第27話 微かな希望
「……何をやっている? 特殊な場合を除き、私闘は禁じている筈だが」
冥界の王を思わせる重々しい口調で、六道は言った。
「所長……」
流星を始め、皆どことなく気まずそうだった。
――深雪と奈落の二人を除いては。
六道はじろりと煙草を吹かす奈落を見やると、次に深雪へと視線を向ける。
「何か勘違いしているようだが、今回の作戦を決行するよう指示を出したのは私だ。他の者へ怒りをぶつけるのは筋違いというものだろう」
深雪は、はっとした。全ては目の前の、死神のような男の仕業だったのだ。深雪を泳がせ、その隙に命の命を奪う。悪意すら感じるその計画を彼が立案したのだ。深雪はその事実に茫然となった。
考えてみれば当然のことだ。深雪は六道の半身を、人生を奪った。その六道が深雪を快く思う筈がない。深雪を餌に獲物を誘い出すくらいのことは、平気でするだろう。
それこそ深雪の意思や感情がどこにあるかなど構いもせずに。
そう考えた次の瞬間、深雪はこれでもかと六道を睨んでいた。
しかし六道はそれを無視して他のメンバーに告げた。
「……無事に終わったようだな。今日はご苦労だった。上がってくれ」
「……。了解です」
そう返事をすると、みな一斉に部屋を退出し始める。シロや流星は深雪を気にしたような素振りを見せたが、六道の鋭い眼光に促され、扉をくぐっていった。
後に残されたのは六道と深雪だけだった。
「お……俺は……。こんなの、間違ってる……!」
あまりの怒気に肩を震わせる深雪に対し、六道は冷然として言葉を突き付ける。
「言ったはずだ。ここで『正義』を為すには力が必要だと。口先で綺麗事を喚き散らしているだけでは、何も変わらんぞ」
彼の主張は、再会した時から一貫して同じだった。六道は命を死に追いやったことなど、なんとも思っていないのだ。深雪は冗談じゃない、と反発した。その主張にはとてもではないが賛同できない。むしろ、六道のあまりの冷酷さに強い憤りさえ覚えていた。
力で相手を屈服させる『正義』はいつか自分に跳ね返ってくる。そもそも、自らの行動を『正義』と断ずるそのおこがましさが、命のような力なきものを追いつめているのではないのか。
ただそう思う一方で、一つだけはっきりと悟ったことがあった。それは六道には力があり、深雪にはないということだ。六道には己の『正義』を貫くための権力や人員がある。
それに比べ、深雪には何もない。『正義』を貫くだけの権力もなければ、この現実を共に変えていく仲間も部下もいない。その点においては、六道の言葉は間違いなく事実を突いていた。
六道は、ある意味に於いては確かに正しい。しかし、それにしてもやり方というものがあるのではないか。深雪はそこに、悪意を感じずにはいられなかった。
「……復讐、か……?」
怒気の籠った低い声で吐き出すと、六道は眉を上げる。
「何?」
「俺を、この事務所で雇った事だ! 目の前で罪を償えと……! だからわざわざ、俺を泳がせてまでして、目の前で命を……‼」
「馬鹿な。何故、私が君に復讐などする必要がある?」
「俺は……めちゃくちゃにした……! あんたの人生を、全部……何もかも……‼」
だから、これは彼なりの復讐ではないか。深雪が嫌がっているのに事務所に引き留め、その目の前で友達だった命を《リスと入り》させた。そこに何ら私情が混じっていないわけが無いではないか。
すると、六道は死神のような陰気な瞳をゆっくりと細めた。
「随分と傲慢だな。それは、あくまで君の主観だ。生憎と私は、そこまで自分の人生に悲観しているわけじゃない。それに《ウロボロス》の事情は充分承知している。君に全ての責任をかぶせるほど愚かでもないつもりだが?」
「だったら……だったら、何で命を殺したんだ‼」
