第73話 エニグマの正体
この街は数多の屍の上に築かれた街だ。
この街に《休戦協定》という名の秩序が生まれるまで、数え切れぬほどの大勢の人間が『人柱』となって命を落とした。今を生きる六道たちは彼らの死を踏みつけにし、その上に立っているのだ。
そうする他なかったとはいえ、非人道的だと糾弾されても仕方がない行為だった。中には鬼畜の所業と罵る者さえいるだろう。現にその通りなのだから反論するつもりもない。
だがそれでも――不安定で矛盾だらけで欺瞞に満ちていようとも、ようやく手に入れた貴重な『平和』だ。そして今も、たくさんの人間がこの街で生活を営んでいる。
それを破壊などさせてたまるものか。くだらない理念などというもののために街そのものを犠牲にする計略を、決して成功させてなるものか。
六道が眼窩の奥に鋭い光を宿らせたその時、シロが口を開く。
「六道、エレベーターが来たよ」
「……! うむ」
エレベーターの扉が開き、六道とシロは中に乗り込む。扉が閉まったその直後、マリアから通信端末に連絡が入った。
「し、所長! 大変です!!」
マリアは、いつもの彼女らしからぬほど慌てていた。六道は眉を顰める。
「何だ、どうした?」
「事務所の屋上に侵入者が!!」
「何者だ?」
「あいつです、あいつ! 所長たちが言ってた例の京極鷹臣!! そいつが事務所に乗り込んで来て……しかもそいつに深雪っちが連れ去られたみたいなんです!!」
「……!!」
――さっそく仕掛けてきたか。六道は落ち窪んだ瞳をすっと細める。
「ユキ……!」
シロも血相を変えた。六道とマリアの通信を聞いていたらしい。
「陸軍特殊武装戦術群の奴らもいたんですけど、阻止できなかったみたいで……ホント、普段は威張りくさってるクセに、肝心なところで役に立たないんだから!!」
マリアは腹立たしそうに吐き捨てる。
陸軍特殊武装戦術群がその場に居合わせたにもかかわらず、京極は深雪を連れ去っていった、つまりそれを可能にする何らかの手段を持ち合わせているという事だろう。
京極がどのような手を使ったのかは分からないが、何のためにそんなことをしたのかはおよその想像がつく。今さら京極に深雪をどうこうできるわけもないとは思うが、念には念を入れる必要がある。
「……シロ!」
六道が視線を向けると、シロは待ってましたとばかりに大きく頷いた。
「うん、分かった! シロ、ユキを助けに行く!!」
すると、マリアもすかさず声を上げる。
「今のところ、深雪っちの追跡はうまくいってるわ。ナビはあたしに任せて!!」
そして六道は一階のボタンを押す。エレベーターはすぐさま降下を始め、ほどなくして階数表示器が一階を表示する。扉が開くと共にシロは腰の日本刀に手を添え、まさに弾丸のようなスピードで飛び出して行った。
「な、何だ!?」
「うわっ!」
《収管庁》の職員はみなそれに驚き、仰け反った。シロはその間を器用に走り抜けていく。六道はふとある事を思い立ち、シロを呼び止める。
「シロ!」
その声に反応し、シロは急ブレーキをかけて立ち止まった。彼女のブーツが《収管庁》の床と摩擦を起こし、キュキュッと甲高い音が鳴る。そして未だエレベーターの籠の中にいる六道の方を振り返った。六道はシロに告げる。
「……手加減する必要は無い。思う存分やりなさい」
これまでシロは、常に力を己の制御し、抑える努力を強いられてきた。彼女のアニムスの強さを考えればそれも当然だが、そのおかげで今では何かにつけ手加減する習慣が身についている。共に《収管庁》の中を歩いていても、彼女の意識の変化をはっきりと感じ取れた。それはとても喜ばしい事だ。
だが、相手があの京極なら手加減は一切必要ない。――誰かがそう伝えてやらなければ。
シロは腰の日本刀に手をやったまま、力強く頷いた。そして踵を返し、再び《収管庁》の出口を睨むと、低い姿勢でエントランスを駆け抜けた。
