第13話 翁面の男
(みな、本当に俺のことを覚えてねえ……! 忘れちまったんだ!! 俺たちがみなで力を合わせ、二代目桜龍会を拡大させ発展させたことも! そのためにどれだけの血と汗を流したかも!! その結果、俺たちがどれほど強い絆で結ばれていたか……その全てが無かったことになってしまった!! 俺が二代目桜龍会で築いた何もかもが、一瞬にして奪われちまったんだ……!!)
それなりの修羅場をくぐってきた逢坂も、さすがに絶望感に捕らわれる。
思えば、逢坂は比較的、環境に恵まれてきた。体力があるから戦闘は得意だ。アニムスにも恵まれたため、抗争で負けたことは一度もない。
一方で、旧態依然とした《アラハバキ》での人間関係の構築も、逢坂にとっては全く苦ではなかった。年寄りとも若者ともそれなりにうまく突き合ってきたし、根回しも得意なくらいだ。
人を見る目にも自信がある。だから大勢の仲間に恵まれた。
その結果、逢坂は何があっても常に生き残ってきた。
同い年の《アラハバキ》構成員が続々と命を落とす中、逢坂は時には仲間の力を借り、また時には自分自身の力で窮地を乗り越え、道を切り拓いてきた。
だが、そんな逢坂も今回ばかりはどうやってこの危機を乗り越えたらいいのか分からない。今まで培った経験など、京極の張り巡らせた策略の前では紙くずも同然で、何の役にも立たなかった。
やがて頃合いを見計らい、京極が二代目桜龍会構成員たちに、暴行を辞めさせる合図を出す。そして、氷のように冷え切った声で逢坂に宣告した。
「逢坂忍、お前があくまでこちらの要求に背くというなら、こちらもさらなる実力行使に出ることになる。それでいいのか?」
「た、たとえ死んでも……てめえの言う通りなんざならねえぞ……!! クソくらえ!!」
何とかそう口にしたものの、鳩尾に強烈な痛みが走る。
「ガハッ!! ぐぅ……!」
逢坂はすでに立ち上がることもできないほどボロボロだった。四肢から胴体までくまなく腫れあがり、中には内出血して青黒くなっている部分もある。大声を出すだけで体中が激痛に悲鳴をあげるほどだった。
こんなところで、こんな奴に屈するわけにはいかない。その怒りとプライドだけが辛うじて逢坂を支えている。
だがそれすらも、限界に達しつつあった。
一方、リチャードは若干、興醒めしたようにそれを眺める。彼としては、もっと見ごたえのある派手な活劇を期待していたようだ。
「……やれやれ、何だかちょっと飽きてきたな。どうだろう、そろそろサクッと殺してしまうというのは?」
すると、乙葉ダニエルは冷ややかにその案を一蹴した。
「何、馬鹿なことを言ってんですか。なぜ京極さんがここまでしてるか、あなたには分からないんですか?」
「うーん……サッパリ?」
無邪気に肩を竦めるリチャード。ダニエルは溜息をついた。
「……下桜井組は《アラハバキ》の中でも最も筋を通すことを良しとする組です。特に組長の下桜井蝉は情に厚い。そんな組織で京極さんが逢坂忍を殺したら、それがどんなに正当な理由であったとしても、後々、禍根が残るでしょ。
それに東雲側が、逢坂忍と《死刑執行人》が内通していたという『例の動画』の本物を持っていないとも限らない。だから、うまく下桜井組に入り込むためにも、逢坂忍にはここで自害してもらわないと困るんです。それが一番、丸く収まるんですよ。この日本社会ではね」
「……ん? でもタカには《ヴァニタス》があるから問題は無いのでは? 抵抗勢力はみな洗脳してしまえば良いのだから」
「《ヴァニタス》は相手を支配するのに時間がかかるアニムスだ。他にも数々の制限がある。僕たちにはそれをいちいちクリアしていく余裕は無い。特にタイムロスは避けなければ……京極さんもそう考えているんでしょ」
「ふむふむ、なるほど……」
他人事のように呑気に頷くリチャードに対し、ダニエルはとうとう堪忍袋の緒が切れる。
「……っていうか、あんた本当に今回の計画のこと、理解してるんでしょうね!?」
「もちろん分かってるよ。でも、確認作業は大事だろう?」
そしてリチャードはパチンとウインクをするのだった。ダニエルが苛立ったのは言うまでもない。隣に立つ同僚へ刺すような鋭い視線を向ける。
だが、《ノヴス・オルド》社の社員たちが呑気に会話を交わす間も、逢坂は京極を睨み続けた。その体はもはや半死半生だったが、それでも彼の瞳には強い意思が宿っていた。
徹底抗戦の姿勢を見せる逢坂の姿を目にし、京極は陰湿極まりないその瞳を、すうっと細める。
