第6話 エニグマ②
警戒心が一気に膨れ上がり、脳内で派手なアラーム音を鳴らす。深雪は慌てて男から身を引き離した。
「何で、それを知って………!」
「これくらいは朝飯前ですよ……と言いたいところですが。あの時代の情報は手に入りにくくてね。かなり手こずらされましたよ。ああ、安心してください。守秘義務は必ず守ります。……誰にも喋ったり、し・ま・せ・ん・よ」
「…………‼」
深雪は壁際ぎりぎりまで身を引き、エニグマと名乗った男を睨む。しかしエニグマは、深雪の視線など痛くも痒くもないといった様子で悠々と手を広げ、上機嫌で話し続ける。
「ふふ……随分気にしていらっしゃるのですねえ。まあ、敢えて言わせて頂くなら、無意味なこだわりだと思いますがね。何せお宅の事務所の人間は、みな似たり寄ったりの経歴の持ち主ばかりですから。いや……それ以上、かな」
「どう……いう……事だよ………?」
話に乗っかるのは相手の思うつぼだと分かってはいたが、尋ね返さずにはいられなかった。何せ、深雪は事務所の他のメンバーのことについては、何も知らないに等しいのだ。それが深雪以上の経歴とは、一体どういうことなのか。
エニグマは竿に引っかかった魚を吊り上げるがごとくニヤリと笑った。そして右手の人差し指を立てると、それを優雅に空中で躍らせ始めた。
「……知りたいですか? それでは初回サービスという事で、特別に無料でお教えしましょう。まずは赤神流星……彼が警察官だったという事はご存知ですよね? 彼が何故、警官を辞める事になったのか、ご存知ですか?」
「ゴーストに、なったからだって………」
たどたどしく答えると、エニグマは役者のようにくるりと身を翻した。
「勿論、そうです! ……でもそれだけではないのですよ。彼はね、警視庁所属対ゴースト殲滅部隊の第七部隊に所属する機動装甲兵だったのですよ。しかしある日、第七部隊は壊滅状態に追いやられます」
(警視庁所属対ゴースト殲滅部隊って……確か、東京港で見た黒い部隊だよな?)
深雪は、SF映画の世界から飛び出してきたような、大型のロボットスーツを身にまとった警察部隊を目にしたことを思い出す。
僅かの間、目にしただけだが、この時代においても、かなり高度なテクノロジーだという事は分かった。さぞや予算や技術がつぎ込まれていることだろう。警察のことはよく分からないが、そんな花形部隊に属していたということは、結構すごいことなのではないのだろうか。
深雪がそんなことを考えていると、エニグマは、ちっちっと、人差し指を左右に振る。
「――問題は、彼らが任務中では無かったという事です。そう……事件は警視庁内で起こったのですよ。相当激しい戦闘が繰り広げられたのでしょう。ゴースト殲滅部隊の身に纏うアーマー装甲は、対ゴースト戦を想定して設計されたものなのですがねえ。玩具の様に、見るも無残に破壊された様です。建物も同様だ。それはそれは酷い惨状だったようですよ」
そしてエニグマは深雪へと向き直ると、密やかな声で囁く。
「生き残ったのは、そう……ゴーストであった赤神流星だけです」
「え………」
深雪は思わず絶句した。
それは、深雪が《ウロボロス》で経験した状況と酷似していた。あの時、深雪は他チームとの全面抗争に突入しようとしていた《ウロボロス》を止めようとした。しかし説得は失敗に終わり、気づけばチームは壊滅していた。生き残ったのは深雪だけだ。
深雪は己のアニムス――《ランドマイン》を暴発させ、仲間だった《ウロボロス》を手にかけてしまった。
流星もまた、同様だったのだろうか。あの飄々とした、人懐こそうな青年が。
するとエニグマは深雪の心中を呼んだかの如く、肩を竦めて見せた。
「まあ、本人は自らの犯行を否定しているようですがね。これだけの状況証拠だ。言い逃れは出来なかったんでしょう」
「し……信じ、られない………」
