第9話 逢坂忍の回想②
とはいえ、逢坂は別段、今の下桜井組若中という地位に執着があるわけではない。自分一人のことだけ考えるなら、特別な役職はなくても構わない。
だが、逢坂は二代目桜龍会の会長だ。
組織の長として何としてでも二代目桜龍会を守らなければならない。
そのためにも、ここで京極の罠に嵌って、失脚するわけにはいかなかった。
目的を達成するまで、誰にも邪魔をされたくない。逢坂は敢えて二代目桜龍会の事務所には戻らず、江戸川区西小岩にある、とある廃ビルの一室に身を潜めることにする。
江戸川区や葛飾区、墨田区、江東区といった東京の東部は、《アラハバキ》と《レッド=ドラゴン》双方の支配域が重なる地帯であるため、昔からたびたび大規模抗争の舞台となってきた。《休戦協定》によって今ではだいぶその数も減ってきたが、危険地帯であることに変わりはなく、《アラハバキ》構成員ですら敬遠するほどだ。
また《中立地帯》から離れているため、《死刑執行人》も滅多に足を踏み入れることが無い。そのため、身を隠すにはうってつけの場所だった。
「……。まさか、ここを俺が使うことになる日が来るとはな」
その部屋は廃棄されて久しい雑居ビルの一角を占めており、途轍もなく簡素なつくりだった。
壁はコンクリートの打ちっぱなしで、家具もマットに黴の生えたベッドぐらいしかない。電気、水道は辛うじて通っているが、止まることもしばしばだ。当然、暖房器具などは置いていないため、この季節は寒さが身に染みる。
なかなかの悪環境であるため、最近はもっぱら裏切者や敵対組織の人間の監禁場所などとして使っていた。
元もとこの廃ビルは初代桜龍会会長の所有していた隠れ家だった。逢坂が組を引き継いだ時、この隠れ家も同時に引き継いだのである。
初代桜龍会の会長は逢坂にとって、もっとも恩のある兄貴分だった人物だ。
名を国府田学人という。
逢坂と共に、かつて轟組の若頭であった轟鶴治を支えた人物だ。
鶴治の死去後、国府田学人は轟組に残らず下桜井組に移籍した。移籍理由はいろいろあるが、最も大きな要因は、鶴治が轟組の中で冷遇されていたことにある。
鶴治は若頭を務めただけのことはあり、轟組に多大な貢献をした。にも関わらず、総組長の虎郎治は鶴治を軽く扱い続けた。
当時の逢坂は若かったこともあり、鶴治が冷遇された理由はよく分からない。ただ、傍目に見ても、問題は鶴治よりも虎郎治の方にあるように見受けられた。
それは国府田も同じだったに違いない。
むしろ、国府田は鶴治とのかかわりがより深く、そばで一部始終を見ていたため、いろいろと思うところがあったのだろう。轟組を離れるという彼の決断は素早く、そしてあまりにも呆気なかった。悩む素振りさえ見せなかった。鶴治に恩義は感じていても、彼を邪険にし続けた轟組には何ら愛着を感じていなかったのかもしれない。
また、総組長である轟虎郎治が国府田を引き止めることも無かった。虎郎治は鶴治にすら興味がなかったのだ。それなのに、その弟分を厚遇するわけがない。
下桜井蝉も、そういった事情をよく知っていて、国府田を快く自分の組に迎え入れた。信頼する兄貴がそうするならと、逢坂もまた国府田と共に下桜井組へ移った。
とはいえ、下桜井組にとって国府田や逢坂はあくまで『外様』だ。国府田が粉骨砕身し、ようやく下桜井組の信頼を得、自分の組を持つことを許されるまでになるには、多大な努力と長い年月が必要だった。彼がどれほど苦労したか、常に国府田と命運を共にしてきた逢坂はそれを痛いほどよく知っている。
国府田もまた逢坂を厚く信頼しており、亡くなる前に桜龍会を任せてくれた。「お前になら、安心して託す事ができる。弟分や子分を……俺のかけがえのない家族を任せた」と言って。弟分である逢坂は、本来、組を継ぐ立場にはないが、それでも託してくれたのだ。
だから逢坂は、絶対に二代目桜龍会に戻らねばならない。
そして、国府田から託された組を、家族を守り抜かなければならない。
もっとも、だからと言って派手に動くわけにはいかなかった。ただでさえ逢坂は京極との戦いで深手を負っている。傷口は悪化する事こそないものの、そう簡単に治癒もしない。劣悪な住環境のせいで、体には余計に負担がかかる。
だが、弱音を吐いている場合ではなかった。組のため自分のため、そしてこれまでの先人たちの想いに答えるためにも、この苦境に耐え、確実に京極を仕留めなければ。
(いつも通りにいけば、俺が組にいない間、若頭である黒鉄がうまく二代目桜龍会を取り仕切ってくれるだろう。だが……今回は何か嫌な予感がする。一刻も早く京極を討ち取り、内通の疑惑を晴らさねえと……!
