第56話 所長命令
いや、ひょっとしたら京極はわざとこのタイミングで仕掛けてきたのではないか。
深雪を絶望の淵に立たせ、失意の底に沈めるため、故意にあともう一歩というところで梯子を外したのだ。
たったそれだけのために《彼岸桜》の運命を狂わせ、そして《グラン・シャリオ》のメンバーの命を奪った。
だとしたら、到底許されない。こんなことが許されていいはずがない。
深雪は奥歯をこれでもかと噛みしめた。その弾みで口内を噛み千切ってしまい、血が滲んで鉄錆のような味が広がるが、それもお構いなしだ。
頭の芯がぐらぐらと沸騰する。目がチカチカし、両手のみならず全身が震え、我をも失いそうだった。
――やはり、京極はこの手で殺しておくべきだった。もっと早く、この手で決着をつけておくべきだった。
あいつは、あいつだけは何があっても生かしておいてはならなかったのだ。
しかし突如、鳴り響いた端末の着信音で、深雪はハッと我に返る。
着信があったのは自分の端末だった。その場に集った他の面々――シロや《彼岸桜》の五人も深雪へ視線を向けている。
すぐさま確認すると、発信元は東雲探偵事務所だった。事務所から直に電話をかけてくるのは所長の東雲六道ただ一人だけだ。深雪は慌てて通信に出る。
「はい、雨宮です」
六道はいつもの揺るぎのない声音で、単刀直入に言う。
「雨宮、すぐにシロを連れて事務所へ戻れ。この件はこれより、《リスト登録》案件へと移行する」
「え……《リスト登録》!?」
あまりの衝撃で、深雪は思わず口にしてしまった。それを聞いた大槻たちは、敏感に反応する。しまったと思ったが、もう遅い。六道は端末の向こうで厳然と告げる。
「ああ、そうだ。今から下桜井組構成員・大槻凱、細谷史文、高瀬照門、椎奈青葉、および杉原迅太、以上の五名を《警視庁指定ゴースト第一級特別指名手配書》――通称、《死刑執行対象者リスト》に登録申請する」
六道との通信が切れるや否や、杉原は口を開いた。
「え……? 《リスト登録》……!? 僕たちが? 何で……!!」
彼は混乱し、狼狽すらしていた。下桜井組構成員ですら恐怖を感じるほど、《リスト登録》はこの《監獄都市》において絶対的な効力を有しているのだ。
大槻は、そんなことはとても受け入れられないとばかりに深雪に詰め寄る。
「ちょっと待て、どういう事だ、雨宮!? 何で俺たちが《リスト登録》されなきゃなんねえんだ!?」
椎奈も真っ青になり、声を荒げる。
「そうだ! 我々が一体、何をしたというんだ!! 納得のいく説明をしろ!!」
大槻たちはみな混乱し、動揺して、あまりの理不尽さに目を赤く充血させる者さえいた。
本当に自分たちが何をしたか覚えていないのだろう。無理もない。彼らが京極の《ヴァニタス》に操られたなら、十分にあり得る事だ。
現に深雪も、《ウロボロス》が壊滅した瞬間のことは覚えていない。状況からそうだと推察できたというだけで、当時の記憶は全く残っていないのだ。
だがいくら心苦しくとも、事実を伝えなければ。深雪は唇を噛みしめ、押し殺すような声音で告げた。
「……あなた達なんです」
「何!?」
「ですから、この惨劇を起こしたのはあなた達なんです」
大槻たちは呆気に取られ黙り込むと、数回、瞬きまでした。深雪が何を言っているのか、さっぱり分からないという表情だ。けれど、ようやくその言葉の意味を呑み込むと、激しい憤りを浮かべ声を荒げた。
「てめえ、何を言ってやがる!? 俺たちがこいつらをこんな風に殺したってのか!?」
「あり得ない! アタシ達はうちの事務所で、逢坂さんと《グラン・シャリオ》の頭たちの面会が終わるのを待っていて……気づいたら何故かこんなところにいたけれど、それでもこんな一方的な殺しなどしていませんよ!!」
細谷も、自分や仲間の無実を強い口調で訴える。
「我ら下桜井組は《中立地帯》で恐れられる存在なれど、決して無益な殺生はせぬ! くだらぬ言いがかりをつけるつもりなら、ただではおかんぞ!!」
普段はそれほど感情を露わにしない高瀬だが、この時ばかりは黙ってはいられないと思ったのだろう。手にした大太刀の柄を握り締め、怒りを露わにして身を乗り出した。
するとシロが電光石火のような動きで《狗狼丸》を抜き放ち、その刀の切っ先を高瀬へと向ける。
