第26話 この世界に生きる意味
ありったけの光を放出した後。
温室の中は突如として静けさを取り戻した。
深雪の右腕は未だ白く輝いていたが、先ほどまでの嵐のようなエネルギーの放出は収まっている。
何が起こったのか、深雪自身も正確に理解はしていない。
ただ一つだけ、おぼろげながらに感じ取っていた。
自分は為すべきことを為し終えたのだ、と。
深雪は静かに命から手を離した。すると同時に肩から生じていた光の翼もすっと消え、右腕全体が発していた白光も消え失せて元の肉体としての立体を取り戻す。
解放された命はすっかり放心した表情で、がくりとその場に膝をつく。
その両目に、感情らしきものは見受けられない。
まるで魂の抜けた人形のようだった。
「ユキ……?」
シロはまるで、鋭利な刃物に触れる時のように、慎重に深雪に声をかける。
「シロ……」
深雪はすっかり疲労し、ぼんやりとしながらも、シロの方を振り返った。いつもの様子に戻った深雪に、シロはほっと表情を緩ませる。そして、こちらに駆け寄って来て尋ねた。
「ミコっちゃんに何をしたの?」
「わ、分からない……俺はただ、命を人に戻したかっただけで……」
深雪もまた、自分自身に起こった変化が何だったのか、首を傾げていた。起こそうと思って発生した現象ではない。ただ、体の奥から湧き上がる怒りに突き動かされ、感じるままに動いただけだ。
その感覚は、自分の手足から糸が出ていて、操り人形のように誰かに動かされている感覚に近かった。完全に無意識の行動だったのだ。
ただ、あれほど激痛に苛まれていた右腕は、すっかり通常の状態に戻っていた。痛みもなければ、違和感もない。手の平も、何の苦も無く開いたり閉じたりできる。
自分が命に何をしたのか。
命はどうなってしまったのか。
気になって目を向けると、命は意識を取り戻し、頭を押さえよろめきながらも、立ち上がるところだった。
「くっ……」
命は緩慢な動作で頭を振り、呻き声を発した。
「……‼」
一方の神狼は、今度こそ命を仕留めようと、匕首を構える。
「待て、神狼!」
しかし、深雪がそれを制した。神狼は小さく舌打ちをし、こちらを睨んだが、結局匕首を持つ手を降ろした。先ほど目にした光景のせいで、深雪に対する警戒心が生まれたのだろう。次は何をするつもりかと、訝しげな表情でこちらを凝視している。
深雪は再び命へ目を向けた。命は、最初ぼんやりとしていたが、やがてはっとして目を見開く。そして、華奢な両手で自分の耳を押さえた。
「……⁉ 声が……声が、聞こえない……⁉」
「ミコっちゃん?」
一体、何のことなのか。深雪の後ろでシロが疑問符を浮かべた声を出す。
しかし、命はシロの疑問が全く耳に入らなかったようだ。それどころか深雪や神狼の存在さえ無視し、ぶつぶつと自分の世界に没頭している。
「変だ……そんな馬鹿な! 植物たちの声が……蜂(この子)たちの声が聞こえない‼」
命は悲愴感のこもった表情をし、次いでそれをこれでもかと歪めた。深雪たちは何が何だか分からず、無言で成り行きを見守る。
ところが、命は注目を浴びていることなど、心底どうでもいいようだった。深雪たちの方は一顧だにせず、宙を飛んでいる寄生蜂たちに向かって縋るように両手を伸ばす。
「頼む……僕の友人たち! 僕の言葉に応えてくれ!」
全身全霊を込めた、請願の声。
しかし、ピンクの蜂たちは命の言葉が理解できないのか、そっぽを向く。そして、そのまま銘々、別々の方向へ飛び立ってしまう。
それは完全に、どこにでもいる普通の蜂が取る行動だった。神狼に襲われた命を助けようとしていた時とはまるで別の蜂たちのようだ。
深雪には、蜂の行動も生態も、よく分からない。しかし、それが命にとって受け入れざる異常事態であるということは容易に想像がついた。
あれほど懐いていた蜂たちが見向きもせずに去ってしまったのだ。それは彼にとって、半身を失うほど衝撃的であるに違いない。
