第17話 変転
その日も深雪は《中立地帯》の巡回に繰り出した。
いつも通りシロも一緒で、今日はそれに奈落も同行する。
街中は相変わらずどこもかしこも不穏で、空気もピンと張り詰めていた。
ただし明らかに大きな変化もいくつかある。一つは、人出が大幅に減少していることだ。
以前はそれなりに人出の多かった通りまで閑散としている。路上にたむろしていたストリートの若いゴーストたちの姿もめっきり減った。
二つ目は、辛うじて通りを歩いている人々も表情が硬く、足早に去っていくことだ。みな、何かに怯えるかのように俯き、そそくさと通り過ぎていく。
代わりに街中でよく見られるようになったのが、赤いZのマークだ。
ペンキや絵の具、カラースプレーなど、さまざまな画材で至る所に《Zアノン》を表すZのマークが描かれている。
場所も多種多様で、道路、電柱、崩れかけたブロック壁、高架橋下など枚挙にいとまがない。最初は小さく控えめだったそれは、今や堂々とその存在を主張している。
《Zアノン》を叫ぶデモ隊の数もまた、それに比例するように膨れ上がる一方だ。
今や彼らの姿を目にしない日はないほどだった。
深雪たちは大通りから奥に入った細い路地を歩いていたが、世界から忘れ去られたかのような錆びた看板にまで大きくZの文字が躍っている。深雪は眉をひそめた。
「こんなところにも《Zアノン》のマークが……」
「このしるし、あちこちにあるよ。よく分からないけど……《Zアノン》のことを大好きな人たちが競って描いているんだって」
シロが獣耳をひょこひょこさせながら答えると、奈落は面倒臭そうに隻眼を眇める。
「そもそも何なんだ、その《Zアノン》とかいう連中は」
「俺もよくは知らないんだけど……『世界を革命する光の戦士』なんだって。具体的なこと……たとえばそれが何者なのか、単独なのかそれとも集団を形成しているのか。何一つ分からない謎の存在であるにもかかわらず、一部の人は《Zアノン》が世界を救うと信じているみたいなんだ」
「フン……くだらねえ。宗教に傾倒している連中と大差ねえな」
「まあ、どっちかと言うと陰謀論の類だけどね、《Zアノン》は。でも、極端に走ってしまったらどれも似たり寄ったりになってしまうのかも」
奈落は不機嫌そうに舌打ちをする。シロは首を傾げた。
「むー……奈落、ご機嫌ナナメ? どうして?」
「そういえば、奈落は宗教嫌いだったよね」
オリヴィエと喧嘩をする時も、半分近くはそれが原因だ。深雪の指摘に対し、奈落は投げやり気味に応じる。
「別に、好き嫌いは特にはない。だが、宗教や陰謀論にはまる奴は、優先順位がおかしくなり正常な判断ができなくなる傾向がある。そんな奴と運悪く同じ部隊になったとして、命を預けようと思えるか? 少なくとも俺はご免こうむる。ただそれだけの話だ」
「むかし、所属していたっていう傭兵部隊、《ヘルハウンド》にもそういう事があったの?」
深雪がさらに尋ねると、当時のことを思い出したのか、奈落の機嫌は少し良くなった。
「当然ある。その時も、面倒くせえ揉め事が起こるのは、政治と宗教が絡んだ時と相場が決まっていた。あとは金、酒とメシ、そして女だな。特に女は血みどろの争いになる」
「そうなんだ。……あれ? でも傭兵って女性はいないの?」
「もちろんいる。だから余計にややこしくなるんだ。特に過酷な任務の後は吊り橋効果も相まってあちこちイチャつくカップルが大量発生する。あぶれて女を横取りしようとする奴もな。女と女が男を奪い合うことも無くはないが、女の傭兵は相対的に数が少ないため、結果として問題を起こす頻度も少なくなる」
「ふうん……」
「因みに、稀に男どうしで男を奪い合ったり、女どうしで女を奪い合うケースもある」
