第69話 煩悶
奈落は右の眼帯を外していた。その眼窩から何かが這い出している。
おぞましい造形をした闇色の体、その中に浮かぶ生々しい眼球。そして、ぞろぞろと動く、節くれだった無数の足。先ほど叩き斬ったはずの、蜈蚣の化け物がそこにいた。
それはぐるぐると巻きつくようにして奈落の体を這いずり回っている。奈落の頭部の右斜め上では、蜈蚣の化け物の頭部――五本の鎌が、斬りつけた高瀬の太刀をがっちりと抑えつけていた。《童子切安綱》などものともしない様子で。
「馬鹿な、先ほどは容易に斬り捨てられたはずなのに!?」
すると、先ほど高瀬が斬り捨て吹っ飛んでいった、蜈蚣の下半身が戻ってきた。そして奈落の体を素早く這い上がり、彼の眼窩から這い出している上半身と合体する。吸収され、本体へと戻ったのだ。
「な、何と……!?」
かと思えば、蜈蚣の胴体の一部が散り散りになった。よく見るとそれらはみな均等な大きさで、一つ一つが小さな虫の形をしている。そしてその昆虫の群れは再び本体の元へ集まると一体化して見せるのだった。まるで高瀬を揶揄い、反応を面白がっているかのようだ。
「な……何なのだ、この化け物は!? 一体どうなっている!!」
混乱しつつも高瀬は一つの確信を抱いた。つまりこの蜈蚣の化け物は、いつでも合体と分離、そして集合と離散が可能なのだ。それそのものが一つの生命体であり、同時に無数の個体の集合でもある。
(先ほどは、俺がこの化け物を自らの手で斬り捨てたと思っていたが、それは事実ではない。この化け物が俺の太刀筋に合わせて自ら体を分離させ、俺に斬ったと錯覚させたということか……!!)
何故、わざわざそんな面倒な手順を踏んだのか。決まっている、高瀬を油断させるためだ。そして《童子切安綱》が効かないのだという真実を知った時に、絶望させて戦闘意欲を削ぐためでもある。
それを悟り、高瀬は激昂した。これは不動王奈落にとってただの殺しではない、『狩り』なのだ。相手を心身ともに弱らせ、追い詰め、そして確実に息の根を止める。全てがそのための舞台装置なのだ。
そんな敵の目論見が分かっていながら、委縮してたまるものか。高瀬は歯を食いしばって己を鼓舞し、奮い立たせる。
「ぐ……うぬうっ!!」
高瀬は太刀の柄に力を込めた。すると蜈蚣は閉じていた五本の鎌を急にぱっと開く。高瀬は反動でよろめいた。完全に弄ばれている。
「なめるな!!」
高瀬は太刀で再び奈落に斬りかかる。しかし、蜈蚣の化け物がぎゅるんと素早く動き、奈落を守った。眼球のひしめいたその歪な体に、太刀の刃は呆気なく弾かれる。
「何っ!? 《童子切安綱》が効かないだと!?」
予想はしていたが、目の前で現然たる現実として突き付けられるとやはり衝撃だった。高瀬のアニムスはこれまでどんなものも真っ二つにしてきたというのに。
だが、高瀬は諦めず、何度も奈落に向かって太刀を振るった。頭部、首筋、肩、心臓、脇腹、腕、腰、太腿、脛。狙える場所は全て徹底的に斬りつけた。
しかしその度に蜈蚣の化け物が高速で動き回り、絶妙な位置に陣取って高瀬の太刀を防ぐ。
ただでさえ高瀬の大太刀は通常の刀より大振りで重い。十キロ以上は優にある。それを幾度も振っていると、さすがに息が上がってきた。
しかし対する奈落は微動だにしない。涼しい顔をしてただ煙草をふかしている。それも当然だ。防御はみな使役している化け物が勝手にやってくれるのだから。いわば、自動防衛装置を搭載しているようなものだ。
「何故だ……何故、斬れぬ!? これまで《童子切安綱》で斬れぬものはなかった!! 俺のアニムスにかかれば、全てが紙切れを裂くがごとく一刀両断にすることができたのに!!」
高瀬はこれまで、自らのアニムスの限界を知るため、ありとあらゆるものを試し斬りしてきた。だからそれは間違いない。
(いや……待てよ)
そこでふと思い出す。《童子切安綱》にも一つだけ斬れぬものがあった。それは《宇宙産希少鉱石》――いわゆるコズミック・メタルだ。
宇宙開発が進んだ現代においても非常に希少であり、日常生活で出くわすことは基本的に無い。そのため、すっかり失念していた。高瀬が《童子切安綱》を『地球上に存在する物質は全て斬り刻む』と自ら評しているのも、地球外の物質を斬ることができなかったという経験があるからだ。
