第63話 細谷史文
「……危なかったな。大槻凱……まさか自爆に出るとは。その辺のふざけた凶悪犯ゴーストとは覚悟が違うということか」
そこへ犬型の《レギオン》が二体、走り寄ってくる。そして尾を振りながら、主である流星の足元にまとわりついた。流星は犬たちの頭を撫でながら犬たちを誉めてやる。
「よくやったな、お前たち。助かったぞ」
すると、二頭の犬は合体して一体のガスマスクをした人型へ戻った。そして更に、サラサラと霧化して消えていく。その場に残ったのは流星のみ。
(犬型の《レギオン》も使役するのにかなり慣れてきたな)
流星が《レギオン》を人型以外へと自由に変形させることができるようになったのは、長期離脱から復活したあとだった。もっと厳密に言うなら、長年、探し続けていた仇である月城響矢と再会してからだ。
あの時、流星の中で確かに何かが吹っ切れた。長いトンネルから抜け、迷いがなくなり、自分のやるべきこと、実現可能な目標がはっきりとしたのだ。
ようやく光が差したのだ、その目標を達成するためなら何だってする。たとえこの身を修羅にやつそうとも、宿願を果たしてみせる。
《レギオン》は流星の仲間を救う事ができなかったことに対する後悔と罪悪感から生まれた。《レギオン》は流星の仲間そのものだった。だからこそ、彼らの数は常に流星のかつての同僚と同じでなければならず、またそれ故に人の姿をしていなければならなかった。だが、今やその『執着』は確実に変化しつつある。
(俺はずっと、自分のアニムスは人の姿をした傀儡を操る能力だと思っていた。だがそれは、この能力のごく一端に過ぎないのかもしれない。《レギオン》はもっと成長する余地があるのかもな)
流星の広げた掌の上に再び黒い霧が浮かび上がる。《レギオン》の体を構成している霧状の黒い粒子だ。
流星はそれを掴み取るようにして、ぐっと拳を握り締めた。
霧はそのまま散り散りになり、砕けて消えた。
✜✜✜
細谷史文は瓦礫の間に身を潜め、目立たぬようにして移動していた。
赤神流星の《レギオン》からうまく逃れることができたらしく、今のところ追っ手の気配はない。だが、だからといって油断は禁物だ。東雲の《死刑執行人》は彼だけではない。
ただでさえ周囲は瓦礫だらけでごみごみとしており、見通しが悪いのだ。何者かがすぐそこに潜んでいたり、待ち構えていたりしてもおかしくはない。
足音を忍ばせ、中腰になり、《監獄都市》の北東部を目指す。墨田区や江東区、江戸川区まで逃げ延びることができたら、当分はそこで身を隠すことができるはずだ。
すると、ズン、という轟音がして地が揺れた。一瞬、地震かと思ったが、すぐにそうではないことを悟る。瓦礫の山の向こうで、黒い球体が膨張するのを目にしたからだ。
「……!! あれは、凱さんの《エクリプス》……!」
そう、あれは確かに大槻のアニムスだ。しかも相当、大きい。それほどの本気を出さねば勝てぬ相手と交戦しているという事だろう。
細谷が息を潜めてそれを見守っていると、やがて《エクリプス》は消失した。大槻が無事なのか、ここからでは確かめようがない。ただ、《死刑執行人》との戦闘に突入したのは間違いなさそうだった。
「凱さん、絶対に死んじゃ駄目よ……!」
呟くと、不意に背後から声がかけられる。
「あなたはずいぶんと仲間思いなのですね、細谷史文。けれど他人の身を案ずるより、あなた自身の心配をした方が良いのではないですか?」
細谷はぎょっとして周囲を見回した。
「誰!? どこから……!」
すると、斜め上空から無数の血の刃が勢いよく降り注いだ。細谷は反射的に身を捻る。おかげでその殆どは細谷の肩や腿、頬などを掠めるのみにとどまったが、そのうち一本は避けきれず細谷の左肩にドスッと突き刺さった。
「ぐっ!!」
痛みに耐えつつも、細谷は瓦礫の上を睨む。そこには金髪をした異国の僧侶が立っていた。
金糸のような長い金髪を風にたなびかせており、その姿はまるで天上から遣わされた聖なる使いのようだ。長身であることも手伝って、その姿は月明かりの下で恐ろしいほどよく映えた。
この世ならざる神々しい姿をしながら平気で手を血に染める。《監獄都市》でその名を知らぬ者はいない。東雲探偵事務所に所属している《死刑執行人》の一人、オリヴィエ=ノアだ。
