第1話 再始動
雨宮深雪は、《収管庁》へ向かっていた。
東雲探偵事務所・所長であり上司でもある東雲六道と共に。
《収管庁》とは、旧都庁を改装して設置された《監獄都市》唯一の行政機関、《関東収容区管理庁》のことである。深雪と六道は、その《収管庁》の長官を務める九曜計都に呼び立てられたのだ。
これから先、待ち受けているであろう、九曜計都による厳しい追及と叱責を想像し、深雪の胸中には早くも暗雲が立ち込めていた。その原因が自分にあることを自覚しているからこそ、なおさらだ。正装であるからか、余計に息苦しく感じる。
二週間ほど前、二代目桜龍会の構成員だった《彼岸桜》が、たった五人で《グラン・シャリオ》五百名余りを皆殺しにした。そしてその凄惨な虐殺の一部始終がつぶさに動画で捉えられ、《監獄都市》中に拡散された。
《収管庁》のみならず《監獄都市》全体を震撼させたその大事件に、深雪が大きく関わっていたのだ。
深雪は二代目桜龍会と《グラン・シャリオ》の間に入って、両者の仲を取り持っていた。事の発端は、《アラハバキ》御三家の一角、上松組の跡目争いに端を発する内部抗争だ。
《中立地帯》最大規模を誇るチームであった《グラン・シャリオ》は、その高い組織力ゆえに上松組に目をつけられた。上松組は息子兄弟が跡目争いを起こしており、兄派、弟派ともに《グラン・シャリオ》を戦力として自陣に引き入れようとしたのだ。
お家騒動に巻き込まれるのを恐れた《グラン・シャリオ》の副頭、九鬼聖夜は打開策を求め、かねてより親交のあった深雪に相談を持ち掛けた。
とはいえ、《アラハバキ》でも有数の構成員数を誇る上松組を退ける方法など、そう簡単には見つからない。悩んだ深雪は、下桜井組若中であり二代目桜龍会会長でもある逢坂忍を頼ったのだった。
そして、まずは《グラン・シャリオ》の幹部――頭の綾瀬豊、副頭の九鬼聖夜、№3の今井涼太郎の三人を、二代目桜龍会の事務所に連れて行き、逢坂忍と面会させることになった。
そのさなかに事件は起こった。
《グラン・シャリオ》の幹部三人と逢坂忍が面会しているその隙に、《彼岸桜》の五人は《グラン・シャリオ》の拠点に乗り込み、拠点に残ったメンバー全員を殲滅してしまったのだ。
《彼岸桜》の五人は実のところ、京極鷹臣の《ヴァニタス》によって操られていたのだが、それを立証する証拠はどこにも無い。それどころか、彼らの犯行の全てが動画を介し、《監獄都市》全体に生中継されてしまった。
こうなると、真犯人が何者であろうと、誰かが《彼岸桜》に厳重な処分を下さなければならない。それも、《監獄都市》に住む全員の目に見えるかたちで。
《グラン・シャリオ》を殲滅した《彼岸桜》の五名は、ただちに《死刑執行対象者リスト》に登録され、東雲探偵事務所の《死刑執行人》によって《リスト執行》された。今まで《リスト登録》されてきたゴーストが須らく同様の方法で処刑されてきたように。
だが、その事件が《監獄都市》に与えた衝撃はあまりにも甚大であり、今なおその動揺と混乱は収まりきっていない。
この街を統治する立場にある九曜計都や《収管庁》が、「雨宮深雪とその上司である東雲六道の責任は重い」と考えるのも至極当然のことだろう。
《監獄都市》の秩序を守る、そのために《中立地帯の死神》は存在するのだから。
「あの……所長」
「どうした?」
「すみません。《グラン・シャリオ》の壊滅については全面的に俺に責任があるのに……」
深雪は前を行く六道の背中に向かってうな垂れた。
ここのところ肌寒い日が続いているためか、六道はシンプルで丈の長いコートを羽織っている。そのコートはもちろんのこと、下にまとうスーツや革靴に至るまで全て黒で統一されており、まさに《死神》の名にふさわしい出で立ちだ。
六道は足が不自由であるため、右手にはいつもの杖が握られている。彼が歩くたび、左手の義手と右足の義足から微かに金属の擦れ合う音が聞こえてくる。
その足取りは常に一定で全く乱れがない。同様に、彼の声音もまた静かで揺るぎなかった。
「気に病むことは無い。何度も言っているだろう。現段階での東雲探偵事務所の責任者は私だと。部下の責任を取るのが上司の仕事だ」
「所長……」
「……それより、気持ちは吹っ切れたのか?」
