、こうして《エスペランサ》の一員となったのだ。
《グラン・シャリオ》の大虐殺の黒幕は京極だ……一瞬、そう九鬼に暴露してやろうかとも思った。
だが、それを九鬼が信じるかどうかは別問題だ。むしろ、無闇に弁解をしようとすると、余計に拗れる可能性の方が高い。
九鬼は最初に会った時と大きく印象が変わっている。右手の甲に刻まれていた《グラン・シャリオ》のチームエンブレムも今は無く、代わりに海外マフィアが好むような派手なデザインのタトゥーを入れている。
しかも顔には大きく真っ黒なサングラスをしており、表情が全く分からない。怒りを湛えているのか、それとも逢坂を軽蔑しているのか。それさえも窺い知ることができない。
逢坂は強い焦燥に駆られる。
こんなところで逢坂と九鬼が殺し合うなんて、あまりにも不毛ではないか。
得をするのは京極だけだ。
だが、九鬼には逢坂を憎む理由がある。そして同時に、殺す資格も。
少なくとも九鬼本人はそう思っていることだろう。
ただ、いくらそれが分かっていても、九鬼を殺してまでこの場を突破するのは躊躇われた。たとえ京極に操られていたとはいえ、逢坂の部下が九鬼の仲間を皆殺しにしたことに変わりはないからだ。
どう行動すべきか。
逢坂は迷った。
本能は目の前の『敵』を排除すべきだと告げていたが、理性がそれを許さない。そして経験上、そのわずかな躊躇が死に直結することを逢坂は知っていた。
特にアニムスを持ったゴーストどうしの戦いにおいては。
(くっ……! ここまでか……!!)
逢阪はぐっと奥歯を食いしばる。
しかし、やはり九鬼は微動だにしなかった。
逢坂には攻撃どころか触れることすらない。もちろんアニムスも使わない。
ただ、人差し指で右下を指し示す。
そこには廃工場の廊下に取り付けられた、巨大なダクト口があった。九鬼は感情のない無機質な声で素っ気なく告げる。
「あのダクトから外へ逃げろ」
「何……!?」
「裏口は既に《エスペランサ》の連中に囲まれていて危険だ。逃げるならそのダクトしかない。早く行け。ぐずぐずしている時間はないぞ」
つまり、九鬼は逢坂を逃がそうとしてくれているのだ。逢坂は驚いて目を見開く。
「お前……どうして……!?」
「早く行け!」
九鬼の言う通り、通路の前方と後方の両方から追っ手の気配が伝わってくる。乱暴な怒声や罵声、荒々しい足音などだ。
裏口からは《エスペランサ》、その反対の通路からは鮎沢甘助と京極に操られた二代目桜龍会組員。
もはや躊躇っている暇など無かった。逢坂は九鬼の方を振り返る。
「お前さんがどういうつもりか、俺には分からねえ。だが……この借りは必ず返す。必ず、な」
「気にするな。さっさと行け。俺はただ、俺の仲間の命を奪った残虐非道なクソ殺人鬼に復讐してえだけだ」
それを聞いた逢坂は、眉間にしわを寄せた。
(……ひょっとして、九鬼は京極が黒幕であることを知っているのか……!? その上で、敢えて《エスペランサ》に入り京極に近づいて、仇を討とうとしている……!?)
真相は不明だが、今ここでそれを聞き質している余裕もない。
「……気をつけろよ」
それだけを言い残すと、逢坂は須賀もろとも、ダクト口に飛び込んだ。その先は緩やかな下り坂になっていて、苦も無くあっという間に滑り落ちる。
逢坂が姿を消してから間髪入れずして、他の《エスペランサ》従業員や甘助たちが九鬼の元へやって来た。
甘助は、裏口から駆け付けた《エスペランサ》の面々に向かって怒声を張り上げる。
「……おい、こっちに逢坂忍が来ただろう! どこへ行った!?」
「裏口には姿を現していません。他に逃げられる場所はないはずなんですが……」
甘助は舌打ちをすると、今度は九鬼聖夜に向かって英語で尋ねた。
『アイザック、てめえはどうだ? 何か見なかったか?』
九鬼聖夜もまた、英語で返事をする。
『ここには誰も来なかった。標的をどこでロストしたのか分からないなら、他の通路を含め全体的に探し直すしかない』
「クソッたれ! 手間かけさせやがって……!! おう、チンタラすんじゃねーぞ、お前らァァ! こうなりゃ、生死なんざどうだっていい! 逢坂忍を必ず京極さんの元へ連れてくぞ!!」
「はい!!」
甘助に怒鳴り散らされ、《エスペランサ》の従業員と二代目桜龍会の構成員たちは、すぐさま逢坂忍の捜索に当たる。
「……」
九鬼聖夜もまた、黙ってそれに従った。
彼が逢坂忍と須賀黒鉄の行方を口にすることは、最後まで無かった。
一方、廃工場のダクトから脱出した逢坂忍と須賀黒鉄は、暗渠の中を走っていた。
ダクトを滑り降りるとその先は工場と倉庫の僅かな隙間に繋がっており、その隙間に沿って歩き続けると暗渠に出たのだ。
須賀を抱えたまま、地上を移動するのは目立つし危険だ。きっとすぐに追っ手に捕まってしまう。そう考えた逢坂は、そのまま暗渠の中を進むことを決めたのだった。