「あ……ああ……やっぱり……! 僕のアニムス、《アガシオン(使い魔)》が効かない……‼」
案の定、命はこの世の終わりのような声音で叫んだ。一部始終を目にしていた神狼は、信じられない、という表情で呟く。
「アニムスが、無くなった……? それはつまり……ゴーストでなくなったという事カ……⁉」
その者がゴーストであるかどうかは、アニムスを持つか否かということで決まる。
例え一見アニムスを持たない低アニムスのゴーストであっても、実際にはアニムス波という特殊な電磁波を発しているのだ。それは、表には出ないが微弱なアニムスを所持しているということでもある。
そのアニムスが無くなった――それはつまり、ゴーストではなくなったということだ。
ゴーストでなくなったら、何になったのか。
アニムスを持たないゴーストは、ただの人と同じではないか。
その事実に、神狼は愕然としていた。
「命……」
「来るなぁっ‼」
近づこうとする深雪を、命は大声で制した。そして戸惑う深雪に、激しい憎悪で滾らせた瞳を容赦なくぶつける。
「君だろう、僕からアニムスを奪ったのは! 何てことをしてくれたんだ? ……戻してくれ! 人間なんて醜い存在になり下がるのなんて、まっぴらだ‼ 今すぐ、ゴーストに戻してくれ‼」
深雪は目を閉じて首を横に振り、それはできない、と命に告げた。「……俺はただ、命に人間に戻ってちゃんと罪を償って欲しいだけだ」
しかし、それは命の中で燃え盛る怒りの炎に、さらに油を注いだだけだった。命はどす黒い感情を剥き出しにし、吠えるようにして叫んだ。
「罪? ……償う? 笑わせるな‼」
「……命、君は間違えたんだ。沢山の無関係の人を巻き込んで、怪我をさせたり命を奪ったり……そんなことは例えゴーストであっても赦されることじゃない。……命、君だって言ってただろ。『悪は裁かれなければならない』って。だから……」
深雪は必死で言葉を探した。どうしても命に理解して欲しかった。
しかし、同時の心のどこかでは、自分の言葉が決して命には届かないであろうことを悟り始めていた。深雪の『悪』と命の『悪』は違う。そして、その溝は容易には埋められない。命は己の下した選択を、おそらく後悔もしていないし、間違っているとも思っていないのだ。
胸の内に、諦念にも似た冷たい感情が、ひたひたと満ちていく。
すると、命は突然、ははははは、と乾いた笑い声をあげた。
「……そうか、そういう事か。今度は君が秩序になって僕を従わせようという事か⁉」
「違う! 命、聞いてくれ‼」
「冗談じゃない……お前の思い通りになってたまるか‼」
「命‼」
「《アガシオン(使い魔)》の能力は僕の人生の全てだ。自然と通じ、会話できたから僕はここまで生きてこれた! 僕にとってアニムスを失うという事は、全てを失うという事だ! ゴーストでなくなった僕に――人間に戻ってしまった僕の生に、価値なんて無いんだ‼」
命はぐしゃぐしゃに表情を歪め、全身を戦慄かせて叫んだ。そこには、先ほどまで命が発していた、神々しいまでの自信は微塵も残っていない。
深雪はそれを、どこか空虚な気持ちで見つめていた。財産、地位、名誉。それらを全て突然剥ぎ取られた人間は、この様な姿であるのだろうか、と。
命は哀れだった。失われたアニムスを求め、目を血走らせるその様は、飢えと渇きに苦しむ地獄の亡者そのものだった。
「そんなことない! 力なんて無くたって、人の価値は変わらないだろ‼」
深雪もまた叫んだ。どれだけ言葉を吐き出しても、命には届かない。分かってはいたが、叫ばずにはいられなかった。
すると、その刹那だった。
命の両目から忽然と光が消え失せた。
あれほど強い感情を宿していた瞳は突如として力を失い、黒々とした洞となる。嵐の時の、荒れ狂った波間から覗く海底よりも、深い深い闇色。それは、蝋燭の火が風に煽られ消えるときと同じように、あまりにもあっけなく訪れた。
