第4話 孤児院②
「……シロ、こっちにいらっしゃい」
シロはオリヴィエに声をかけられ、「にゃっ⁉」と飛び上がるが、やがて観念したようにすごすごとこちらに歩み寄ってきた。いつもぴんとしている頭上の耳は完全に「叱られモード」で、ぺたりとしている。
「どうしたのですか? あんなところに隠れて」
オリヴィエが尋ねると、シロは口をモゴモゴさせ、小さく呟いた。
「勝手に、ついてきちゃったから……。ユキ……怒ってない?」
「怒ってないよ。むしろ、謝らなくちゃいけないのは俺の方だ」
「……え?」
シロはキョトンとして、こちらを見返してくる。その反応から見るに、シロは全く深雪を責めているわけでもなければ、酷い仕打ちを受けているとも思っていないようだった。深雪は却ってますます罪悪感が湧いてくる。
「ごめん……変な風に避けてて。シロが悪いんじゃないんだ。悪いのは全部、俺の方なんだ。……ホント、ご免な」
それもこれも、自分の弱さが招いた事態だ。そう思うと、ますます申し訳なさが募る。余計な意地など張らず、さっさと謝ってしまえば良かった。一方のシロは分かったような、分からないような表情をしていたが、やがて上目遣いに深雪を見つめた。
「……今まで通り、一緒にいてもいい?」
「うん、勿論だよ。俺も……シロと一緒にいていいかな?」
「いいよ。シロ、一人は嫌だもん。……良かった!」
シロの顔に、ようやく笑顔が戻った。それに合わせて頭上の獣耳も嬉しそうに跳ねる。
深雪の表情も思わず綻んだ。深雪が一方的に彼女を避けて生まれた事態だったが、こうやって再び言葉を交わしてみると、自分も仲直りするのを望んでいたのだと実感する。
深雪にとって、監獄都市である《東京》での知り合いは、まだまだ少ない。そんな中、いつの間にかシロは傍にいるのが当たり前になっていた。それほど大切な存在になっていたのだと、喧嘩をしてみて改めて気づかされた。
オリヴィエは深雪とシロの喧嘩の経緯など知る由もなかっただろうが、関係の修復を察したのか、淡く微笑んだ。
すると、洗濯をしていた子どもたちの方が急に騒がしくなる。それは先ほどまでの和気藹々とした騒がしさではなく、怒声交じりの叫び声や悲鳴が含まれていた。
「神父様ぁ、アツシとジョウが喧嘩してるー!」
子どもの一人がオリヴィエにそう助けを求めた。オリヴィエは困ったような表情になる。
「またですか。少々、仲の悪い子たちなのですよ。……ちょっと行ってきますね」
そう言い残すと、オリヴィエは子供たちのところまで急いで戻って行った。そして喧嘩を仲裁し、二人の少年に説教を始める。十分ほどたっただろうか。すっかり意気消沈した少年二人を解放すると、オリヴィエは再び深雪たちのところへ戻ってきた。
「い、忙しそうだな……」
まるで本当に幼稚園か学校の先生のようだ。オリヴィエは苦笑する。
「いつもの事ですよ。どうにも人手が足りなくて」
確かに、子どもの数はこの庭にいるだけでもざっと数十人はいる。普通の都市部ならいざ知らず、ここ《監獄都市》では、孤児院の経営も決して楽ではあるまい。そんなことを思っていると、背後から野太い怒声が響き渡った。
「それだけじゃねえ‼」
「うわ⁉」
深雪は驚いてその場を飛び退る。
「レオナルド神父……!」
オリヴィエも呆れ気味の表情で声の主へと視線をやった。その先には大きな体つきの神父が 一人、立っていた。
背はオリヴィエよりも高く、深雪にとっては首を傾けて見上げるほどだ。堀が深い顔立ちで、一目で外国人だと分かる。
ハチミツ色の頭髪に、グレーがかったライラック色の瞳で、口と顎を覆う逞しい髭が特徴的だった。
ただ、目つきが悪い――というか、完全に据わっている。体格や風貌もあって、神父というよりはどちらかというと山賊や海賊のようだった。右手にワインの酒瓶をぶら下げているのも、そう見える原因かもしれない。
レオナルドと呼ばれた巨漢の神父は、しかめっ面で不満をぶちまけた。
