第87話 京極の腹の内
「確かに君が《雨宮=シリーズ》の六番に明かしたことは間違いではない。人類全体を導き、より高次の存在へと進化させる……それが我々、《アイン・ソフ》の共通理念だ。その過程で《原初のヒト》が絶滅し、ゴーストが台頭することも当然あり得るだろう。
だがそれは、あくまでいくつも想定される可能性の一つであって、最終目標ではない。《原初のヒト》を滅ぼしたところで、その代替となるであろうゴーストが《原初のヒト》と同じ愚かな振る舞いを始めてしまったら、全く意味がないからだ。
君ならばその事をもっとうまく彼に伝えられたのではないかね? 人の心を掴むのに長けた君であれば、あのような反発を招く説明ではなく、彼にも我々の掲げる理念の素晴らしさを共有させることができたはずだ」
「……」
「何故それをしなかった? あれでは彼が我々に不信感を抱くのも当たり前のことだろう。
……あの説得が君の能力の限界だったというなら、僕もこれほどまで君に失望したりしない。もし最初から君には無理な任務だったのであれば、君の能力の限界地を見抜けず分不相応な命令を下した僕自身の責任だからね。そうではないからこそ納得がいかないのだよ。
君は明らかに《雨宮=シリーズ》の六番が我ら《アイン・ソフ》へ敵対感情を抱くよう誘導した。それは何故だ?」
《王国》のジョシュアの叱責は決して激しくはなく、厳しくもない。だからこそ却って凄味や圧迫感を覚える。
下手な言い訳を重ねれば、彼は簡単に月城や京極に見切りをつけるだろう。そしてまさに一片の情もかけることなく冷静冷徹に『不要品』の烙印を押されるのだ。
そしてそれは同時に、《アイン・ソフ》から永久追放されることを意味している。
月城にしろ京極にしろ、《原初のヒト》の支配する人間社会ではその能力を持て余し、いわば追いやられた身だ。《アイン・ソフ》を放逐されればこの地球上に行き場などない。京極がどう思っているかは分からないが、月城にとってそれは何としてでも避けたい事態だった。
《アイン・ソフ》は理念によって結びついている理念共同体だ。同じ理念を共有し、なおかつそれを実行へと移せる実力を持った者のみが所属することを許されるのだ。
《アイン・ソフ》に選ばれた者はその理念を実現するため、文字通りその身を組織に捧げ粉骨砕身の働きを求められる代わりに、数々の『恩恵』を受けることができる。一定期間における不老処置などもその一つだった。
そのため、《アイン・ソフ》の一員となりたいと望む者は世界中に星の数ほどいる。つまり京極や月城の代わりなどいくらでもいるのだ。
どれだけ優れたアニムスや遺伝子を有していようと関係ない。《アイン・ソフ》が求めているのは実行力であり、その結果のみが全てなのだ。
怒りを露わにするジョシュアに対し、京極がどう返答するのか。月城は固唾を呑んでそれを見守った。
ほどなくして京極は口を開く。しかしその口調はかけらも緊張しておらず、それどころか委縮や反省の色すらも見られず、どこかふてぶてしささえ感じられた。
「あなたのご期待に沿えなかったことは謝罪します、ジョシュア。しかしあなたは一つ勘違いをしておられる」
「何……? どういうことだね?」
「仮に私が《雨宮=シリーズ》の六番を言い包め、無理に《アイン・ソフ》へ引き入れたとしても、本人が心から納得していなければいずれあなたの元を去るでしょう。あの六番には《服従因子》がない。他者に縛られることなく自らの意志でどこへでも行ってしまう。だからこそ奴に大きな価値があるのだと、あなたもご存知のはずです」
「……」
「必要なのは、耳障りの良い言葉による説得ではなく、徹底的かつ自発的な帰順です。我々に従うほか道はないのだと知らしめ、自らの意志によって《アイン・ソフ》に従うよう仕向けること……それが何より重要なのです。ただ、それを《雨宮》の六番に理解させるのには、少々、時間と手間が必要というだけのこと」
《王国》のジョシュアは、大いなる叡智の宿った瞳を冷徹に細める。
「つまり、今回の件は《雨宮=シリーズ》の六番を手に入れるために必要なプロセスだったと、そう言いたいのだね?」