「それ以上、ユキに近づくな!!」
シロは気迫を込め、高瀬へ警告した。そこに、いつもの無邪気なシロの姿はない。触れたその瞬間に皮膚が裂け、鮮血が溢れ出す。それほどまでに鋭利な殺気を放っている。
「し……シロたそ? は……はは、どうしちゃったの?」
杉原は慌ててシロと高瀬の間に割って入る。しかしシロは日本刀を構えたまま、それを下ろす気配はない。高瀬と真正面から睨み合う。
集会室は瞬く間に緊迫した空気に包まれた。大槻や細谷は自ら動き出すことはないが、さりとて高瀬を止めるつもりもないらしい。みな一言も発さず、固唾を呑んで成り行きを見守っている。
その静寂を打ち破ったのは、深雪の端末が発したピコンという電子音だ。
腕時計の時間を確認するように、端末を胸元へ持って行くと、そこに馴染みのあるウサギのマスコットキャラクターの姿をして浮かび上がる。そのウサギのマスコット――マリアは、《彼岸桜》の面々に対し大上段に構えて言った。
「残念だけど、深雪っちの言ったことは本当よ。信じられないってんなら、これから証拠を見せるわ」
「マリア!!」
深雪は慌ててマリアを呼び止めた。証拠とは、まさかあの《突撃☆ぺこチャンネル》が流した動画のことか。あれを大槻たちに直接、見せるというのか。すると、マリアはくるりと深雪の方を振り返り、突き放したような声音で告げる。
「仕方ないでしょ、事実は事実なんだから。事を起こした本人たちにしっかり現実を直視して、受け入れてもらわないと」
「それは……!」
「それじゃ、よーく見てよね!!」
《グラン・シャリオ》拠点の集会室には、壁に大型のテレビとサウンドバーが設置されていた。部屋に入ってちょうど右手に当たる壁だ。その巨大テレビの前にはソファやテーブルも設置してある。暇な時は映画鑑賞するなどして、みなここで寛いでいたのだろう。
もっとも、今はそのソファやテーブルには数々の亡骸が積み重なり、ディスプレイも一部は血に濡れ、ひびが入ってしまっている。
だが、機能はまだ辛うじて生きているらしい。マリアはその巨大ディスプレイを遠隔操作し、ぺこたんが生配信していた動画を再生した。
さすがにぺこたんのふざけた音声は含まれていない。だが、無音映像でも凄まじい衝撃だった。百インチ以上ある巨大画面であるため、余計に迫力がある。
また、高画質であるため細かい部分も実に鮮明で、手に取るようによく分かる。それを目にした《彼岸桜》面々は驚愕に目を見開いた。
「こ……これは僕?」
杉原は呆然とし、ただただ立ち尽くしている。
「こっちは私だ! 《グラン・シャリオ》のメンバーを片端から射抜いている……!!」
椎奈も自分の目にしている映像が信じられないという様子だ。
「お、俺の姿もあるぞ!」
「うそ……それじゃ、本当にこの子たちをアタシたち五人が殺したっていうの!? ここにいる数百人を全部……!?」
自らの無実を信じて疑わなかった高瀬と細谷も、これだけの映像を見せられたら、さすがに強気ではいられない。顔から血の気を失い、動揺を露わにする。
「そんな馬鹿な……どういう事なんだ!? 俺たちは何もやってないし、誰も殺していない! 少なくとも俺自身にはそんな記憶はこれっぽっちもない!! ……お前たちはどうだ!?」
大槻に問われ、他の《彼岸桜》のメンバーは口々に答える。
「私も同じです!」
「俺もだ。何故ここにいるのか、どうやって来たかも覚えていない……!!」
「あ、あの……この動画、フェイクじゃないですか? そ……そうだ! 誰かが僕たちを陥れるために仕込んだんだ!!」
杉原は金切り声で叫んだ。まるで一縷の望みに縋りつくかのように。だが、マリアは半眼でそれを一蹴する。
「はあ!? あんた達、全身血まみれの姿をしてよくもそんな事が言えたわね!?」
そう指摘されて、初めて大槻たちは自らの格好に気づいた。
頭の天辺から足の爪先まで、全身が血まみれの油まみれ。おまけにそこかしこに骨片や臓物の欠片がこびりついている。
ただこの場に居合わせただけというなら、そんな状態にはなる筈もない。自ら《グラン・シャリオ》のメンバーを斬り刻み、その返り血を浴びたのでなければ。
「ひっ……!!」
「うっ……うわ、何だこれ!?」
