第40話 忍び寄る危機
やがて上松組の男たちも諦めたらしく、ようやく立ち去って行った。足音が十分に遠ざかってから、深雪は大きく息を吐き出す。
「……いなくなったようだな」
「そのようですね」
「危なかったな……助かったよ、エニグマ。でも、あいつら何で銃なんて持ってたんだろう? ゴーストならアニムスがあるのに。あくまで脅しが目的だったから……かな?」
「逆ですよ」
「……どういうことだ?」
「アニムスで殺せば、死体に痕跡が残ってしまう。《死刑執行人》の調査の手も及びやすくなります。しかし銃殺であればその危険性が著しく下がるのですよ。何せ『容疑者』の範囲がゴーストから一般の人間にまで一気に広がるのですから」
やけに生々しい説明に、深雪はぎくりとした。
「で、でも、防犯カメラだってあるし、目撃者もいる。そう思い通りにはいかないだろ!」
「……であれば良いのですがね。《アラハバキ》の強みは何と言っても、豊富な資金力と高度に統率されている組織力です。ストリートのゴーストが起こす凶悪事件と違って手口は地味だが、表に出にくいという特徴がある。組織ぐるみで死体や痕跡を丸ごと消してしまうことも多々あるのでね。隠蔽、偽装、証拠隠滅、口封じ。彼らの組織力にかかれば何でもござれですよ。実際、《アラハバキ》は年間、夥しい数の殺人事件を起こしており、その中で《死刑執行人》や《収管庁》の把握していないものはかなりの件数に上ると推測されています」
「……!!」
「ですから、《アラハバキ》構成員でも銃を携帯している者は意外と多くいますよ。所有するアニムスの種類にかかわらず、ね。特にこの街では銃器は手に入れるのが簡単ですから」
つまり、先ほどの上松組構成員は本気だったのだ。脅しでもなければ嫌がらせでもなく、彼らは本気で深雪を殺すつもりでいた。
エニグマがたまたま同行してくれていなければ、深雪は今ごろ銃弾によって蜂の巣にされていたかもしれない。
そのさまを想像すると、知らず知らずのうちに膝が小刻みに震え出すのだった。
「……これからは一人で軽率に動き回らないようにしないとな」
平静を装ったものの、深雪の声には抑えようとも抑えきれない動揺が滲んでいた。その心中を察したのだろう、エニグマが提案してくれる。
「今は警戒するに越したことはありません。念のために、このまま東雲探偵事務所の近くまで移動しましょう」
「あ……ああ。そうだな。頼むよ」
エニグマは深雪を呑み込んだ状態のまま、するすると移動を始めた。
相変わらず外の様子は分からないが、人の足音や喋り声が頭上を流れていくので、その音によって移動していることが伝わってくる。
最初は暗闇で何も見えないので心許なくて仕方が無かったが、慣れてくるとそれなりに快適な空間だった。
――それにしても、と深雪は思う。
エニグマのアニムス・《ベゼッセンハイト》は、知れば知るほど陸軍特殊武装戦術群のゴースト兵・月城音弥の《ドゥンケルハイト》に酷似している。
自分に関する事柄こそ覚えてはいないようだが、陸軍特殊武装戦術群の面々しか知り得ないような情報も当然のように知っているし、本当にエニグマは何者なのだろう。
深雪はどうしても気になり、エニグマに尋ねた。
「……なあ、エニグマ」
「何でしょう?」
「その……エニグマは何者なんだ? 本当に自分のことは何一つ覚えていないのか?」
「そうですねえ。西京新都にいたことはおぼろげながらに覚えているのですが、そこで何をしていたのか、何のために西京新都にいたのか、具体的な記憶は一切残っていませんね。何しろ、自分がいつどこで生まれたのか、名前や年齢、出身地すら覚えていないので詮方ないことではありますが」
「そうか……エニグマは自分のことが知りたいとは思わないのか?」
「興味が無いと言えば嘘になりますが……あまりその事に時間を割きたいとは思いませんね。いちど失われたものは二度と元には戻りません。もし過去の私の素性を突き止めたとしても、それはあくまでただの情報の一つに過ぎないのであって、欠けた自分自身を取り戻せるわけではないのです」
「……。それで本当に平気、なのか? 苦しくはないか?」
「今の私にはこの世界に存在する意義がある。道具として使ってくれる人がいる。それだけで幸せですよ」
エニグマの口調はからりとしていて、まるで世間話をするかのようだった。
苦悩や悲壮感といったネガティブな感情は微塵も感じさせない。だがそれ故に、とても寂しい言葉だと深雪は思った。
肉体を失い、自分に関する記憶すらなく、ただ存在することができるだけで幸せだなんて。エニグマの境遇を考えると余計に悲しいし、やるせない気持ちになる。
