第60話 十字路での遭遇【深雪サイド】
深雪は雨宮や碓氷と共に玉宝の元を出発し、藍家を目指していた。
当初の予定では三十分ほど休憩しすぐに出発する予定だったが、その予定は大幅に遅れていた。《レッド=ドラゴン》の内部抗争は収まるどころか悪化するばかりで、とても外に出られるような状態ではなかったからだ。
おまけに、ただでさえ混沌とした街の様子に、更に異変が現れた。それまで無秩序に攻撃し合っていた群衆の暴力行為が、何故か一斉にぴたりと止む。そして互いに罵り合い、ぶちまけ合っていた怒りが徐々に一つに結束していき、大きなシュプレヒコールへと変化していったのだ。
もともと、緑家や白家、黒家が主体となって始まったデモだったが、それに紅家や黄家、藍家の人々は参加せず、静観したり鎮圧しようとしたりしていた。しかし今や所属する家を問わず、全ての街の人間が怒りの声を上げている。
その迫力は凄まじく、文字通り振動となって街全体を震わせた。怒号が拳となり、それによって叩きのめされているような錯覚さえ覚えるほどだ。
破壊行為が止んだこと自体は歓迎すべきだったが、それだけでとても安全になったと判断することはできなかった。何故なら、それまでばらばらに噴出していた人々の怒りや憎悪の感情が一つにまとまることによって、危ういほど巨大な熱狂のうねりと化していたからだ。
大勢の集団で同じ感情を共有することは、その感情がどのようなものであれ、途轍もない一体感や独特の高揚感をもたらすものだ。大人数で映画や演劇を鑑賞したり、様々な祭り(フェスティバル)に参加した時の感覚に似ているだろうか。
《東京中華街》の人々は今、完全にその高揚感に呑まれていた。彼らの嫌悪や怨嗟はもはや爆発寸前で、いつそのうねりが暴走し、決壊を起こしてもおかしくない。だが、その危うさに気づいている者は、皆無であるように見えた。
みな一斉に一つの方向へ向かって列をなし、感情のままに押し寄せている。彼ら自身が、まさに巨大な津波そのものとなって。
この《東京中華街》で何が起こっているのか。何故、つい先ほどまであれほど対立し合い、憎み合っていた街の人々が、一致団結してシュプレヒコールを上げ始めたのか。深雪たちにはその経緯がさっぱり分からない。
それは深雪たちを匿ってくれた白家の人々も同様であるようだった。電子端末が役に立たず、あまりに危険で迂闊に外に出ることもできない。人と人との交流がないため、情報が完全に遮断されており、街の中で何が起こっているのか何一つ詳細が分からないのだ。
ただ、こうして街中を歩いている最中、人々の会話を耳にしているうちに、どうやら紅龍大酒店(紅龍グラウンドホテル)の方で何かがあったらしい、という事だけは分かった。もっとも、その詳細も街の部外者である深雪たちには、殆ど分からない。
とにかく、今は藍家に向かわなければ。今、《東京中華街》で何が起こっているのかも、そこへ辿り着けば分かるかもしれない。深雪たちは息を殺し、目立たぬよう最大限に気を配りながら、住宅街の壁伝いに移動していった。既に太陽は傾き始めている。急がなければ夜になるのはあっという間だ。
ただでさえ、《東京中華街》の上空は爆発や火災によって生み出された黒煙に包まれており、陽の光が遮られがちだ。そのため、今の時点でも十分にうす暗い。人目を避けて行動するには好都合だが、視界が悪く状況も掴みづらいため、あまり長居はしたくなかった。
深雪たちは《東京中華街》の人々にとって、完全に部外者だ。特に深雪は《中立地帯》の《死刑執行人》であるため、街の人々にとっては仇敵だと言っていい。もし深雪の素性がばれたら、火澄を探すどころではなくなってしまう。人々を包む熱狂が、いつ深雪たちに向けられるか分からないのだ。
それを考えると、周囲を包む熱気は恐怖でしかない。まさに薄氷を踏むような思いだった。
もっとも、今のところ周囲の人々が深雪たちに敵意を向けることはない。大勢の人々がみな、導かれたかのように一つの方向へ向かって進んでいた。無秩序な破壊行為や暴力行為こそ鳴りを潜めているものの、狂気じみた光をその瞳に浮かべ、咆哮を上げながら一心不乱に歩を進めている。深雪たちもひっそりとその中に紛れ、波に乗って歩を進めていく。
『同胞よ、目覚めよ! 立ち上がれ!!』
『《東京中華街》を解放せよ!!』
『我らの街を取り戻せー!!』
『独裁者を追放しろー!!』
深雪たちが《東京中華街》に潜入した時には、多くの鎮圧部隊が混乱の収拾に乗り出していた。しかし今、彼らは積極的に仕事をしているようには見えない。あまりにも暴徒が増えて抑えきれなくなってしまったのか、それとも何らかの理由で意欲を失してしまったのか。
(一体どうなってるんだ? 前にも増して異様な雰囲気だな……何があったんだ……?)