憤りを募らせる深雪に、六道は巌のごとく立ちはだかった。
「それとこれとは、全く別の話だ。奴は多くの人間に蜂を寄生させ死に追いやった、殺戮犯だ。知能が高く、愉快犯の傾向もある。野放しにはできない」
「でも……!」
「強いアニムスを持つ者の中には、自らの力に呑まれる者がいる。己の力に依存し、まるで神にでもなったかのような錯覚を起こすのだ。鵜久森命もまさにそのケースだ。
……それでも奴が秩序に準ずるというのならば、何も問題はない。だが、現実には現行の秩序を掻き乱し、意のままに操ろうとした。そうであるなら、排除するしかない」
「また『秩序』かよ!『秩序』、『秩序』って……そんなに大事か? そこにある人の心を蔑ろにしても、守るべきものなのか‼」
「当然だ。人の心もまた、秩序あってこそ守られるものだからだ」
「あんたの言う事は正論かもしれない……でも、少なくともこの街では、その限りじゃない! あんたたちの作った『秩序』のために、どれだけの人間が苦しんでるか! ……命だって、傷ついて、何かを変えようとしていた! やり方は間違っていたけど、でも、あんたの言う『秩序』さえなければ、きっとあそこまでの事はしなかった‼」
「それは仮定の話にすぎん。鵜久森命は道を踏み外した……それが現実だ。我々はそれに、適切に対処した。この街のルールに則って、な」
「だから、それが間違っているんだろ!」
「正しいか間違っているかは問題ではない。全てはこの街の秩序を維持するためだ」
「………‼」
深雪はどっと徒労感を感じた。もはや何を言っても、この男とは分かり合えないだろう。深雪の考えと六道の考え、両者はこの先どれだけ行っても交わることはなく、平行線のままなのだ。
何を言っても、通じない。
鋼鉄のような分厚い壁と一人で戦っているような気分になって来る。
これ以上、六道と対峙していたくなかった。返す言葉すら無い惨めな状況に、これ以上は甘んじていたくなかった。無言で身を翻すと、六道には何にも言わずに部屋を飛び出す。
六道もまた、それを咎めることも制止することもしなかった。
廊下に飛び出した深雪は、ミーティングルームのドアのすぐそばで海と出くわす。海も二階での揉め事に気が付いたのだろう。ここで会議室の様子を伺っていたらしい。
海は突然飛び出してきた深雪に仰天したようだったが、すぐに心配そうな表情になる。
「だ……大丈夫ですか、深雪さん? 顔が真っ青……」
「琴原さん……ちょっと、今は……ごめん……!」
深雪はすっかり打ちひしがれていた。少しでも優しくされたら、その場に頽れて泣き出してしまいそうだった。海にはそんな無様を見せたくない。
何とかそれだけ言い残すと、逃げるようにその場を去った。
その頃。
六道が去り、無人となったミーティングルームに、ぼんやりと人口の光が差す。ほどなくして、台形を逆さにした会議用デスクの上に、ウサギのマスコットが浮かび上がった。
「全く……殿方ってどうしてこう騒々しいのかしら」
マリアは理解できないとばかりに肩を竦める。もちろん、深雪や奈落の起こした騒動は察知していた。しかしその内容はマリアにとってさして興味のあるものではなく、面倒事に巻き込まれるのが億劫で身を隠していたのだ。
すると、マリアが姿を現したのとほぼタイミングを同じくして、会議室の窓が突然開いた。そしてそこから、神狼が音もなく滑り込んでくる。会議室は事務所の二階にあるが、身軽なこの元・殺し屋の少年にとっては、そこから部屋に侵入するくらい何でもないことだった。
おそらく神狼は何か用事があって、この部屋に戻ってきたのだろう。そしてそれは、他の者には知られたくないことなのだ。そうでなければ、こんなにコソコソする必要など無い筈だ。
「……マリア」