深雪は戦慄し、息をのむ。
「あなたに僕の何が分かるっていうんだ、深雪さん? 『持つ者』であるあなたに、僕たち屑の何が理解できる? ここでは力が全てだ。『特別』でないただのゴミがどれほど惨めか……僕はもう、あんな思いはしたくない」
そう言うと、命はふらり、ふらりと歩き出す。今にも朽ちてしまいそうな枯れ木のように、頼りない足取りでどこへともなく進んで行く。
「命! よせ‼」
深雪は瞬時に悟っていた。命が一体、何をするつもりであるかを。
しかしその制止を振り切り、命は狂ったように走り出す。そして温室から張り出したバルコニーへと一直線に走っていった。
「―――……命‼」
全ては一瞬だった。
命は一分の躊躇も見せることなく。
そこから宙へ身を躍らせた。
それはまるで、汚らわしい地上から清浄な世界へと飛び立とうとしているかのような、そんな清々しささえある跳躍だった。
深雪は命の後を追って手を伸ばした。足元のコンクリートがぼろりと欠け、落下していく。
背後からそれを目にしたシロの悲鳴が聞こえて来た。深雪も落下してしまうのではないかと思ったのだろう。
だが、それにも構わず、深雪は崩れかけたバルコニーから身を乗り出した。
しかし、その手は命の体を掴むことはなかった。
最後に落下していく命と、手を伸ばす深雪の目が絡み合う。
命は薄っすらと微笑んでいた。困ったような疲れたような、空虚な微笑だった。
そして少年は、そのまま地上へと吸い込まれていく。
深雪はただ、それを呆然と見つめていることしかできなかった。
バルコニーに残されたのは、静寂のみだった。
深雪は彫刻のようにその場に固まり、ただ真下を凝視する事しかできなかった。主を失った温室の中から、轟々と風が吹いてくる。
まるで、こんな結末を招いた深雪を責め立てるかのように。
やがて深雪はがくりとその場に膝をつく。その途端、胸の奥からどっと感情の塊が溢れ出した。怒り、悲しさ、悔しさ、そして無力感。自分に対する失望と命に対する絶望が、竜巻となって荒れ狂う。そのあまりの激しさで、心身がずたずたに千切れそうだった。
「命、どうして……! 俺は命に死んで欲しくなかった。生きていて欲しかっただけなのに……‼」
深雪はただ打ちひしがれ、嗚咽を漏らす。
シロはそんな深雪に、静かに寄り添った。
背中に添えられた獣耳の少女の、手の平の温もりだけが、深雪の心を支えていた。
一方の神狼は、一人離れたところで蹲る深雪の後ろ姿を見つめる。そして先ほど深雪が見せた、右腕の変化について考えていた。
本当にあの翼のような力のせいで、鵜久森のアニムスが失われたのだとしたら。
それは鵜久森命の《アガシオン(使い魔)》などとは比べようもないくらい、とんでもない事態だ。人間からゴーストになる者は大勢いる。だが、ゴーストから人間に戻った者は皆無だからだ。
気になることは他にもある。目の前の日本人――雨宮深雪のアニムスは、確かに《ランドマイン》といった筈だ。それは本人もそう説明していたから間違いない。では、先ほどの翼のような力は何なのか。
もしあれがアニムスだとしたら、雨宮深雪には二つアニムスがあるということになる。それもまた、神狼には聞いたことのない現象だった。
「こいつ……一体、何者ダ……?」
神狼は警戒の多分に入り混じった怪訝な表情で、深雪の後ろ姿を睨む。
その個人情報欄には、役立たずの甘ったれという項目に続いて、取り扱い危険物という新たな情報が書き加えられたのだった。
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一時間後。
憔悴しきった深雪は、残った力を振り絞り、なんとか東雲探偵事務所に戻る。
シロが献身的に支えてくれたので、どうにか事務所に辿り着くことができた。そうでなければ、途中で行き倒れていたかもしれない。
