第2話 《タイタン》②
「くっ……! ナツミ! 今助ける……‼」
ところが、奈落と深雪が睨みあっている隙に、残る三人目の《タイタン》のメンバーが動いた。
全身に鱗の生えたドレッドヘアの男だ。男は床に崩落していたコンクリートの巨大な塊――大型の冷蔵庫ほどもあるそれを、軽々と持ち上げる。そしてそれを深雪と奈落の二人に向かって投げつけた。
「……!」
「な………⁉」
深雪と奈落は同時に動いていた。深雪はビー玉を放って《ランドマイン》を発動させると、巨大なコンクリートの塊をいくつかに粉砕する。そして残る破片を、奈落が銃弾を撃ち込んで粉々にしていく。
素早い対応で事なきを得たものの、その隙にドレッドヘアもまた動いていた。少女に駆け寄り、奈落のワイヤーを彼女の足から素早く取り外していたのだ。そして男は少女を助け起こす。
「ナツミ! しっかりしろ、立て‼」
「う……うん……! ありがと、ユウジ」
「ここは撤退するぞ! 上の階に行こう! マユ、お前も来い‼」
「で、でもジュンやリョウが……‼」
「放っとけ! お前も殺られるぞ‼ 上の階の奴らと合流する……頭に迷惑はかけられない!」
どうやら、ドレッドヘアの男はユウジといい、少女の方はナツミという名らしい。
ユウジはナツミの手を引いて走り出す。深雪は、しまった、と顔をしかめた。このままでは二人に逃げられてしまう。地上に向かうわけではないだけまだましだが、屋上に逃げられて抵抗を続けられたら厄介なことになる。
しかしドレッドヘアの男――ユウジは、途中で何かに足を取られ、派手に転倒した。
「……ッ!」
「ゆ……ユウジ、足元‼」
かろうじて転倒を免れたナツミは、ユウジの足元を指さして叫んた。
ユウジの足を捉えたのは、真っ黒いコールタールのような、粘着質の液体だった。それは水溜りのように一帯に広がっている。深雪はそれが何であるか、すぐに合点がいった。オリヴィエのアニムス、《スティグマ》だ。見ると、オリヴィエの、十字の痣が入った手の甲から黒い血液が流れだし、床に大きく広がっている。ユウジはそれに足を取られ、転倒したのだ。
「な……んだ、これ…⁉」
ユウジは転倒した弾みで、黒い水溜りに両手両足を付いた。慌てて身を起こし、その黒い液体から逃れようとするが、オリヴィエの血は強力な接着剤のように絡みつき、容易には離れない。しかも黒い液体は這う様に動き出し、ユウジの膝や二の腕まで移動して、体を徐々に呑み込んでいく。
次第に身動きが取れなくなるユウジ。オリヴィエは厳しい表情で警告した。
「投降して下さい。これ以上の戦闘はあなた達にとっても無益です」
「うっせえんだよ! ブッコロス!」
ユウジは目を滾らせ、オリヴィエを睨むが、《スティグマ》による血の触手は、容赦なくその体を覆っていく。
「用があるのは《タイタン》の幹部メンバーです。投降するならこれ以上の危害は加えません。……しかし、抵抗するというのなら徹底的にやりますよ」
「ふ……ふざけるな! あたし達はそんな脅しに屈しない! ナメんじゃねーよ‼」
ナツミも、毛を逆立てた野良猫のように威嚇する。しかし、オリヴィエは諭すような口調で二人に告げた。
「一時の感情に流されず、良く考えなさい。私たち《死刑執行人》は、狙った獲物を決して逃したりしません。仮にこのビルを脱け出せたとしても、《東京》の中にいる限り、逃げられる場所はどこにも無いのですよ。それとも……《リスト入り》したいのですか?」
「うっ……‼」
「ユ……ユウジ……!」
《リスト》――その単語を耳にした途端、威勢の良かったユウジとナツミは真っ青になって息を呑んだ。
《リスト》――正式名称は、《警視庁指定ゴースト第一級特別指名手配書》。簡略化し、《死刑執行対象者リスト》と呼ばれることもある。そこに登録されたゴーストは、《死刑執行人》の格好の餌食だ。《リスト入り》したその瞬間から、《監獄都市》中の《死刑執行人》から、その命を狙われることになる。
《リスト入り》するという事はそのまま死を意味しているのだ。
