第10話 《バー・ヴィヴィアン》
戦慄の光景に、蒼白になる深雪。咄嗟には言葉が出てこずに、口を思いきりパクパクさせる。
一瞬の後、ふざけるなとばかりに猛然と奈落に食って掛かった。
「あ……あっぶねー! 何するんだよ、直撃してたらほんとに死んでたぞ!」
「当然だ。殺すつもりだったからな」
元・傭兵は、けろりとした顔で言い放つ。その言葉の中には、むしろ、何で避けるんだと、深雪を咎めるニュアンスすらあった。
「そーいう事、平然とした顔で言うなって! 俺、殺されるほどのこと、したか⁉」
「人の名前にイチャモンをつけるからだ」
「……‼ えっ……もしかして、まさかの本名……?」
『作った感がある』とか、『いかにもわざとらしい』とか。深雪は調子に乗って言いたい放題おちょくった自分を恥じた。
悪いことをしたかな、俺――そう思ったのも束の間。
「小難しい日本人の名前を、わざわざ一週間もかけて捻り出してやったんだ。一体、どれだけの労力がかかったと思ってる? そこにケチをつける奴は、誰でも皆ぶっ殺す」
「や……やっぱ偽名なんじゃねーか‼」
深雪は奈落に全力でそう突っ込むが、奈落はしれっとした顔で歩き始める。
(くっそ、ぶん殴ってやりてえ……‼)
深雪は胸中でありとあらゆる罵声を奈落にぶつけつつ、そのやたらと鍛えられた背中を追ったのだった。
奈落が深雪を連れて向かった先は、激しい喧噪と人の波でごった返した通りだった。
雑居ビルですし詰め状態になった路地は巨大な人波を容赦なく押し流していく。深雪は先々を歩いていく奈落を見失わぬよう努めながら、その人波を必死で掻き分けるのだった。
かつて日本一の歓楽街という名を欲しいままにしていた歌舞伎町は、今日も変わらず猥雑だった。ただ、いつもと一つ違うのは。
(何か……気のせいか、いつもよりピリピリとしてんな……)
深雪はその些細な変化を敏感に感じ取っていた。
それは、今日一日中街の中を歩いてみて抱いた感想でもある。猟奇的殺人事件があったせいか、街中全体が緊張した空気に包まれているような気がしたのだ。
一刻も早く、事件を解決せねばならない――深雪はそう思う一方で、憂鬱な心境にもなった。
果たして自分にゴーストを裁くことが、殺すことが出来るだろうか。それを考えると、息が詰まりそうな重苦しい気持ちになる。
路地の両側にはけばけばしい色の看板やネオンが犇めき合い、人の汗やアンモニアの臭い、飲食店から漂ってくる食べ物の匂いが一緒くたになって充満している。
娼婦や客引きのホストが店先で胡乱な視線を送ってくるが、それに構う余裕は全くなかった。深雪は慣れた足取りで人ごみの中を流暢に進んでいく奈落の後をついて行くのがやっとだった。
狭い通路をいくつか曲がると、奈落は一件の店の前で足を止めた。やはり、個人経営の小型店舗がこれでもかと詰め込まれている、小さな雑居ビルの前だ。
その店の看板には流れるような文字で《バー・ヴィヴィアン》と英文字で描かれていた。地下へと降りる階段を下っていくと、スチール製の洒落た扉には、『準備中』と書かれた札がぶら下がっている。
奈落はそれに構わず扉を開く。すると中から物憂げな野太い声が漏れ聞こえて来た。
「ちょっとぉ、今準備中よ。そこに書いてあったでしょ」
店内は薄暗く、寒色系のLEDライトのせいで、まるでSF作品に出てくる宇宙船の中のようなスタイリッシュな雰囲気だ。店の横幅に比べて奥行きが妙に広く、その奥へと続く細長いバーカウンターの隣にはテーブル席が六つほどあり、一番奥にはステージも見える。
客の姿は無く、カウンターで気怠そうに煙草を吸っているツーブロックの髪型の女――というか、どう見ても男が面倒くさそうにこちらを見つめている。ただ、バタフライ型の大きなサングラスをしているので、視線がどこにあるかまでは分からなかったが。
外観に比べ、ずいぶんと洒落た内装に、深雪は驚く。つい店内の内装に圧倒され、入り口で立ち止まった。一方の奈落はどうやら馴染みの店であるらしく、尊大な足取りで店内に入っていくと、カウンターの人物に声をかけた。
「重藤、話がある」
すると、カウンターの人物は気怠そうな仕草で視線を挙げて奈落を見る。しかしその顔を確認した途端、うれしそうに声を弾ませた。
「やだあ、奈っちゃんじゃない! おひさ~! 何してたのよ~⁉ 座って、座って」
重藤と呼ばれたオカマは、奈落の姿を見ると口元に笑みを浮かべて立ち上がり、右手でカウンター席へと促した。
(な……奈っちゃん……⁉)