「私は奴のことを誰よりも理解しています。奴がどれだけ強情で、この東京の街に執着しているかも。そこから引き離すのはそう容易ではありません。一見、遠回りに見える方法が最短距離であることも十分にあり得るのです。……ですからジョシュア、どうかすべて私にお任せを。必ずやあなたから与えられた任務を全うして見せますよ」
京極の言葉には自信と誇りが漲っていた。その自信は一体どこから湧いて出るのかと疑問に思うほどだ。
しかし不思議と、嘘臭さや胡散臭さは感じられない。京極の発する一言一句が、この男なら必ずや成し遂げるだろうと、無条件にそう思わせる。
ジョシュアはそんな京極を、全てを見透かすような澄んだ瞳で注視する。京極は全く怯むことなく、ジョシュアの瞳を見つめ返す。
月城は息を詰め、両者のやり取りをただ黙って見つめた。『彼』は一体どう判断するのだろう。
やがて、ジョシュアは静かに口を開く。
「……信じても良いのだね、タカ?」
「もちろんです。焦る必要はありませんよ。全て終わったその時に、あの《レナトゥス》があなたの手の中にあれば良いのでしょう?」
京極はにこやかに笑ってそう言った。やはり、不敵なまでの自信に満ちた笑み。不安や懸念といったネガティブな要素は微塵も感じさせない。
月城は内心ハラハラしてそれを見守った。『彼』の前なのだ、いくら何でももう少し謙虚に振舞えないものかと。しかし、《王国》のジョシュアは腹を立てたり苛立ったりすることなく、意外にもぷっと噴き出した。
「やれやれ、仕方のない子だ。今や『神』と恐れられているこの僕に、そのような大胆な口を利くのは君だけだよ、タカ」
ひとしきり可笑しそうに笑ったあと、ジョシュアは幾分、表情を和らげて言った。
「……分かった、いいだろう。元もと東京でのプロジェクトは君に一任していた。責任者は君だ。君のやりやすいようにやるといい。《悪魔》である君の下には《女教皇》の他、《戦車》や《月》、《吊るされた男・(メム)》、《死神》そしてそこにいる《塔》の地位を授けられているオトヤをつけよう。他にも必要なものがあればいくらでも言いなさい」
「ありがとうございます、ジョシュア」
「ただし、忘れないでくれ。……僕は君のことを高く評価している。君ならば必ずや文明的特異点を突破することができるとね。その信頼を欺き、失望させるようなことだけはしないでくれ。改めて期待しているよ、僕の可愛い《ザラキエル》」
そして《王国》のジョシュアは椅子に座ったまま青灰色の瞳に赤光を放つと、忽然と姿を消した。アニムスを発動させ、瞬間的に空間転移したのだ。この部屋に姿を現した時と同じようにして。
月城は強張らせていた肺を弛緩させ、大きく息を吐き出した。水の中から空中へと解き放たれ、ようやく落ち着いて呼吸ができる――大仰な誇張ではなく、まさにそんな心境だった。おいそれと呼吸することさえ憚られるほど、《王国》のジョシュアは絶対的な存在なのだ。
彼の怒りを買えば、さすがの月城も平静を保っていられる自信が無かった。それを回避できたのは京極の手腕だという事は月城も認める。もっとも、そもそもの話として京極がおかしな命令違反をしなければこんな事態は防げたのだが。
月城は改めて京極に問いかけた。
「京極、お前やはりわざと《雨宮=シリーズ》の六番を回収しなかったんだな」
「それは誤解だ、月城。思ったより雨宮の抵抗が激しかった、それだけだ。《暁星=シリーズ》や陸軍特殊武装戦術群の連中も存外、手強かっただろう?」
「それはそうだが」
「もっとも、先ほども言った通り、この事態は織り込み済みだ。まだ十分に修正は効く。計画に変更はない。……それで構わないだろう?」
「……」
京極は立ち上がると、そう言って軽やかに笑う。そこにはやはり、全く張り詰めた様子はない。《王国》のジョシュアから叱責されたことなど無かったかのようだ。
何故、そのように笑えるのか、月城には分からない。京極が何を考えているか全く以って理解できない。
(底の知れない男だ)
月城は改めて思う。京極は本心が読めない。わずかな素振りから表面的な感情を読み取ることはいくらでもできる。だが、彼が心の奥底で本当は何を考えているのか、さっぱり分からないのだ。
とはいえ、決して京極が内向的だというわけではない。京極は月城よりもよほど喜怒哀楽が豊かでコミュニケーション能力も高いからだ。