「ふ……あくまで抗うか。ならば望み通りにしてやる」
そう言うや否や、京極は縛り付けられたパイプ椅子ごと須賀を蹴り倒す。
パイプ椅子は斜めになってバランスを崩したが、満身創痍で意識を失っている須賀にはその体勢を維持することができない。大きな音を立て、椅子ごと転倒し、その弾みで須賀の装着していた眼鏡が吹っ飛んでいった。
京極はそれに構わず、須賀の頭を真上から靴で踏みつける。逢坂は血相を変え、身を乗り出した。
「な……!? 黒鉄に何をするつもりだ!!」
「知りたいか? これからお前の大事な部下……二代目桜龍会の組員に命じ、須賀黒鉄を嬲り殺しにするのさ。……逢坂忍、お前の目の前でな」
「貴様っ……そうまでして俺を抹殺したいのか!! そこまで俺を憎んでいたのか!!」
逢坂は力を振り絞って絶叫する。
京極にとって、逢坂が目障りだということは分からなくもない。むしろ、野心と才のと若さの全てが備わっているなら、下克上を目論むのが当然のことかもしれない。
だが、逢坂は一貫して京極の支援をし続けてきた。ここまでの仕打ちを受けるほどの謂れはない。
すると京極は初めて怒りの感情を見せた。今までずっと冷淡で、逢坂には関心すらないような素振りだったのに、初めて激しく声を荒げた。
「憎む? 俺がお前を? 笑わせるな! 貴様には憎悪を向ける価値すらない! 言っただろう、貴様の生死などに興味はないと! 俺が望むのは、貴様が全ての責任を負って自害したというその結果のみだ!!」
「くっ……!!」
その時、転倒した衝撃で意識を取り戻したのか、須賀がはっきりと呻き声を発する。そして、逢坂に向かって弱々しい声で訴えた。
「逢坂さん……どうか逃げてください……!」
「……! 黒鉄!!」
「あなたは……こんなところで死んではいけない……! 俺には構わず、生きてください……!!」
「馬鹿野郎……!! お前ひとり残して俺だけ逃げ出すなんて、そんな真似できるわけがねえだろうが!!」
逢坂はそう叫ぶと、とうとう銃口を自らの顎の付け根に押し当てた。
銃を握るその手はあまりの怒りと悔しさで震えている。
こんなところで死にたくはない。
こんな形で、憎き忌敵である京極の思い描いた通りに自害するなど、あっていいはずがない。
まだ《彼岸桜》たちの仇も取っていないというのに。
あまりの腹立たしさで、はらわたが煮えくり返りそうだった。
だが、須賀を救うにはこうする他ない。
京極はどこで奪ったのか、須賀が愛用しているニードルガンを取り出し、その銃口を彼の頭に向けた。短針が直撃すれば、須賀は間違いなく即死だ。
そして京極は最後の一押しと言わんばかりに、逢坂に選択を突き付ける。
「さあ、引き金を引け! 逢坂忍!!」
逢坂は目をぎゅっと瞑る。そしてトリガーにかけた指に力を込めた。
この一発。
たった一発で黒鉄の命は助かる。
京極が約束を守るとは限らないし、二代目桜龍会や下桜井組がどうなるか懸念がないと言えば嘘になる。
だが、せめて――せめて黒鉄だけは救わなければ。
逢坂は深く息を吐き、そして吸い込む。
その刹那。
妙に落ち着いた声が、殺伐とした工場内に響き渡った。
「……やめろ、忍。こんなところで死ぬこたぁねえ」
幾重にも積み重なった人生経験を感じさせる、深みのある声。二代目桜龍会の構成員は全体的にみな若く、このような声を出せる者はいない。
一体、誰だ。
逢坂は、はっと目を見開き、周囲へ視線を向ける。
すると、逢坂の右手に見慣れぬ男性が立っていた。工場の闇に紛れ、そこに誰かが立っている事に気づかなかったのだ。
男性は作務衣を着ており、素足には二枚歯の下駄。古びた翁の面で顔を被っている。どこかでその面を見たような気がするが、どこで見たのか思い出せない。
先ほどの声の主はこの男か。これまで確かにその姿はなかったのに、いつの間に。それとも、ただ逢坂たちが気付かなかっただけか。
その場にいる全員が逢坂と同じように、その翁面を被った男へ視線を向ける。そして、大きく騒めいた。
その翁面は右手にシンプルな拵えの日本刀を携えていたのだ。
「な……何だ、コイツは……!?」
「おかしな面を被りやがって、ナメてんのかぁ、てめぇッ!?」
翁面の一番近くに立っていたのは、京極の放ったスパイである鮎沢甘助だった。甘助は逢坂を殴った金属バットを肩でトントンと上下させながら、その翁面へと近づいていく。
「何とか言えよ、ゴルァッ!!」
甘助はそう叫ぶと、大きく踏み込み、勢いに任せて金属バットを翁面の男に向かって振り下ろした。