「人は見かけによらないと言う、いい例ですねえ。……まあ、それを言うなら、最も当てはまる
のはオリヴィエ=ノアでしょうか」
深雪は、息を詰めてエニグマの顔を見つめる。あのオリヴィエにも、何か事情があるのだろうか。深雪の衝撃を知ってか知らずか、エニグマは憎たらしいほど喜々として喋り続ける。
「十年前、欧州で史上最大・最悪のゴーストによる大量虐殺が起きました。彼はその当事者です。ああ、もちろん、殺す側の……という意味ですが」
「う、嘘だ!」
「嘘ではありませんよ。実際、警視庁も、彼の事は常にマークしている。ああ、何て恐ろしい事でしょう
か! 普段は慈悲深い神父である彼が、実は大量虐殺者だったなんて! 天使の皮を被った悪魔、とはまさに彼の為にある言葉ですねえ‼」
「………!」
深雪の頬を冷たい汗が伝っていく。自ずと、昼間に訪れた孤児院の事を思い出していた。オリヴィエは孤児たちにも慕われ、他の神父やシスターの信頼も得ているように見えた。
あの優しそうなオリヴィエが――俄かには信じられない。目の前の情報屋が嘘をついているのではないかとすら思うが、上から下まで真っ黒の男はニヤニヤ笑うばかりで、なかなかその真意を掴めない。
戸惑う深雪の都合など一切お構いなしに、エニグマはパンと両手を打った。
「次に紅神狼ですが……」
「こ、殺し屋だったって……」
「ええ、よくご存じで」
そして、喉の奥で嬉しそうにクツクツと愉悦の笑いを漏らす。
「殺し屋というのは、金次第でどんな汚い仕事でもやってのける恐ろしい連中です。まあ、それだけならまだいいのですがね。彼の場合は更に特別なのですよ。紅神狼は《レッド・ドラゴン》という組織に育てられた殺し屋でね。……ああそうそう、《レッド・ドラゴン》というのはご存知ですか?」
「……」
深雪は首を振る。聞いたこのない組織だ。ゴーストギャングの一つだろうか。ところが、エニグマの答えは深雪の想像を遥かに超えていた。
「連中は日本で最も力を持つ華僑系ゴーストの一派です。恐ろしい奴らですよ。彼らは特に日本人のゴーストを敵視していましてね。そうと見るや、喜々として文字通り斬り刻む――そんな凶暴な連中なのです。紅神狼は、そんな勢力に育てられた殺戮人形……というわけですよ。彼の心は金でさえ買えない。一族に絶対的な忠誠を抱くよう、洗脳にも似た教育を施されているのです。彼はいつかあなた達を裏切りますよ。あなた達、日本人を……ね」
深雪の額に大粒の汗が浮かぶ。そして一言も発することが出来ずに、ただ呆気に取られていた。
ところがエニグマの素振は、まるでそんな深雪の反応を楽しんでいるかのようだった。相手に情報を与え、恐怖に打ち震えるのを目にするのが心地良くて仕方ない――そんな嗜虐性さえ伺える。
「最後は、そうですね……不動王奈落の経歴を少々お教えしましょう。彼が昔、何をやっていたかご存知ですか?」
深雪はいっその事、耳を塞いでしまいたかった。これ以上、この男から何も聞きたくない。しかしそんな深雪の意思に反し、体は少しも動かない。聞きたくないのに――頭ではそれを拒否している筈なのに、それでも聞かずにはいられなかった。
まるで、見えない誘惑の糸に、雁字搦めに絡み取られたかのようだ。
「………。傭兵だって聞いたけど」
深雪は渋々、そう答えた。エニグマはそれに満足したように頷く。
「そう、彼はある集団に属していたのですよ。《ヘルハウンド》――最重要指定級のゴースト犯罪者を世界中で狩っていた、無国籍の傭兵集団です。特筆すべきは、《ヘルハウンド》のメンバー自体もその多くがゴーストだったという事です」
「ゴーストの、傭兵……?」
「ええ、そうです。何て残酷だ……そう言いたそうですねえ、雨宮さん。でもね、これくらいのキナ臭い事は、どんな地域でもやってますよ。