彼は日常的によく笑い、冗談を言うこともあればウィットに富んだ会話で人を惹きつけこともある。時には子どものように拗ねたり涙を流したりすることすらあるほどだ。
だが、そんなにも感情が豊かであるのに、その本心がどこにあるのか月城をもってしても掴みきれない。相手が無表情であるならそれも分かる。或いは内心を悟らせまいと常に警戒している者なら、その考えを見抜けないのもある意味当然だ。
だが京極の場合はそうではなく、常に自然体で振舞っているからこそ、却って不気味で得体が知れなかった。
どこからどこまでが本当で、どこからが本当でないのか。彼の嘘偽りのない素顔がどのようなものであるのか、月城どころかこの世の誰も知らないのではないか。
しまいには、自分が京極だと信じているものはすべて虚像であり幻想にすぎないのではないかとすら思えてくる。
この男であれば、あの《王国》のジョシュアにすら平然と嘘をつきかねない。それどころか、《王国》のジョシュアが想定していない計画を勝手に企みかねない。
だが、もし京極がそんな暴挙に打って出たとして、あの《王国》のジョシュアが黙ってそれを見逃すだろうか。まさか、そんなはずはないだろう。ジョシュアはそのような甘い見通しが通じるような存在ではない。
だとすれば、月城たちに待ち受けているのは破滅のみだ。
月城は大きな懸念を抱く。京極は本気で《雨宮=シリーズ》の六番を味方としてこちらの陣営に引き入れるつもりがあるのか。彼は本心では《雨宮=シリーズ》の六番が敵であることを望んでいるのではないか。
そして、《雨宮》の六番を自らの手で叩きのめしたいと願っているのでは。
だが、月城はその疑問を敢えて口にしなかった。京極が腹の中で何を考えていようと、そこまで踏み込むつもりは無い。月城と京極の関係はあくまでビジネスパートナーだ。それ以上でもそれ以下でもなく、京極がすべきことをするのであれば文句はない。
今回のことに関しても釈然としない部分はあるものの、一方で月城が《暁星=シリーズ》や獣耳の娘、陸軍特殊武装戦術群の面々を退けることができなかったのも事実だった。京極に文句をつけられる立場ではない。
(……まあ、これは一つ貸しだな)
かくいう月城も、個人的な目的を抱えてこの《監獄都市》に戻って来た。だからもし今回、京極が任務よりも自らの都合を優先させたというのであれば、月城にも同程度の身勝手が許されるという事ではないか。
すなわち、いざという時に月城が私情を優先させても構わないという事でもあるのでは。
《王国》のジョシュアが京極にプロジェクトを任せると明言したものの、厳密には月城は京極の部下ではない。あくまで『ビジネスパートナー』にすぎないのだから。
そんなことを考えていると、不意に店長室の扉がノックされる。月城は眉根を寄せた。カジノ店のスタッフだろうか。それにしては、妙に気配が無かったが。
京極が「どうぞ」と答えると、さっそく扉が開き二人の男性が姿を現した。
「やあ、タカ! 久しぶりだね! ナオヤも相変わらずのサムライっぷりだな。その無愛想な顔、もはや懐かしくてたまらないよ!」
部屋に入るなり大袈裟な身振りで再会を喜ぶのは、髭を蓄えた白人男性だ。言動には愛嬌が溢れているものの、かっちりとしたスーツと磨き抜かれた革靴をまとい、いかにもビジネスマンといった隙の無い出で立ちをしている。
その後ろにはぼさぼさの頭をし、大学生みたいなラフな出で立ちの男性の姿もあった。目元が隠れるほど前髪を伸ばしており、表情にも仕草にも陰気な雰囲気がにじみ出ているが、それとは対照的に髪の色はピンクがかった明るい金髪をしており、そのアンバランスさがひどく印象に残る青年だ。
彼らは二人とも、カジノ店とは何ら関係がない。それどころか、この《監獄都市》では絶対にいるはずのないタイプの人間だった。この街には小奇麗なビジネスマンが勤めるような大企業や、学生が身を置くような教育機関は一つとして存在しないからだ。そのせいか、彼らの存在はこの街でひどく浮いて見えた。
京極は二人の姿を認め、わずかに怪訝な表情をした。
「リチャードにダニエル。二人とも店に来ていたのか」