椎奈と杉原は悲鳴を上げる。自らの惨憺たる有り様に耐えきれないのか、吐き気を堪え口元を覆う。
「本当……なのか……? 本当に俺たちがこれをやったってのか!?」
一方、大槻も半信半疑ながらに呟いた。彼は頑なに自らが犯した虐殺を認めなかったが、徐々に事態を呑み込みつつあるらしい。何しろ、状況証拠の全てが突きつけているのだ。《グラン・シャリオ》を壊滅させたのは《彼岸桜》以外にあり得ないと。
「じ……冗談じゃありませんよ! アタシはもちろん、凱さんも照ちゃんも、青葉も迅太も! 誰も《グラン・シャリオ》を殺していない!! そんなことをしたって逢坂さんに迷惑がかかるだけ……そんな状況になるくらいなら、あたし達はみんな死を選ぶわ!! それなのに……自分がやったことの責を問われるならともかく、何故やっても無いことで《リスト執行》されなきゃならないのよ!?」
細谷は全身で抗うようにして叫んだ。皆がみな、この事実を受け入れられるわけではない。何しろ、彼らには記憶が無いのだ。理性ではそれが現実だと分かっていても、感情が受容を拒絶する。
深雪も同じだった。記憶の曖昧さゆえに、過去を受け入れるのに多くの時間がかかった。
それを考えると、京極の残忍さに、はらわたが煮えくり返る。彼の《ヴァニタス》は記憶のみならず、罪を犯した自覚さえ奪ってしまうのだ。
その時、さらに入口から別の者の声が聞こえてきた。
「《リスト執行》……だと!?」
深雪は弾かれたように振り返った。そこには逢坂忍と須賀黒鉄、二人の姿があった。
両者とも二代目桜龍会の事務所で別れた時と全く同じ格好をしている。事務所で待機するよう頼んでいたが、居ても立ってもいられず駆け付けたのだろう。
――どうして、ここに逢坂が。深雪は絶句する。《彼岸桜》の説得さえうまくいっていないのに、ここで逢坂が加わったら余計に話がこじれてしまう。
だが、そんな深雪の懸念など露知らず、二人は血の海と化した集会室へ足を踏み入れた。須賀は眉を潜め、周囲を見渡す。
「これは……!」
さすがの下桜井組構成員も、これほどの惨状はそうそう目にするものではないらしい。いつもは冷静沈着な須賀が額に冷や汗を垂らし、苦悶の表情まで浮かべている。
けれどその一方で、逢坂は顔色一つ変えなかった。こういった現場には慣れきっているのか、他の死体には見向きもしない。そしてまっすぐに深雪の元へ走り寄って来ると、がしっと肩を掴む。
「おい、これはどういう事なんだ! うちの大槻が……細谷、高瀬、椎奈、杉原が!! 《リスト執行》されるというのは本当なのか!!」
「逢坂さん……」
「そんなことには絶対させやしねえぞ!! こいつらはな、命と体を張って俺を支えて来てくれた可愛い弟分なんだ!! 俺の最も大事な宝、全財産だと言ってもいい!! てめえら《死刑執行人》がそれを奪うってんなら、こっちも黙っちゃいねえ!! 全身全霊をかけて必ずぶっ潰す!!」
吹き飛ばされそうなほどの、凄まじい剣幕だった。逢坂は本気なのだ。本気で部下を守るつもりでいる。深雪に危害を加えることで、東雲探偵事務所を敵に回すことになっても。
ここで迂闊な返答をすれば、彼は躊躇なく深雪をこの場で縊り殺すだろう。そのあまりの苛烈さに、深雪はごくりと唾を呑む。
「逢坂さん……!」
「我らのためにそこまで……!!」
怒り狂う逢坂の姿を目にした《彼岸桜》は、みな目を潤ませる。自分たちを切り捨てず守ろうとしてくれる兄分の姿に、胸を打たれたのだ。
気持ちは分かるが、深雪としては落ち着いてもらわねば困る。このままではおちおち話もできない。深雪は必死で逢坂を説得した。
「落ち着いてください、逢坂さん! 俺にも何が何だかわけが分からないんです! ともかく一度、東雲探偵事務所に戻って詳細を確認しないと……!!」
須賀も深雪の意見に同意する。
「その《死刑執行人》の言う通りです。逢坂さん、こういう時こそ冷静にならなければ……!」
「くっ……!!」
「お願いです、逢坂さん。少しでいい、時間をください! 何とかして大槻さんたちを守ることができないか、その方法を俺たちで探しますから……!!」
深雪はそう説得を重ねた。逢坂は顔を歪めると、深雪に詰め寄る。
「……。その言葉、本当だな? 本当にお前を信じていいんだな!?」