「つまり、この蜈蚣の化け物は……この怪物の正体は……!!」
高瀬が口にした瞬間、《ジ・アビス》はギチギチと耳障りな音を立てながらその五本の鎌を大きく開く。
そして、地割れのような重低音の咆哮と共に、呆然と立ち尽くす高瀬へと襲い掛かった。
✜✜✜
東雲探偵事務所は静寂に包まれていた。
人員のほとんどが出払っていることもあり、建物内の照明は必要最低限で他はみな落とされている。電力供給の不安定なこの《監獄都市》では、どんな時でも極力、節電する必要があるからだ。
ただでさえ高いビル群に埋もれがちな赤レンガの洋館は、そうしていると存在そのものが消え失せてしまったかのようだった。
だが、姿は見えなくとも東雲探偵事務所は確かにそこに在る。《中立地帯の死神》がこの街で見えざる権力を振るっているのと同じように。
そんな中、深雪はただ一人、事務所で待機していた。
血まみれのスーツと革靴は脱ぎ、いつものパーカーとカジュアルパンツ、そしてスニーカーに着替えている。外出は禁じられているものの、とてもじっとしていられない。すっかり暗くなったキッチンの中で、腕輪型端末を忙しなく操作する。
端末の画面が光を発して深雪の顔を照らし、闇の中で浮かび上がらせた。
(豊や聖夜、涼太郎……三人へのメンタルへの影響が心配だ。動画とはいえ、《グラン・シャリオ》の仲間が殺されるところを目にして平気なわけがない!)
豊と聖夜、涼太郎の三人とは逢坂の事務所で分かれたきりだった。
数時間前、《グラン・シャリオ》のメンバーが虐殺される動画が拡散するのを目にし、深雪は二代目桜龍会の事務所を飛び出した。《グラン・シャリオ》の拠点の様子を実際に確認しなければならなかったいと思ったからだ。生配信では滅多にあることではないが、動画が加工されている可能性も考えられる。
その際、豊や聖夜、涼太郎の三人は二代目桜龍会に置いてきた。仲間が虐殺された現場に彼らを連れていくわけにはいかなったのだ。三人のためを思っての判断だった。
ところがその後、紆余曲折あって深雪は東雲探偵事務所へ戻るよう、六道から命令されたため、《グラン・シャリオ》の三人と会うことはできなくなってしまった。
このまま放ったらかしではあまりにも無責任だ。たとえ身動きはとれなくとも、自分のできる限りのことをしたい。
しかしいくら端末で連絡を取ろうとしても三人とは繋がらなかった。コール音が鳴り響くだけで誰ひとり通信には出ない。深雪に対して不信感を募らせているのか、それとも三人の身に何かあったのか。
(できることなら今すぐ事務所を飛び出し、三人を探しに行きたい……!)
だが、それを実行することはできなかった。深雪は所長である六道から事務所で待機するよう厳命されている。《リスト執行》の邪魔になるから大人しくしていろという意味も無いではないだろうが、一番は深雪自身を守るための判断だろう。
上松組構成員に命を狙われてからはよく分かる。深雪は良くも悪くも有名になりすぎてしまった。街の一人歩きはあまりにも危険すぎる。今のように日が暮れて完全に夜になってしまってからはなおさら危険だ。
それに事務所の中には寧々や朝比奈もいる。他の《死刑執行人》は《リスト執行》中で事務所を離れているし、六道やシロも《収管庁》へ行ったまま帰って来ない。そんな中、深雪まで事務所を開けたら誰が彼女たちを守るのか。
(以前だったら少々の危険など顧みず、とっくの昔に事務所を飛び出していた。いろんな人の思いや過去を知って、その上で自ら背負うと決めて……でもそうやって背負うものが増えれば増えるほど、身動きはとれなくなっていくものなのかもしれないな……)
それからもう一人、逢坂忍のことも心配だった。端末を操作して登録したアドレスを探し出す。
だが、それをタップする勇気はなかった。彼の部下は今ごろ《リスト執行》されているだろう。しかも深雪の仲間たちの手によって。どんな顔をして逢坂に連絡を取ればいいというのか。結局、深雪は何もできなかった。「お前を信じていいのか」と問う逢坂に、「全力を尽くす」と約束をしたのに。我ながら腹が立つほど無力だった。