いつも装着している白い手袋は既に脱ぎ捨てており、手の甲に刻まれた《スティグマ》が露わになっている。オリヴィエがその手を宙にかざすと、細谷に向けて放った血の刃は一斉に彼の元へと戻っていった。
ただ、細谷の左肩に刺さった刃だけはそのままだ。細谷は左肩を抑えつつ、オリヴィエに向かって皮肉げに笑う。
「ふん……あんたのこと、聞いたことあるわよ。東雲探偵事務所の《死刑執行人》の一人は異人の異教徒で、自らの血を操るアニムスを持つと」
「よく知っているのですね」
「はっ……白々しい、この街の人間なら誰もが知ることでしょう!」
細谷はオリヴィエに対してそう吐き捨てつつも、あることに気づいた。左肩に刺さった《スティグマ》の血の刃がどろりとした血液状態に戻りつつある。そのせいか、細谷の肩も傷口を押さえていた右手も、オリヴィエの血でべったりと濡れていた。
これは――これなら、まだ勝機はある。細谷は不敵な笑みを浮かべる。
「アタシがあんたのアニムスを一方的に知っているのは不公平でしょうから、特別にアタシの能力を教えてあげるわ。アタシのアニムスは《ルー・ガルー》。ヨーロッパの人には馴染み深い名前でしょう?」
「《ルー・ガルー》……人狼、ですか」
「その通り! つまりあたしのアニムスは敵の血を吸い、人狼へと獣化する能力なのよ!!」
細谷は顔に笑みを張り付けたまま、右手に付着したオリヴィエの血をべろりと舐める。
その瞬間、細谷の骨格が劇的な変化を始めた。ほっそりとした体躯は二倍ほどの大きさに膨れがあり、耳や頭部の形も急激に変わっていく。別人であるどころか、もはやヒトの姿形すら完全に逸脱している。
手足には凶悪な爪。口元には大きな牙。さらに蓮の花の刺青が刻まれた坊主頭のみならず、顔面から首、腕や足に至るまでびっしりと深い毛で覆われていく。その姿はまさに獣人だ。
ただ、完全な狼頭を持つ、いわゆる狼男の姿にはなっていない。ちょうどその途中の段階くらいで止まっている。狼の特徴もあるが、人間的な特徴も未だ多く残っており、狼になりきれていない。故にその姿は妙に生々しく、気味が悪かった。見る者によっては大きな不快感を覚えるだろう。
「……」
オリヴィエは臆することなく淡々と攻撃を仕掛ける。
まずは《スティグマ》を使って血の剣を何本も生み出した。オリヴィエが片手を上げと、それらの剣はずらりと宙に浮かぶ。刃に白々とした月光を反射させ、整然と並ぶその様は、目にするだけで肝が冷えるようだった。
次にオリヴィエは上げたその手を一気に振り下ろす。攻撃の合図を下す指揮官のように。幾多の剣もそれに合わせて細谷へその剣先を向け、一斉に襲い掛かる。
「ふん!」
細谷は鋭い爪の生えた毛深い手で襲い来る剣を次々と叩き折っていった。弾丸のように飛び回る血の剣を的確に、しかも一撃で粉砕していく。けれどそのうちの何本かは破壊しきれず、脇腹や腿に深々と突き刺さった。
「ガッ!」
細谷はがくりと膝をつく。オリヴィエは躊躇うことなくさらに攻撃を続ける。手の甲に刻まれた十字傷から滴り落ちる黒い血を鞭状にし、周囲の瓦礫ごと細谷を薙ぎ払った。
積み上がったコンクリートや鉄筋、木材がいとも簡単に真っ二つにされていく。オリヴィエはそれを何度も繰り返す。
ドオンという大きな轟音が幾度も響きわたり、その衝撃で瓦礫の山々が揺れ大量の粉塵が舞い上がった。しかし細谷は屈することなく粘り強い抵抗を見せた。あちこち負傷しながらも機敏に動き回り、空中に舞う瓦礫や粉塵を突破すると、オリヴィエの左手へとぐるりと回り込む。
オリヴィエの放つ《スティグマ》の鞭がさらに細谷を執拗に追尾した。しかし細谷はジグザグに走行し、巧みに鞭を避けていく。その動きは思った以上に速く、とても追いきれない。
彼の巨躯からは想像できないほど俊敏で無駄のない動きだった。まるで野生の動物並みだ。
その上、深刻な怪我を負っているはずなのに、彼の動きには全くダメージを受けた影響が見られない。ようやく鞭がその体を捕らえても、力まかせに引き千切ってしまう。
人並外れた腕力や脚力。それに耐久性や俊敏性、動体視力も尋常ではない。先ほどより全般的に身体能力が上昇している。
「……」