けれど、その個人的な感想をエニグマに向かって口にするなんて、無神経なことはしたくなかった。
エニグマの幸せはエニグマが決める。深雪にできるのは彼の期待を裏切らぬよう、しっかりした使役主になることだけだ。
そして、できるなら彼の能力を良いことに使いたいと思った。もし悪用したとしても、エニグマは何も言わないかもしれないが、どうせ利用するなら人のためになることに用いたい。その方が、エニグマも「この世界に存在する意義」をよりはっきりと実感することができるだろうから。
どれほど経っただろうか。しばらくして、エニグマはようやく深雪を外に出してくれた。
「ここまで来れば、もう大丈夫でしょう」
暗闇の状態から突然、視界が開ける。眩しさに目を細めつつあたりを見回すと、そこには見慣れた風景が広がっていた。
立ち並ぶ旧いビル群、その中に身を縮めるようにして佇んでいる赤いレンガ造りの洋館。
東雲探偵事務所の建物を目にし、深雪は心から安堵した。
それと同時に、全身からどっと力が抜けていく。肩、腕、そして背中。緊張のあまり、必要以上に力んでいたらしい。尾行されていると知った時から生きた心地がしなかったが、ようやく思いきり息が吸える。
「ありがとう、エニグマ。今日は本当に怖かった。久しぶりに死ぬかと思った」
「何と! このエニグマ、雨宮さんのお力になれましたのなら、これ以上の喜びはありません!! ……しかし先ほどの上松組構成員のような不届きな輩は、これからも現れるでしょう。どうか存分にお気を付けください」
「ああ、肝に命じるよ」
ともかく、いちど事務所へ戻ろう。
そう思って歩き出した時、ふと右手に三人組の男性グループが歩いていくのに気がついた。
よく目立つ真っ赤なブルゾン。カメラなどの撮影機材を担いだスタッフ。
「あれは……ぺこたん達じゃないか」
ぺこたん達は、いつものメンバーで歩いていく。
だが、今日は何だか少し様子が変だった。彼らにしては静かすぎるのだ。
ぺこたんとそのスタッフは常に騒がしく、遠くからでもその存在がよく分かる。だが今は気味が悪いほど黙りこくっていて、互いに会話をする様子が全くない。
しかも全体的に張り詰めた空気を漂わせている。何かあったのだろうか。気になって、深雪はぺこたんに声をかけた。
「ぺこたん! ここで何をしているんだ? 動画の撮影か?」
すると、ぺこたんとその仲間たちは足を止め、深雪の方を振り返った。
「あ……雨宮さん……」
やはり、表情が硬い。ぺこたんだけではなく、他のスタッフたちもだ。
「……? どうしたんだ、今日は随分とテンション低いな」
「いやー……まあ、あれっス。俺らとうとう気づいちゃったんですよねー、この世界の真実ってヤツに」
「へ……?」
ぽかんとする深雪に対し、ぺこたんは静かに詰め寄ってくる。
「雨宮さんはこの世界についてどう思います?」
「どうって……そりゃ、狭いなと思うよ。俺たちの世界とは、この《監獄都市》の中のことで、それが全てだ。もう少し外と自由に行き来ができたらなと思う。そうすれば……いろいろ良い方向に変えることができるのに」
答えると、ぺこたんは、ぐい、と身を乗り出した。
「……そう、そこなんスよ! あの《壁》のせいで俺らゴーストは不当に虐げられている。権利を侵害されてるんスよ! 対立と分断、そして格差の拡大……そのせいで、この街のみなが苦しんでる! 全て、あの《壁》を作り出した闇の政府が画策した事なんですよ!! だから、闇の政府の陰謀によって生み出された《関東大外殻》の存在は、誰が何と言おうと間違ってるんです! そう思いませんか、雨宮さん!?」
「まあ……俺も《関東大外殻》には問題があると思うよ。でも」
「何であの《壁》が存在するのか、何で俺たちはこの《監獄都市》に閉じ込められなければならないのか。ぶっちゃけ、今まではあまり深く考えてきませんでした。でも俺たち、知ってしまったんスよ。この世界はみな何者かに操られていて、そのせいでルールが一部の強権を発動する独裁者によって捻じ曲げられているんです! その結果、重要な情報が不当に歪められてしまっているんだ! そして権力が操られ、どうしようもなく腐敗しているために、何の成長もないし誰も救わない!! 人々の生活はこんなにも困窮しているのに!!」
「ぺ、ぺこたん……!?」
「つまりですね、俺たちが真なる世界を取り戻すため、影からこの世界を支配している闇の政府と、そいつらの命令で動いている独裁者を倒さなきゃならないんですよ、雨宮さん! この社会は何者かに操られている……とても悔しいし、衝撃的だし、絶対に許せない事実です!
