第5話 昏倒
だが、その状態も長くは続かなかった。
一番最初に痺れを切らし、視線を逸らしたのは坂本だった。悔しそうに表情を歪め、その場に唾を吐き捨てると手下に顎でしゃくって見せる。
「おい……行くぞ!」
それが合図だった。若者たちはまるでそれまでの騒ぎが嘘であるかのように、静かにその場を去り始めた。赤神がその背中に向かって言った。
「……坂本。あんまり調子乗ってんじゃねーぞ。俺達を敵に回すという事がどういう事か……冷静になってよく考えるんだな」
ふざけた調子の無い、凄味の効いた声だった。坂本は赤神を一瞥し、低い声で吐き捨てる。
「くそ……《死刑執行人》が……!」
(《死刑執行人》……? こいつが……)
深雪はフードの下から赤神を見つめた。《死刑執行人》が一体何を指すのか、深雪には分からない。ただ、警察官は《死刑執行人》なる存在を忌み嫌い、坂本達ごろつきたちは怖れているようだった。おそらく、この監獄都市で、一定の影響力を持っている存在なのは確かだろう。
関わるべきか否かを考えれば、答えは間違いなく『ノー』だ。
その場に残されたのは護送船で一緒だった三人と深雪、そして《死刑執行人》の赤神とシロだけだった。稲葉たちは、何故ごろつきたちが急に退散したのか分からないのだろう。大いに戸惑っている模様だった。
「な……何なんだ、あんた……⁉」河原がそう赤神に声をかける。
「気にしなくていいよ。ただの通りすがり」
赤神は笑ってウインクしながらそう答えた。先ほどの、坂本相手に殺気を放っていた時とはまるで別人だ。
「か……かっけー………!」
年齢が近いせいか、久藤は何やら感激している模様だった。しかし、深雪は目深に被ったフードの奥から赤神を冷ややかに見つめる。
禿頭の男たちがその顔を見ただけで逃げ出したほどだ。この男も余程の力を持ったゴーストに違いない。助けに入ってくれたのだからこちらに対する悪意はないのだろうが、だからといって味方とも言い切れない。
赤神の背中を見つめていた深雪は、しかし他方から不意に強い視線を感じ、思わずそちらに目をやった。すると、シロがじっとこちらを見つめている。
彼女と、はっきり目が合った。
(なっ……?)
深雪は、どきりとした。一点の曇りもない、純粋な瞳。強い好奇心を隠そうともしないその目は、むかし飼っていた柴犬のくりくりとした真っ黒な瞳を思い起こさせた。構って欲しくてしようがない――そんな目だ。
深雪は慌てて視線を逸らすが、時すでに遅しだった。シロは深雪に近寄って来ると、無邪気に尋ねてきた。
「ねえ、どうして顔を隠してるの?」
「……別に。関係ないだろ」
深雪は全身全霊を込めてシロを睨み、刺々しく答えた。彼女が何者かは分からないが、ゴーストである事に間違いはないだろう。ゴーストの中には、体の一部を獣などに変化させる者も存在するのだ。頭頂部に生えている犬のような耳が何よりの証拠だった。
女子供であろうとも、凶悪なアニムスを持つ者は数多くいる。むしろ、幼少期は力が安定しないことも多々あるので、子どもの方が危険な事すらある。
「ち、近づくな!」
深雪はわざと、突き放すようにそう言った。しかし、シロは全くへこたれなかった。
「ヘンなの。絶対、顔を出した方がいいのに」
そう言うと、深雪のフードを引っ張って、顔を出させようとする。
「や、やめろって!」
深雪は慌ててその手を払い除けたが、その弾みでフードは脱げてしまった。
(ヤバい……!)
稲葉たちはともかく、赤神には絶対顔を覚えられたくない。急いで脱げたフードを再び被ろうとするが、そんな深雪の顔を、シロは真下から覗き込んできた。
「ほら、やっぱりこの方がいいよ」
そして、にこっと笑う。悪意の全くない、無垢な笑顔だった。獣耳がそれに合わせてひょこひょこと動く。
深雪は一瞬どう反応して良いのか分からず、言葉に詰まった。深雪はシロを激しく警戒していたが、一方のシロは深雪に対して何のわだかまりも抱いていないようだった。それどころか、学校のクラスにやってきた新しい転校生、くらいの対応だ。それは、どこか好意的ですらあった。
(でも……この子はゴーストだ。ゴーストなんだ……!)
