第7話 八代実彰
息の詰まるような薄曇りの日の朝だった。
空にはどんよりと雲が立ち込め、明け方からずっと小雨が降り続いている。
とうの昔に日が昇っている筈なのに、やけに暗い。そのせいか、肌に張り付くような寒さが付きまとっていた。
――全く、憂鬱な朝だ。
八代実彰はそう思った。
こういう煩わしい天気の時に、間違っても事件など起こって欲しくない。だが、現実は八代のささやかな願いなど、聞き入れてはくれないのだった。
ここは監獄都市・東京だ。事件は毎日のように起こる。それこそ、台風が来ようと雪が降ろうとお構いなしに、だ。
この街にゴーストが送り込まれ続ける限り、平穏は永久に得られないだろう。
八代は若干の苛立ちとともにため息をつくと、パトカーの助手席から降りて外に出る。そして、中世の城のごとく、黒々と聳え立つ渋谷駅に一瞥を送った。
渋谷は新宿と同様に、《東京》の中でも比較的、原形をとどめている街だ。ただ、秋葉原や東京駅周辺よりは幾分かマシ、というだけで、渋谷駅前はかろうじてビルが元の形のまま残っているものの、駅から離れるに従って、破壊され崩壊しかかっているものが多く見られるようになる。
その渋谷駅前は、多くのパトカーや警官がひしめき、緊迫した空気に包まれていた。周囲には黄色い規制線が張り巡らされている。道玄坂のほうに目を転じると、テープの向こうに多くの野次馬が詰めかけているのが見えた。
(くそ……ゴースト共め……!)
そう舌打ちしたくなるのをぐっと堪えた。この街にいる人間はもれなくその殆どがゴーストだ。人とゴーストが大体、二対七ほどの割合だと言われている。つまり、テープの向こうで呑気に写真を撮っている連中も、その多くがゴーストだということになる。
(……何が警視庁だ、一体、何のための警察だ)
八代は何度口にしたかわからない怨嗟の混じった言葉を、再び胸中で吐き出した。
《東京》はゴーストを隔離するための特殊な街だ。特に旧二十三区は東京特別収容区――巷では監獄都市とも呼ばれ、日本中のゴーストを集めては日々送り込まれている。おまけにその外周を《関東大外殻》で囲むという徹底ぶりだ。
人が増えれば、それだけトラブルも増える。それがゴーストともなれば、猶更だ。しかし、八代たち警察官は、ゴーストの関わる事件には一切介入することが許されていなかった。
諸悪の根源は、ゴースト関連保護法という法律だ。どこぞの平和ボケした政治家たちの作ったその法案が、《東京》における警察機構の治安維持能力を甚だ不安定なものにしていた。
何せ、目の前で強盗や集団暴行、殺人といった犯罪が行われているのに、容疑者がゴーストだというだけで、取り締まることも逮捕することもできないのだ。
むしろ、ゴーストに手を出しでもしたら、警察の方が罰せられるという、俄かには信じ難い異常事態に陥っていた。
(どいつもこいつも、狂ってやがる……!)