《タイタン》の二人は蒼白になり、そのまま硬直していた。オリヴィエの《リスト入り》という言葉が、彼らに具体的な死を想起させたのだろう。だが、やがて地面に這いつくばったままのユウジが弱々しい口調で切り出した。
「……本当に、危害を加えないのか」
ナツミは、はっとしてユウジの方を見る。ユウジはそんなナツミに構わず、睨むようにしてオリヴィエを見上げた。
「ここで投降するなら……本当にナツミとマユ――他の奴らには手出ししないか?」
オリヴィエの薄いスカイブルーの瞳が、静かにユウジを見つめ返す。
「……。ええ。約束します」
「ユウジ……!」ナツミは悔しそうに唇を噛むが、最後には納得した様に項垂れた。
「分かった。投降する」
ユウジのその一言で、そのフロアの緊張感がふっと解ける。彼がこの場にいる《タイタン》のメンバーの中で一番、発言力が強いのだろう。リーダーの決定に、他の者も異論はないようだ。むしろ戦闘が終わってほっとしたのか、疲労と安堵を浮かべて座り込んでいる。
オリヴィエはそんな残ったメンバーに次々と手錠をかけていった。一方の深雪は、それを手伝いながら、深刻な怪我人が出なかったことにほっとしていた。
しかし奈落の腕が伸びてきて、深雪の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「………!」
「……どういうつもりだ?」
ぎょっとし、身を強張らせる深雪を、奈落の冷徹な瞳が射る様に見下ろしていた。深雪は負けじと、何とかそれを睨み返す。すると、オリヴィエが慌てて間に割って入ってきた。
「二人とも……何をしているのですか‼」
「どういうつもりかと聞いている」
奈落はオリヴィエを無視し、鋭く深雪に問い詰める。
「お、俺はただ……また、この間みたいに、誰か死ぬんじゃないかと思って……!」
「成る程? それでご丁寧にも同じヘマを繰り返したという訳か」
「……っ!」
脳裏に、一人の少年の事が思い浮かぶ。植物とお菓子作りが大好きだった少年。深雪は唇を噛み、俯いた。同じヘマだと言われたら返す言葉もない。だが、だったらどうすれば良かったと言うのか。奈落の凶行を黙って見ていれば良かったのか。到底、それが正しいとは思えない。深雪はどうしても納得がいかなくて、再び奈落を睨んだ。
「でも……誰も傷つけなくても、実際に片付いたじゃないか! そういう努力はもっとすべきだろ!」
「努力だと? 今回は運が良かっただけだ。だが、いつもそうだとは限らない。そんな事も分からないのか」
奈落の返答はにべもない。
「それに、こいつらはゴーストだ。腕の一本や二本斬り落とされたくらいで死にはしない」
「う……腕を斬り落とすつもりだったんですか⁉ 正気の沙汰じゃない‼」
オリヴィエが聞き捨てならない、とばかりに血相を変え、割り込んでくる。奈落はうるさそうに顔をしかめた。
「何でお前が口を出してくるんだ」
「あなたが、おかしなことを言うからでしょう!」
「ものの例えだ。たかだかヤク中のガキ相手に、そんな七面倒臭えことやってられるか」
「い・い・え! あなたなら本当にやりかねない‼」
目尻を吊り上げるオリヴィエに、奈落は舌打ちをする。
「いいから、お前は黙ってろ」
そして、深雪の胸ぐらを掴む手に力を籠め、語気を強めた。
「……お前はこいつらが何をしてきたのか理解しているのか。自分たちが生き延びる為に、さらに弱い立場の人間を食い物にしてきた……そういうクソどもだ。子供? 女? ……だったら何だ。ヤクを手にして暴走でもしたら、そんな事は関係ない」
「………‼」
奈落はそのまま深雪を突き飛ばす。深雪はその弾みでたたらを踏み、尻餅をついた。
「……そんな連中に肩入れするのなら、お前も同罪だぞ。分かっているんだろうな?」
深雪は奈落を見上げ、反論しようと睨むが、すぐに力なく項垂れる。
奈落の言い分は理解できた。そしておそらく、大きな間違いも無い。だからこそ、「そんな連中に肩入れするのなら、お前も同罪」という言葉がやけに突き刺さった。《タイタン》の彼らに心のどこかで同情していただけに、尚更だった。