「ったく……人手も足りなけりゃ、敷地も物資も資金も足りねえ! ガキは増える一方だ! ところがお役所は何もしねえときた……こちとらケツに火が付きそうだってのによ!」
聖職者にあるまじき乱暴な口調で一気にまくし立てると、髭の神父は豪快に酒瓶を煽る。オリヴィエはそれを見て、眉をしかめた。
「ワインは控えてください、レオ。ただでさえミサで毎日使用するのです。肝臓がますます悪くなりますよ」
「けっ……これが飲まずにいられるかってんだ!」
ヒック、と吃逆をしながらレオナルドは吐き捨てた。完全にただの酔っぱらいのおっさんだ。息が酒臭いし、心なしかその巨体もグラグラと揺れている。すでにしっかりと出来上がっているのだろう。
妙に絡まれたりしなければいいのだが。深雪は顔を引き攣らせたが、シロは酔っぱらいに慣れた様子で、にこにこと話しかけた。
「レオ、こんにちは!」
「おお、シロ。よく来たなあ!」
盗賊の首領みたいに荒んだ雰囲気だったレオナルドは、シロの姿を目にした途端、信じられないほど優しい表情になる。まるで初めて孫を目にした老人のようだ。孤児院の経営状況に悪態はつきつつも、子ども自体は好きであるらしい。レオナルドは次に、深雪に目を止める。
「ところでオリヴィエ、こいつは何だ? ウチはデカいガキはお断りだぞ」
「深雪は東雲探偵事務所の新戦力ですよ、神父」
オリヴィエの説明に、レオナルドは首を傾げた。
「ミユキ……? 確か女の名前だったよな、深雪って。男にしちゃあ随分ひょろっちいと思ったが、女だったのか。日本人は性別と年齢がよく分からんことがあるからなあ」
「お……俺は男だ!」
深雪は思わず怒鳴ってしまった。先ほどから名前のことをいじられ続け、つい反射的に突っ込んでしまったのだ。しかし、レオナルドには、不愉快になった様子がない。それどころか、機嫌よく豪快に笑い出した。
「ははは、威勢のいいガキだな。元気があるってのは良いことだ」
そして、今度は毛むくじゃらの大きな手の平で、深雪の頭をぐしゃぐしゃと掻きまわした。
女扱いの次は子ども扱いか――深雪は若干その事が不服だったが、レオナルドに悪気があるわけではないのだろう。それに何より、酔っぱらいには何を言っても無意味そうだ。そこで、大人しくされるがままになった。
シロはそんなレオナルドを心配そうに見つめる。
「レオ、あんまりお酒飲みすぎると、お医者さんに怒られるよ? 肝臓の数値、悪いんでしょ?」
「おう、心配してくれてんのか。シロはいい子だなあ!」
レオナルドは再び好々爺の表情になる。しかし、オリヴィエはそんなレオナルドにも容赦がない。腰に手を当て、完全に説教モードになった。
「シロの言う通りですよ、神父。アルコール中毒の神父なんて、シャレになりませんよ」
「フン、悪いのは無責任な連中だろうがよ。奴らは現実から目を背け、子守を俺たちに押し付けた挙句、ストレスでアル中にさせようとしてやがるんだ! 全く、悪魔のような奴らさ!」
そして、レオナルドは再び酒瓶を傾ける。
「何を無茶苦茶なことを……」
呆れを通り越してすっかり困り顔のオリヴィエに構わず、レオナルドは深雪に向かって声を荒げた。
「そうだ、東雲のヤツに言っとけ! ウチの者を使うなら、せめてもっと孤児院の経営資金を回せってな‼」
そして今度は、ぶんぶんと威勢よく酒瓶を振り回し始めた。ワインの酔いが回って、完全に虎になってしまっている。深雪は酔いどれの巻き添えになるまいと、苦笑いをしつつ、僅かに後退した。
オリヴィエはそれを見て、悩ましげに溜め息をつく。
「神父、深雪に当たり散らすのはやめてください。ああもう、神父服がワインでベタベタじゃありませんか。洗濯も楽ではないのですよ?」
レオナルドにそう説教するオリヴィエは、まるで母親のようだった。一方のレオナルドは腕白坊主のように、全く悪びれた様子がなかったが。
すると、言い合いをするオリヴィエとレオナルドの会話を聞きつけたのか、教会の扉の中から恰幅のいい中年のシスターが顔を覗かせた。そしてレオナルドがワインの酒瓶を提げているのを目ざとく見つけると、恐ろしい形相で駆け寄ってくる。
