第13話 取り引き
「それは誤解ですよ。確かにそういう下品な連中もいますが、一応この世界にも流儀がありましてね。私は常に信頼と安心をモットーに営業するよう心がけています。そもそも、あなたの事務所にいる乙葉マリア……彼女も《東京》では有名な情報屋だったのですよ」
「そう……なのか……?」
確かに情報収集担当だと聞いてはいたが、情報屋だったとは知らなかった。深雪は困惑を隠せずに軽く目を見張る。すると、その反応に脈ありと判断したのか、エニグマは前のめりになって捲し立てた。
「ええ、そうです。悪党ばかりではないのですよ。そもそも嫌われるような事をして、情報を得にくくなってしまったら、元も子もありませんからねえ。……ところでお宅の事務所では、最近起きた猟奇殺人を調べているのでしょう?」
「……! 何でそれ……知ってんの」
深雪はぎくりとして仰け反る。一体、どこからそれを聞きつけたのか。するとエニグマは、単純な話ですよ、と肩を竦めた。
「あなた達の事務所は《東京》で知らぬ者などいませんからね。事務所の所長、東雲六道は〈《中立地帯》の死神〉と呼ばれて恐れられているほどです。彼が動くとなれば、その情報は嫌でも耳に入りますよ」
〈《中立地帯》の死神〉――深雪は内心で思わず、言い得て妙だなと思った。東雲六道には確かにそれほどの迫力がある。この監獄都市の中では、彼は大きな注目を浴び、多方から警戒される存在なのだ。
考えてみれば、事件の事は監獄都市の中でも既に詳しく知られているし、東雲探偵事務所が捜査に当たっていることを、隠しているわけでもない。確かにエニグマがそれを知っていること自体はさして驚きではない。
肝心なのは、何故、彼が今ここでその話を持ち出すのか、だ。深雪は奈落の言葉を思い出していた。
『連中はハイエナ同然だ。守秘義務など存在しない。情報を買えば買った分だけ、同時に自分の情報も何者かに売られていると思え』――奈落はいつも辛辣だが、その中でもかなりきつい物言いだった。それだけ、エニグマを警戒しているという事だろう。エニグマは何が目的なのだろうか。深雪と接触することで、何を得ようとしているのか。
しかし、そんな深雪の警戒など露知らぬといった様子で、エニグマはこちらの顔を覗き込んで来る。
「ただ……このところ、捜索は若干停滞気味だとか。無理もありませんか。三年前に行方不明になったゴースト相手では、ね。ゴーストは社会的な繋がりの薄い者も多い。狭い土地ですが、行方を眩まされたら、案外探し出すのは困難なのですよ」
「……何が言いたいんだよ」
遠回しな言い方をするエニグマの態度がどうにも鼻につき、苛ついて声を尖らせると、エニグマは唐突に切り出した。
「波多洋一郎の行方を教えて差し上げます」
「………‼」
深雪は息を呑む。そして、次の瞬間には激しく狼狽していた。
あれほど事務所の面々が探しても得られなかった、波多洋一郎の手掛かり。それをこの怪しさの塊のような情報屋は掴んでいるというのか。
一体、どうやって……どんな手を使ったのか? 巨大なな疑問が濁流のようにうねり、深雪を呑み込んでいく。するとエニグマはそれを見透かしたかのように、ニヤリと自信ありげな笑みを浮かべた。
「情報屋にも、得手、不得手があるのですよ。この手のネタなら乙葉マリアより私の方が断然得意分野なのです。彼女は滅多に人前に姿を現しませんが、私は人間関係を重視する性質なので、ね」
「どうして……そんな事、俺に教えたりするんだよ?」
声が裏返り、心臓がドクドクと早鐘を打つ。エニグマは何を考えているか分からない。少なくとも、信用できる相手ではない事は確かだ。
敵ではないかもしれないが、味方でもない。そうでなければ、こうやって隠れるようにこそこそと深雪に接触したりせず、もっと堂々と正面から話を持ちかけているだろう。
それは分かっていても、波多洋一郎に関する情報は喉からが出るほど欲しかった。事務所の情報収集は難航している。この機を逃したら、波多の居所は永久に掴めなくなるかも知れないのだ。
「言ったではありませんか。あなたと、ただ気持ち良くビジネスをしたいだけですよ」
エニグマはゆっくりと笑み、ポケットから一枚の紙切れを取り出した。そして、それを深雪の掌に握らせる。
「これは私からあなたへの、ほんの気持ちです。いや、お代は結構。ただ、お仲間の方々には私から得た情報だという事は伏せて頂きたい」
「もし……喋ったら?」
むしろ、普通は喋ると考えるだろう。深雪がエニグマに対し良い印象を抱いていないのは、彼も分かっているのではないか。普通なら、そんな相手にただで情報を与えたりはしまい。
何を企んでいるのかと訝っていると、エニグマは不意に片手をあげ、顔の傍まで持っていった。