しかし、次の瞬間、その金属バットはバラバラになってしまう。
まるで、包丁でぶった斬られた輪切り大根みたいに。
斬り刻まれた金属バットのヘッドは、耳障りな金属音を発しながら廃工場の床に落下した。甘助の手に残ったのはバットのグリップ部分だけだ。
「……あ?」
甘助はきょとんとした。咄嗟に放たれたその声は、どこか間抜けですらあった。
しかし、翁面には身動ぎした様子はない。登場した時と全く同じポーズで、まんじりともせず、ただその場に佇んでいる。
その一部始終を目にしていた二代目桜龍会構成員たちは、口々に驚きの声を上げた。
「何だ……? 今、何しやがった!?」
「見ろ、あの金属バットを! まるで刀で叩き斬ったみてえだ」
「だが、こいつは身動き一つしてねえぞ!」
「つまり、アニムスを使ったのか!?」
「チッ、翁面が邪魔で分かんねーんだよ! その気味の悪ィ面、外しやがれ!!」
ゴーストがアニムスを使えば、瞳孔の縁が赤く光るのですぐ分かる。だが作務衣の男は顔を翁面で覆っているため、アニムスを使用したのかどうかが分からない。
それに苛立ったのか、二代目桜龍会組員の一人が男の被った面に手を伸ばした。
すると、翁面の男の全身から凄まじい殺気が放たれる。
「ヒッ……!?」
《アラハバキ》構成員すらも身を怯ませ、後ずさりするほどの、圧倒的な闘気。
「小僧ども、死にたくなけりゃ大人しくしていろ。そうすりゃ、殺しはしねえ」
今度は間違いなく、翁面の奥から声が発せられるのが聞き取れた。空気をびりりと震わすような、張りのある声だ。
二代目桜龍会の構成員たちもその迫力に呑まれ、ごくりと喉を鳴らす。
だが、すぐに緊張を振り払うかのように怒声を上げた。
「あ……ああ!?」
「ジジイ、それで脅しのつもりか!?」
一方、京極や《ノヴス・オルド》の社員たちも警戒した様子で翁面を注視する。まず口を開いたのは、リチャード=ローズだ。
「……京極、あのオールドマンは何者だい?」
「まあ、老人とは限りませんけどね。そういう面を被っているだけで」
リチャードの疑問に、皮肉げな口調でそう指摘するのはダニエルだ。
ただし両者ともに、先ほどまでの能天気な雰囲気は消え去っている。そうせざるを得ないほど、翁面の存在はイレギュラーであり、完全に彼の放つ強烈な存在感に呑まれてしまっていた。
京極もまた、射抜くような鋭い視線を翁面に向けつつ、《ノヴス・オルド》社員たちに指示をする。
「……。リチャード、ダニエル。二人とも後ろに下がっていろ」
「え……?」
「Why!?」
京極が言い終わらないうちに、翁面は静かに手にしていた白鞘の日本刀を構えた。下駄を履いているというのに、不気味なほど音がしない。まるでサイレント映画でも見ているかのようだ。
逢坂は翁面の滑らかな動きを目にし、大きく息を呑む。
(あ……あれは、まさか……!!)
信じられない。
そんな事があるはずがない。
しかし逢坂の思いとは裏腹に、翁面は静かに日本刀の柄を握り締める。逢坂の記憶にある『その姿』と寸分たがわぬ格好をして。
そして翁面は、やはり逢坂の記憶に深く刻まれたその言葉を、朗朗と口にするのだった。
「……《天之尾羽張》」
そう呟いた瞬間、翁面の瞳の奥が赤く光るのが見えた。
間髪入れずして、キン、と恐ろしく澄んだ金属音が空間を切り裂く。
それから一秒と断たぬ間に、廃工場の内部は一変した。
工場の錆びついた柱や、薄汚れた床には一瞬にして幾重にも斬り付けられたような痕が刻まれる。広範囲に渡って繰り出された斬撃によるもので、巨大な獣が鋭い爪で引っ掻き回したかのようだ。
それだけではない。
二代目桜龍会構成員が手にしていた武器の数々も、先ほどの金属バットと同様に、粉々に斬り刻まれてしまった。
しかし、太刀筋があまりにも早いため、誰もそれを目で追えない。翁面が刀を抜いたところまでは分かったが、気づいたら刀が鞘へ戻っていた。
烈風が吹きすさび、チン、という音がする頃には全てが終わっていた。
二代目桜龍会構成員たちは、武器を失って丸腰になったこともあり、じりじりと後ずさりする。
「くっ……何て剣捌きだ! 太刀筋が全く見えねーぞ!!」
「しかもこの破壊力……相当な高位ゴーストだ! マジで何者なんだ、コイツ!?」
みなが驚き狼狽する中、逢坂は自ら抱いた予感を、より一層、確かなものにしていた。
(今のアニムス……間違いない! この人は……この人は!! 生きていたのか!!)