そう尋ねられ、深雪は少し歩を止める。けれど再び一歩を踏み出し、すぐに前を歩く六道の後に追いついた。
「……。はい。まだ完全にとはいかないかもしれないですけど……でも俺が落ち込んで、悩んで葛藤して……それでもし、《中立地帯の死神》の後継者の仕事に躊躇したり尻込みしたりしたって、ただ京極を喜ばせるだけです。そして奴らをさらに勢いづかせるだけ……だから今は焦らず、一歩ずつやるべきことに注力しようと思っています。京極は……あいつはそう簡単に勝てる相手じゃない。だからこそ、まずは足場を固めていかないといけない気がするんです」
後悔はある。心残りもある。あの時もっとああしておけば。もっと自分がしっかりしていれば。そう考えない夜はない。
だがそれでも、もう立ち止まらないと決めた。今の深雪には、自分が何を為すべきか分かっているからだ。
六道はこちらをわずかに振り返り、深雪の表情を目にすると、口元に微笑を浮かべた。
「……そうだな、良い判断だ。京極は確かに倒さねばならない『敵』だが、さりとて、奴さえいなくなればこの街の問題がきれいさっぱりすべて解決するというわけでも無い。京極を倒しさえすれば終わりというわけではないのだ。それを忘れるな」
「はい」
「それにおそらく、京極には後ろ盾がある。決して表には出てこないが、裏で世界を宮司っている者たち、さらにそれらを支配している高次元の《システム》……」
「……彼らですね?」
深雪の言葉に六道は頷く。
深雪の口にした彼らとは、《アイン・ソフ》という集団の事だ。
《アイン・ソフ》はその多くが謎に包まれている。組織の実体、規模、拠点、構成員の数や顔ぶれなど――彼らの詳細は殆ど明らかにされておらず、ごく限られた情報機関が存在を把握しているのみだという。
判明している数少ない情報の一つは、彼らが理念によって繋がっている理念共同体であるということ。そしてもう一つが、彼らこそがこの世界の支配者であるということだ。
それを可能にしているのが、宇宙希少金属を始めとした宇宙産鉱物資源の存在だ。
宇宙からもたらされる莫大な鉱物資源が、現代の半導体製造業を支えていると言っていい。半導体は今やITや通信・ネットワーク、コンピューター、そしてAIのみならず、あらゆる産業とその成長を支えている。第一次産業から第二次産業、第三次産業、さらに軍需産業にいたるまで、あまねく産業はITやコンピューター、何よりAIなしでは成り立たなくなっており、半導体の重要性はさらに高まるばかりだ。
よって、その根幹を握る者が世界を制すのは至極当然だといえるだろう。
半導体の原材料となる宇宙産鉱物資源は、全世界における生産量の実に九割近くを北米四大国家企業によって占められている。また同時に、半導体製造業や関連業もまた、四大国家企業の寡占と化しつつあった。彼らはその突出した技術力と販売力を武器に、あらゆる産業分野での主導権を握りつつある。
そう、北米四大国家企業は今や世界経済のみならず、世界情勢すらも牽引する存在になりつつあった。つまり、《A.S.A.》社、《リバティスター》社、《フラカン》社、《ノヴス・オルド》社――たった四つの企業体が、かつての超大国と同じかそれ以上の力を保持しているのである。
《アイン・ソフ》はそれら四大国家企業の全てを手中に収めているのだ。そして自らは表舞台に姿を現すことなく、世界の森羅万象に多大な影響を及ぼしている。
京極はそんな得体の知れない、巨大な相手と繋がっているのだ。
(雨宮たちの言っていたことは本当だったんだな。京極との戦いが終わってからも、いろんな出来事があったけど、最大の試練はこれからなのかもしれない)
深雪は、ここ二週間で起きたことを振り返る。
《グラン・シャリオ》が壊滅し、《彼岸桜》が《リスト執行》され、そして深雪は京極と一線を交えた。しかしそれで全てが終わったわけではなく、その後もさまざまな出来事が深雪たちを待ち受けていた。
『彼ら』……つまり《アイン・ソフ》が京極の背後にいる。深雪がその情報を得たのは、陸軍特殊武装戦術群の雨宮実由起と碓氷真尋からだった。東雲探偵事務所の屋上で、いつものように雨宮と朝の訓練を行おうとした時のことだ。