二代目桜龍会は国府田の兄貴が全てをかけて俺に残してくれた、まさに血と汗の結晶だ。だから俺は、何があっても二代目桜龍会に戻らなきゃならねえ。組を守らなきゃならねえんだ……!!)
逢坂は一人、廃ビルの部屋で潜伏し続けた。
その間、《中立地帯》では《Zアノン》信者が暴れ始めていたが、逢坂にはほとんど影響が及ばなかった。
時々、二代目桜龍会若頭の須賀黒鉄が信頼できる部下を派遣してくれる。鮎沢甘助という若衆で、どことなく茶目っ気があり、明るく社交的な性格をしているためか、組のみなから愛されていた。
とはいえ、甘助はただのひょうきん者ではない。その表の印象とは裏腹に用心深く頭が切れる。そのため、逢坂や須賀は甘助の実力を評価し重用していた。須賀と甘助以外は誰も逢坂の居場所を知らず、二代目桜龍会や下桜井組では逢坂は行方不明ということになっているらしい。
甘助は逢坂の潜伏生活に必要な生活用品や衣料品、食料品といった物資を運んできた。また、二代目桜龍会や下桜井組の現状、または上松組の抗争や《Zアノン》信者の台頭などについてもこまめに報告してくれた。
逢坂がそうしろと命令せずとも、甘助は自ら判断して動く。そのコミカルな振る舞いから『猿』などといって揶揄われることもあるが、その実とても優秀な若者だ。
《彼岸桜》たちの遺した手紙を真っ先に発見して逢坂に報告したのも甘助だった。
ところがある日、その甘助が息を切らして逢坂の潜伏先へと駈け込んで来る。
「逢坂の親父! 大変です!!」
甘助はひどくショックを受けた様子で、転がり込むようにして逢坂の元へやってきた。顔は血の気を失い、冷や汗が玉となってびっしりと額を覆っている。どう見ても尋常な様子ではない。
「どうした、甘助!? まさか……二代目桜龍会に何かあったか!?」
逢坂が問い詰めると、甘助は悔しげに顔を歪め、吐き捨てるようにして叫ぶ。
「は……はい! あの京極鷹臣が二代目桜龍会に乗り込んできたんです! 奴は親父の弟分だという自らの立場もわきまえず、二代目桜龍会を乗っ取りやがったんです!!」
それを聞かされ、さすがの逢坂も平常心ではいられなかった。気色ばんで甘助の両肩を掴む。
「何だと!? 京極の野郎が!? どういう事だ! いくら奴ができるとはいえ、幹部入りすらしていない身だ! 代紋はおろか、組を持つこともまだ許されていないはず……!
そもそも京極は俺の舎弟であって子分じゃねえ! 組を継ぐことができるのは子分筋の構成員のみのはずだろう!! にもかかわらず、現会長である俺を差し置いて誰が勝手にそんなことを……一体どうなってやがんだ!?」
「そ、それが……」
一体、何が起こったのか。甘助は黒鉄に命じられて情報収集を行ったらしく、京極が二代目桜龍会に乗り込んできたその経緯を詳しく逢坂に説明した。
事の発端は、逢坂が行方不明になった直後に行われた下桜井組の幹部会でのことだ。
京極への復讐を誓い、江戸川区にあるこの廃ビルに身を潜めていた逢坂は、当然、下桜井組本家で行われたその会合には参加しなかった。そのため、幹部会は逢坂の処遇で紛糾したという。
「おい、忍はどうした? まだ来ねえのか。会合が始まる時間はもうすぐだぞ」
「聞いたところによると、忍のヤツ、行方をくらましたまま自分の組の事務所にも戻ってねえらしい。ひょっとすると、今日の会合にも姿を現さねえつもりなんじゃねえか?」
「しかし、あの忍がなあ……あいつは今の奴にしちゃ珍しく、礼儀正しくしゃんとしていた。目上の者のことも敬い、若くして頭角を現したが同時に謙虚だった。それなのに、今回のことはどうにも忍らしくない」
「フン、珍しくドジでも踏んだか? 奴にも全く野心が無いってわけでもねえだろうからな。功を焦っちまったのかもな」
「それにしても、だ! まったく何を考えてやがる⁉ こそこそと隠れやがって、何か事情があるならせめて親父にはそれを説明すべきだろう!