深雪はふと、玉宝たちのことを考えた。情報が錯綜している上に、情報機器も使えないから、街に長く住む彼らでさえ何が起こっているのか分からないようだった。深雪たちが出発するのを見送ってくれた、玉宝や白家の人々の不安げな表情が脳裏に甦る。彼らは今もこの波に加わることなく、一心に騒ぎが収まるのを祈っているのだろう。
玉宝たちだけではない。姿が見えないだけで、声を発しないだけで、そういう人々も大勢いるに違いない。
(この街にいるのは、目の前で暴れ回っているような人たちだけじゃない。何が起こっているのかも分からない中、日々の生活を守るだけで精一杯、ただ息を潜めて隠れているしかなくて……そういう怖い思いをしている人たちもたくさんいるんだ。玉宝たちのためにも、早くこの混乱を終わらせないと……そのためにも、一刻も早く真澄と接触し、火澄ちゃんを《中立地帯》へ連れ戻さなければ!)
《東京中華街》の情勢は今や完全にコントロール不能に陥っている。紅家や黄家の力だけでは、もう人々の怒りを鎮め、抑えることはできないのだ。
この街の人々は基本的に、外部から干渉されるのを好まない。だが、匿ってくれた玉宝や白家の人々のため、そして親友である真澄のため、深雪は何か彼らの助けになりたかった。
具体的に、自分に何ができるか分からない。だが、できる限り真澄の――神獄の力になりたい。そして火澄を火矛威の元へ帰すのだ。それが深雪の目下の目標だった。それを実現させるためにも、まずは藍家の協力を仰がねば。
ところが進めば進むほど、人の波は更に大きくなっていく。次から次へと街の住人が合流し、うねりの巨大化に歯止めがかからない。
決してぼんやりしていたわけではなかったが、あまりに人口密度が高く、隣を歩く恰幅の良い男性と肩がぶつかってしまった。その弾みで深雪は大きくよろめく。すると前を行く碓氷が振り返り、すんでのところで深雪の腕を掴んだ。
おかげで、どうにか転倒は免れた。助けてくれたのは良かったが、碓氷はいかにも迷惑そうに顔をしかめ、毒づくのも忘れない。
「おい、ボサッとするな。この人ごみの中、離れたら最後だぞ!」
「わ……分かってるよ。でも、この人たち、一斉にどこへ向かっているんだろう?」
「あの先にでかいビルがあるだろう。《黄龍太楼》だ」
深雪の後ろに続く雨宮が、前方に聳える摩天楼の一角を指差した。天を衝くような威容を誇るビル群の中、その中でもひときわ巨大な建物が聳え立っている。《黄龍太楼》――通称、黄城だ。深雪も一度、そこへ招かれたことがあるから、それがどれだけ豪華絢爛で立派な建物であるかはよく知っている。
その《黄龍太楼》の麓には、とりわけ多くの人々が集結していた。通りを埋め尽くす凄まじい人の波。あまりにも人数が多すぎて、目視ではとても全ての数を数えられない。これだけの規模の群衆は、深雪も海外のデモやカーニバルの映像でしか見たことが無かった。
その大群に加わろうと、今もなお大勢の人々が押し寄せている。その光景に気圧され、呆気に取られていると、彼らの交わす会話も聞こえてきた。
「おい、聞いたか? 紅神獄は本物じゃないらしいぞ!」
「ああ、聞いたさ。だからこうして、抗議に駆け付けてるんだろ!」
「しかしよ、それならあの女は何者なんだ!?」
「奴は日本人だって話だ! 俺たちを欺き、不当に富を搾取していたんだ!!」
「あの女はあたし達を騙してたんだね!? くそっ、何が六華主人だ! 紅家も黄家も、みんな寄ってたかってあたしら弱い者をいじめて、血も涙もない連中だよ!!」
「絶対に許さねえ……ぶっ殺してやる!!」
「このまま大人しく虐げられてたまるか!!」
「この街は観光業で成り立っているんだ! だが、街がこんなに破壊されたんじゃ、観光客は当分、戻っては来ない。この街はもうおしまいだ……俺たちは、大事な日々の糧を奪われたんだ!!」
「それもこれも、全てはあの無能な六華主人のせいだ!!」
「紅神獄に死を!」
「紅神獄に死を!!」
「我々の《東京中華街》をこの手に取り戻すんだ!!」
「……!!」
一連のやり取りを聞いていた深雪は、内心でぎょっとした。現・紅神獄が本物ではない――それは最も知られてはならない重要な秘密だったはずだ。だが今や、街の一市民までがその事を知っている。どこからか情報が洩れ、それが公然の事実となってしまっているのだ。
(もう、そんなことまで広まっているのか! いよいよ真澄の身が危ない……急がなければ!!)