深雪は思わず笑いが出そうになったが、奈落がじろりとこちらを睨んでいるのに気づき、慌ててその笑いを飲み込んだ。
機嫌の悪い奈落には、絶対に近寄りたくない。手加減なしの蹴りが飛んでくるに決まっているからだ。その為、入り口で突っ立ったままでいると、重藤がこちらを見ているの気づく。サングラス越しでも、重藤が興味津々といった様子なのが分かる。
「この人、知り合い……?」
他に尋ねる者もいないので、不承不承で奈落に尋ねるが、案の定、無視される。その代わりに、重藤が体をくねらせて深雪の質問に答えた。
「何よ、アタシ? 奈っちゃんの元・カ・ノ!」
「えっ……⁉」
深雪はぎょっとして奈落と重藤を見比べる。「まさか……そういう趣味だったのか⁉」
すると奈落はぎろりと殺気を放つ。
「んなわけねーだろ。何、本気にしてやがる」
「俺じゃない! 言ったのは俺じゃねーし‼」
慌てて両手をぶんぶん振りそう訴えると、重藤は角ばった顔に右手を添え、腰をくねらせた。
「あらん、そういう冗談通じない系? カワイイじゃない。そそるわぁ……!」
「………っ‼」
やたらと色っぽい仕草の重藤に、深雪は顔を青ざめさせて硬直する。すると重藤は、そんな深雪の反応を楽しむかのようにからからと笑った。
「あらやだ、だから冗談だってば、冗談! ほら、突っ立ってないで。座って、座って!」
はっと我に返った深雪は、促されるままにカウンター席に近づく。内装に合わせた、洒落たカウンターチェアが並んでいるが、座面が妙に狭く、気をつけないとずり落ちそうになる。
ぎこちない仕草で椅子に座ると、重藤がグラスに酒を注ぎながらほほ笑んだ。
「彼、東雲探偵事務所の新人さん?」
「え、どうして分かるの?」
「だってぇ、奈っちゃんが仕事以外でこの店に来るなんて滅多にない事だもの。アタシはプライベートなお付き合いも全然オッケーなんだけどォ」
重藤はそう言って流し目を奈落に送るが、奈落はやはり涼しい顔をして無視している。重藤は残念そうにするも、すぐに気を取り直して深雪の方へ向き直った。
「それで? 彼のお名前は?」
「……雨宮深雪」
「あらそう。深雪ちゃんね。アタシの名は重藤。みんなそのまんま『重藤』って呼んでるわ。ヨロシクね」
重藤はそう言ってにこりと笑う。
「……それにしてもそんな若い身空であんなロクでもない事務所に出入りするなんて……どういう人生送ってんのよ、ボーヤ?」
「えっ……ロクでもないって……⁉」
「おい、余計なことを言うな」
「ああら、アタシ嘘は言ってないわよ。はい、これ。グレープフルーツジュース。お酒は二十歳になってから……なんてね」
「ど……どうも……」
重藤は深雪にはグレープフルーツジュースを、奈落にはスコッチを出した。つんとアルコールの濃い匂いが立ち込める。深雪は唖然とするが、奈落は何食わぬ顔で杯を煽っている。
(あれ、アルコールだろ、絶対。いいのかよ……?)
深雪は呆れつつも、見ないふりをした。注意したところで奈落がそれに耳を貸すとも思えない。それに何か、奈落なりの思惑があるのかもしれなかった。わざわざ真っ昼間から酒を飲むためにこんなところを訪ねてくるとは思えない。しかも深雪というおまけ付きなのに、だ。
すると早速、重藤が本題を切り出した。
「……それで? 今日の用事は何? どうせあれでしょ。最近起きた、連続殺人の件なんでしょ」
「な……何で知ってるの?」
ズバリ言い当てた重藤に驚いてそう尋ねると、重藤は意味ありげな微笑を分厚い口元に浮かべる。
「何でも何も、街中その話でもちきりよ。警察や《死刑執行人》はうまく情報をコントロールしているつもりかもしれないけど、まあやるだけ無駄ってものよね。こういうのって、必ずどこかから漏れて広まっていくのよ。……この街では特に、ね」
言わんとしているところは何となく分かった。
誰が犯人で、何が目的の犯行なのか。或いは、《死刑執行人》がどのように動いているか。この街の人間には、それらはただのスキャンダルではない。他人事ではなく、あくまで自らの命にかかわる情報なのだ。
だから自ずとそういった情報には敏感にならざるを得ないのだろう。
奈落は待ち構えていたかのように、口を開いた。
「ここ最近、大型の刃物を扱ったことはあるか?」
「刃物……?」
訝しげな表情を返す重藤に、奈落は重ねて説明を続ける。
「大型のミリタリーナイフや出刃包丁、或いは鎌、鉈、鋸。そういったものだ」
(刃物……? 一体何のために、そんな事調べてるんだ……?)