今のところ、例の《ノヴス・オルド》社との大型観光開発は順調に進んでいる。《収管庁》も上松組の内部抗争に気を取られてか、こっちには干渉してこねえ。下桜井組にとって今は最高のチャンスだ! 余計な揉め事を起こしてる場合じゃねえってのは、あいつもよく分かっているだろうに……!」
「……」
ざわざわと騒めく幹部たちに対し、組長である下桜井蝉は腕組みをしたまま微動だにせず、目を閉じて沈黙を保っている。逢坂忍に対して怒っているようでもあり、失望しているようでもあり、或いはこの事態をどう判断したものか思いあぐねているようでもあった。
下桜井蝉は特に逢坂忍を可愛がっていたから、無理もない反応だとも言える。幹部たちもそれは察していたが、動揺と不満、そして一抹の好奇心が彼らを饒舌にさせる。
幹部の一人が声を潜めつつも、興奮した様子で話し始めた。
「これはあくまで人伝に聞いた話だが、どうも忍の奴、東雲探偵事務所の《死刑執行人》と裏で内通していたらしいぞ。先日、忍の部下が《リスト執行》されただろう。ありゃ、忍と東雲の内通に気づいた《収管庁》が、東雲の裏切りに怒って強引に関係を清算させた結果らしい」
「その話は俺も聞いたぞ。ただの与太話だと思っていたが……忍がこの場に現れないところを見ると、ひょっとして事実なのか?」
「もしそうなら、とんでもない話だ! 親父に何の報告もせず、勝手な真似しやがって……しかも相手は《死刑執行人》だと!? これはれっきとした裏切り行為だぞ!!」
幹部の一人が声を荒げると、その隣に座る別の幹部が、組長である下桜井組蝉の方を窺いながら窘める。
「まあ落ち着け。まだそうと決まったわけじゃない。忍は《収管庁》や《死刑執行人》、《レッド=ドラゴン》といった《アラハバキ》外部の連中との連絡係でもあったからな。元もとそういった誤解を受けやすい立場ではある」
すると、下桜井蝉と同じく逢坂忍に目をかけてきた越智太獅は、ここぞとばかりに口を開いた。
「俺も同感だ。何で急に失踪したのか、その理由は分からねえ。だが、忍の事だから、必ず何か事情があるはずだ。あいつは親や組、そして俺たちを裏切るような奴じゃない」
「越智の兄貴……」
「確かに兄貴の言うことも一理あるが……」
みな無言のうちに組長である下桜井蝉へ視線を向ける。
蝉はやはり、腕組みをしたまま沈黙を保っていた。瞳を閉じ、眉間には深々とした皺が寄っている。どう判断したものか考え込んでいるかのようだ。
その時、越智に並ぶ実力者である下桜井組幹部の瀬戸島嶽が重々しく口を開く。
「どんな理由があろうとも、忍が親父や組に対し不義理を働いたのは事実だ。本来であれば、何か起こる前に真っ先に親父に報告するのが、子としてあるべき姿だろう。
それに部下が《リスト執行》されたことも、《アラハバキ》構成員として恥を晒した……つまり大失態を犯したということだ。……親父、これだけでも奴を幹部会から除名するのに十分だと俺は思います」
それを聞き、室内はさらにいっそう騒めいた。幹部会からの除名など、滅多にあることではない。あるとしたら、加齢や発病などに伴う引退のみだ。
越智太獅は慌ててその案に反論する。
「待って下さい、親父! 俺はそれには反対です。いくら何でも性急すぎる! 《死刑執行人》との内通疑惑も、何か確たる証拠があるわけじゃない! せめて忍本人をここに連れて来て、何があったのか説明させてから決めるべきです!!」
瀬戸島嶽はフンと小さく笑うと、越智太獅に批判の眼差しを向ける。
「越智、お前は忍をえらく可愛がっていたからな。大切な弟分を守ってやりたいという、その気持ちは分からなくもねえ。だが、忍がいない間の二代目桜龍会の管理はどうする? 頭が行方不明になって戻ってくるかどうかも分からねえんだ。組の奴らは気が気じゃねえだろう。
それだけならまだいいが、中にはこの機に乗じて自分が主導権を握ってやろうって企む奴が出てくるかもしれねえ。または他の組との間に諍いが起きたりする恐れもな。
このままズルズルと意思決定を長引かせ、二代目桜龍会を放置し続ければ、火種が大きくなりかねねえぞ」
「そいつは……確かに十分考えられるな」