そして外に出た瞬間、瞳に赤い光を灯し《ビースト》のアニムスを発動。全身の身体能力を劇的に向上させ、地面がめり込むほどダンと強く踏み込むと、大きく跳躍し、街灯の上へ着地する。そこから更に小さなビルへ、小さなビルから大きなビルへと次々に飛び移り、あっという間に《収管庁》から姿を消した。
月明かりのおかげで視界は悪くない。また《ビースト》のアニムスを使えば普段よりずっと夜目が利くようになるので、たとえ夜の帳が降りていようともシロには世界の全てがくっきりと見渡せる。
シロは高層ビル群の上空を、まるで鳥が翼を広げ飛翔していくかのように華麗に移動していく。
六道は黙ってそれを見送ったのだった。シロと深雪、二人が無事に戻ってくることを祈りながら。
✜✜✜
その頃、京極と深雪を連れた月城は南東に向かって進んでいた。
月城は相変わらずたくさんの足を蜘蛛のように動かし、建物から建物へと器用に飛び移っていく。深雪もやはり先ほどと変わらず、逆さ吊りにされたままだ。
されるがままというのはどうにも癪だが、とはいえ下手に抵抗してこの高さから地上に叩き落とされてはたまらない。どんなに歯痒くとも、今は大人しくしている他に無かった。
京極も一緒に移動しているはずだが、彼は一体どうしているのか。深雪の位置からでは、その姿を捕らえることもできない。
やがて溢れんばかりの光を湛えた繁華街が見えてくる。
この辺りは既に《アラハバキ》の縄張り、《新八洲特区》だ。《東京中華街》ほどではないとはいえ、《中立地帯》と比べるとずっと華やかで繁栄している。同じ《監獄都市》の中であるとは思えない。
実際、ひしめくようにして大型の高層ビルが立ち並んでいる。暗くて詳しくは分からないが、どの建物も数十階はありそうだ。
また、あちこちに巨大な電子看板やネオン看板が光を煌々と放っているのも目に入った。あの鮮やかでカラフルな光の洪水を維持するために、どれほどの電力が必要なのか。《中立地帯》で生活している深雪たちには信じられない光景だ。
月城はやはり蜘蛛のような動きで、そのネオン看板に彩られたビル群の壁を這い、屋上を次々と飛び移っていく。この方角から察するに、カジノ店・《エスペランサ》を目指しているのだろう。
相手が目的を達成させる前に、何とかして反撃に出たい。だが、深雪の足首は月城によってがっちりと掴まれており、どれだけ振りほどこうとしてもびくともしないのだった。
ところが月城が一際大きなビルの屋上へ差しかかった時、深雪を掴むその影のような体を何かがバチッと弾いた。
その衝撃で月城は拘束を解き、深雪の体は宙に放り出された。
ビルの屋上の床に叩きつけられる寸前で受け身を取り、どうにかダメージを最小限に止める。ようやく自由を得、立ち上がって周囲を見回すと、そこは驚くほど広々としていた。ビルの屋上とは思えないほどだ。
よほど大きな建物なのだろう。かつてはヘリポートとして利用されていたらしく、床には大きな円の中にHの文字が描かれているのが微かに残っている。高所であるためか、風が強い。深雪の髪もパーカーの裾も、激しく煽られる。
二十メートルほど離れた先では、京極が涼しい顔をしてポケットに両手を入れ、こちらを見つめている。彼の髪やスーツもまた風に晒されているが、それもまた妙に様になるのが腹立たしい。
その京極の隣に再び月城が姿を現した。一方、彼らと対峙する深雪のそばにはエニグマの姿が浮かび上がる。
(くそ、うちの事務所からかなり離れてしまったな……。まさか京極が直接、事務所に乗り込んできた挙句、こんな訳の分からないところに連れて来られるなんて……!)
他の《死刑執行人》はみな出払っており、援護は期待できない。深雪は自分一人の力でこの局面を乗り切らなければならないのだ。そう考えると、俄かに強い緊張感に包まれる。しかしその時、六道の言葉が脳裏に蘇るのだった。
『まだ全てが終わったわけじゃない。これを『失敗』にするか否かはお前次第だ』
深雪は唇を引き結び、京極を睨み付けた。
(……そうだ、まだ終わりじゃない! これで終わりになんて、させてたまるか!! これは逆に絶好のチャンスでもあるんだ!!)