深雪も疑問を感じずにはいられなかった。真っ先に連想したのは、切り裂き事件の事だ。
だが、波多洋一郎は《スラッシャー》というアニムスを持ったゴーストだったはずだ。《スラッシャー》は手の先が刃物に変形するアニムスで、それを用いたのだとすれば、犯行に凶器は必要ない。何故、奈落は重藤に刃物云々を尋ねているのか。
そもそも、このバー自体が刃物とは縁のなさそうな店のように見える。
「あのさ。この店って……何? 何のために来たの」
深雪が小声で尋ねると、奈落の代わりに重藤が反応を示した。
「あら、説明してなかったの、奈っちゃん? ここはね、《仲介屋》よ」
「《仲介屋》……?」
聞いたことのない単語だった。深雪が首を捻っていると、重藤はおかしそうに口元を緩める。
「……そ。《仲介屋》ってのはね、外のものをこっちに『仲介』する業者の事よ」
「外……?」
「そう、《関東大外殻》の外。警察の連中が壁のとこで睨み効かせてるから本当はれっきとした非合法の犯罪だけどね。そうは言ってもイロイロ抜け穴はあるってワケ。
何でも『仲介』するわよ。モノでも、情報でも。ただ、大きいものはそれだけ料金も時間もかかっちゃうけどね。あ、でも《東京》から出してくれって言うのだけはナシね。それはさすがにバレちゃうとヤバいから」
「同業者の中にはゴーストの輸送に手を出してる奴らもいるんだろう?」
奈落が口を挟むと、重藤は肩を竦めた。
「そうみたいね。でもアタシは願い下げだわ。《リスト入り》してまで、うま味があるとも思えないしね」
総括すると、どうやら《仲介屋》を名乗る業者の中には、監獄都市・東京の外周を覆っている《関東大外殻》を乗り越え、壁の中から外へとゴーストを手引する仕事に手を出している者がいるらしい。だがそれは重罪で、ばれたら《死刑執行対象者リスト》に登録されるほどの罪なのだ。
重藤は体をくねらせ、深雪に色香を吹っ掛ける。
「どう? 何かご所望の品はないの? 初回は特別料金にしとくわよ」
「うーん……そうだな………」
そう言われても、咄嗟には出てこない。それに、《仲介屋》に頼んでまで何かを手に入れるということが、いまいちピンとこなかった。
(ネット注文、みたいなものかな……?)
二十年前には《関東大外殻》は無かった。交通網も発達していたため、移動に困ったことはない。そのせいか、今の《東京》が外界から隔離された場所だという実感がどうにも乏しい。
「俺、最近この街に来たばっかで……欲しいものができたら、その時はお願いするよ」
「あら、そう。大変ねえ。ま、元気出しなさいよ。何か欲しいものがあれば、いつでも来ればいいわ。サービスし・ちゃ・う・か・ら」
ばちんとウインクする重藤。深雪は頬をいくらか引き攣らせつつも、何とか笑いを返す。悪い人物ではなさそうだが、あまりのキャラの濃さに、どうにも迫力負けしてしまう。
「おい、営業は後にしろ。こっちが先だ」
冷ややかに注文を付ける奈落に、重藤は唇を尖らせる。
「んもう、分かってるってば。そうねえ……うちじゃここ半年、そういうゴツイ刃物は取り扱ったことはないわね。同業の連中や運び屋にも聞いてみるけど……こういうのは必ずしも《仲介屋》を介しているとは限らないんじゃないかしら」
つまり、重藤は奈落の求めている情報を持ち合わせていないということだろう。奈落もそう判断したらしく、もう話はないとばかりに席を立つ。
「これから荒俣のところへ行ってくる」
「それが賢明ね。餅は餅屋よ」
重藤は「ごめんなさいね、力になれなくて」と付け加えながら、そう言った。店を出る様子の奈落に遅れまいと、深雪も慌てて椅子から立ち上がる。
最後に、奈落の背中に重藤は声をかけた。
「何かわかったら連絡するわ」
「ああ、頼む」
「ああん、いつものツンケンした奈っちゃんもいいけど、素直な奈っちゃんもサ・イ・コー……! 絶対、また来てね」