どの社会もゴーストを持て余し、どうやって共存するか頭を抱えていますからねえ。いっその事、消えてくれたら一番助かるっていうのが本音、といったところでしょうか。
南北アメリカにロシア、アジア、中東、欧州、アフリカ、オーストラリア……。あらゆる国と地域が彼らを雇い、同時にその存在を恐れました。彼らの戦闘能力で国が一つ滅ぶと言われたほどですよ」
つまり、世界規模の《死刑執行人》という事か。深雪は激しい戦慄を覚える。あり得ない事ではない。ゴーストが出現したせいで、《東京》でさえこれだけ混乱しているのだ。完全に制御不能に陥っている地域もあるだろう。そのような場所では、例え危険だと分かってはいても、《死刑執行人》のような存在を必要としてしまうのだろう。
エニグマの講釈は続く。
「――だが《ヘルハウンド》はある時を境にぱったりと姿を消すのです。やはり、そう――不動王奈落……彼、ただ一人を除いて、ね」
「………!」
「彼らはどこへ行ったのでしょう? ゴーストに殺されたのか? それともその存在に危機感を抱いたどこかの国の諜報機関に暗殺されてしまったか。……ところがそのどちらも考えにくい。戦う事に懸けてはスペシャリストだった連中です。そんなに簡単に死ぬような連中じゃない。では、彼らに何が起こったか。何故不動王奈落だけが生き残ったのか」
そして、黒づくめの情報屋は、殊更に声を潜めた。
「興味深い噂があるのですよ。……《ヘルハウンド》は身の内に飼う闇によって喰われたのだ、とね」
「闇に……喰われた……?」
「ええ、そうですそうです。で・す・か・ら、あなたも気をつけた方がいいですよ? 赤ずきんちゃんよろしく、背後からガブリ……とやられない様に、ね」
エニグマは深雪に近づけていた顔を離し、おどけて肩を竦める。
その様子は先ほどまでとは違い、まるで他人のゴシップに興じる学生や主婦のような軽薄さがあった。一体、何が本当なのか。どこからどこまでが本気なのか。深雪は混乱するばかりだった。何だか男にくるくると踊らされているような心境に陥る。
一方のエニグマは、相変わらずの上機嫌で両手を広げて言った。
「……どうでしょう。知りたいことがあれば何でもお教えしますよ。ただ、ここから先は有料、という事になりますが――」
その時、急にエニグマはぷつりと言葉を打ち切った。そして広げていた両手を真上にあげ、お手上げのポーズをとる。
同時に男の肩で寛いでいた黒猫が、シャーッと毛を逆立て、男の背後を睨んだ。
一体、何が起こったのか。深雪が驚いていると、エニグマの背後に人影が見えた。
右目に眼帯を嵌めた、銀色の頭髪。不動王奈落が情報屋の後頭部に銃を突きつけていたのだ。
エニグマはも流石にそれまでの飄々とした態度を潜め、低い声で囁く。
「……旦那、困りますよ。こいつは営業妨害だ」
奈落は煙草を咥え、軽く鼻を鳴らした。
「営業? 小便臭いただのガキを、誘い出してからかうのが、か。随分と落ちぶれたものだな」
「心外ですね。私はただ、依頼主の意向に従って動いているだけです。彼の持っている情報を必要としている人間は大勢いるんですよ。例えあなたには価値が無くても、ね」
「そうか。だったらお前の大事な客にこう伝えろ。――新しいネズミは、もう少し美味そうなのを寄越せ、とな。古いネズミは骨と皮ばかりで、良く回る舌以外、喰っても愉しめそうなところがない」
奈落は目を細め、エニグマの耳元でそう囁いた。
エニグマの喉がごくりと音をたてる。顔が引き攣り、頬に、冷や汗が伝う。奈落の殺気を全身に浴びては、さすがのエニグマも先ほどの道化師のような振る舞いをする余はないようだ。やがて観念したように項垂れると、元の飄々とした口調に戻って言った。
「いやだなあ、冗談ですよ、ジョーダン! ……今回はこの辺にしておきますよ」
奈落はフン、と鼻を鳴らすと、銃口を下げる。エニグマはそれを確認し、軽やかに身を翻すと、深雪に向かい芝居がかった仕草でお辞儀をした。