最初にそれを聞いた時、深雪はとてもその内容を信じられなかった。
「え……京極が《アイン・ソフ》の一員……!?」
まさか。そう思うが、雨宮は真剣だった。
そばには剣崎玲緒の姿がある。彼女のアニムス、《フラクタル》は電波や電磁波の波動を察知しコントロールする力だ。周辺の電磁波を制限し、情報通信技術によって会話の内容を感知されるのを防いでいるのだろう。
彼らが《アイン・ソフ》の話をする時は、いつも最大限に注意を払い警戒をする。そうしなければならないほど、《アイン・ソフ》は恐るべき相手なのだ。
「フン、俺たちの情報が信じられないか?」
碓氷は腕組みをして屋上の策に身を預け、深雪に冷ややかな視線を向ける。
「あ、いや……そうじゃないけど。俺の知る京極は他人を頼ったりするタイプじゃなかったから、誰かとつるんでいる姿が想像し辛いっていうか……」
「状況が変わればそれに合わせて行動も柔軟に変えていく、それだけのことだろう」
「それはまあ、そうなんだけど……」
雨宮の言うことはもっともだ。しかし深雪はどうにも腑に落ちなかった。
京極は孤高であり、それ故に常に孤独だ。二十年前、《ウロボロス》にいた時もそうだった。
京極に手下は大勢いたが、それらはみなあくまでコバンザメ。京極の威光にあやかりたい人間が勝手にくっついて回っていただけで、おそらく京極自身は一度もかれらを仲間として信用したことなどなかっただろう。
それは、京極の性格的難点も大いに関係していただろうが、もっと根本的な原因も他にある。つまり、京極にはそもそも他者と協力し合う必要がないということだ。京極はあらゆる面において卓越した能力を持っており、他者を頼る必要がない。『必要が無い事はしない』、それを信条とする京極が何らかの組織に加わるなどという選択をするだろうか。
釈然としない深雪に対し、雨宮は再び口を開く。
「京極が《アイン・ソフ》と繋がっているという証拠はある。もっとも、今のところはどれもが状況証拠でしかないがな」
「そうなのか……たとえば?」
「京極がかつて《ウロボロス》を壊滅させ、姿を消してから再びこの《監獄都市》に出現するまでおよそ二十年。その間、奴は我々、陸軍特殊武装戦術群に全くその足取りを掴ませなかった。それも徹底的に、何一つとしてだ。どこかで何者かと接触したという情報が漏れてくることも無ければ、目撃情報すら得られなかった。数多の諜報員が地球の隅々まで奴の行方を追ったにもかかわらず……な。
にもかかわらず、お前が東京に戻るや否や京極も姿を現した。いくら訓練を受けたクローンゴーストとはいえ、そこまで徹底して情報を秘匿し続けるのは不可能だ。ましてやこの高度に情報化された社会では。
だがもし、京極が《アイン・ソフ》の庇護下にあったならそれが可能になる。何せ奴らは世界中のありとあらゆるネットワークを支配している『神』と言っても過言ではない存在なのだからな」
「……」
「もう一つは奴の年齢だ。二十年前、お前と奴の間には五歳ほどの年齢差しかなかった……そうだな?」
「ああ、うん。俺が十六の時、京極は確か二十一歳だと言っていたから、そのはずだよ」
「だが、京極は不気味なほど歳を取っていない。二十代の姿のままだ。お前は《冷凍睡眠》にされていたからまだ分かるが、京極も二十年前のままというのは明らかに不自然だろう。本来であれば、奴の年齢は既に四十を越えていないとおかしい」
「……!」
言われてみるとその通りだ。火矛威や真澄、そして六道。《ウロボロス》で一緒だったメンバーで生き残った者は、今はもうみな三十五を過ぎている。当時の彼らの年齢が十代後半だったことを考えると、それもごく自然なことだ。
だが、京極は何も変わっていない。京極と深雪、ただ二人だけが。
「ひょっとしてそれも《アイン・ソフ》にいるからなのか?」
深雪は雨宮に尋ねた。
「連中のことは謎に包まれているが、いくつか奇妙な噂が囁かれている。その一つは、《アイン・ソフ》に認められた者は不老不死を得られるというものだ」
「不老……不死……」
確かに、不老不死は人類の悲願といって言いだろう。古来より数々の伝承が残されてきたし、歴史上の有名人や権力者もその神秘の力を得ようと、さまざまな方法を追求してきた。