二人の後ろに神狼が続いた。神狼は終始無言で、深雪の方を睨み付けていたが、当の深雪は疲れ果てていて、それに反応する気力もなかった。
深雪が事務所のミーティングルームに入ると、流星とオリヴィエ、奈落が先に戻って、深雪たち三人を待ち受けていた。
「……戻ったか」
深雪はのろのろと顔を上げる。すると、こちらを見つめる流星と視線が合った。
その瞬間、リスト登録の件が脳裏に蘇る。事務所側は、深雪を騙し討ちにする形で、勝手に命をリスト登録したのだ。
結果的にそれは正しかったとはいえ、到底納得することはできなかった。
深雪は自分の表情が強張るのを感じた。そして次に表情を怒りに染め、流星に詰め寄る。
「……どういう事なんだよ? 既に命のリスト登録をしていたのに、俺の前ではさもこれからみたいな言い方して……俺の事、騙したのか⁉」
「深雪……」
流星はピクリとも表情を動かさなかった。ただ深雪から視線を逸らし、目を伏せただけだった。それが深雪の神経を逆なでにした。
「命は……命は普通の奴だった! ゴーストにさえならなければ、寄生蜂を操ったりすることもなかったんだ‼ 俺は命を助けたかった……助けられたかもしれないのに‼」
他の者はともかく流星は分かってくれていると、心のどこかで思っていた。しかし結果を見れば、それがただの勘違いだったのは一目瞭然だ。
むしろ深雪が流星に対してはそれなりに警戒を解いていることを、彼らは逆手に取ったのではないか。深雪は抑えきれない怒りをぶちまける。
しかし、それでも流星は無言だった。その姿は、深雪の目にはとても冷淡に映った。なおも非難の言葉を口にしようとしたその時、壁際に身を凭れて煙草をふかしていた奈落が唐突に口を開く。
「……滑稽だな」
「何だと……⁉」
深雪は怒りの矛先を奈落に向ける。しかし奈落はそれを意に介した様子もなく、紫煙を吐き出しながら深雪を冷ややかに見降ろした。
「とんだお笑い草だと言ったんだ。他人の批判は一人前で、自分のやったことは棚上げか」
「……!」
事務所のメンバーに、命の情報を隠していたことを指しているのだと、すぐに分かった。ぐっと言葉に詰まる深雪に、追い討ちをかけるかのように奈落はせせら笑った。
「そもそもあんなクズ、救ってどうする? 死んだ方がよほど世のため人のためだろう」
「何だと……⁉ ふざけるな‼ 死んだ方がいいとか、何でお前が決めるんだよ⁉」
深雪は激高し、奈落に掴みかかった
相手は自分より頭一つ分は優に背の高い、対ゴーストを専門とした元・傭兵だ。おまけに奈落もまたゴーストであり、アニムスがある。普段なら、絶対に喧嘩を売ったりしなかっただろう。
しかし、深雪はすっかり逆上していて、そんなことは完全に頭の中から消え去っていた。
ところが、深雪が奈落のコートの襟をつかもうとしたその瞬間、目の前に激しい火花が散った。いったい何が起こったか。認識する前に、深雪の体は後方へと吹っ飛んでいた。そして、そのまま事務所の壁に激突する。
「がはっ‼」
床に身を打ち付けながら、ようやく自分が奈落に殴り飛ばされたのだということを理解した。
「ゆ……ユキ!」
「よせ、奈落!」
シロが慌てて深雪に駆け寄り、流星は奈落の腕を抑えた。
「何も暴力を振るわなくてもいいでしょう!」
オリヴィエもまた、咎める口調で深雪と奈落の間に割って入る。ところが当の奈落といえば、それ以上の興味は完全になくしたようで、床にうずくまって睨み付ける深雪の視線にも涼しい顔をしていた。
深雪はすっかり頭に血が上り、シロの止めるのも聞かず、再び奈落に掴み掛かろうと身を起こす。するとそれを牽制するかのように、ミーティングルームの扉が音を立てて開いた。
その場にいる全員の視線が、部屋の入口へと集中する。
そこに立っていたのは、死神のような黒い影――東雲六道だった。