神狼に声をかけられたマリアは、内心で少しワクワクしながら「なあに、神狼?」と返事を返す。神狼は一瞬口籠ったが、やがて意を決したように口を開いた。
「一人のゴーストにアニムス、一つだけ……だよナ?」
「そりゃまあね。アニムスはゴーストの魂の具現化と言われているくらいだもの。一人のゴーストにつき、アニムスはひとつ。これはいわば大原則みたいなものね」
何を今更――心の奥でそう思ったが、顔には出さずにマリアは答える。神狼もやはり、という顔をしたが、次にますます戸惑ったような表情をして尋ねた。
「……。だったラ、ゴーストが人間に戻るコト……あるカ?」
マリアは、いいえ、と即座にそれを否定する。
「残念ながら、そういう話は今のところないわ。一度ゴーストになってしまったら、人間には二度と戻れない。世界各地の研究所でゴーストを人間に戻す治療法を研究しているっていう噂もあるけど、実現したという話はまだないわね。でも……それがどうかしたの?」
神狼は口を開きかけるが、僅かに逡巡した後、首を振った。
「いや……何でもナイ」
「あらそう?」
神狼はそのまま黙って窓をくぐり、さっと部屋を出て行ってしまった。会議用デスクの上に浮かび上がったウサギのマスコットは、指をくわえてそれを見送る事しかできなかった。せっかく何か面白い情報を持ってきてくれたかと思ったのだが、神狼はそれを明かさぬまま去ってしまったのだ。まさに釣り上げた魚を逃がしたかのような心境だった。
「ふうん……隠し事なんてらしくないわね。さては深雪っちと何かあったかしら? ……ま、どっちでもいいけど」
いざとなったら、情報を手に入れる方法はいくらでもある。今はまだ、神狼をそっとしておいた方がいい。
マリアは肩を竦めると、音もなくその姿を消した。
深雪は走った。
六道の暗い視線から、奈落の嘲りから、そして何より如何ともし難い現実から逃げるように、走り続けた。
そして暗い階段を駆け上がり、気づくといつの間にか事務所の屋上に上っていた。
ここからの眺めは好きだ。空が見えるし、街並みも一望できる。高すぎず、低すぎない。気分転換に丁度いいのだ。今も無意識のうちに、広々とした空を求めていたのかもしれない。
何の躊躇も無く大空に身を躍らせた命の気持ちが、少しだけ分かるような気がする。
すると、間を置かずしてシロが屋上へと駆け上がってきた。
「ユキ、待って! 怒らないで、聞いて……!」
「シロ……」
顔を強張らせて振り向く深雪に、シロは必死で訴える。
「六道は悪くない……悪いのはミコッちゃんだよ!」
「シロも……命が死んで良かったっていうのか⁉」
低い声で、鋭くそう問い詰めると、シロは、「そ、そうじゃないけど……」と言葉を濁らせる。
「あいつは……あいつはただ、犯罪に手を染めたゴーストが憎いだけだ! あの冷たい目、見ただろ⁉ 憎くて、赦せなくて……ここでは法律が機能しないことをいいことに、自分の手で好き勝手に裁いているだけじゃないか‼」
深雪が憎いなら、恨んでいるなら真正面からそう言えばいい。それなのに、このようなやり方はいくら何でも卑怯ではないか。深雪の胸中には六道に対する不満と不信が吹き荒れていた。
シロもそれは察したのだろう。悲しげに表情を曇らせたが、それでもなお言葉を続ける。
「でも、それでも六道は悪くないよ!」
「どこがだよ⁉」
「ユキは知らないから……六道がどれだけ苦しんでるか、どれだけ自分のことを犠牲にしているか……!」
シロは両手で脳紺色のスカートの端をぎゅっと握った。その両目には、涙がうっすらと滲んでいる。その様は、まるで恋人や家族を心配し、憂う少女の姿そのものだった。
彼女の六道に対する信頼は、深雪の想像していたものを遥かに超えて強固だった。深雪は内心でその事実にショックを受ける。