深雪はうな垂れ、頭を抱える。
「くそ……くそ、くそ!! どうしてこんなことになったんだ? 途中までうまくいきそうだったのに! あともう少しだったのに!!」
思わず拳でタイル張りの壁を殴りつける。そんなことは滅多にしないが、この時はどうしても怒りが抑えられなかった。
悔しくて悔しくて、仕方がなかった。
こんな悲惨な結末を迎えてしまったことも、その尻拭いを東雲探偵時事務所のみなにしてもらう形になってしまったことも。全てが悔しくもどかしい。申し訳なさと無念さ、そして山のような心残りで腸が煮えくり返りそうだった。
逢坂と《グラン・シャリオ》を引き合わせたことが間違いだったとは思わない。《死刑執行人》である深雪には《ストリート=ダスト》である《グラン・シャリオ》のメンバーを助ける方法に限りがあり、第三者の力を借りる必要があった。
その相手に逢坂忍を選んだことも後悔していない。彼も彼の部下も、信頼するに値する人物だと今でも思っている。
《死刑執行人》と《アラハバキ》構成員という立場の違いゆえに完全に心を許し合うことはできなくとも、協力できる部分は協力していく。それは決して不可能ではないと。
それなのに、何故こんなことになってしまったのか。どこでおかしくなってしまったのか。
(……理由は明白だ。京極……あいつが俺たちの知らないところで裏から手を回し、《ヴァニタス》のアニムスを使って全てを操っていたんだ! 《グラン・シャリオ》の殺戮現場に残されていた《ウロボロス》のエンブレムマークが何よりの証拠だ!! 俺は……俺たちは事が起こるまでそれに気づけなかった……!!)
京極が何やら動いている事には気づいていた。《中立地帯》でも京極の名は頻繁に耳にするようになっていたし、ストリートで影響力を増しているのは肌で感じていた。だが、まさか今回の件にここまで深く入り込んでいたなんて、思いもしなかった。
(事件の内容を考えると、京極が《ヴァニタス》を使って操った対象は、おそらく逢坂さんの部下である大槻さん、細谷さん、高瀬さん、椎奈さん、杉原さんの五人だ。でも、五人とも京極とは親しくないし、特にここ最近は全く会っていないときっぱり断言していた。嘘を言っているようには見えなかったし、そもそもそこまでして嘘をつく理由もない。彼らはみな下桜井組の構成員なんだから、会っていたって本来は何の問題もないんだ。
五人の言っていたことが本当だったとして、京極はどうやって彼らに《ヴァニタス》をかけたんだ……? 《ヴァニタス》は視線を介して相手の心を操る能力だ。ターゲットに直接会わずに《ヴァニタス》をかける方法なんて思いつかないけど……)
深雪も大槻たちの言葉を聞いて、彼らを信用したのだ。京極に全く会っていないなら、《ヴァニタス》に洗脳されている可能性は極めて低い。その点は心配しなくて大丈夫だろう、と。そしてつい油断してしまった。
(そういえば、京極の経営しているカジノ店・《エスペランサ》へ潜入調査した神狼が言っていた。調査中に《エスペランサ》で大槻さんたち五人組らしき《アラハバキ》構成員の姿を見たと)
神狼によると、その《アラハバキ》構成員は五人連れでスーツを着ており、中に一人だけ女性が混じっていたという。その報告を聞いた時はまさかと思って否定したが、いま考えるとこれ以上もないほど《彼岸桜》の特徴と一致しているではないか。
(もし神狼の言ったことが正しくて、大槻さんたちが《エスペランサ》で京極と会っていたのだとしたら……何故、大槻さんたちは『会っていない』なんて嘘をついたんだ? いや、あれはどう見ても嘘を言っている雰囲気じゃなかった。それが嘘じゃなくて彼らにとっての真実なのだとしたら……もしかしたら大槻さんたちは、京極と会ったという記憶そのものを操作され、忘れさせられていた……?)
しかし、そんなことがあり得るのだろうか。《ヴァニタス》に洗脳効果があるのは事実だが、記憶を消したり捻じ曲げたりする効力までは無かったはずだ。
(つまりこの件には、京極以外のアニムスも関わっている……? 人の記憶を操作し、経験したことや特定の個人の存在そのものを完全に忘れさせるようなアニムスを持ったゴーストが……!)