「ふふ……驚きました? 意外としぶといでしょう。けれど《ルー・ガルー》の能力は人狼化することだけじゃあありません。相手があなたのようなゴーストである場合、そのアニムスを用いた攻撃に対する耐性を得ることができるのです」
そして細谷は自らの腿に深々と突き刺さった《スティグマ》の剣を引き抜くと、鋭い牙でバリバリと噛み砕き、ごくりと呑み込んだ。すると《スティグマ》の攻撃によって脇腹や四肢につけられた傷が瞬く間に癒えていく。最初から怪我などしていなかったかのようにきれいに傷口が消失し、再び濃い毛が細谷の体表を覆う。
それに気づいたオリヴィエは眉根を寄せた。
「傷が……!?」
「あなたのアニムス、この細谷史文がいただいたわ」
細谷は、ニイ、と禍々しい笑みを浮かべる。そして地を蹴り、驚くほどの脚力で跳躍すると、瓦礫の山の頂にいるオリヴィエに向かって襲い掛かかってくる。
オリヴィエはすかさず《スティグマ》で半球体の盾を作り出し、身を守った。
「無駄よ、無駄無駄ァァッ!!」
細谷は叫ぶや否や大きく口を開くと、鋸の歯のような牙でバリバリと《スティグマ》の盾を喰らい始める。銃弾を跳ね返すほどの強度だが、細谷は構わず恐ろしい勢いで盾にかぶりつく。
――まさか。オリヴィエが眉をひそめた瞬間、とうとう盾に穴が空いた。鉄壁の防御が破られたのだ。
しかし、オリヴィエも無策ではない。それを受け、さらに盾から無数のニードルを発生させると、全弾を細谷に向かって容赦なく打ち込んだ。さすがの細谷もその勢いには耐えきれない。後方へ弧を描きつつニードルごと吹き飛ばされる。
しかし空中でくるりと体を一回転させると、十メートルほど離れた瓦礫の小山の頂上に四つ這いで着地した。その頃には、細谷がニードルから受けた傷はすっかり治癒し消えていた。
「だから言ったでしょう、あなたの攻撃はもはや無駄だと!!」
細谷は嬉々として叫ぶと、再びジグザグに跳躍しながら、オリヴィエに飛び掛かる。
盾は通用しない。むしろ細谷を利するだけだ。よってオリヴィエは攻撃手法を変更した。鞭で瓦礫を拾い、それを細谷に向かって次々と叩きつける。これなら、《スティグマ》を吸収されることはない。
ところが細谷は《ルー・ガルー》のアニムスによって身体能力を底上げしているため、瓦礫を投げつけられた端からそれらを粉砕、撃破していく。そして攻撃と攻撃の合間を縫って徐々にオリヴィエに迫る。
しかし細谷の周囲には既に罠が仕掛けられていた。あともう少しでオリヴィエの元に到達するというその時、蜘蛛の巣のように張り巡らされた《スティグマ》の血の糸が細谷を雁字搦めに縛り上げたのだ。
さらに血の糸は細谷の体毛の間に入り込み、容赦なく肉に食い込んでいく。骨もろとも切り刻もうとするかのように。
「ふん、こんなもの!」
《スティグマ》は確かに細谷の動きを封じる事には成功した。だが、糸による裂傷は細谷の底上げされた治癒力で悉く回復していく。
細谷は凄まじい腕力と鋭い爪で、体にまとわりついた《スティグマ》の蜘蛛の巣を破こうともがいた。そこへオリヴィエの更なる追撃が加えられる。《スティグマ》によって生み出された剣やニードル、鞭などが全て一体化し、巨大な血液の塊となってすっぽりと細谷の頭部を包んだのだ。そしてその血液――《スティグマ》は細谷を窒息死させるため、鼻や口から体内へと侵入を開始した。
成功すればさながら陸の上にいながら溺死するようなものだ。ほとんどの人間は目や耳、口を塞がれると抵抗する術が無い。そのため、《スティグマ》を使った溺死はオリヴィエの得意技の一つだった。
肺への酸素供給が絶たれ、細谷の意識はみるみる遠くなる。
――ちくしょう、ここまでか。
死を意識したからか、過去の記憶が走馬灯のように駆け巡った。そして不意に《アラハバキ》に入った時のこと、初めて逢坂に出会った時のことが鮮明に脳裏に蘇った。
細谷が下桜井組に入ったのは十八歳の時だった。もっとも、当初は自ら進んで組に入ったわけではない。そうしなければ生き延びられなかったため、やむを得ずの選択だった。
細谷は《壁》の外で普通の人間として生きていた時から、男らしくないという理由で差別されてきた。家族には病気かと心配され、学校では揶揄いやイジメの対象となった。「気持ち悪い」と言われたことも一度や二度ではない。男子はもちろん、女子からも。