「このままじゃ、下桜井組が混乱しかねない。一度ガタつけば、待っているのは血で血を争う抗争の日々だ」
誰かがそう口にした。
《アラハバキ》は常に熾烈な生存競争に晒されている。椅子取りゲームに勝ち残って出世しなければ、あとはひたすら落ちていくのみだ。
たとえ口には出さなくとも、誰もが胸に野心を秘め、生き残るために全力でもがいている。逢坂の失脚は他の構成員にとって大きなチャンスでもあるのだ。そのため、これを放置しておけば、トラブルが起こるのは火を見るより明らかだった。
幹部たちが抱いた不安をさらに煽り立てるかのように、瀬戸島嶽は自らの考えを口にする。
「みなも知っている通り、下桜井組にとって今は非常に重要な時期だ。くだらねえ揉め事にかかずらっている余裕はないし、ましてや身内同士による内部抗争に明け暮れている場合でもねえ。これ以上、騒動が大きくならねえうちに、忍や二代目桜龍会の処遇を今この場で速やかに決めるべきだ。でなけりゃ下桜井組も、兄弟で争い破滅した上松組の二の舞になりかねんぞ」
他の幹部たちは顔を見合わせた。
「そうは言ってもなあ……組長格が理由も分からんまま行方不明になるなんて、そうそうある事じゃねえからなあ」
「前例がない事案は慎重に決めねばならん。その決定が後の慣例になるからな」
「確か、二代目桜龍会には若頭がいただろう? 序列で考えると組長の不在時にはその若頭か、もしくは舎弟頭が組を仕切るべきなんじゃねえか?」
正直なところ、幹部たちは逢坂の身に何があったのかということに対する好奇心は抱いているものの、厄介ごとにはできるだけ関わりたくないと考えていた。逢坂忍の失踪理由はいまだ不明な上、東雲の《死刑執行人》が関与している可能性まであるのだ。深入りをして自分が火中の栗を拾う羽目になるのはご免というわけだ。
そのためか、彼らの言動からは、できるだけなあなあに済ましてしまいたいという思惑が滲んでいた。
しかし瀬戸島嶽は、そういった空気に対し、強い口調で異議を唱える。
「二代目桜龍会の者に組を任せるのは反対だ。連中が裏で忍とグルになっている可能性も、無きにしも非ずだろう」
「まあ、それも考えられなくはないが……」
「それならどうするのが良いってんだ、瀬戸島の兄貴?」
意見を求められた瀬戸島は、待ってましたとばかりにニヤリと笑った。
「俺に一つ案がある。……親父、京極鷹臣という男の名を聞いたことはありますか? 《エスペランサ》というカジノ店で莫大な上納金を納めている、若手の《アラハバキ》構成員なのですが」
瀬戸島嶽は、未だ言葉を発さぬままの下桜井蝉に詰め寄った。他の構成員たちは戸惑った様子で互いに顔を見合わせ、騒然とする。
「《エスペランサ》と言やぁ、最近若い奴らの間で人気になってる賭場の事か」
「京極って名は俺も聞いたことがある。何でも、相当なやり手だって話だぜ」
「……その京極とかいう野郎がどうしたっていうんだ?」
越智太獅は警戒したように尋ねた。瀬戸島嶽はあくまで下桜井蝉のみに顔を向けたまま、自説を展開する。
「京極は忍の弟分だ。二代目桜龍会にも縁がある。しかしその一方、仁義には厚い男で、忍の妙な動きにもいち早く気づき、俺にその旨を報告してきました。『兄貴分である忍を裏切ることになるのは胸が痛むが、それでも下桜井組に対する不義理を見逃すわけにはいかない』と。
京極はまだ若いこともあり、まだ代紋や組を持てない身ではありますが、《エスペランサ》での成功を鑑みても組一つ任せるのに申し分のない実力を兼ね備えている。ですから……どうでしょう、親父。ここは一つ、京極に二代目桜龍会の管理を任せてみては?」
周囲は再び大きく騒めいた。
いくら有力な若手とはいえ、下桜井組幹部のほとんどは京極鷹臣と実際に顔を合わせたことが無い。そのこともあり、みな不審と警戒を隠せないようだった。
部屋はたちまち、本当に大丈夫なのかという疑心に包まれる。
その空気を一掃するかのように、瀬戸島嶽はさらに語気を強めた。
「誠に勝手ながら、実は今日この場に、その京極鷹臣を呼んでおります」
それを聞き、越智太獅は眉根を寄せ、声を荒げた。
「何……!? 瀬戸島、お前ぇ少々、独断がすぎるんじゃねえか!?」