ちょうどその確信に呼応するかのように。
翁面はわずかにこちらへ顔を傾けると、改めて逢坂へ声をかける。
「……忍、まだ動けるか?」
「は、はい! 何とか!」
「須賀黒鉄を連れて、この場を脱出しろ。チャンスは一度きりだ」
それを聞き、二代目桜龍会の面々は我に返った。せっかく逢坂忍を誘き出したのだ。ここで獲物を逃がしてたまるものか。そう言わんばかりに、一斉に殺気立つ。
「おうおう、ふざけんじゃねーぞ!!」
「俺らがそう簡単に逃がすと思うか!?」
「……行け!!」
翁面は鋭くそう告げると、同時に抜刀する。そして再び、《天之尾羽張》を発動させた。
白鞘の日本刀から放たれる剣圧が衝撃波を生み、瞬く間に周囲一帯を斬り刻む。
衝撃波の形状は様々だ。扇状にほとばしるのはもちろん、ニードル状にして、剣山のように張り巡らせたり、術者を中心として放射状に広がったりする。そこから逃れられる者はいない。
「ぐあっ!」
「ちくしょうが、ぎゃああっ!!」
逢坂はその隙を突き、須賀の元へ駆け寄った。翁面の放った《天之尾羽張》のおかげで、須賀の体を拘束していたロープは切られている。しかし、酷い暴行を受けているためか、すっかり衰弱しているようだった。顔も原形を留めていないほど、どす黒く腫れ上がっている。
逢坂は須賀の腕を自らの肩に回し、担ぎ上げた。
「黒鉄、立てるか!? ここから脱出するぞ!」
「すみません、逢坂さん……あなたの、足を……引っ張っちまって……!」
須賀の声はひどく掠れ、途切れ途切れにしか聞き取れない。
「馬鹿、そんな事は気にするな! まずは生き延びるんだ!! 恥を忍んでも生きて、生きて……そうすりゃ、必ず突破口が開ける!!」
しかし、そうはさせまいと京極たちも動く。
「……逃がさん!」
京極の瞳に紅の炎が閃いた。発動させたのは《ルーナ・ノヴァ》だ。
しかし、今度は逢坂もアニムスで応戦する。人質だった須賀は今やこちら側の手の内にある。先ほどまでと違って、遠慮する必要はどこにもない。だから思う存分、反撃できるというわけだ。
「へっ、そう来ると思ってたぜ!!」
逢坂は真下に向かって《ツイスト》を発動させた。足元には錆びかけた鉄板が横たわっている。大きさはちょうど畳二枚分ほどだ。
《ツイスト》を受けたその分厚い鉄板は、反動で大きく捲れ上がった。その反った鉄板が《ルーナ・ノヴァ》の威力を削ぐ。
逢坂はいくらか《ルーナ・ノヴァ》を食らってしまったが、動けないほどではない。
また、京極の動きに気づいた翁面が《天之尾羽張》を京極たちに向ける。
「オーマイガッ!!」
「ああ、これだから野蛮人どもは嫌いなんだ!!」
リチャードとダニエルは、それぞれ悲鳴や悪態を口にしつつ、後退した。
「ち……厄介な奴が乱入してきたな」
そう呟いたのは月城響矢だ。京極は防御型のアニムスを持たない。そのため、京極の影に潜んでいた月城が実体化し、巨大な盾となって翁面の攻撃を防ぐ。
だがそのせいで、京極たちの視界は遮られてしまった。京極や《ノヴス・オルド》社員の、逢坂に対する注意が一瞬、途切れる。
「今だ! 行くぞ、黒鉄!!」
「は……はい!」
その隙に逢坂は須賀を担いでその場を脱出した。
廃工場の入り口近くでは二代目桜龍会と翁面の男が乱闘を繰り広げているため、奥へと向かう。工場の奥には通路があり、そこから裏口へ抜けられるはずだ。
一方、京極たちは翁面の攻撃を防ぐのに手いっぱいで、逢坂の背中をただ見送るしかなかった。
「どうする、タカ? 標的が逃げてしまったぞ」
どこか悠長さの抜けないリチャードの言葉に、ダニエルが突っ込む。
「んなこと言ってる場合じゃないでしょ! ……京極さん、『オールドマン』のあのアニムスは……!!」