そしてその時、初めて深雪の前でサングラスを外す。
思いの外、人懐っこい目をしていた。弱視なのか、微かに目を細める仕草が見られる。瞳孔の色も、随分薄いようだ。
そんなことを考えていると、エニグマはひたと深雪を見据え、にこりと微笑んだ。
「いいえ、あなたは喋りませんよ。これでも人を見る目はあるつもりです」
「………」
どう答えていいのか分からず、深雪は目を逸らす。エニグマはそれに気を悪くした様子もなく、鷹揚な態度で囁いた。
「それでは、またお会いしましょう」
エニグマは再び濃いサングラスを顔にかけると、鮮やかに身を翻す。そして、黒猫の鳴き声絵と共に暗がりの中に消えていった。
完全に日が落ち、暗闇に包まれた路上には、深雪だけがぽつんと残された。まるで、悪い夢でも見ていたかのようだ。
しかし、エニグマと接触していたのは夢ではない。それが証拠に、手の平には彼によって握らされた紙切れがしっかりと存在していたからだ。
その紙切れに視線を落とすと、ボールペンでとある住所が書き込まれていた。
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(どうすればいいんだ)
今、深雪の手の中には、白い紙きれがある。エニグマに渡された紙切れだ。そこにはある住所が書き込まれていた。中には千駄ヶ谷という文字が見える。
エニグマの言葉を考えても、波多洋一郎の居場所に違いなかった。
マリアや神狼ですら手に入れられなかった、波多洋一郎の手掛かり。それが今、深雪の手の中にある。本来なら喜ばしい事の筈だが、しかし深雪は悩んでいた。この情報がエニグマによってもたらされたことが問題だったのだ。
特に、今組んでいる不動王奈落は、エニグマを毛嫌いし、絶対に信用するなと釘を刺して来た。それを察してか、情報提供者であるエニグマも、情報源が自分であることを伏せることを条件にしてきたのだ。
今すぐにでもこの住所に向かい、波多洋一郎の所在を確かめたかったが、そうすれば必ずマリアや流星に情報源を質されるだろう。そうなったらエニグマとの約束を守れなくなるどころか、奈落の機嫌もすこぶる悪化するに違いない。
(下手をしたら、絶対、半殺しだよなぁ)
奈落は容赦の無い性格だ。気に食わなければ、蹴りや拳は平気で飛ばしてくる。エニグマと情報のやり取りをしたと知れれば、何をされるか分からない。
深雪は困り果てた。せっかく得た情報なのに、それをどう生かせば穏便に事が進めるのかが分からないからだ。
悩みながら、取りあえず事務所へと戻る。
赤煉瓦の建物の玄関に向かうと、シロが待ち構えていた。ところがいつもは天真爛漫な彼女だが、今日はどうも様子がおかしかった。事務所の玄関から半身をのぞかせ、妙にいじけた様子でこちらを見つめている。上目遣いで頬を膨らませ、これでもかと不満を訴えているのだ。
シロにしては珍しく、随分ご機嫌斜めだった。
(あれ……? この間、仲直りしたはずだよな……⁉)
深雪は疑問符を頭上に浮かべる。あれからシロとは、碌に会話を交わしていない。事件と奈落に振り回されっぱなしで、そんな余裕がなかったのだ。良くも悪くも、シロの不興を買うほどのことはしていない。
(ええーと……取り敢えず、確認してみるか)
「シロ……? そこで何やってんの?」
深雪がシロにそう声を掛けると、シロはますます扉に身を隠し、拗ねたような口調で言った。
「ユキ、ホントはまだ怒ってるんだ。ずっとずっと……シロのこと、怒ってるんだ」
「へ……⁉ そんなことないって! どうしたの、急に?」
深雪は驚いて尋ねた。忙しかったのは事実だが、何か怒っているような態度を彼女に見せただろうか。いや、そんな覚えは全くない。
すると、シロはようやく扉の陰から出てきた。しかし、頭部の獣耳はへたばって元気がなく、唇はへの字を描いている。シロはしばらく肩を震わせていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「だ……だってユキ、最近いつも奈落と一緒で、シロのこと置いてけぼりなんだもん! シロ、ずっとお留守番ばっかりなんだよ? シロ、シロ……寂しいよ……!」
シロはそう言うと、くしゃっと泣きそうな表情になる。深雪は慌てた。
「俺だってシロと一緒のほうがいいよ! 六道が奈落と組めって言うから、仕方なく従ってるだけで……! またシロと一緒に行動したいって、本当はそう思ってるよ」
シロは涙目になって深雪を見上げた。
「ホント? ……ホントに?」
「うん」
するとシロの表情に、ほっと安堵したような微笑が零れた。
「えへへ……良かったぁ!」
(か……かわいい……!)