パーカーのポケットに手を突っ込む。その中にはいつものようにビー玉を潜ませてある。もし仮に戦闘に突入しても、十分に戦える。大丈夫、深雪にはエニグマもついているのだ。そのエニグマはいつもの飄々とした口調で声をかけてきた。
「大丈夫ですか、雨宮さん? すみません、手荒な救出となってしまいまして」
その言葉で深雪は自分が自由を得ることのできた理由を知る。深雪に憑依していたエニグマが月城を弾いてくれたのだ。
「いや、エニグマのおかげで助かったよ。でも……どうして『ここ』なんだ? 本当はいつだって月城の拘束を解くことができたんだろう?」
決してエニグマに文句を言っているわけではない。だが、このビルはあまりにも事務所から離れすぎている。できればもっと事務所に近い場所で事を構えたかった。そうすれば、雨宮や碓氷もすぐさま駆けつけてくれただろう。
するとエニグマは、ニヤリと笑う。
「それにはちゃんと理由があるのですよ。このビルは五十年以上前に建てられたものですが、あちこち損傷していまして、外装は立派ですが中はボロボロなのです。おかげで殆ど人が入っていません。ここならもし仮に戦闘を行っても、ほとんど被害は出ないでしょう?」
確かにそれなら、気兼ねなく《ランドマイン》で爆発を起こすことができる。エニグマにはエニグマの考えがあり、じっとタイミングを計っていたのだ。
「そうか、つまりエニグマは最初から月城がこのビルに到着するのを待っていたんだな」
「いやあ、内心では冷や冷やしていましたよ。奴がこのビルをスルーしたらどうしようかとね。けれど、うまく屋上に這い上がってくれて助かりました」
時どき、その奇妙な言動に驚かされることもあるが、やはりエニグマは頼りになる。自分は独りきりではない。深雪は味方がいる有難さを改めて噛みしめると、左の手首に右手を添えた。
そこにはいつも使用している腕輪型端末が今も嵌めてある。《グラン・シャリオ》の拠点に乗り込んだ際に付着した血痕が今もこびりついているが、機能には何ら問題がない。それを確認すると、京極に向かって改めて口を開いた。
「それにしても……まさか京極、お前が月城と組んでいたなんてな」
すると、京極はその端正な両目をすっと細める。
「それはこちらのセリフだ。まさかお前たち二人が共にいるとは思わなかったぞ」
その言葉を聞き、深雪は眉根を寄せた。
「……? どういうことだ? エニグマのことを知っているのか?」
「何だ、雨宮。お前、そいつが何かも知らずに使役していたのか」
京極が呆れたように言う。深雪はますます眉間にしわを寄せた。つまり京極はエニグマが何者なのか知っているのか。エニグマ自身さえ知らない、その真実を。
すると今度は、月城が京極の言葉を補うように説明する。
「そいつは我々、《月城=シリーズ》のプロトタイプである《暁星=シリーズ》の生き残りだ。とっくに廃棄されているものと思っていたが、まだ活動中の個体がいたのだな」
「《暁星=シリーズ》……!? それじゃ、エニグマも……!!」
深雪は大きな驚きと共に隣に浮かび上がるエニグマの方を振り返る。――まさかエニグマも深雪や京極、月城と同じ。
「ええ、旧・斑鳩科学研究センターで開発されたクローンゴーストの一体ということになります。長いことそれを忘れていましたが、先ほどあの月城というゴーストの気配を感じ取った時に思い出したのです!!」
エニグマは記憶を取り戻したことに対する喜びからか、ひどく高揚している。
以前、深雪が記憶を失って怖くはないのかと尋ねた時、エニグマは自らの個人情報には固執していないようだった。だが、それはあくまで記憶が戻る見込みが無かったからであって、実際に自分のことを思い出すと猛烈な喜びが込み上げてくるのだろう。それは自分自身を取り戻したのと同じことだからだ。
「それじゃ、エニグマのアニムス・《ベゼッセンハイト》と月城の《ドゥンケルハイト》がよく似ているように感じたのは、ただの気のせいじゃなかったのか」
今までにも、二つのアニムスの類似性を幾度となく感じてきた。エニグマと月城のアニムスが似ているのは、元が同じだからなのだ。深雪が呟くと、月城は淡々と続ける。
「《暁星=シリーズ》は精神・身体の両面においてあまりにも不安定さが目立ち、運用することのメリットよりもデメリットが上回ると判断された。その結果、四人いたシリーズは全て廃棄。プロジェクトそのものも終了した。その後、《暁星=シリーズ》を引き継ぐ形で開始されたのが《月城=シリーズ》プロジェクトだ。俺はその七番目に当たる。もっとも今は、失踪番号扱いになっているだろうがな」