そう思わずにはいられない。
警察が無力化状態にあることを、ゴーストの連中もよく知っている。連中は警官を全く恐れない。たとえ恫喝し、銃を向けたとしても、せせら笑っているのだ。権限が与えられていないゆえに生命の危機に晒され、実際に殉職した仲間も大勢いる。
八代たち警察官がどれほど苦汁を舐めてきたか。どれほどの絶望に晒されてきたか。壁の外でのほほんと暮らしている奴らに言ってやりたいと、何度思ったか知れない。
だが、それが実現することは決してないだろう。何故なら、国家による徹底した情報統制で、壁の中の現実は外に漏れないようになっているからだ。それもおかしな事態だが、普段ならやれ権利だ言論弾圧だと騒ぎ立てる勢力も、それがおかしいと主張する気は今のところ皆無のようだった。
壁の外の人間にとって、ゴーストの存在は永久に目を逸らし続けていたい『不都合な真実』なのだろう。せっかく臭いものに蓋をしたのに、その蓋を敢えて開けようとする愚か者などいない、ということだ。
とどのつまり、壁の外で変革が起きる可能性は毛ほども望めない、ということなのだった。
ただ、たとえ権限を与えられたとしても、《東京》の治安を回復することができるかどうかは分からない。この街は総人口に対し、ゴーストが多すぎるのだ。《東京》が監獄都市である限り、人口構造の歪みは解決されず、混沌は続くだろう。
(……まるで、夢の島だな)
八代は皮肉な思いと共に、そう考えた。かつて、人工島を建設するため、東京中のゴミを集め、湾岸部に埋め立てた。八代も写真や映像でその光景を目にしたことがあるが、よくもこんなにゴミを集められたものだと、妙に感心した覚えがある。《東京》の構図は、それと同じだ。今では、監獄都市・東京が列島中の『ゴミ捨て場』と化している。
八代が警視庁に配属されて、十六年が経つ。今や警部補となり、現場を指揮する立場だが、だからこそひしひしと感じる事がある。確かに《東京》は一時期に比べると、随分、落ち着いてきた。だがそれは、決して壁ができる前の、通常の状態を取り戻したということではない。異常事態が当たり前となり、固定化しているだけだ。
《死刑執行人》などという存在が当たり前となり、影響力を持ちつつあるのが、その最たる例だ。
(忌々しい連中め……)
そう毒づきながら、規制線を潜り、駅前に林立する商業ビルの一つへと向かった。
ボロボロに朽ちかかった商業ビルのエントランスは、やはり大勢の警官でごった返していた。いくつかの商業用店舗が入る複合型の施設のようだが、治安の問題もあり、空きスペースが目立つ。八代はかろうじて一基だけ動くというエレベーターに乗り込み、三階へ向かった。その間も何人かの警察官や鑑識などの作業班とすれ違う。
三階フロアに上がるとすぐに見知った顔が出迎えた。部下の牟田だ。こちらに気付き、近寄ってきた。
「八代さん、お疲れ様です」
牟田は八代が最も頼りにしている部下の一人だ。階級は巡査長で、八代とはちょうど十歳ほど、年齢が離れている。刑事としては、ようやく若手を卒業しつつある、といったところだろうか。
それなりに経験を積んでいる筈の牟田の表情は硬い。今回の事件はでかいな――八代は部下の表情を見て、暗澹たる心境になった。勿論、表にそれを出しはしなかったが。
牟田に案内され、八代は三階フロアの奥へと進んだ。一階部分も寒々とした状況だったが、三階になると、営業している店舗は殆ど見られない。実際、昼間でも開店休業状態で人けは無いに等しいのだと、牟田が説明をする。
やがて、フロアの入り組んだ一番奥のスペースに、一際大勢の警察官が集まっているのが見えた。刑事に混じって、制服の警察官や鑑識が、慌ただしく動き回っている。
床に目をやると、青いビニールシートが広げてあるのが見えた。中央が不自然に膨らんでおり、床には隠しきれない血だまりが黒々と染みを作っている。さすがの八代も、表情に苦々しさが浮かんだ。
「仏さんはこの下か」
「ええ……酷いもんですよ」
八代は手を合わせるとビニールシートを持ち上げ、中を覗いた。相当数の場数を踏んでいるという自負はあったが、それでも一瞬、思わず顔が歪んだ。牟田が傍で説明を始める。
「被害者は永野エリ、年齢は十五歳」
「ゴーストか」
「いえ……人間です。実家は豆腐屋です。家の経済的な都合で、学校にはあまり通っていなかったようですね。数日前、出前に出たところ帰らなくなり、両親から捜査願いが出されていました。彼女にも、彼女の親にも特に大きなトラブルは見当たりません」