「何か意外だな。すごく規律が厳しい組織だって聞いていたけど、けっこう人間くさい面もあるんだね。俺たちとあまり変わらない部分もあるっていうか……」
それを聞いた奈落は、ふと遠い目をして呟く。
「……。そうだな。獣か機械か化け物か……完全に人間を捨て去り、別の何かになりきることができたなら、あいつらももう少し楽だったのかもしれねえな」
「奈落……」
奈落はかつての傭兵仲間を殺して回っている。始めてそれを聞いた時、深雪は大きな戦慄を覚えたことを覚えている。
だが、奈落のことが少しずつ分かってきて、怖ろしさはあまり感じなくなった。どのような形であれ、奈落は古巣である《ヘルハウンド》に愛着を抱いている。そのことが分かったからだ。
「……そういえば、《レッド=ドラゴン》の六家の一つである藍家に、藍光霧という人がいたでしょ? あの人も奈落と同じで《ヘルハウンド》の元傭兵の一人だと言っていたよね?」
「ああ、良く覚えていたな」
「奈落と藍光霧は仲が良いみたいだったから。あれから《東京中華街》とは全く連絡が取れなくなってしまったけど、大丈夫なのかな?」
すると奈落は、口元に微かな笑みを浮かべる。
「案じる必要は無い。あいつはその程度でやられるようなタマじゃないからな。何があろうと、しぶとく生き延びる」
「だったらいいんだけど……」
そんな会話を交わしていると、不意に腕輪型端末から軽快な音がし、ウサギの3Dマスコットの姿をしたマリアが飛び出してきた。
「はいはい、しょーもない四方山話はその辺でおしまい! それより、《Zアノン》と上松組兄派の下部構成員がとうとう衝突しちゃったみたいなんだけど、これ放っといたら間違いなく大規模抗争に発展するヤツよ。下手すると死者もゴリゴリ出るかもねー」
マリアの報告を聞いた深雪は、表情を一変させた。
そして緊迫感を浮かべつつそれに答える。
「分かった、すぐに急行して鎮圧するよ。位置情報を送ってくれる?」
「りょーかーい!」
マリアに示された地図上のアイコンを頼りに、深雪とシロ、奈落の三人は抗争現場へと急行する。
すると現場に近づくにつれ、大きな爆発音が複数、聞こえてきた。次いで響くのは悲鳴や怒声。既に炎や煙も出ているらしく、立ち並ぶ建物の向こうから異様な様子が伝わってくる。
「まずい……アニムスを使った衝突に発展している!」
《監獄都市》でも銃器や爆薬が出回っていないわけではないが、ゴーストが起こす抗争ではまず間違いなくアニムスが使われる。それが最も手っ取り早い攻撃手段からだ。
そしてその場合、一般の武器や爆薬を用いた場合より被害が甚大になるのが常だった。
一刻も早く争いを止めねば。
走り出そうとする深雪だったが、奈落がその首根っこをひっ捕まえる。
「阿呆、お前が自ら突っ込んでいってどうする」
「で……でも、放ってはおけないだろ!」
思わず反論すると、奈落は深雪をぽいっと放り投げた後、愛用のハンドガンを取り出しつつ言った。
「誰も放置するとは言ってねえ。お前はいずれ東雲六道の跡を継ぎ、《中立地帯の死神》とやらになるんだろう。指揮官ってのはよほどのことでもない限り、後方で指揮をとるものだ。でなきゃ、誰が戦況を分析し判断を下す? ……今のうちにそれに慣れておけ。お前はここで大人しくしていろ」
シロもまた、愛刀・《狗狼丸》の柄を握り締め、深雪に笑顔を向ける。
「うん、そうだよ! シロたちがみんなの喧嘩を止めるから、ユキは安心してここにいて!」
そう言い残し、シロと奈落は現場の方へ走り去って行った。
深雪は呆気に取られてそれを見つめる。
(指揮官は後方で指揮をとる……考えてみればそれも当然だ。次期・《中立地帯の死神》になると決めた以上、今までのように勝手気ままに振舞うことはできない。今はまだ辛うじて自由に行動することができても、いずれ必ずその時は来る……!)