暗渠の水量はさして多くはない。だが水はまだまだ冷たい時分だ。
全身が凍りつくほどの冷水が膝下を流れていく。
おまけに、じめじめとしていて悪臭もひどいが、贅沢は言っていられない。
暗渠はそれなりの高さがあり、頭がつかえることはない。ただしひどく暗く、トンネルと違って照明も設置されていないので、方向感覚が狂ってくる。ところどころ天井が崩落しているのか、日の光が差し込んでくる場所もあり、おかげでどうにか視界が確保できた。
とにかく、もう《新八洲特区》にはいられない。京極の手下だけではなく、下桜井組の構成員も逢坂の行方を追っている。
身を隠すことができるとすれば、それはもはや《中立地帯》だけだ。
従って逢坂は、《中立地帯》を目指して歩を進めた。
隅田川を越え、神田川に沿って上流へ向かえば、理論上は《中立地帯》に辿り着ける。
(まあ、それで追っ手の奴らから逃げ切れるかどうか……かなり無茶な賭けだがな)
須賀はほぼ意識を失っている。そのため、彼の全体重が逢坂に圧し掛かってくる。少しでも気を抜くと、水の中に沈みそうだ。しかし逢坂は、それでも歯を食いしばって前進を続ける。
(今のところ追っ手はまだのようだが、追い付かれるのは時間の問題だ! しかも俺を追っているのは京極の手下どもばかりじゃねえ。他の下桜井組組員も、下桜井の親父や組幹部の命令を受けて俺を探しているはずだ……!
周りはどこもかしこも敵だらけ……この街にいる限り、逃げ場はねえ! 生き延びるためには、できる限り早く《新八洲特区》から離れねえと……!!)
既に体力は尽きつつあった。逢坂は気力を振るい、辛うじて立っている状態だ。
それでも地を這うようなスピードで進み続けていたが、ふとある事に気づき、呆気に取られて立ち尽くした。
目の前で暗渠が二手に分かれていたのだ。
「くそ、どっちに進むのが正解だ!? 端末さえありゃ、一発なんだが……!!」
京極に操られた二代目桜龍会構成員によって、殴る蹴るの激しい暴行を受けた結果、逢坂も須賀も腕輪型端末を破壊されてしまっていた。
正直なところ、自分が今どこにいるのかすらも分からない。
立ち往生していると、不意に暗渠のコンクリートの天井に亀裂が走り、やがて瞬く間に豆腐のように斬り裂かれた。
突然、日の光が差し込んできて、逢坂はその眩しさに目を細める。
そんな中、人影が上から舞い降りてきた。
そしてざぶんと水音を立て、暗渠の中に着地する。
「なっ……!?」
下桜井組の構成員か、それとも京極の放った追っ手か。
もしくは京極自身か。
逢坂は警戒し、全身を強張らせた。
しかしそこに現れたのは、そのどれでもない。廃工場で逢坂を助けてくれた翁面の男性だった。
面といい、作務衣といい、ほとんど破損箇所が見られない。京極たちとやり合って、単騎で追っ手を撒いたのだろうか。そんなことが、そう簡単にできるとも思えないが。
(いや……それを可能にする人を、俺は一人だけ知っている。俺と国府田さんに目をかけてくれたあの人なら……!)
まだ尻の青いガキだった逢坂と、その兄貴分だった、今は亡き初代桜龍会の会長・国府田学人。
二人が最も慕った人生最大の恩人であり、同時に盃をかわし合った親分。
「……忍、無事だったか」
飾り気のない、朴訥とした声音だった。逢坂は頷く。
「はい、おかげで命拾いをしました。やはり、あなたはとんでもなく強い。十年前と全く変わらぬまま……そうでしょう、鶴治さん」
「……」
「あなたは鶴治さんですよね? 先ほど発動させていた《天之尾羽張》は、あなたのみが使えるアニムスです。鶴治さん……あなたは、本当は生きていたんですね?」
轟鶴治は死んだ。
それは全ての《アラハバキ》構成員に共通している認識だ。鶴治の葬式には逢坂も出席したから、間違いはない。
棺に横たわる鶴治の死に顔を逢坂はこの目で見た。兄貴分である国府田学人と共に涙を流し、鶴治の死を悲しんだ。
苦難にぶち当たるたび、何度、鶴治が生きてくれていたらと願ったかしれない。
だが、《アラハバキ》での競争に揉まれる中で、否が応にも認めざるを得なかった。
鶴治はもうどこにもいないのだという現実を。
この十年あまり、日々を生きるので精一杯だったが、鶴治のことを忘れたことは一日たりともなかった。毎年、墓参りを欠かさず、今年も参拝の用意をしていた。
――それなのに。
その鶴治が生きていたなんて、正直なところ逢坂自身、信じられない。
だが、《天之尾羽張》は確かに轟鶴治のアニムスだ。
ゴーストが持つアニムスは個体によってそれぞれ違う。形状の似たアニムスはいくらでも存在するが、全く同一のアニムスというのは存在しえないのだ。
ヒトにとっての指紋や虹彩と同じように。