「怨恨の線は薄い、か。……同じだな」
八代が呟くと、牟田も頷きを返してくる。
「……そうですね。被害者の年齢や殺され方や、発見現場が渋谷という地理条件である事からみても、二週間前に起こった殺人と、ほぼ同じパターンです」
「くそ……!」
現在進行形の連続殺害事件は、時間との勝負だ。いかに犯人を特定し、追い詰めるかに全てが掛かっている。だが、捜査状況は芳しくなかった。ゴーストを検挙できず、捜査範囲も限られるために、結果が思うように出せないのだ。
監獄都市で起こる事件はいつもそうだった。容疑者やその関係者にゴーストが含まれるため、警察は手出しができない。自ずと対応は後手になり、現場の士気も失われていく。
一体、いつまでこんなことを続けなくてはならないのか。間違っているとわかっているのに、何故誰も正そうとしないのか。どこにもぶつけようのない怒りが、ふつふつと沸き上がってくる。
すると、苛立つ八代の神経を更に逆撫でするような、間延びした声が聞こえてきた。
「主任! 八代主任~‼」
「何だぁ、七海! 情ねえ声出すんじゃねえ‼」
「はい、あのっ……すみません!」
バタバタと駆け寄ってきたのは、若い婦人警官だった。俗にいうユルフワ系のドジっ娘で、まるで警官には見えない。アイドルのような小動物系の容姿も相まって、余計にコスプレか何かのように見えてしまう。ただ、男性人気は高く、彼女に癒されると陰で噂する男性警官は多い。
確かに、女性としては十分、魅力的なのだろう。もし八代がもう少し若ければ――そして、彼女の上司でさえなかったなら、彼らと同様の感想を抱いたに違いない。
しかし現実には彼女は八代の部下で、そのあまりの鈍臭さに始終、苛々させられる毎日なのだった。
「どうしたんだ」
八代はいつものように苛立ちを込めて尋ねる。すると、七海はこちらを窺うようにおずおずと答えた。
「それがそのぉ……赤神くんが来てるんですけど……」
「何ィ⁉」
それは、今現在、八代の最も耳にしたくない名前の一つだった。牟田も渋面を作る。
「……上は早々にゴースト犯罪と判断したようですね。共同捜査、ということらしいです」
「まだ証拠が何一つ出てねえだろう!」
「しかし、容疑者はゴーストの可能性が高いのも事実ですよ。今回の二つの事件……三年前に起きた、あるゴーストによる大量虐殺事件とあまりにも酷似している。ゴースト犯罪の捜査は、あらゆる意味で我々にはリスクが高すぎます」
「そういう問題じゃねえ、馬鹿! こんな事をして……連中をつけ上がらせるだけだ‼」
八代は思わず声を荒げていた。牟田に怒鳴っても詮無い事と分かってはいても、声を張り上げずにはいられなかった。これではまるで、警視庁が《死刑執行人》の存在を公に認めているようなものではないか。
警察を恐れないゴーストたちも、《死刑執行人》の存在には恐怖しているという事は、警視庁でも周知の事実だ。上層部も最初はその事に強く反発していたようが、今やすっかり諦めてしまい、逆にその存在を当てにする有様だ。八代はそれをこの上もなく嘆かわしい事と頭を痛めていた。
「あのぅ……どうしますか、主任。帰ってもらいますか?」
叱られた子どものように首を竦める七海に、八代はちっと舌打ちをし、吐き捨てる。
「……連れて来い!」
どんなに納得がいかなくとも、上の決めたことには従わざるを得ない。八代は自分を落ち着かせるために、大きく深呼吸をする。
七海はすぐに、あたふたとその場を離れた。そして、再び八代の前に戻って来た時には、赤神流星を連れていた。赤神は若干のタレ目に、いかにもな作り笑いを浮かべている。八代は赤神のそのわざとらしい表情を見ていると、いつも無性にぶん殴ってやりたい衝動に駆られるのだった。
赤神は後ろに、軍服を身に纏ったやたらとガタイのいい外国人と、高校生くらいの見慣れぬ子どもを連れていた。こちらを待たせているというのに急いだ様子もなく、悠々とした足取りでやって来る。
「お、お待たせしましたぁ!」
大したこともしていない筈なのに、ぜえはあと息を弾ませる七海。次いで、赤神が口を開いた。
「どうも、八代さん。お久しぶりで………」
しかし八代は、つかつかと足早に赤神に歩み寄り、唐突にその胸ぐらを掴んだ。
「ご機嫌良さそうだなあ、赤神。……あァ?」
「八代さんこそ、いつもと変わらずですね」
「一体、何しに来やがった⁉」
「やだなあ、よくご存知でしょう?」