深雪は自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。ゴーストとゴーストが衝突したなら、どれだけ凄惨な事になるか。良く知っているだけに、目の前の少女に対して簡単に心を許す気にはなれなかった。
「……そ、そんなこと、勝手に決めんなよ!」
深雪はシロから顔を背け、それだけを答えた。しかし、やはりシロは気を悪くした風も無く、にこにことしている。
すると、二人のやり取りをじっと見ていた河原が、たまりかねた風に口を挟んだ。
「おい、小僧。何だ、その態度は? いい加減にしろ!」
稲葉と久藤も河原に続いて口を開く。
「そっとしといてやんなよ、お嬢ちゃん。こいつは船の中にいた時からこうなんだ」
シロに向かって稲葉がそう言うと、久藤は肩を竦めた。
「そういう年頃なんすよ。俺も高校ン時はそうだったなあ~」
「そうか? 単に、ムッツリなんじゃねーのか」
河原は面倒臭そうに言った。深雪がじろりと睨むと、わざとらしく視線を逸らして口笛を吹く。シロはそのやり取りが面白かったのか、声を立てて笑った。彼女の無邪気な笑い声が、その場に張り付いた緊迫感をきれいに一掃していく。それがいい影響を与えたのだろうか、稲葉や河原、久藤の表情にも、穏やかさが戻ってきたようだった。
すると、赤神が頃合いを見計らって稲葉たちに声をかけた。その表情には、例の人懐こい笑みを浮かべている。
「お前ら《東京》は初めてだろ? ま、この辺は安全な方だけど中にはああいうのもいるから気をつけろよ」
「あ、ああ……」
稲葉はやや警戒した様に赤神を見つめる。一方、久藤は赤神をさほど恐れてはいないようで、困ったような表情をして言った。
「それなんスけど、俺達自分のアニムスも分からない状態で……どうしたらいいんスかね?」
「《壁》の近くに行きな」
「壁って……《関東大外殻》の事か? あの辺はサツだらけだって聞いたぞ」
赤神の言葉を受け、河原は眉根を寄せる。すると赤神は、「……だからだよ」と答えた。
「警察が多い分、治安は落ち着いている。あいつらも一般人と変わらない下位のゴーストをいちいちひっ捕まえたりしない。……お前らが何か犯罪行為でも企んでるってんなら、話は別だけどな」
すると、稲葉と河原は得心したような表情になった。
「な、成る程………」
「言われてみれば、その通りかもな……」
「港に戻れば、仕事の探し方も教えてくれる筈だ」
赤神がそう付け加えると、稲葉・河原・久藤の三人は固まってこれからを話し始めた。
深雪は敢えてそれには加わらなかった。彼らと行動を共にする気はない。深雪は深雪で他に行きたい場所がある。そう、実家と母校だ。どうしてもその二つは確認しておきたかった。
しばらくして、稲葉が顔を上げた。
「じゃあ、一旦港に戻って《壁》に向かうとするか」
どうやら、その方向で話しが固まったようだった。これからの予定が決まってほっとしたのか、その表情には若干の明るさが見て取れる。
すると、次に久藤が深雪を見、躊躇いがちに話しかけてきた。
「えっと……君はどうするの?」
「俺は……他に、行く場所があるから」
深雪は短くそう答えた。他の三人は、顔を見合わせたが、それ以上誘う事も、追及する事もなかった。
「まあ、何だ。その……気をつけろよ」
河原が最後に深雪にそう声をかけてきたのが、少し意外だった。深雪は頷き、「……あんたたちもな」と小さく答えた。
「あの……どうもありがとうございました!」
久藤たちは赤神の方に一礼すると、何事か相談し合いながらその場を去っていく。
結局、深雪一人がその場に残された。騒がしかった一角は、急に静まり返る。
「――――さてと。……それで?」
赤神は久藤たちが完全に立ち去ったのを見届け、深雪の方を振り返った。
「さっきの爆発はお前の仕業か?」
爆発――一瞬何のことか分からなかったが、すぐに坂本を襲った、サッカーボールの爆発の事だと気づいた。赤神はどこかからそれを見ていたのだろう。深雪を見つめるその表情は、笑ってはいるものの目は微塵も笑っていない。何かを探る様な冷たい光が、その奥には在った。
(そうか……!)
深雪は、はっとした。
この男の目的は、最初から自分だったのだと。
苦々しい後悔が、じわじわと広がっていく。いくら坂本の所業が許せなかったとはいえ、軽々しくアニムスを使うべきではなかった。自らがゴーストである事を、隠し通すべきだったのだ、と。
過ぎたことをいくら悔やんでも意味はない。今は一刻も早く、ここを立ち去るべきだ。深雪は数歩後ずさりすると、踵を返して一気に走り出した。
赤神はそれを呆れたように見送った。
「ぅおーーい。そんなびびらなくてもいーでしょうが」
「りゅーせい、どうする?」
シロは耳をぴくぴく動かしながら赤神に尋ねた。今にも動き出したくてたまらないのか、そわそわしている。赤神は小さく溜め息をつくと、諦めたように言った。
「よーし。シロ、確保だ!」
「ほ~~~い‼」
シロは嬉しそうに走り出すと、地を蹴って崩れかけた民家の屋根へと駆け上った。そのまま、あっという間に姿を消す。
「やれやれ……張り切っちゃって」
赤神は苦笑交じりにシロの後ろ姿を見送り、自らは未だ倒れ呻いている二名の警察官に向かって歩き出す。
一方深雪は全速力で走っていた。もはや自分がどこにいるのかも分からなかったが、とにかくあの二人から逃れようと一心不乱に走り続けた。
「ま……捲いたか………?」
さすがに息が上がってきて、スピードを落とした。だいぶ離れたし、入り組んだ道を滅茶苦茶に走ってきたから、追いつかれることはないだろう――
そして背後を振り返った、その時だった。
シロが真上から降ってきたのだ。
何故、と混乱するが、すぐに建物の屋上伝いに深雪を追いかけてきたのだという事に気づいた。
しかし、だからと言って為す術があるはずもなく、深雪はあえなく彼女の下敷きになってその場に突っ伏した。打ち所が悪かったのか、意識が混濁していく。ふと、遠くからシロの声が聞こえてきた。
「あれ? おーい、寝ちゃ駄目だよー! りゅーせいどうしよう、死んじゃったよ………」
(こんなところで、死んでたまるか……!)
自分にはまだやることがある。こんなところでこんな風に、愚図愚図してはいられないのだ――そう反論しようとしたが、もはやそれを言葉にすることは叶わなかった。
深雪の意識はそのままぶつりと途切れ、深い闇の底に引きずり込まれていった。
序章終了です。次回から、主要メンバー出ます。よろしかったらご一読ください。