だが今となっては、当時はまだ幾らかマシだったと言える。その頃はまだ、イジメ程度で済んだからだ。
《監獄都市》に収監されてから、差別はもっと酷くなった。誰もが、自分が生き抜くことで精一杯なこの街で、多様性などという概念は通じない。生命に関する基本的倫理感すら狂っているのに、人権などというものが尊重されるわけがない。
それどころか、この街では『弱み』を持つことは命取りになる。他者を蹴落としてのし上がることが当然の摂理となっているこの《監獄都市》では、少しでも隙を見せればすぐさま寝首を掻かれることになりかねないからだ。
特に攻撃の標的にされやすい個性、白い目で見られがちな個性は直接的な暴力に晒されやすく、生死に直結する。
中でも《アラハバキ》は最悪の組織だった。若者は搾取対象、外国人は平然と排除。女性に至っては同じ人間であると見做してすらいない。
それでも細谷が《アラハバキ》に入ったのは、そうしなければ他の闇組織か、もしくは《アラハバキ》そのものによって命を奪われていたからだ。
細谷に残されていた道は、《アラハバキ》に入って己に価値があることを自らの力で証明すること、そして他の者がそうしているように自らのし上がって他者を蹴落とすことだけだった。
幸い実力があったから死にはしなかったものの、それでも細谷は《アラハバキ》の中で孤立しがちだった。「男らしくない」、たったそれだけの理由で。
細谷に対し、同じ人間として接してくれたのは、ただひとり逢坂忍だけだった。細谷は逢坂に尋ねたことがある。
「逢坂さんは変わっているんですねえ。アタシみたいな、男か女かも分からないような人間の相手を好んでするなんて。一体どういうつもりなんです?」
すると逢坂はニッと笑って答えた。
「別にどうもこうもねえよ。俺ァ、ただ優秀な部下を必要としてるってだけだ」
「優秀な部下……?」
「ああ。男だとか女だとかどうでもいい。有能な奴、そして何より人として信用できる奴が必要なんだ」
「……」
細谷はすぐにその言葉を信じることができなかった。
《アラハバキ》は体面を重んじる組織だ。逢坂も何か不都合が発生すれば、すぐに細谷を見捨てるのではないか。もしくは、細谷に対して寛大に接することによって、自分は器の大きい人間だと陶酔したいだけなのでは。
これまでにも、何度も同じ目に遭ってきた。今さら同じ手に引っかかってたまるものか。
だがどれだけ素っ気ない返事をしても、逢坂は細谷への誘いをやめなかった。
「細谷、お前をこのまま組ん中で孤立させ埋もらせておくのはあまりにも勿体ねえ。だから俺んとこへ来い。このまま、男らしいという理由だけでデカい顔をしている奴らの影に隠れ続けるのも癪だろう? 思う存分働かせてやる。実力で序列を上げさえすれば、誰もお前のことを馬鹿にすることができなくなるぞ。……どうだ? そっちの方がこのまま燻っているより、よほど面白くねえか?」
その熱意に押され、細谷は逢坂の部下になる。
とはいえ、当初は期待半分、不安半分だった。というのも、自身に向けられた偏見が生半可なことでは解けないことを、身をもってよく知っていたからだ。
だが、逢坂が『男らしさ』を理由に部下の扱いに優劣をつけたことはなかった。奇しくも後に女性である椎奈青葉が逢坂の部下になったことで、逢坂の『男だとか女だとかどうでもいい』という言葉が真実であったことが証明された。
(逢坂さんに拾ってもらったこの命、無為に散らしたりなんかしてたまるもんですか!!)
どうせ死を義務付けられているのだとしても、最後まで誇り高くありたい。外見や男らしさといった表層的な要素に惑わされることなく細谷の人柄と実力を見抜き、高く評価してくれた逢坂を裏切ることだけはしたくない。
このまま無様を晒すような真似だけはしてたまるものか。
細谷は気力を振り絞り、失いかけていた意識を無理やり取り戻す。そして自らの頭部を覆った《スティグマ》を猛然と呑み込み始めた。
胃に大量の血が流し込まれる。それは瞬く間に消化吸収され、細谷へ更なる力をもたらす。
蒸気機関車に次々と石炭をくべるように。