赤神はそう言うと、臆することなくにっこりと笑い返してきた。警察官時代はその甘いマスクで、随分周囲にモテていたらしい、という噂を思い出し、殴りたい衝動に殺意が混じる。八代は赤神の胸ぐらを掴む手に力を籠め、噛みつかんばかりに凄んだ。
「……調子に乗るなよ。貴様らは所詮、薄汚い犯罪者予備軍だ! 間違っても、そんなすました顔して正義を語れる様な立場じゃねえ……分かってるんだろうな⁉」
「ええ、勿論。よ~く理解していますよ」
「ちっ……ふざけやがって……」
毒づくと、赤神の後ろにいた男が口を開く。眼帯をした、でかい外国人だ。
「滑稽だな」
「……何ィ?」
「その薄汚い犯罪者予備軍の手を借りなければ、お前らはゴースト一人始末できない。……一体、何のための国家権力だ?」
「何だと⁉」
誰彼憚ることないド直球の嫌味に、八代は目を剝いた。牟田もさすがに聞き捨てならないと、男を睨みつけている。しかし、眼帯の男は意にも介さない様子だった。すました顔で、
「事実だろう」
と返してくる。
「奈落、やめろ!」
赤神が鋭く男を制したが、それすらも八代にとっては苦々しく思えて来るのだった。まさか、わざとやってんじゃないだろうな――赤神にそう罵りたくなるのを、堪えるので精いっぱいだ。
怒りのあまり、肩を上下させる八代は、ふと赤神の後ろにいる少年に気づいた。見たことのない顔だ。どこからどう見ても、何の変哲もない子どもにしか見えない。
眉を顰める八代に、少年はぺこりと会釈してきた。首だけをひょこりと動かす、礼儀作法の全くなっていない適当な会釈だ。こちらに対する敬意のかけらもない。睨まれたから、反射的に首を竦めました、というだけだ。八代は赤神に向かって思わず呻いた。
「……おい、何だこのガキは?」
「ウチの新しい戦力です」
「戦力⁉ まだ子供じゃねえか!」
「年齢よりは、実力重視なもので」
「……狂ってやがる!」
八代にしてみれば、高校生はまだ一人前とは言えない。体は大きいかもしれないが、精神的にはまだまだ子供の範疇だ。目の前の少年にしても、どう見たって頼りなく、善悪の判断がつくとは思えない。それどころか、自分の行動に対する責任さえ、持てるかどうか怪しいくらいだ。
そんな子どもに《死刑執行人》をさせるなど、言語道断もいいところだ。
すると、少年に厳しい眼差しを向ける八代の前に、赤神が強引に割り込んで来る。
「八代さんの気持ちは分かります」
「何の御託だ、ああ? オマエに何が分かるって言うんだ!」
「ただ……こちらとしては、もう少し冷静になってもらえると助かるのですが」
「……何が言いたい? 言いたいことがあるならはっきり言え!」
「俺たちは呼ばれてここに来たという事です。……どうか、ご理解ください」
そして再び、当てつけのような営業スマイル。八代は歯噛みした。何でこっちがゴネてるみたいになってんだ。そう怒鳴りつけてやりたかった。
しかし、赤神の言う事に一理あるのも確かだった。ゴーストが関連する捜査は、警察ではやりにくい。上の誰かが、東雲探偵事務所に事件を丸投げしたのは、間違いなかった。そうでなければ、事件現場にこんな連中が入り込めるはずがないのだ。
不意に何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。どいつもこいつも、何を考えているんだ。こんな事、やってられるか――全身全霊を込めてそう叫びたかった。
そうしなかったのは、偏に部下の存在があるからだ。現実がどれほど歪んでいようとも、上司の八代が彼らに無様な姿を見せるわけにはいかない。それは八代の信条にもとるからだ。
「……覚えておけよ、いつか必ずてめえらの悪を暴いてやる」
八代はそう言って赤神を突き飛ばす様に手を離すと、これでもかと睨みつけ、後ろの部下たちを振り返った。
「……おい、行くぞ」
「は、はい!」
これ以上、一秒でも《死刑執行人》たちと同じ空気を吸っていたくなかった。八代は牟田や七海たちを連れ、その場から足早に離れた。
牟田を振り返ると、まるで敗者のように俯いて唇を噛み締めている。八代にしても同じ心境だったが、牟田と違い、俯きはしなかった。
《死刑執行人》は危うい存在だ。一歩間違えれば猛毒になる。劇薬と同じだ。だからこそ、自分たちがしっかりしなくてはならない――そう、例え誰もその働きを認めなかったとしても。
八代は幾度となく固めてきた決意を、再び強固なものとしたのだった。