もともと、《タイタン》は、問題行動が多かったものの、他チームとの抗争で死者を出したりといった深刻な事態を引き起こしているわけではなかった。《リスト入り》に該当するほどの犯罪には手を染めていなかったのだ。オリヴィエは《タイタン》に「大人しく投降するなら危害は加えない」と言ったが、実際のところは《リスト登録》したくても、できないというのが実情だった。
こうやって《タイタン》のメンバーを捕えているのも、《Heaven》の情報を得る為であって、それが済んだならみな再び自由になり、野放しとなる。《リスト》も決して万能というわけではない。そして彼らも当然、それを狡賢く計算し、《リスト入り》するギリギリのラインを狙って行動する。奈落の言う「クソども」というのも、そこを指してのものだろう。
オリヴィエが慌てて深雪に近寄ってくる。
「深雪! 大丈夫ですか?」
深雪は俯いたまま、返事を返すことが出来なかった。
(俺達も……同じだったんだろうか。《タイタン》と同じ、さらに弱い立場の人を傷つけていたんだろうか。だからあんな事になったんだろうか。あれは……罪を犯した罰だったのかもしれない………)
背中の、《ウロボロス》の刺青を剥ぎ取られた後の皮膚が、じりじりと焼けるように痛む気がした。或いは、深雪が《タイタン》に寄せていた同情は、自らの経験を正当化させるための欺瞞だったかもしれない。奈落にその浅はかさを見透かされているように感じたのは、気のせいだろうか。あの紅い瞳孔に射竦められると、自分の弱さや偽善を炙り出されるようで、激しい焦燥感に襲われる。とても、直視することができない。
奈落はそんな深雪を冷ややかに睥睨していたが、やがて向きを変えると、もはや一顧だにせず歩き去っていった。
(何だよ、俺……間違ったことは言っていない筈なのに……!)
何故、これほど敗北感や挫折感を味合わされるのだろうか。何故、こんなにも無力なのだろう。自分の信じていたものが、こうも容易く揺らぐものだとは、思っていなかった。今の深雪は、まるで濃い霧の中に放り込まれ、どちらに進んでいいのかも分からない哀れな遭難者のようだ。
二十年前はこうじゃなかった。もっと、自分のすべきことがはっきりしていた。何が正しくて、何が間違っているか。それらは交差点の信号機のようにはっきりと点滅し、辿るべき道筋を明快に照らしてくれたのだ。
ところが、今はどうだろう。
道は複雑怪奇と化し、信号機はすっかり故障して機能不全に陥っている。路上ではいつも事故が起こり、たくさんの命が当然のように失われている。そして今のところ深雪にできることといえば、ただ途方に暮れてその光景を見つめるだけなのだ。
(俺は間違っていないかもしれない……でも、『正しい』わけでもないんだ)
間違っていると口先で批判することは簡単だ。だが、それに代わる『正しさ』を証明できなければ、誰も納得などしない。力がものを言うこの《監獄都市》では尚更のことだろう。どうすればそれが叶うのか。しかし、深雪にはそれがまだ分からない。
(俺……一体、どうしたらいいんだろう)
今の深雪には、語るべき正義も、それを実現するだけの力も無い。ただ、力なく項垂れるしかなかった。
一方オリヴィエは、ビルの奥へと進む奈落を追っていた。奈落はすでにその階の隅にある、上へと続く階段へと歩を進めていた。オリヴィエは奈落へ追いつくと、小さな声で問い詰める。
「どういうつもりですか」
「何がだ」
「あなたに面倒見の良さや親しみやすさを求めるのは、とてつもなく愚かだと分かっています。でも、それにしたって……あんな対応をしなくてもいいでしょう!」
奈落は足を止め、うんざりしたような口調で吐き捨てる。
「充分、手加減はした。あいつが事務所の人間じゃなかったら、首を圧し折ってる」
「何を馬鹿な事を……。とにかく、あなたも高圧的な態度は慎んでください。だから深雪もあなたを過度に警戒するのですよ。信頼関係を築かなければ、いずれ深刻な事態に陥ります。あなたも分かっているでしょう?」