深雪は激しい焦燥にかられた。もはや一刻の猶予もない。急がなければ、神獄(真澄)と接触できないどころか、火澄を救出することすらできなくなってしまうかもしれない。
《黄龍太楼》はすぐ目の前だ。白家の人々の言った事が確かなら、真澄は今もあの中にいるのだろう。だが、あまりにも大勢の群衆がビルの周囲を取り囲んでいるので、ここからでは近づくことすらできそうにない。まさに目と鼻の先という距離なのに、直行できないのがもどかしくてたまらない。
「真澄は《黄龍太楼》にいるって、玉宝たちが言っていたよな? できれば今すぐにでも向かいたいけど……」
取り敢えず口にしてみたが、雨宮は案の定、それをバッサリと却下する。
「これほどの群衆の中、《黄龍太楼》に近づくのはさすがに危険すぎる。今は焦らず、当初の予定通り、藍家へ向かうべきだ」
幸い、藍家邸のある方向は人影もまばらであるようだった。街中の人間が《黄龍太楼》に集結しているため、それ以外の場所は逆に人通りが少なくなっているのだ。雨宮は後ろから深雪を急かす。
「とにかく、今は先を進むぞ」
「あ……ああ」
深雪は再び、群衆の流れに身を任せた。やがて、深雪たちの進む通りと別の通りが九十度に交わる交差点に突き当たる。その路地を左手に折れると、藍家邸に向かうことができるという。深雪に憑依しているエニグマが、そう教えてくれたのだ。
碓氷や雨宮にも、既にその事を伝えてある。前を行く碓氷が人波を掻き分けるようにして進み、深雪と雨宮がそれに続く。
ところがそこへ乗り込んでくる一団があった。屈強な体格をした男たちの集団で、みな同じ黄色のチャイナ服を着用し、やはり黄色いチャイナボタンをつけている。黄雷龍と彼の率いる黄龍部隊だ。黄雷龍の懐刀である影剣が、群衆に向かって大声を張り上げた。
「お前たち、こんなところで固まっていないで、解散しろ! 解散だ、解散!!」
「この通りでデモを行うことを許可した覚えはない! 秩序を乱す者は厳罰に処す‼ 更にアニムスを使った者は、命は無いと思え!!」
黄雷龍もそう大喝し、群衆を追い払おうとする。ところが、いつもであれば黄龍部隊を恐れて蜘蛛の子を散らすように逃げていく人々が、今日に限っては全く怯む様子を見せない。それどころか更なる怒りを顔に浮かべ、雷龍や黄龍部隊に噛みついていく。
「うるさい、何が黄龍部隊だ!」
「そうだ! お前らはあの、偽物の紅神獄の手下なんだろう!? あの女とグルになって俺たちを痛めつけ、さんざん搾り取った挙句、甘い汁を啜っていたんだろう!!」
「行っちまえ、この毒婦の犬どもが!! 俺たちに命令するな!!」
そうして人々は、雷龍や黄龍部隊たちに石やゴミなどを投げつけ始めた。中には唾を吐きかける者もいる。その唾が直撃してしまったらしく、雷龍は顔を強張らせた。
「くっ……!!」
「だ……大丈夫ですか、雷さま! やつらめ、何という事を……!!」
「……気にするな、影剣。大したことではない」
しかし、雷龍の顔は青ざめていた。言葉は毅然としているものの、内心では酷くショックを受けていることは明らかだ。
これまで黄龍部隊は街の人々から恐れられる存在であり、同時にある程度の信頼も得ていた。黄龍部隊がいるなら安心だ、と。しかし、今やその信頼は跡形もなく消し飛んでしまっている。
どうして、自分たちがこのような惨めな扱いを受けなければならないのか。街の治安を守るため、ろくに睡眠や休息もとらず必死で働いている自分たちが、何故これほどの憎しみを向けられなければならないのか。
街のために命を落とした者も既に大勢いる。それなのに、無能呼ばわりとは何事か。影剣は唇を噛みしめた後、群衆に向かって怒号を放った。
「貴様らァァ! よりにも寄って、雷さまに何という真似を……死にたいのか!!」
しかし、人々はやはり臆する気配を見せない。それどころかどっと野次を飛ばし、影剣や黄龍部隊を挑発する。
「はっ、やれるものならやってみろ!」