重藤は両腕を組み、色っぽい仕草でくねくねと腰を左右に振った。奈落は首だけ振り返ると、ニヤリと笑って見せる。
「そのツマンネエ冗談やめたら、いつでも来てやるよ」
「もう、イジワルッ! 冗談なんかじゃないのに……!」
重藤は店を去る奈落が、名残惜しくて仕方ないようだった。心なしか、頬をほんのりピンク色に染めている。
深雪などはこんな奴のどこがいいんだ、などと思ってしまうが、よく考えれば奈落は背丈もあり、体格もいい。マッチョすぎず、程よく筋肉がついている。顔も彫りが深めなせいか、どことなく影があるように見える。それらの要素が相まって、一部の女性にはウケるのかもしれない。
確かに性格は悪いが、黙っていれば分からないだろう。
(デカいっていいよな、くそ……)
などと、つい思ってしまうのは、僻みだろうか。
外へ出ると、相変わらずの喧騒に圧倒されそうになる。深雪は人込みを搔き分けながら、奈落にさっそく気になっていたことを尋ねてみた。
「あのさ、何で刃物の事調べてんの? 波多洋一郎はゴーストだっただろ。アニムスを用いて犯行を行ったんだとすれば、刃物は必要ないじゃんか。それに、犯行現場はいずれも渋谷だっただろ。新宿をうろうろしても意味ないんじゃ……」
すると奈落は、ぎろりと深雪を見下ろす。
「……何だ、文句でもあるのか」
「そうは言ってないでしょ。ただ疑問に思ったからさ……」
「だったら黙ってろ、不発弾。いちいち人に聞くんじゃねえ」
「はいはい、そうしますよ。それにしても……あんな商売があるんだな」
仲介屋――重藤の説明を思い返しても、不思議な仕事だ。《関東大外殻》で外界と隔絶され、人と物の行き来が極端に制限されたこの街だからこそ成り立つ、独特の商売だろう。
奈落は迫りくる人の波を器用にかわしつつ、煙草を取り出しながら言った。
「重藤は親しくしておいて損は無い。ただ、懇意にし過ぎると寝床に引き摺り込まれるから気をつけろ」
「……。引き摺り込まれたこと、あるの?」
微妙に気になって尋ねると、眼帯の傭兵はこちらを振り返ってニヤリと笑う。
「男を相手にするほど、困ってない」
「……あっそ」
聞くんじゃなかった――そう思いつつ、深雪は半眼で肩を竦めたのだった。
次に奈落が深雪を連れて向かったのは、川べりにある寂れた通りだった。
コンクリートで固められた川の両岸には、築四、五十年は優に経っている小さな雑居ビルや木造の一戸建てが、まるで積み木のように頼りなげに並んでいる。どれもかなり年季が入っていて、コンクリートは激しくひび割れ、木造家屋は目視でも屋根が歪んでいるのが分かる。
アスファルトの路面はひび割れ、雑草が伸び放題だ。
雑居ビルの一階店舗部分に目をやると、ところどころ雀荘や居酒屋、他にも何をやっているのか分からない怪しげな店が営業している。ただ、どの店の看板も長年風雨に晒され続け、すっかり色褪せて錆が浮いていた。
「うっわ……何ていうか、昭和だな」
思わずそんな感想が漏れるほど、ノスタルジー溢れる区画だった。
この半世紀、まったく何も変化していないんじゃないだろうか――そう思わせるほど、全てのものに時の流れを感じさせる。
ただ、すっかり廃墟と化してしまっている街に比べると、親近感は持てる。むしろ、殺人事件とは程遠い長閑な空気が全体から漂っていた。どこかから、サンマを七輪で焼く煙でも、上ってきそうなくらいだ。
(こんなところに何の用なんだよ……?)
尋ねても逆切れされることはわかっていたので、深雪は胸の内でひっそりと疑問符を浮かべる。奈落は無言でその通りの一角へと向かった。
そこには一軒の店があった。
入り口には『素戔嗚』と書かれた電飾掲示板がでかでかと居座っている。
見たところ、町工場をそのまま改装して店舗にした、といった武骨な雰囲気だ。今にも機械用油のつんとした臭いが漂ってきそうだった。
奈落は慣れた様子でその店のアルミ製の扉を開き、薄暗い店内へと入っていく。