だが、いくら技術が進歩しているとはいえ、人類が有機化合物で構成された肉体を持つ限り、永遠に生き続けるなど不可能なのではないだろうか。
深雪の疑問を察したのだろう、碓氷は皮肉げな笑みを浮かべる。
「まあ、本当に死ななくなるってわけじゃねえんだろう。現代においてもなお、生命は死を克服できていない。ただ、《アイン・ソフ》の関係者はもれなく肉体の老いから解放されるって話だ。しかも不老のアニムスを持たないゴーストだけじゃなく、そもそもゴーストですらないごく普通の人間もな」
「つまり、京極は《アイン・ソフ》によって肉体が老化しない術を与えられている……?」
深雪が口にすると、雨宮は頷いた。
「奴のアニムスは、《ヴァニタス》にしろ《ルーナ・ノヴァ》にしろ、己の肉体には作用しない能力だ。であるなら、残る可能性はそれしかない」
「……」
深雪は顎に手を当て考え込む。そして京極と交わした会話を思い出した。
(確かに、京極は俺を誰かに会わせたがっていた。わざわざ俺を殺さず、東雲探偵事務所から連れ去ったのもそれが理由だ。あいつに仲間がいるのは間違いなさそうだな)
しかしよりにもよって、それがあの《アイン・ソフ》だとは。――いや、逆か。生半可な組織では京極を納得させることはできない。相手が《アイン・ソフ》だからこそ、京極も頭を垂れたのだ。
「これでよく分かっただろう。お前では京極の相手にはならない。もし仮にお前が奴を叩きのめす事ができたとしても、事はそれで終わりじゃないんだ。奴はあくまで《アイン・ソフ》の駒の一つでしかないんだからな。京極に関われば関わるほど、お前は自分の身を危険に晒すだけ……だから金輪際、奴には近づくな」
そう警告する雨宮だったが、深雪はきっぱりと首を横に振った。
「そういうわけにはいかないよ」
「何だと……!?」
「あいつの目的は《監獄都市》を……この街を破壊することだ。そうである以上、尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかない。いつかまた必ず戦う事になるその時のために、こちらも準備しておかないと。だから雨宮、今日も訓練に付き合ってくれ」
「……」
雨宮は無表情で深雪を睨みつけた。彼にもう少し優秀さが足りず、自制心の働かない性格であったなら、面と向かって深雪を罵っていたことだろう。代わりに碓氷が嫌味を口にする。
「……フン、随分とやる気じゃねえか。あれだけ京極にボコられたってのによ。まさか、まだ懲りてねえのか?」
「それは違うよ、碓氷。ボコられたからこそ、こんなところで立ち止まってはいられないんだよ。自分に足りないもの、やらなきゃいけないことがかつてないほどはっきりと分かる。だからこそ、いま動かないと」
深雪が敗北を喫したのは事実だ。しかも、これ以上ないほど完敗だった。
だが、ここで諦めるつもりは無い。自分に足りない部分があると分かった以上、あとはそれを埋めるだけだ。今は落ち込む時間が惜しいとすら思っている。京極がそう遠くない未来に次の一手を打ってくることは確実だからだ。
「ちっ、相変わらず屁理屈だけは一人前だな、てめえはよ」
碓氷は苛立たしそうに身を乗り出した。
するとその時、深雪の足元でぞわりと影が身動ぎをする。深雪の影に潜んでいたエニグマが、実体化し、浮かび上がったのだ。
「ふふふ。心配ありませんよ、陸軍特殊武装戦術群のお二方! 雨宮さんには私がついているのですから!!」
エニグマは、ひょろりとした長い両手を大袈裟に広げると、いつもの芝居がかった口調でそう言った。彼の姿を認め、雨宮と碓氷は途端に苦虫を噛み潰したような表情になる。
「貴様は……!」
「とっくに廃棄処分となったはずの、《暁星=シリーズ》の生き残りか。見れば見るほど幽霊じみた奴だぜ」
「お褒めの言葉、痛み入ります」
警戒態勢に入る雨宮や碓氷をものともせず、エニグマはおどけた仕草で恭しくお辞儀をして見せる。雨宮は鋭い眼光をさらに強めた。
「《暁星=シリーズ》はいわば、《月城=シリーズ》の試作品 ……諜報活動において最も多くの功績を残したと聞いている。その生き残りが、深雪、お前を支援していたとはな。どおりで一般では取得し得ない情報をあれこれと知っていたわけだ」




