第59話 最後の抱擁【紅神獄サイド】
この事は最後まで隠し通すつもりだった。中途半端に真実を打ち明けたりしたところで、神獄の罪悪感が若干弱まるだけで、天若を苦しませることになるだけだからだ。
けれど、これが彼女と話す最期の機会だと思うと、どうしても口に出さずにはいられなかった。
許してもらおうとは思っていない。許される事だとも思っていない。どんな責めでも負うつもりだった。
ところが、天若は突然、神獄を抱きしめる。まるで子をいたわる母親のように。驚く神獄だったが、天若はその耳元で優しく囁くのだった。
「……今さら何を言うの。とっくの昔に気づいていたわよ、そんなこと。いいえ、私だけじゃない。きっと……みんな心のどこかで気づいてた。でも、気づかないふりをしていたの。あなたがあんまり一生懸命だったから。自分の全てを懸けて、私たちを守ろうとしてくれたから」
「天若……さん……!」
「本当は……裏切ったのは私たちの方なのかもしれない。私たちはあなたに、ひどい事をしてしまっている。……だからね、真澄。本当はいつだってやめていいのよ? きれいさっぱり六華主人をやめて、《東京中華街》での全てを捨て去って……式部真澄に戻ってもいいの。だってあなたには、待ってくれている人たちもいる。あなたには自分を幸せにする権利があるんだから」
しかし、神獄は首を小さく横に振る。
「……それでも私は行くわ。だって、それが『私』だから。他の誰のためでもない、それが自分のためだから」
やはり、止められないのか。神獄の返答を聞いた天若は唇を噛みしめたものの、それを引き留める言葉は口にしなかった。
一度、坂道を転がり始めた車輪は、並大抵の力では止めることができない。走り始めたらもう、誰にも止められないのだ。鋼炎や神獄にも、もちろん天若にも――そしておそらく、事を仕掛けた黒幕、黒蛇水にすらも。
それが分かっているからこそ、神獄に劇場へ行って欲しくないという思いを抱きつつも、それを引き留めることはできなかった。
「そう……決めたのね。本当に強くなったわ、真澄。あなたはもう、神獄に憧れていただけの無力な少女じゃない。……ありがとう。紅神獄になってくれて……私たちを最後まで見捨てないでくれて、本当にありがとう。誰が何と言おうと、あなたは私たちみんなの誇りです」
「……! 嬉しい……ずっと、その言葉が聞きたかった。ずっと……!!」
涙が溢れ、神獄の頬を伝い、とめどもなく滴り落ちる。天若はそれをそっと抱きしめた。
神獄が迷った時、悩んだ時、そして自信を失った時。天若はよく抱きしめてくれた。そして、あなたなら大丈夫、きっと乗り越えられると励ましてくれた。きっと、これが最後の抱擁になるだろう。様々な感情が去来し、溢れ出すが、互いにそれをうまく言葉にすることができない。
そこへ涙を浮かべた雨杏も近寄って来る。神獄もまた、涙に濡れた瞳を雨杏へ向けた。
「雨杏も……最後まで力を貸してくれてありがとう。心からお礼を言うわ。困らせてしまって……苦しい判断をさせてしまって、本当にごめんね」
「いえ……そんな……。私……私こそ……!」
雨杏もまた、自分の感情をうまく言葉にできないようだった。いや、もはや言葉は必要ないのかもしれない。神獄、天若、そして雨杏。みな互いの立場や想いはよく分かっている。長いこと共に戦ってきたのだ。それをわざわざ口にせずとも、確かに通じ合っているのだから。
三人はただ抱きしめ合い、涙を流した。その姿は最期の別れの時を惜しんでいるようでもあり、また、どこか互いの健闘を祈り合い鼓舞し合っているようにも見えた。
✜✜✜
客間にひとり残った火矛威は、うな垂れて豪奢なソファの一角に座り込んだ。
手で触れるのも気が引けるような贅沢なつくりをしたソファで、いつもであれば絶対に軽々しく腰を下ろしたりしない。けれど今は、ショックのあまり立っていられなかった。
暫くすると、そこへオリヴィエと藍光霧、そして怪我の処置を終えた奈落がやって来る。オリヴィエは火矛威が肩を落としているのに気づくと、真っ先に駆け寄って来た。弱っている者を放っておけない性質なのだろう。
「帯刀さん、大丈夫ですか? 紅神獄と話をするとのことでしたが……どうなったのです?」
「ああ。でも……あいつは行ってしまったよ。最後に火澄の母親になってくれって……一緒に暮らしてくれって、そう頼んだのに。それでもあいつを止めることはできなかった……!」
「そうですか……」
「あいつは……あいつは昔からそうだった! いつもニコニコしていて殆ど自己主張しないくせに、妙なところはやたら頑固で……絶対に自分を曲げないんだ! 言ってくれれば……話してくれれば、俺だっていくらでも妥協したのに! 悪いところは直したし、ちゃんと謝ったのに!! 言ってくれなければ、何も分からないじゃないか! それを今さら……あんなこと蒸し返されたって……!!」
火矛威は語気を荒げると肩に力を込めた。そして膝の上で両手を拳にし、握りしめる。
「真澄には真澄の考えがあるんだってことは分かる。でも、あんまりにも身勝手じゃないか! 火澄が……火澄がかわいそうだ……!!」
「帯刀さん……」