「バルベリーニ神父! またワインの盗み呑みですか?」
「やれやれ、うるせえカーチャンが来たぜ」
「何ですって⁉」
目を吊り上げたシスターは、深雪から見てもたっぷりと迫力があった。さすがのレオナルドも首を竦め、弁解を始める。
「勘弁してくれ、カサンドラ。これは新しいワインの『試飲』であって、決して盗んだわけでは……」
「言い訳は結構よ! 全く……罰として、礼拝堂の花壇に水やりをしてもらいますからね‼ ほら、あなた達も行って」
恰幅のいいシスター――カサンドラはそう言うと、ぱちんとウインクをした。どうやらレオナルドに絡まれている深雪たちを助けてくれたらしい。
「ありがとうございます、カサンドラ」
いつもの事なのか、オリヴィエは素早くカサンドラの意を汲むと、そう言って微笑んだ。カサンドラに引き摺られるようにして連行されていくレオナルドを見送りつつ、オリヴィエは深雪に提案した。
「……すみません、深雪。騒々しくて。見学していきますか?」
オリヴィエは施設の中を案内してくれると言う。深雪はありがたくその申し出を受ける事にした。せっかく来たのだし、施設の内部に興味があった。それに、《監獄都市》の持つ深雪の知らない一面を見ることが出来るかもしれない。
建物の中にも外と同じように、子どもがたくさんいた。確かにレオナルドの言うとおり、敷地面積に対して人口過多のようだ。どこもかしこも子どもだらけだった。ただ、どの子供も表情は想像していたほど暗くない。それが唯一の救いだった。
中には生まれて間もない赤ん坊ばかりが寝かされている部屋もあった。カサンドラとは違う、若いシスターが順にベビーベッドの様子を見て回っている。
「あんな小さな赤ん坊まで……」
深雪は衝撃と共に呟いた。ずらりと赤ん坊が並べられた光景は、産婦人科かと見紛うほどだ。
ここは《監獄都市》だ。みな、それぞれ複雑な事情があるのだろう。分かってはいても、目の前にすると生々しさが違う。
一方、隣にいたオリヴィエは、特に表情を変えずに説明を始めた。彼にとっては、ごく当たり前の日常風景なのだろう。
「保護された乳幼児は大抵ここに運ばれます。年々、増える一方ですよ」
「そうなんだ……みな、ゴーストなの?」
「ゴーストは先天性のものではありませんから……でも、何人かはそうですね」
その事実に、深雪はまたもやショックを受ける。何故、普通の人間がある日突然、ゴーストになるのか。その理由や仕組みは、未だに解明されていない。だが、深雪には《監獄都市》で生を受けたがために、彼らがゴーストになってしまったのではないかと思えて仕方なかった。そうでなければ、いくらなんでも早すぎる。
「赤ちゃん、無事に大きくなるといいね」
「……そうですね」
オリヴィエはシロの言葉にそう答え、柔らかい――けれどどこか哀しげな微笑を浮かべる。心優しい彼もまた、赤ん坊たちに待ち受ける幾多の困難を憂えているのだろう。
深雪はそんなオリヴィエの横顔をじっと見つめていたが、躊躇いがちに口を開いた。
「あの……」
「はい、何でしょう?」
「何で、東雲探偵事務所にいるの。神父なんだろ」
オリヴィエは少し驚いたように目を見開いた。深雪がその話題を口にするとは思っていなかったのだろう。
「それは……色々と事情はあるのですが……」
「ゴーストを殺すことに、抵抗は無いのか」
ずっと不思議に思っていた。何故、オリヴィエは《死刑執行人》などになったのだろうか、と。
オリヴィエは心優しい性格だ。面倒見がいいし、細かい気配りも利く。そんな彼が何故、わざわざ茨の道を進むのか。いくら《東京》にいるとはいえ、無理に東雲探偵事務所と関わりを持たなくともやっていける筈だ。むしろ、神父という立場を考えるなら、《死刑執行人》などという職種は避けて当然なのではないか。
オリヴィエは深雪を見つめる。そして、視線を赤ん坊たちに戻すと、ゆっくりと口を開く。
「誰も傷つけられることの無い、やさしい世界……それは確かに理想かも知れません。でも、その様な世界はどこにも無いのですよ。地球上のどこにも、無いのです」