オリヴィエの口調は子供の喧嘩を宥める教師のようだった。奈落はすこぶる不機嫌そうにしていたが、やがてふと視線を深雪の方へ投げる。そして懐から煙草の箱を取り出し、口を軽くたたくと、頭をのぞかせた煙草を口に咥え、火をつけた。
「野ウサギを追ったことはあるか」
「……はい?」
「野ウサギだ」
「いえ……私の故郷ではウサギを食べる習慣が無かったので……」
急に何の話をと、オリヴィエは戸惑いの表情を浮かべる。すると、奈落は紫煙を吐き出しながら、肩を竦めた。
「食う為じゃない。子供の遊びだ。必死で逃げ回る様子が面白い。生け捕りにして数を競う」
「なんて可哀想な事を……」
呆れ顔のオリヴィエに構わず、奈落は言葉を続ける。
「――巣穴に戻る寸前で捕え、引き擦り出す。怯えと絶望が入り混じった、卑屈な眼でこっちを見る。……あいつの眼と、よく似ている」
「………」
奈落の言わんとするところを察し、オリヴィエもまた深雪を見つめる。その瞳は建物の影のせいか、いつもより深いコバルトブルーだった。
やがてオリヴィエは溜め息を一つつくと、小さく呟く。
「……深雪が怖れているのは、あなたや私などではありませんよ。彼が怖れているのは、おそらく彼自身です」
「……。なおさらタチが悪いだろう」
奈落は、フンと鼻を鳴らし、それに答えたのだった。
深雪はまだビルの奥で項垂れたまま、そこに佇んでいた。
その後、奈落とオリヴィエはあっという間に建物を制圧し、《タイタン》の頭の身柄を拘束すると共に、彼らの所持していた大量の薬物を押収した。
深雪はどこか虚ろな思いで、それをただ見つめていた。
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新宿の街はいつものように雑多で、多くの人出で賑わっていた。
狭い通路には多くの露天商が店を出し、路上を占拠して声を張り上げている。
通行人のタイプも様々だ。
明らかにガラの悪い者もいれば、一般人と変わらない者もいる。体をくねらせ、客の男に流し目を送る娼婦や、獲物を狙って目をぎらつかせているスリの少年グループたち。いいものも悪い者も一緒くたになり、ごった煮状態と化している。
深雪はその中を一人、歩いていた。いつも傍にいる筈のシロはいない。深雪は先日あったとある事件で、ある少年の凶行を止められず、死なせてしまったことを引き摺っていた。その為、シロとぎこちない関係が続き、修復できずにいた。
(俺……カッコ悪ぃな……)
昨日も、《タイタン》の制圧で思うように動けなかった。うまくいかない事ばかりで、その殆どは自業自得だと言っていい。理由は分かっている。自分の中で明快なビジョンが描き出せていないせいだ。どう動くべきなのか、何をすべきなのか。未だに巨大迷路に放り込まれたまま、進行方向が決められずにいる。深雪はすっかり気が滅入っていた。
これがもし、単に深雪の未熟さゆえであるなら、ある意味話は簡単だったろう。しかし、ここが《監獄都市》であるという事実が、余計に深雪を混乱させていた。
《監獄都市》と化した東京は、何もかもが昔と違っていた。
かつての首都としての、威風堂々たる繁栄の痕跡はそこには無い。
法が全くと言っていいほど機能せず、ゴーストたちが日夜、平然と争い合い、奪い合い、殺し合いすら厭わない無法地帯と化している。深雪が《冷凍睡眠》で眠らされている間、全てが変わり、狂ってしまっていたのだ。
昔、子どもの頃に流行った歌の歌詞を思い出す。「自分が変われば、世界も変わる」――と。それは二十年前の東京では、確かなリアリティを伴っていたのかもしれない。でも今は、とんだ思い上がりだと深雪は思う。自分が変わらなくとも、世界は変わる。それも自分の手の届かない場所で、想像もしなかったような理由で、容赦なく変質していくのだ。そして、歪みは大蛇のようにうねり、全てを丸のみにしていく。誰もそこから逃れることなどできないのだ。
深雪とてそれは例外ではなく、《監獄都市》の非情な現実に、為す術もなく打ちのめされる日々が続いていた。
溜め息をつきながら、先ほど事務所を出るときのことを思い出す。