でも、俺たちだけは真実を知ることで目を覚ますことができました!! 世界の中でこのことを知っているのは、おそらく俺たち《突撃☆ぺこチャンネル》だけでしょう!! 見ていてください! 俺たちは報道の力で、闇と通じている腐った独裁者を権力の座から引き摺り下ろします! そしてこの《監獄都市》に革命を起こすのです!! この手にあるべき世界を取り戻すために!! ……雨宮さん、俺たちと共に立ち上がり、世界を変えましょう!!」
「えっ……ええと……」
「大丈夫スよ。あの方なら、俺たちを導いてくださる! あの方は人知れず闇の組織と戦う光の救世主であり、同時に闇を統べる独裁者に鉄槌を下す、偉大なる革命の士であらせられるのですから!!」
ぺこたんは凄まじい勢いで熱弁を振るった。スタッフたちも目をぎらつかせ、隣でうんうんと大きく頷いている。
あまりにも早口なので、反論どころか口を挟む余地さえない。みな恍惚とし、のめり込んでいる上に、自己陶酔すらしてしまっている。
何かに憑かれているような異様な雰囲気だった。いつものおちゃらけたノリはどこへ行ってしまったのだろう。
「あ、あのさ。何があったか知らないけど、もう少し落ち着いて……」
「おっと、俺たちはもう行かないと! 見ていてください、雨宮さん! 世界の真実に目覚めた俺らが、必ず力と破壊による革命を起こし、この世界を操っている悪を打ち砕いて見せます!! 俺たちは正しい! 俺たちは正義だ!!」
一方的にそう捲し立てると、ぺこたん達は走り去ってしまった。深雪はただただ呆気にとられ、それを見送るしかない。
『この社会は何者かに操られている』――ぺこたんがそう言った時、てっきり《アイン・ソフ》の事を言っているのかと思った。雨宮や碓氷が話してくれた、この世界を支配している謎の理念共同体。『闇の政府』という単語がそれに相当するのだろうか、と。
では『光の救世主』とは何を指しているのだろう。『闇と通じている腐った独裁者』とは。
(何というか……いろいろフワッとしていたな。全てが曖昧でぼんやりしているのに、ぺこたんは疑問も抱かず盲目的に信じているみたいだった)
ぺこたん達が熱く語っていた内容には、具体的な名称が何一つ出てこなかった。捉えどころのないあやふやな概念ばかりで、よく聞けば中身もあって無いようなものだった。それに対してあそこまで狂信的に慣れるという事が不気味で仕方ない。
「本当に……どうしてしまったんだ、あいつら? 元から無責任でいい加減ではあったけど、あんなふうに特定の憶説を熱心に支持するタイプじゃなかったのに」
「何というか……まるでマインドコントロールされていたみたいでしたねえ」
エニグマの言う通りだ。ぺこたん達の熱狂ぶりは、夢中になるとか嵌まり込むというレベルを遥かに超えている。まるで、洗脳でもされたかのようだった。
ついこの間――《関東大外殻》の近くで会った時は特に変わりが無いように見えたのに。今は別人のように様変わりしてしまっている。
(そういえば、ぺこたんたち、誰かと会う約束をしていると言っていたけど……一体誰と会ったんだろう? そして、これから何をしようとしているんだろう……?)