雲間からのぞいた太陽のようなその笑顔に、深雪も何だかほっこりしてくる。シロは真剣に考えながら話しているのだろう、たどたどしくも一生懸命に言葉を紡ぐ。
「シロね、ずっと一人だったから……事務所に来る前も、来た後も一人だったから、すごく寂しかったの。でも、ユキはシロを受け入れてくれたから、とっても嬉しかった。屋上でユキ、すごく怒ってたし、お仕事であまりお話しできなかったし……ユキに嫌われちゃったのかと思って、不安だったんだ」
「シロ……」
「あのね……シロにとって、ユキはとても大切な存在だと思う。六道も大切だけど、ユキも同じくらい大切だよ!」
突然の告白に深雪はたじろいだ。こんなに真正面から、ストレートに感情をぶつけられたのは初めてだ。慣れない事態に、背中がムズムズし、足元がふわつくような、奇妙な感覚に捕らわれる。咄嗟に、「何言ってるの」と半笑いで受け流そうとしたが、真剣そのもので話すシロの様子を見ていると、茶化したり適当に流したりしてはいけないような気がしてきた。
「俺もだよ。シロが傍にいてくれたおかげで、メチャメチャ辛いの、乗り越えられた」
こちらもストレートにそう伝えると、シロはパッと目を見開き、嬉しそうにほほ笑んだ。一方の深雪は、はっと我に返る。つい雰囲気にのまれてしまったが、よく考えると結構恥ずかしいことを言ってしまったのではないか。我知らず、頬が赤くなる。
それを誤魔化すように、深雪は話題を逸らした。
「えっと……他の奴らは?」
「みんな出てるよ。ハタって人を探しに行ったみたい」
「そっか……」
シロの言葉で、己の手の内にある紙切れの存在を思い出し、深雪は俯いた。エニグマから得た情報が書き込まれたそれをどうするか。問題は未だ解決の兆しを見ない。
シロは狐のような三角の獣耳をぴくぴく動かし、そんな深雪の顔を覗き込んだ。
「どうしたの、ユキ。何かあったの?」
こういう時のシロは敏感だ。すぐに異変を察知する。深雪は掌の中にある紙切れを見せながら答えた。
「これ……行くかどうか、悩んでる」
「住所が書いてあるね。ここ、何があるの?」
「それは………」
深雪は言葉を詰まらせた。波多洋一郎の件にシロを巻き込んでいいのかどうか。判断に迷ったからだ。
シロはずっと一人で留守番をしていたと言っていた。流星は敢えて、シロを外したのだ。事件の性質を考えると、その判断は正しいと思う。何せ、シロと同じ年代の若い少女たちが、これ以上ないほど惨たらしい手法で殺されているのだから。それを考えると、おいそれと巻き込むことはできなかった。
シロは、様子を探るように深雪の顔をじっと見つめていたが、やがてにこっと笑う。
「ねえ、行こうよ。シロも一緒に行く。ユキ、そこに行きたいんでしょ?」
「行きたいって……俺が?」
「うん! ……違うの?」
シロに指摘され、深雪は改めて自分自身に問うてみる。シロの事を除けば、確かにこの住所に足を運んでみたい。そして、波多洋一郎の身柄を抑え、事件を一刻も早く終わらせたい。単なる好奇心ではなく、そうすることが多くの人のためになるからだ。
波多洋一郎はゴーストだ。下手に鉢合わせすると、アニムスを用いた戦闘になってしまうだろう。流星たちのように、それをうまく御することが出来るかどうかは分からない。だが、本当にこの住所に波多がいるのかどうか……偵察するくらいならいいのではないか。
それに、エニグマを疑うわけではないが、紙切れにある住所に必ずしも波多洋一郎がいるとは限らない。ちゃんと自分の目で確かめてからでないと、流星たちに報告もできない。
「……。行ってみよう、か………」
小さく呟くと、シロはにこっと笑って、その場で足踏みをする。
「うん! シロもタイクツだったんだ。行こ!」
深雪と行動することが嬉しくて、じっとしていられないのだろう。弾かれたように駆けだしたシロを見て、それが本音か、と深雪は思わず笑う。