エニグマは月城に警戒を示しながら付け加える。
「……因みに私がカジノ店・《エスペランサ》に潜入できなかったのも、あの《月城=シリーズ》が原因です。何度あの店へ潜り込もうとしても、妙な気配に阻まれてしまって入り込めなかった。その気配はまさしく彼のもの……おそらく彼は、あのカジノ店の防衛も担っているのでしょう」
深雪は唇を噛む。《エスペランサ》のビップルームで何が行われていたか、それを知る事さえできれば今回の事件は防ぐことができた。《グラン・シャリオ》や《彼岸桜》の面々は死なずに済んだし、逢坂忍との連携もきっとうまくいっていた。月城の存在がそれを阻んだのだ。
もっとも、月城が果たした役割は、カジノ店の防衛だけではない。深雪はその推測を確信に変えるため、京極を問い質す。
「京極……お前、逢坂さんの部下を操って《グラン・シャリオ》を全滅させたな?」
すると、京極は肩を竦めてその言葉を一蹴する。
「それは解釈違いというやつだな。俺は《ヴァニタス》を使って、仕舞い込まれた奴らの本心を引き出してやっただけだ」
「何だと……!?」
「あの五人は、本心では《死刑執行人》と手を組むことに不安を抱いていた。他の誰よりも序列にこだわっていたし、だからこそ《監獄都市》のルールが変わることも望んでいなかった。それでも奴らが東雲探偵事務所との連携を口にしたのは、全て上司である逢坂忍のためだ。俺はただ、奴らの奥に潜むその本音を顕在化させてやっただけさ」
深雪はぎり、と奥歯を噛みしめた。
《彼岸桜》の面々に不安や迷いがあるのは深雪も気づいていた。深雪もまた、心のどこかで同じ感情を抱いていたからだ。
どんなに強靭な精神を持った人間であっても、変化を前にすれば、みな迷い、惑う。より良い未来を選択したいと思うからこそ、何を選択すべきか悩む。京極はそういう、誰しもが抱く心の隙を突き、玩具にして弄んだのだ。
深雪は両手を握り締める。「何が『本音を顕在化させてやった』、だ! ふざけるな!!」そんな罵声が喉元まで出かかった。しかし今は、他に明らかにしておかねばならないことがある。
「……だが大槻さんたちは、お前とは長い間、会っていないと言っていた。俺にはあの人たちが嘘をついていたとは思えない。お前はどうやって彼らに《ヴァニタス》をかけたんだ?」
すると京極はにい、と邪悪な笑みを浮かべる。
「わざわざ俺に聞かなくとも、うすうす分かってるんじゃないのか、雨宮?」
「やはり月城か。月城は俺と同じで二つのアニムスを持っている。一つは影化する能力、《ドゥンケルハイト》。もう一つは他者の記憶を消す能力だ」
深雪が告げると、それを聞いた月城はさして驚いた様子もなく、無表情のまま頷いた。
「よく気づいたな。ついでに言うと、記憶を消失させる能力は《オヴリビオン》という」
まるで他人事のような、淡白な声音だった。どちらでも構わないし、さして興味もないといわんばかりに。そんな無気力な月城に代わって深雪が指摘する。
「《ドゥンケルハイト》で密かにターゲットに近づき、《ヴァニタス》をかけた後に《オヴリビオン》で接触した記憶そのものを消す……そうすればターゲットは自分が《ヴァニタス》にかけられたことに気づかない。もちろん、周囲の者も異常に気付きにくくなるし、洗脳されている事も露見しにくい。だから何度だってターゲットに接触することもできるし、思う存分、操り放題だというわけだ!!」
それだけではない。月城の《ドゥンケルハイト》はエニグマの《ベゼッセンハイト》と同じく、己の影で人を包み呑み込むことで自在に運ぶことができる。雨宮たちの仲間、陸軍特殊武装戦術群の方の月城音弥も同じように《進化兵》を《監獄都市》の外へと運んでいった。それと同じだ。
つまり月城のアニムスがあれば、ターゲットを人目につかないところへ連れて行って思う存分、洗脳したり、記憶を改竄したりすることができるということだ。
(神狼が《エスペランサ》に潜入した時、入ったはずのない人間がビップルームから出て来たと言っていた。あれは確かに大槻さんたちだったんだ。彼らは出入り口からカジノ店に入ったんじゃない。月城の《ドゥンケルハイト》で連れ込まれたんだ……!!)
《エスペランサ》に運び込んでしまいさえすれば、外部の者には中で何をしているか分からない。外界から隔離された密室状態が完成し、余計に洗脳されやすい環境となってしまう。