京極が訝るのも分かる。月城や京極が彼らと接触を持っていることは、今はまだこの街の人間に知られるわけにはいかないからだ。そのため、連絡は互いに端末を介したものに限定していた。ただでさえ、二人はこの街でひどく目立つ。
すると、愛嬌のあるビジネスマン風の男性は、ぱちりと右目を閉じてウインクして見せた。
「ああ、心配する必要は無いよ。ちゃんと店の裏口から人目につかないよう気を付け入ったからね。ひと悶着あったばかりだ、この店に対する監視の目もさすがに緩んでいる。こういう時でもなければ、ゆっくり会って話すこともできないだろう?」
「なるほど……相変わらず君は抜け目がないな、リチャード」
京極が呆れ気味に笑うと、リチャードも茶目っ気のある笑みを浮かべる。
「世渡りの上手さが僕の強みだからね。……タカ、そしてオトヤ。共に力を合わせ、ぜひ東京での計画を成功させよう!」
リチャードはそう言うと、慣れた仕草で京極や月城と握手を交わす。
一方、リチャードの後ろに立つ陰気そうな青年は、気まずげにその特徴的な金髪を掻き上げ、ボソボソと言った。
「その……すみません、京極さん。僕はリチャードを止めたのですが」
「いや、君が気にする必要は無いよ、ダニエル。よく来てくれた」
京極はそう言って微笑むと、ダニエルとも握手を交わした。ダニエルは、照れ臭そうにはにかみつつも、どこか嬉しそうだ。
月城も一応、ダニエルと握手を交わす。もっとも、ダニエルは京極に抱いている興味の半分ほども月城には持ち合わせていないようだった。そのため、握手もかなりぞんざいだ。
月城も別にそれで構わない。任された『仕事』を確実にこなしてくれるならそれでいいし、個人的な関係を築くつもりは無い。
「……ところが、だ! この店に来たのは僕たちだけじゃなかった。まさか《王国》のジョシュアまで姿を現すとは……『彼』はよほどこの計画を成功させたいようだね。ともかく、君たちが《王国》のジョシュアに叱られているのに気づいて、僕たち様子を窺っていたのさ。せっかくのお説教タイムの邪魔をしては、君たちに悪いだろう?」
リチャードはそう言って、悪戯っぽく笑う。
彼の本名はリチャード=ローズ。《ノヴス・オルド》社のリゾート事業部門・経営戦略部・新規事業開発部長だ。
表向きは下桜井組が手掛ける大型カジノ観光開発のビジネスパートナーの代表者として、北米・ロサンゼルスの本社から視察のため派遣された社員という事になっている。
だが実は、彼もまた《アイン・ソフ》の一員だ。『人類全体を導き、より高次の存在へと進化させる』という共通理念を実現させるため、《王国》のジョシュアによって《戦車》の地位を与えられている。
もっとも、そのような事情があることなど下桜井組構成員は露ほども知らない。そもそも《監獄都市》というごく狭い世界から出ることができない彼らには、もし仮にリチャードの素性を不審に思ったとしてもそれを調べる手立てはない。
ましてや、京極とリチャードが実は裏ではこうして共謀関係にあるということ、《ノヴス・オルド》社やリチャードの真の目的が大型観光事業以外のところにあることなど知るはずもなかった。
京極はリチャードへ尋ねる。
「下桜井組の大型観光事業の進捗具合はどうだ?」
「悪くは無いよ。むしろ下桜井組は士気が高く、何としてでもこの事業を成功させようと意気込んでいる。……その姿を見ると、少し申し訳ない気持ちになるよ。このプロジェクトはあくまで架空の事業であり、彼らの期待する大型IR誘致や観光事業が実現することは万に一つもない。これらは全て、《アイン・ソフ》の一座・《戦車》である僕と、同じく《アイン・ソフ》の一座・《月》である彼がこの街に潜入するために用意されたダミープロジェクトなのだから」
リチャードは肩を竦めてそう言った。その言葉とは裏腹に、さほど申し訳ないとは思ってなさそうな、けろりとした顔だった。月城は冷ややかにそれを見つめる。
(相変わらず、軽薄な男だ)
リチャードは生粋のビジネスマンだ。そのためか、軍属であった月城とはどうも馬が合わない。愛想がよく、弁も立ちすぎるほどに立つせいか、どうしても胡散臭さを感じてしまうのだ。
ただ、能力が高いのは事実だった。だからこそ、《戦車》という立場を与えられている。その点は月城も認めざるを得なかった。
京極は微笑んでリチャードに告げる。