気になったが、ぺこたんの後を追いかけるのは憚られた。ぺこたん達が向かったのは、旧・港区や品川区――《新八洲特区》の方角だったからだ。
深雪は先ほど、《アラハバキ》の上松組兄派の構成員に命を狙われ危険な目に遭ったばかりだ。彼らが深雪の追跡を諦めたとは限らない。街中に出れば再び深雪を狙う上松組構成員とばったり出くわしてしまうかもしれない。
(ぺこたん達の豹変ぶりが気にならないわけじゃないけれど……)
迷った末、深雪は大人しく事務所へ戻ることにした。もし深雪の身に何かあれば、事務所のみなに迷惑をかけることになりかねない。
ただ、何かによって見えないところからじわじわと侵食され、いつの間にか足元を切り崩されていくような気味の悪さが強く残った。
真綿で首を絞め殺されるのに似た息苦しさ、そして服のボタンをかけ違ったかのような落ち着かなさ。
嫌な予感で胸が破裂しそうなのに、体はぐったりとして重い。思えばここ最近、走り回ってばかりでしっかり休めていなかったから、疲れが溜まっているのかもしれない。
(今日は早めに休もうか……)
しかし事務所に戻ると、何やらひどく騒がしい。シロと寧々の話し声が聞こえてくるが、二人とも尋常ではなく緊迫した様子だ。
「ただいま。どうしたんだ? 何かあった?」
声をかけると、寧々が血相を変えて駆け寄って来た。
「それが……つい今しがた、朝比奈の端末に連絡が入って……朝比奈が行ってしまったの! 私一人を事務所に残して」
寧々は相当に混乱しているらしく、説明がどうにも要領を得ない。
「シロはその時ちょうど朝比奈と入れ違いに学校から帰って来たんだ」
その後からシロが深雪に近寄ってくる。シロも完全には事態を把握していないらしく、途方に暮れた表情だ。
「ええと……つまり、朝比奈が呼び出され、一人で行ってしまったということ? 連絡をして来たのは誰?」
「下桜井組の……忍の部下たち五人組よ。本当は私が呼び出されたのだけど、朝比奈が『私が代わりに行く』と言って……」
深雪の脳裏に、《彼岸桜》の五人の姿が浮かんだ。彼らとは昨日、《中立地帯》で話したばかりだ。
「でも、どうして……《新八洲特区》に戻る日まであと三日ほど残っているよね? 迎えに来たにしては時間も場所も約束と違いすぎるし……」
寧々は胸のところで両手を組み、不安そうに俯いた。
「何か予定を前倒しにしなきゃいけない事態が起こったのかもしれないわ」
「……。それはあり得るかもしれないな。分かった、俺が朝比奈を探すついでに向こうの事情を探ってくるよ」
深雪にとってもちょうど良い機会だった。彼らとはもう一度、話をしたいと思っていたからだ。
昨日は京極のことでつい感情的になってしまい、《彼岸桜》の面目を潰すような事を言ってしまった。だが、深雪とて、決して彼らを敵に回したいわけではない。
「寧々はここにいて。シロは寧々を守ってあげて欲しい」
「うん、任せて!」
深雪はシロと寧々をその場に残し、事務所を飛び出す。
周囲に人影はない。朝比奈はもちろんのこと、《彼岸桜》の姿もない。
もっとも、《アラハバキ》構成員である彼らが《死刑執行人》の拠点に軽々しく近づくなど考えにくかった。だからこそ、端末で寧々や朝比奈を呼び出したのだろう。
(朝比奈……まだそんなに遠くへ行っていないといいんだけど……!)
追いかければ間に合う可能性は十分にあるが、無闇に歩き回ると、また先ほどの上松組構成員と出くわしてしまうかもしれない。深雪は再びエニグマの力を借りることにした。
「エニグマ、朝比奈がどっちへ連れて行かれたか探ってきてくれないか?」
「はい、ただちに」
深雪の足元から影がするすると離れていく。しばらくするとエニグマは戻ってきて、朝比奈の居場所を教えてくれた。深雪はその情報に従って再び走り出す。
やがて《中立地帯》のゴーストにしては珍しいスーツを着用した一団が見えてきた。逢坂の部下たち――《彼岸桜》の面々だ。
中には朝比奈の姿もある。どうやら何とか間に合ったようだ。
「朝比奈!」
深雪が声をかけると、朝比奈は弾かれたように顔を上げ、こちらを振り返った。
「雨宮……?」
朝比奈はひどく緊張し強張った表情をしている。気のせいか、深雪の姿を目にして、ほっとしたように見えた。
その様子を見るに、彼らが愉快な話をしようとしているわけではないことは一目瞭然だ。
一方、《彼岸桜》の面々も深雪に気づいた。
「あら、《死神》くんじゃない」
最初に声を上げたのは、坊主頭に蓮の刺青を入れた、洒落者の細谷史文だ。
「何の用だ、《死神》の後継者!?」
紅一点の椎奈青葉もさっそく眉を吊り上げる。
「そちらこそ、朝比奈をどこへ連れて行くつもりですか?」