それは今までの経験からも明白だった。
これまで通りの単独行動をした結果、松瓦屋という名の上松組幹部に、白昼堂々と命を狙われたこともある。
松瓦屋とその手下が深雪の命を狙ったのは、深雪が次期・《中立地帯の死神》だからだ。《死神》の名を背負うということは、同時にそういったリスクもまた背負うということなのだ。
「でも……俺は……!」
深雪は右手を握り締めた。
その右の手の平には、亀裂のような赤い痣が刻まれている。
この世のありとあらゆるアニムスを永遠かつ完全に無力化させる能力、《レナトゥス》が宿っている証。
決して望んで手に入れた力ではない。だが、《レナトゥス》があれば大きな犠牲を払うことなく、暴れ回るゴーストを無力化させることができるのは事実だった。
その力を持ちながら、大人しく後方で待機していることは果たして正しいのか。深雪は逡巡したあと、きっと顔を上げ、抗争現場に向かって走り出す。
一方、抗争現場は戦場か大災害直後のような有り様だった。
元は広々とした空き地で、近隣住民に物置きとして使用されていたのだろう。だが今は、コンクリートで固められた床は破壊し尽くされ、穴だらけだ。
周囲を囲んでいたフェンスも歪みきって、完全にその役割を果たさなくなっている。
見るも無残に破壊された建物。電柱や看板、室外機などもずたずたに切り裂かれていたり、真っ黒になって焦げていたりする。
路上に放置されていた段ボールやビールケースは炎上し、真っ黒い煙があがっていた。
しかしそれでも、まだ多くのゴーストが拳を交え、互いにアニムスを放ち合っている。
アニムスによって作り出された炎の塊や烈風、氷の礫などがあちこちでぶつかり合い、炸裂し、時には大きな爆発を起こした。
特に威勢がいいのが、《Zアノン》信者たちだ。
「既得権益に追随する腐敗勢力に正義の鉄槌を!!」
「みな、立ち上がれ! この世界を闇の勢力から解放し、ゴーストの手に取り戻せ!!」
「俺たちは聖なる革命の戦士、《Zアノン》! 戦え、光の戦士・《Zアノン》!!」
「この腐った世界を変えられるのは、血と破壊による真の革命だけだ!!」
《Zアノン》信者はそのほとんどが上松組弟派だ。狂信的に《Zアノン》を崇め、Zの文字が躍る旗を振り回したり、正義や革命といった激しい言葉を喚き散らしたりしつつ、躊躇なくアニムスを放つ。
それに対し、上松組兄派の下部構成員も必死で応戦する。
「何だ、こいつら!? 気は確かか!?」
「《Zアノン》だの革命だの、光の戦士だの、訳の分からんことばかり叫びやがって、狂ってやがる!!」
「俺たちも戦うぞ! こんな狂信者どもに殺されてたまるか!!」
既に出血している者、怪我を負っている者の姿が多数みられる。
死者が出るのも時間の問題だ。
だが、兄派と弟派の両陣営は振り上げた拳を下ろすことなく、不毛な戦いを続けていた。みなすっかり頭に血が上り、冷静な判断ができなくなっているのだろう。
その時、睨み合う両陣営の上空を紺色のセーラー服が舞う。
セーラー服の主であるシロは、さらに空中で《狗狼丸》を抜き放った。白刃が日の光を反射し、眩く輝く。
「みんな、喧嘩はダメだよ!」
そう叫ぶと、シロは降下の勢いと共に《Zアノン》の旗を数本まとめて叩き切り、さらに着地してからゴーストたちの手にしている武器を次々と斬り落としていく。鮮やかな太刀筋だが、その刃がゴーストの体を傷つけることは決してない。
「な……何だ、こいつ!?」
「獣耳……!? 何て剣捌きだ!!」
どよめく面々だったが、《Zアノン》信者の一人が大声を張り上げる。
「この女……見覚えがあるぞ! 東雲探偵事務所の《死刑執行人》だ!!」
「東雲だと……!? 連中は今や『《収管庁》の犬』と成り下がっている巨悪であり、全ての元凶ではないか!!」
「この《監獄都市》に巣食う腐敗政治の象徴め! 闇の政府に洗脳された悪の手先を、我々《Zアノン》は決して赦しはしない!!」
「そうだ! 女だからとて情けは無用!! 八つ裂きにしてくれる!!」
《Zアノン》信者たち殺意を露わにし、シロを取り囲んだ。そしてさらに、瞳に赤光を灯す。
すると今度は、化け物じみた咆哮が路上の大気を震わせた。
そのあまりにも異様な雄叫びに、《Zアノン》信者のみならず兄派のゴーストたちもみな動揺し、騒めきの声を上げる。
「こ、今度は何だ!?」
「おい……あれを見ろ!!」
上松組兄派の一人が弾かれたように、崩れたビルの上を指さした。
そこに現れたのは奈落の《ジ・アビス》だ。
一見したところ、ダンプカーほどの大きさはあるだろうか。真っ黒い外骨格に覆われているためか、余計に迫力を感じる。
蜈蚣のような長い体と無数の足。頭部にある五本の巨大な鋭い鎌が、手招きするように蠢いている。