「………」
「現実は常に残酷です。それでも私たちは守らなければなりません。全てのものに見放されてしまった、力を持たない弱い人々を。例えそれが困難であろうと、偽善だと罵られたとしても、誰かがやらなければならないのです。そして――その為には、時に戦う事も必要だと私は思っています」
つまり、《死刑執行人》になったのは孤児院の子どもたちの為なのだろうか。確かに、彼らにとってゴースト犯罪は脅威だ。知識も乏しく何の力も持たない子ども達は、真っ先に餌食になってしまう。だとすれば、ゴースト犯罪の脅威を取り除くことで、間接的に子どもたちを守っていると言えなくもない。
いずれにせよ、オリヴィエはオリヴィエの目的があって、自らの意思で事務所にいる、という事なのだろう。深雪はどこかそれを羨ましい、と感じた。深雪には、自分を犠牲にするほどの強い信念は無い。
「俺は……分からない。これからどうしたらいいのか、どうすべきなのかも……」
「……。それは、いけない事ですか?」
「え……」
思いがけない言葉が返ってきて、深雪は思わずオリヴィエの顔を見上げる。
「分からないと思うのは、選択肢がいくつもあるからです。それ自体は決して悪い事ではありませんよ」
オリヴィエは、澄んだ空のような淡い瞳に、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「時にはゆっくり考えることも必要です。あなたにはその時間があるのでしょう? 焦ることはありませんよ」
深雪は目からうろこが落ちる思いだった。自分の置かれた状況をそういう風に考えたことはなかったからだ。
(そうか……そういう考え方もあるのか)
オリヴィエと話していると、少しだけ気持ちが軽くなるような気がする。じりじりと焼かれるような焦燥感や自己嫌悪から僅かに解き放たれ、自由になる気がするのだ。
接する者の心を静め、安心感を与える――それはアニムスとはまた違った、彼の能力であり魅力の一つなのだろう。オリヴィエがこの孤児院で信頼され、必要とされている理由がよく分かるような気がした。
院内の雰囲気が殺伐としていないのは、そういったオリヴィエの持つ柔らかい空気が子どもたちにいい影響を与えているからでもあるのだろう。
やがて更に孤児院内を進むと、一人で部屋の隅で泣きじゃくっている小さな子どもの姿が目に入った。他にも数人の子がばらばらに座り込んでいる。
そういった子どもは全体の割合からするとごく僅かだが、孤立し、決して他の子と目を合わせようとしない。まるで、世界の全てを拒絶しているかのようだ。深雪はそれが、彼らの抱える問題の根深さを象徴しているような気がしてならなかった。
シロも一人ぼっちの子どもたちの事が気になったのだろう。壁際でしくしくとすすり泣きをしている女の子を指差して、悲しそうな表情で言った。
「オル、あの子泣いてるよ」
「彼女は最近この施設に入ったばかりなのです」
「………」
深雪もまた、その少女の背中を見つめた。年のころは五、六歳ほどだろうか。まだまだ両親の存在が恋しくて仕方ない年齢だ。オリヴィエはその場に深雪とシロを残すと、少女に近づいていく。
「……サキ?」
オリヴィエは床に膝をつき、少女の背中をゆっくりと擦る。サキと呼ばれた少女は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、オリヴィエの胸にしがみ付いた。
「おうち、帰りたい……ママに、ママに会いたいよ………! どうしてサキはおうち帰っちゃ駄目なの? ヘンな力があるから?」
「……泣いてはいけません。強くならなくては」
「ヤダあ、帰る! おうち、帰る‼」
もう長いこと泣き続けているのだろう、サキの目は赤く腫れ、声も掠れてガラガラだ。オリヴィエは彼女を抱きしめ、宥めようと努めた。シロの方を見ると、サキに感情移入しているのか、目が真っ赤だ。
深雪はただ無言で、オリヴィエとサキの後ろ姿を見つめていた。