「はい、全力を尽くすとお約束します!」
逢坂は悔しげに全身を震わせていたが、やがて渋々、深雪の肩から腕を離した。深雪はようやく人心地がつく。とはいえ、このままのんびりとしてはいられない。まずは東雲探偵事務所に戻って詳細を確認しなければ、これからの対応策を話し合うことすらできない。
深雪は六道に命じられた通り、シロと共に東雲探偵事務所に戻ることにした。
一刻も早く事務所に戻って、上司である六道に、本当に《彼岸桜》五人を《リスト登録》するのかその真意を確かめなければ。
《彼岸桜》の面々は逢坂がその身柄を引き取った。何が何でもみなを連れ、自身の二代目桜龍会事務所へ戻ると逢坂が主張したからだ。
深雪はそれを黙認するしかなかった。《死刑執行人》としては、適切な対応でなかったかもしれない。だがいずれにせよ、異を挟むことはできなかった。それほど逢坂の意思は強かったのだ。
何が起こっているのか分からない。だが、確実に何かが始まってしまったのだけは間違いなかった。しかも堰を切ったように、怒涛の勢いで。
深雪はシロと共に東雲探偵事務所へ急いだ。
戻ってすぐに血みどろになったスーツの上着を脱ぎ棄てると、所長の六道が待つ所長室へ直行する。そして扉をノックすると、六道の返事を待つのもそこそこに部屋へ飛び込んだ。
所長室では六道が深雪を待ち受けていた。いつものように、重厚な造りの執務机に座っている。深雪は勢い任せに六道へと詰め寄った。
「所長! 大槻さんたちを《リスト登録》するというのは本当ですか!?」
しかし六道はびくともせず、冷徹な声でそれに答える。
「無論だ。彼らはアニムスを使い、たった五人で《グラン・シャリオ》のメンバー538人を皆殺しにした。この街の情勢が不安定になっている今、秩序維持の観点からも《リスト登録》をしないわけにはいかない」
「待って下さい、確かに彼らは《グラン・シャリオ》のメンバーを手にかけました。現場を見てきましたが、本当に酷い有り様で、この世の地獄みたいで……悲惨きわまりなかった。あんな残虐な事件を起こした五人を放置しておけないというのは分かります。しかし彼らの様子は明らかにおかしかった!
表情を微塵も変えることなく、ただひたすら淡々と殺戮を重ねるその姿はまるで機械みたいで……何者かに操られているかのようでした。俺は……あの動画を見て《ウロボロス》のことを思い出しました。何かに憑りつかれたかのように互いを傷つけあい、殺し合ったかつての俺たちと大槻さんたち五人の姿が重なったんです。所長も……所長もそうなんじゃないですか!?」
「……」
「現に事件現場には《ウロボロス》のチームエンブレムが残されていました。あの紋章の意味を知るのは、かつて《ウロボロス》のメンバーだった人間だけです!」
深雪はそう言うと、《グラン・シャリオ》の拠点にある集会室で撮影してきた画像を六道に見せる。死者の血を使い、これ見よがしに描かれた《ウロボロス》のエンブレム。それを目にした瞬間、六道の眼光が鋭くなる。
「……!!」
「これを残したのは京極だとしか思えない! そもそも俺たちの他にこのマークを残せるのは京極しかしないんですから!! あいつは自ら『この事件の黒幕は自分だ』と俺たちにアピールしているんです!!」
思えば嫌な予感はいくつもあった。《グラン・シャリオ》のチーム名が北斗七星に由来していることや、《中立地帯》のゴーストの間で急速に京極の名が広まったこと。そして、上松組とストリートのチームを巡る環境が、かつての《ウロボロス》が陥った状況に酷似していること。
この街の至る所で、執拗に京極の影がちらついていた。
深雪も決してその兆候を軽視したわけではない。だが、まさかこれほどまでに悪辣だとは思わなかった。
また、《彼岸桜》がみな、口を揃えて京極とは接触していないと証言したこともあり、彼らに限っては大丈夫だろうとすっかり油断していたのだ。
(どうして大槻さんたちは京極と会っていないなんて言ったのか。俺に嘘をついていたのか、それとも本当に記憶にないのか、それは分からない。でもとにかく、京極は大槻さんたちに接触し《ヴァニタス》をかけていたんだ! 神狼が《エスペランサ》で五人を見たという目撃情報は正しかったんだ……!!)