本来なら奈落にも連絡を取るべきだろうが、この情報を明かせば、必ず出所を質されるだろう。そうなると、エニグマと再び接触したことを話さなければならない。エニグマに義理はなかったが、情報をくれた以上、約束は守るべきだと思った。
(どうせ、俺なんかお荷物扱いだし)
奈落は明らかに深雪を信用していない。実力を認めていないのは仕方ないとしても、存在すら無視されることもしばしばだ。
(そもそも、気が合わないんだよな。住む世界が違いすぎるっていうか)
深雪と奈落、本来ならどちらが正しいというわけでもない。ただ、身を置いてきた環境があまりにも違うため、考え方がなかなか合致しないだけだ。それなのに、「お前が悪い」とばかりに一方的にやり込められている状況に、深雪はうんざりしつつあった。
それに、常にこちらを見下してくる奈落を、見返してやりたいという気持ちもあった。
(悩んでないで、行動しよう。俺にも、波多洋一郎の姿を確認することくらいできる……!)
うじうじと悩み、迷っている間に、誰かが死に瀕しているのかもしれないのだ。助けられるかもしれない人を、むざむざと目の前で失う――そんなことはもう、二度とごめんだった。
深雪は決心を固めると、シロの後を追った。
千駄ヶ谷にある、古いアパートの一室。それが、エニグマから手渡された紙切れに書き込まれた、住所の所在地だった。
新宿に近いせいか、周囲の街並みはその大部分が二十年前のまま、残っている。ただ、二十年も経っているとあって、記憶の中のものより随分、古びてしまっているが。
「あのアパートだ。間違いない」
メモにあったアパートがあるのもそんな住宅密集地の一角で、他にも似たようなアパートやマンション、一軒家が整然と並んでいる。
このアパートの部屋のどこかに、波多洋一郎が潜んでいたのだ。
こんなところに――という思いが沸き上がると共に、妙に納得もしていた。成る程、こんな一見、何の変哲もないアパートに平然と生活されていたら、見つけ出すのは容易ではないだろう。
シロと深雪の二人は、電柱の陰に隠れ、その建物の様子を窺った。静かな通りで、人通りはほとんどない。
「静かだな」
「………」
シロは深雪の感想にも何も答えず、じっとアパートを見据えている。その横顔から鬼気迫るものを感じた深雪は、ごくりと喉を鳴らす。
(シロも緊張してるんだな……)
考えてみれば、それも当然だった。このアパートに、あの猟奇殺人犯である波多洋一郎が潜んでいるのだ。それを想像すると、深雪も背筋に寒いものを感じずにはいられない。下手をすると、本人とばったりと出くわす可能性もある。
十分ほど隠れて観察してみたが、どの部屋からも、住人が出てくる気配はない。磨りガラスの窓の向こうには、どれも家具や食器、洗剤の陰が確認でき、どの部屋にも住人がいる事は間違いなさそうだ。
深雪とシロは慎重にそのアパートの郵便受けへと向かった。
「えっと……波多洋一郎の部屋は、106号室か」
しかし、106号室の郵便受けには、別の名字が書かれたステッカーが貼ってあった。
「金田……? 偽名使ってんのかな」
確かに、波多洋一郎が本名のまま生活していたとは考えにくい。そうであるなら、とうの昔に居場所を突き止められていた筈だ。『波多』とは別の名字がそこにあるという事実が、逆に、波多洋一郎の存在の真実味を増していた。深雪は心臓の鼓動が急速に早くなっていくのを感じる。
「波多洋一郎がここにいるっていう物証があればいいんだけど」
姿を確認することはもちろん必須条件だ。それにもし物証が追加されれば、格段に説得力が増す。一番効果的なのは、やはり画像だろう。事務所から支給されている腕輪型の通信端末には、写真や動画の撮影機能もついている。
だが実際に撮影するとなれば、その分、深雪たちの身の危険も増すだろう。
(いつでも連絡をとれるようにしておこう。何かあった時のために)
深雪は素早く、白い腕輪を起動させる。