「そうだ、引っ込め裏切り者!」
「誰がお前らの言うことなんざ聞くかよ!!」
「この能無しどもが! てめえらは、この《東京中華街》の恥だ!!」
そして群衆の一部は、どっと黄龍部隊に向かって押し寄せていった。怒り狂う群衆と黄龍部隊が真正面からぶつかり合い、交差点は爆発的な喧噪に包まれた。押し合いへし合いの大乱闘だ。
その余波がいつ深雪たちの元までおし寄せて来てもおかしくない。身の危険を感じたが、あまりにも人がごった返していて、逃げることもできない。
「あれは……!」
「黄雷龍……黄家の№2か」
雨宮がそう呟いたので、深雪は驚いて振り返った。
「知っているのか?」
「《監獄都市》の要人の名は、一通り覚えている。特に黄雷龍は、目立つ容姿をしているからな」
確かに雷龍の、鮮やかな金髪を獅子のように逆立てた髪型は、大勢の人ごみの中でもすぐに見つけられる。黄家のトレードカラーである、豪奢な黄金色のチャイナ服を身にまとっているから、なおさらだ。
「とにかく、連中がもめている間に通り抜けるぞ」
碓氷はそう言って、移動を再開した。深雪は雨宮と共にその後を追う。だが、人混みが邪魔をし、なかなか先へ進めない。深雪は黄雷龍らの方へ視線を送り、彼らの様子を窺いつつも考えた。
(黄雷龍……何だかひどく疲れているみたいだな。街がこんな状態なんだ、無理もないけど……。あの人も、紅神獄の正体を……真澄のことを知ってしまったのだろうか? 《収管庁》で行われた四者会談で会った時、彼は真澄のことをとても慕っているように見えた。真実を知ったのだとしたら……黄雷龍はそれをどう思っただろう? 『紅神獄』の秘密を知ってもなお、彼は真澄の味方でいてくれるだろうか……?)
黄雷龍は基本的に、日本人を嫌っている。日本人が大多数を占める《中立地帯》の《死刑執行人》にしろ《アラハバキ》にしろ、《レッド=ドラゴン》にとっては警戒すべき相手であるから、それも致し方ないのかもしれない。だが、そういった彼の気性を考えると、紅神獄の実の正体が式部真澄であることに怒り、彼女に危害を加えたとしてもおかしくはなかった。
いや、むしろ彼なら率先して、紅神獄を排除してしまおうと動くのではないか。黄雷龍は今、何を考えているのだろう。考えれば考えるほど、気がかりでならない。すると、深雪のその視線に気づいたのだろうか。その時、ふと深雪の目と雷龍の視線がかち合った。
「……! やばっ……!!」
深雪は慌てて視線を俯けた。黄雷龍は深雪たちの存在に気づいたのだろうか。はっきりとこちらを見たように思ったが。
どうか、気のせいであってくれ。そんな願いも虚しく、黄雷龍は深雪を指差し、わなわなと肩を震わせた。あまりの怒りで、カッと見開いたその両目は充血している。
「貴様ッ……! 何故、貴様がこの街にいる!? 《中立地帯》で生きている日本人の貴様が、どうして厳重に封鎖されたこの《東京中華街》の中を、平然とうろつき回っているんだ!! 何故、よりにもよって《東京中華街》の情勢が混迷しているこのタイミングで……どこからどうやって潜り込んだ!!」
さらに雷龍は、震える声音で付け加えた。
「ひょっとして……《レッド=ドラゴン》の内部に内通者がいて、故意に招き入れられたのか? やはりあの方は、《収管庁》や《アラハバキ》と裏で繋がっていたのか……!!」
「れ、雷さま……!?」
影剣の案ずる視線を振り払うようにして、雷龍は黄龍部隊へ命令を下す。
「くそっ!! ここは俺たちの街だ! なんびとたりとも、それを侵させはしない!! あそこにいる日本人を捕らえろ! 我らに仇なす害虫を叩き潰せ!!」
雷龍の声はよく通る。その号令は交差点全体に響き渡り、人々はみな騒然とし始めた。
「日本人……? 日本人だって?」
「どこだ? 紅神獄の手先か!? 俺たちの街を乗っ取るつもりか!?」
「そんなの、絶対に許さねえ! この街から叩き出してやる!!」