そして、それは次に激しい嫉妬へと姿を変えた。
「………。シロはあいつの肩を持つのか……⁉」
問い詰める深雪に対し、シロはボロボロと涙をこぼしながら答えた。
「六道はね、シロに言ったよ。――事件を解決する方法なら他にいくらでもある。けど、事務所の所員の命を危険に晒すわけにはいかなかったって。だから、ユキにどれだけ恨まれようと、これが一番いい方法だったんだって……‼ 六道はユキに、ミコッちゃんのところには行って欲しくなかったんだよ!」
「………‼」
深雪は何も言い返すことができない。
命が深雪に毒を盛り、殺そうとしたのは事実だ。
そしてまた、六道の下した判断のおかげで、深雪がそれを免れたのも事実だった。
そうでなければ、今頃は蜂毒で死んでいたかもしれないのだ。
長い沈黙の後、深雪はようやく口を開く。
「悪いけど……一人にしてくれないか」
「ユキ……!」
「一人にさせてくれ、お願いだから……‼」
絞り出すように懇願した。シロは何か言いたげだったが、そのまま無言で屋上を後にする。
誰もいなくなった屋上で、深雪はがくりと膝をついた。一度膝を折ってしまえば、それが最後だった。それまでギリギリのところで保っていたものが全て、音を立てて決壊してしまった。
「う……うう……‼」
喉の奥から、獣の唸り声のような嗚咽が漏れる。
(分かってる……こんなの、ただの八つ当たりだ。俺は何もできなかった。何一つ、守れなかった……‼)
心のどこかでその事には気づいていた。だが、どうしても認めたくなかったのだ。そして、六道に憎悪を向けることで、自分の弱さから目を背けようとした。その挙句に、シロまで傷つけてしまったのだ。
(俺は、最低だ)
或いはその深雪の弱さを、六道は気づいていたのかもしれない。覚えの無い怒りを向けられることを承知で、それでも彼は己の『正義』を貫いたのだ。
完敗だ。
深雪は完全に自分が敗北したことを悟った。
(俺は……強くなりたい。力が欲しい。命みたいな奴も、この街も……両方守れるくらいの、力が欲しい……‼)
体の奥底から、強い渇望が沸き上がる。
自分の大切なものや好きなものだけ助けても意味はないし、秩序を守るだけなのも間違っている。何かを切り捨てることで得たものは、きっとそれそのものも容易く失われてしまうだろうからだ。
《死刑執行人》などいなくても、成立する世界が欲しい。そして、《壁》を全て取っ払っても、人とゴーストが互いに嫌悪することなく、共存できる世界にしたい。
確かにその道は困難を極めるだろう。それは六道を含め、この監獄都市の統治者たちですら成し得なかったことだからだ。
自分の望みがあまりにも壮大で、そう簡単に果たせるものではないという事は分かっている。何から手を付けていいのかもわからない状態だ。
ただ一つ明らかなのは、それはどれだけ強いアニムスがあろうと、一人では決して成し得ないという事だ。
(或いは、あの力があれば、何かを変えられるのか……?)
不意に、己の右腕に現れた、正体不明の力の事を思い出す。
命は確かに叫んだ。
アニムスが無くなった、と。
それは本当なのか。そんなことが起こり得るのか。命がいなくなってしまった今となっては、確かめようもない。
だが、もし本当なら、とんでもない事が起こっているのだという事は理解できた。
ゴーストを人に戻す能力。そして、命を死へと至らしめた能力。
それが一体、周囲にどれほどの影響力を持つのか。途方もなさ過ぎて想像もつかない。そして、何故自分にそんな能力があるのかも。
右手に鈍い痛みを覚え、手の平を開く。
そして、それを大空に向かっていっぱいに掲げた。
薄曇りの空の中で、右手の手の平の中心がぼんやりと弱々しい光を放っていた。