その巨体は宿主を離れ、倒壊しかかったビルの上に居座ると、対立しあうゴーストたちを睥睨していた。上松組兄派構成員にしろ《Zアノン》信者にしろ、お前たちはどちらも等しく自分の餌にすぎぬと言わんばかりに。
「な……何だあれは……!?」
「ば、化け物め……!!」
ゴーストたちは狼狽し、後ずさりを始めた。もはや抗争などしている場合ではない。
「お……おい、何かヤベぇんじゃねえか、これ!?」
「くそ、今のうちにズラかるぞ!!」
中には恐怖に駆られて逃げ出す者も出始めた。パニックになり、こけつまろびつ走り出す。
だが一方で、しぶとくその場に残る者もいる。特に《Zアノン》信者は《ジ・アビス》を前にしてもなお攻撃的だった。
「化け物が何だ!? そんなもので我々の革命を止められはしない!!」
「革命を妨げる反乱分子はアニムスを使って一気にぶっ潰せ!!」
そしてみな一斉にアニムスで《ジ・アビス》に攻撃を仕掛ける。
爆炎に疾風の刃、礫の弾丸。
しかし、どんな攻撃を受けようとも、《ジ・アビス》にはダメージを受けた気配が全くない。その身を覆う黒光りした外骨格が、全て弾いてしまうのだ。
「ギュオオアアアアアッ!!」
ぞっとするような咆哮を上げ、《ジ・アビス》は悠々と動き出した。蜈蚣のような無数の足を動かし猛然とばく進すると、《Zアノン》信者へ襲いかかる。
五つの鎌を大きく開いたその様は、牙の生えそろった口腔を開いて獲物に食いつく巨大鮫さながらだ。黒い体には無数の目が浮かび上がっており、それらの発する殺気が、一斉に《Zアノン》信者へと向けられる。
「な……何だ? 攻撃が効かない!?」
「こっちに向かってくるぞ!!」
「うわあああっ!!」
「逃げるな! 撃て、撃て!!」
しかし、命令に従って攻撃を繰り出す者はもはやいない。さすがの《Zアノン》信者も、大半が腰砕けとなってしまった。
だが、《ジ・アビス》の進撃は止まらない。《Zアノン》信者たちへ容赦なく突っ込んでいく。
五つの鎌が《Zアノン》信者の首にかけられたその瞬間。
抗争現場に凛とした声が響き渡った。
「みな、動くな!!」
その声の発せられた方へ全員の視線が集中する。
声の主は深雪だった。
その右手に宿る《レナトゥス》は既に発動されている。
肩から広がる真っ白い片翼は燦然たる光を放っていた。見せつけるようにしてその翼をさらに広げると、深雪は再び警告を発した。
「よく聞け! これ以上の暴力沙汰は次期・《中立地帯の死神》であるこの俺、雨宮深雪が許さない!! 全員投降するか、さもなくば速やかにこの場を立ち去れ!! 歯向かうものはそのアニムスを永久に無力化する!!」
「くっ……《死神》の後継者だと!?」
「闇の政府の手先め……俺たちのことまで支配するつもりか!!」
威勢よく悪態をつく《Zアノン》信者たちだったが、実際に深雪へ攻撃を仕掛ける者は皆無だった。
《レナトゥス》はゴーストのアニムスを奪う能力だ。
アニムスを失うということは、いわば、ゴーストとしての死でもある。
そのためゴーストは本能的に《レナトゥス》の光に恐怖感を抱くのだ。
それは奈落の《ジ・アビス》も同じであるようだった。無数に犇めく足を一本たりとも動かすことなく、深雪の方を注視している。
《ジ・アビス》が静止している今が最後のチャンスだ。深雪はさらにダメ出しをするかのように叫んだ。
「聞こえなかったのか!? 今すぐ立ち去れ!! 警告を聞き入れない者は反抗の意志ありとみなし、即刻、《レナトゥス》を行使する!!」
すると、《Zアノン》信者たちは揃って、悔しげに顔を歪めるのだった。
「くそ……今は退くぞ!!」
「我ら光の戦士に仇なす者め……いつか必ずその罪を償わせてやる!!」
既に抗争当事者たちは半分以上が逃げ出した後だったが、残った者もみな撤退していった。その場に残ったのはシロと深雪、そして《ジ・アビス》だけだ。
深雪はふう、と息を吐くと、《レナトゥス》を解除する。
それと同時にシロが駆け寄ってきた。シロは日本刀を鞘に戻すと、嬉しげに顔を弾ませる。
「ユキ! みんないなくなっちゃった、すごい!」
「すごいのは俺じゃなくて《レナトゥス》だけどね」
「そんなことないよ! どこもかしこもボロボロなのに、誰も死んでないんだもん。本当に良かったね!」
「……ああ、そうだな」
それには深雪も同意だった。現場はこれだけ凄惨な有り様なのに、死者は一人もいない。怪我人はいたようだったが、上松組の仲間が抱え、ともに撤退していった。
アニムスを使った衝突であったことを考えると、この被害者の少なさは奇跡だと言っていい。
(もっとも、いつまでもこんな奇跡が続くとも思えない。アニムスは種類によっては一瞬で大量殺戮を可能にしてしまう。これまで以上に抗争が激化しないよう、警戒しないとな……)