「雨宮さん、いずれまたお会いしましょう」
エニグマはそのまま体を引くと、颯爽とした動きでビルとビルの間の闇へと姿を消す。最後に黒猫の、なーご、という不機嫌そうな鳴き声が響いた。
辺りは、ぱったりと静かになった。残ったのは深雪と奈落の二人だけだ。
「い、今のは……?」
思わず呟くと、奈落はこちらを見ずに、銃をホルスターに収めながら答えた。
「連中はハイエナ同然だ。守秘義務など存在しない。情報を買えば買った分だけ、同時に自分の情報も何者かに売られていると思え」
それだけ言い残すと、奈落もまた身を翻す。その背中に、深雪は思わず声を掛けていた。
「あ、あの……!」
「何だ」
振り返った奈落と目が合う。相変わらず感情の揺らぎを感じさせない、冷徹な目だ。聞きたいことは山ほどあった。エニグマの言っていたことは本当なのか。何故、何のために《東京》に来たのか。しかし深雪はそれらを全て呑み込み、そのまま首を横に振る。
「な……何でもない」
奈落は無言で踵を返し、エニグマと同じく闇の中へと、音も無く消えていく。
深雪はただそれを、じっと見つめていた。
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男は闇の中で蹲っていた。
頭は禿頭で、側頭部に溶けかかった髑髏の入れ墨が入れてある。鍛えられた筋肉はしかし、今は汗でじっとりと濡れていた。
十畳ほどの部屋は真っ暗で、男の他に人けは無い。
部屋の中は、監獄都市の中とは思えないほど、高い調度品で溢れていた。革張りのソファーに、テーブルのセットは、どちらも高級イタリア製だ。塵一つない絨毯に、ピカピカに磨かれたシャンデリア。部屋の隅にはアールヌーヴォーの花瓶や、大理石でできた獅子の置物まである。
どう考えても、ストリート・ダストの住居にしては、豪華すぎるほどの部屋だ。そしてそれが、男――坂本一空が《ディアブロ》の頂点に上り詰めた証でもあった。
だがそれらも、今の坂本には最早、何の価値もないがらくたも同然だ。
「う……ぐう……ちくしょう……‼」
坂本は革のソファに座り込み、右腕を掻き抱いて呻いていた。失った右腕が痛むのだ。傷が塞がって随分と経つのだが、脳が斬られた瞬間を覚えている。いわゆる、幻肢痛だ。脳が起こす錯覚の一種なので、薬が効かない。ただ、ひたすら痛みに耐え抜くしかない。
坂本は、一人の少年の顔を思い出し、怒りで表情を歪めた。爆発系のアニムスを操る、雨宮深雪とか言う少年だ。
「あの野郎……覚えてやがれ、絶対に復讐してやる……思い知らせてやる‼」
厳密には、坂本の腕を切り落としたのは深雪ではなかったが、坂本の怒りは深雪に一身に注がれていた。何故なら、坂本に恥をかかせたのは深雪だったからだ。
ここ《監獄都市》では、ゴーストギャングの頭を務める以上、腕の一本や二本、失う事は珍しくない。だが、それと面子は全くの別だ。あの時、雨宮深雪は新参者で、ずぶの素人だった。坂本はそれに負けたのだ。
これが恥辱ではなくて何だというのか。
おまけに雨宮深雪は《死刑執行人》になってしまった。しかも、よりにもよって東雲探偵事務所に雇われるという形で、だ。その為、いよいよ手が出し難くなってしまった。
それが余計に坂本を刺激した。何だか勝ち逃げをされたような気分になったのだ。
「くっ……ふふ……! 雨宮深雪、か。逃げられると思うなよ……! 俺はお前を知っている……知っているぞ……‼」
決着は、必ずつける。思い知らせてやる。
坂本の胸の内に、暗い決意が固まっていく。
雨宮深雪に手を出せば、東雲探偵事務所全体を敵に回す可能性がある。だが、それも怖くはなかった。恥辱を受けたままそれに耐えて生き永らえるよりは、ずっといい。
坂本は額に脂汗を浮かべながら、暗闇の中で気味の悪い笑いを発し続けた。