そう考えて、深雪はふと気づいた。どこかでそういったアニムスの話を聞いたことはなかったか。それもつい最近、自分の身近で。
(そうだ……流星だ!)
流星は警官だった時、同僚殺しの罪を着せられたという。本来は無実であるどころか被害者なのに、殺人犯の濡れ衣を着せられたのだ。
流星の同僚を襲った本当の犯人は流星の元同僚だった。ところが公式記録やSNS上のデータ、果ては警察署内に取り付けられていた防犯カメラの映像に至るまで、彼の存在した痕跡はきれいさっぱり消去されていた。
それどころか、流星の周囲の人々は誰もその同僚の存在そのものを覚えていなかったらしい。みな、彼に関する記憶を余すところなく全て消去されていたのだ。
いくら何でも、普通そこまでのことはできない。何らかのアニムスを使わない限りは。
(流星はずっとその同僚を探してきた。多分、その人は《月城=シリーズ》の一人……何らかの理由で行方不明になったロストナンバーだ)
記憶を操るアニムスは非常に稀だ。そもそも精神や記憶といった、曖昧で繊細なものに干渉するアニムスは具現化しにくく、自在に操れるようになるのも難しいとされている。
つまり京極の《ヴァニタス》は本来、他に類を見ないほど非常に珍しい力なのだ。
そして、流星に罪を着せた元同僚、《月城=シリーズ》の一人が持っていると思われる、他者の記憶を消し去るアニムスも。
(それじゃ、今回の事件、ひょっとしてその《月城=シリーズ》のロストナンバーが関わっている……!?)
もちろん、似たアニムスを持つ他人という事も考えられるが、アニムスの希少性を考えるとその可能性は低いと言わざるを得ない。それらの条件をまとめると、つまり京極と《月城=シリーズ》のロストナンバーは今現在、協力関係にあるという事になる。
しかし、一体なぜ。京極と月城、この二人にどんな関係があるというのだろう。
深雪は考え込んだが、すぐにあることに気づき、はっとして頭を上げた。
(いや……関係ならある! 京極は以前、言っていた。自分は《京極=シリーズ》の一人であり、俺たち《雨宮=シリーズ》と同じ、斑鳩科学研究センターで作成されたクローンなのだと。《月城=シリーズ》は言わずもがな……つまり、二人には斑鳩科学研究センターでつくられたクローンであるという共通点がある! 生まれ育った場所が同じなんだ、かねてより面識があったとしてもおかしくない……!!)
考えてみれば、しごく単純な話だ。雨宮や碓氷がそうであるように、斑鳩科学研究センターのクローンは同研究所で作成された他のクローンに対し、強い思い入れを抱く傾向にある。人間で言うと、ちょうど「同郷のよしみ」みたいなものだろうか。
京極と月城もまた同様であったとしてもおかしくはない。
むしろ何故、今までそんな簡単な話に気付かなかったのか。過去の自分を殴ってやりたくなる。
(目の前の仕事に忙殺され、大事なことを見落としていた! そこに気づいてさえいれば、《グラン・シャリオ》の虐殺も《彼岸桜》の《リスト執行》も、全て防ぐことができたかもしれないのに……!!)
だが、もし仮にその事に気づいていたとしても、実際に対応策を練ることができたかどうかは分からない。そもそも、京極と月城が結託している証拠があるわけでも無く、全ては深雪の想像に過ぎないのだ。
(くっ……! 俺は一体、どうすれば……!!)
その時、深雪に憑依しているエニグマが不意に話しかけてきた。
「雨宮さん、何者かがこの事務所に近づいています」
「え……?」
間髪入れずに、東雲探偵事務所の玄関扉をどんどんと叩く音が聞こえてきた。
「おい、誰か! 誰かいねえか!?」
(この声は、逢坂さん!?)
深雪は仰天し、慌てて玄関へ向かう。
扉を開けて外に出ると、逢坂は事務所の建物沿いに移動し、中の様子を窺っていた。みな外出していることもあり、事務所はほとんど明かりがついていない。無人なのではないかと思ったのだろう。
さらに驚くべきことに、逢坂は一人だった。せめて彼の右腕である須賀黒鉄は同行させているかと思ったのに。
《アラハバキ》構成員が一人で《死刑執行人》の事務所に押しかけてくるなど、この街の情勢を考えればまずありえない事態だった。戦国武将が単騎で敵陣に乗り込むようなものだ。
彼がそこまでする理由は優に想像できる。《リスト登録》された五人の部下――《彼岸桜》のためだろう。
「逢坂さん……」