オリヴィエは火矛威のそばに座り、火矛威を見つめた。何か励ましの言葉をかけたいが、何と言っていいのか分からないという様子が伝わってくる。オリヴィエは火矛威と神獄(真澄)の仲について詳しくない。だから、かける言葉が思いつかないのだろう。
一方、奈落は藍光霧の方へと視線を向ける。
「それで? 紅神獄はどこへ向かったんだ?」
「紅龍芸術劇院だそうだ。彼女は隠し子の身柄引き渡しに関して、黒蛇水から極秘に取引を持ち掛けられていて、その指定場所が紅龍芸術劇院なのだそうだ」
それを聞いた火矛威は、弾かれたように顔を上げた。
「隠し子って……まさか、火澄のことですか!?」
真澄と――神獄とあれこれ話をしたが、彼女はそのようなことは一言も口にしなかった。神獄は既に火澄の居場所を掴んでいたのだ。
だったら何故、それを黙っていたのか。火矛威は火澄の父親だ。だからこそ、それを知る権利があるはずなのに。火矛威は納得がいかず、ますます苦虫を噛み潰したような表情になる。すると光霧は少し躊躇ったあと、静かに告げた。
「おそらくだが……神獄さまはそこで自ら死ぬつもりなのだろう」
オリヴィエを始め、みな驚きの表情を浮かべた。特に火矛威は衝撃のあまり、勢い良く立ち上がるほどだった。
「真澄が……? 何で……どうして!!」
火澄を救出するため紅龍芸術劇院に向かうというのは分かる。だが何故、真澄がそこで死ななければならないのか。火矛威には何が何やら訳が分からず、激しい憤りさえ湧き上がってくるのだった。この街の連中は、そんなにまで真澄を殺したいのか。真澄も真澄だ、そうまでして『紅神獄』でいたいのか。みなあまりにも身勝手すぎる、と。
光霧はそんな火矛威の怒りを知ってか知らずか、淡々と説明する。
「《レッド=ドラゴン》の中には、もはや彼女の居場所はない。《東京中華街》を覆い尽くしている怒りと恨みは、紅家や黄家のコントロールできる範囲を超えている。神獄さまの死でそれを鎮めるしかないんだ。彼女もそれをよく理解していて、だからこそ蛇水の罠と分かっていながら、敢えて劇院へ向かったんだろう。この街のため、組織のために、『紅神獄』という役を最後まで演じきるつもりなんだ」
「そんな……あいつ、そんなこと一言も……!!」
「黙っていたのは、多分……あんたを守るためだ。彼女が命を懸けて守りたいものは、この街の他にもう一つある。それは隠し子とその父親……つまり、あんたたち父娘だ」
「そ、それはどういう意味ですか!?」
「ここで神獄さまが死ねば、隠し子との関係はあやふやになる。自らの身を犠牲にすることで、真実を闇に葬ることができるんだ。うまくいけば、あんたたち父娘は元の静かな生活に戻ることができるだろう。もっとも……それには、蛇水から隠し子を取り戻すことが前提条件となるがな」
火矛威は呆然と立ち尽くした。
「そういえば……先ほど会った時、真澄は言っていました。俺と火澄の未来を必ず守ると……! そういう意味だったのか……!!」
先ほど神獄と会って話した際、火矛威は彼女を問い質した。火矛威を捨て、火澄を捨て、自分自身をも捨て去って、そうまでして何が手に入れたかったのか。そんなに富と名誉が欲しかったのか、と。
だがそれは大きな誤りだった。神獄は――真澄は何も捨ててはいなかった。それどころか、彼女は己の身を賭して秘密を隠し通すことで、火澄や火矛威を守ろうとしているのだ。
真澄はきっと、火澄のことも火矛威のことも、片時も忘れたことはなかった。それは火矛威の望む愛情の形ではなかったかもしれない。けれど火矛威が真澄のことを案じ続け、混乱する《東京中華街》から助けようと駆け付けたように、真澄もまた火矛威や火澄のことを守り通そうとしているのだ。
「俺は……俺は何も分かっていなかった! あいつのこと、何も……!!」
それが分かっていたら、真澄にもっと違う言葉をかけたのに。あんな、恨みがましい言葉を彼女にぶつけるなんてことはしなかったのに。もしあの時、真澄が死ぬつもりだと分かっていたら、体を張ってでもそれを引き止めたのに。
このままでは終われない。このまま真澄を失うなんて、そんな事は耐えられない。彼女を取り戻さなければ――火矛威は唇を噛みしめると、きっと顔を上げ、オリヴィエと奈落へ向かって叫ぶ。
「俺も劇院へ行かないと……あいつを追いかけないと!!」
「し、しかし……この街のこの騒ぎでは……!」
猛烈な勢いで捲し立てる火矛威に困惑を浮かべ、ソファから立ち上がるオリヴィエ。するとその後ろで、肩から黒い大きなタクティカルバッグを提げた奈落が、素っ気なく答える。
「好きにしろ。どのみち、これから俺たちも劇場へ向かうつもりだからな」
それを耳にしたオリヴィエは、訝しげな表情をして、奈落の方を振り返った。
「そうなのですか? ……っていうか、何故そのような重要なことを、あなたが勝手に決めるのですか!?」
「勝手に決めているわけじゃない。紅神獄が紅龍芸術劇院へ向かったのは、子どもを取り戻すためだろう。隠し子がその劇場にいるなら……深雪もいずれ、そこに現れる。あいつがわざわざ《東京中華街》に潜り込んだのも、隠し子を奪還するためなんだからな」
「それはそうかもしれませんが……でも、互いに連絡を取る手段もありませんし、絶対に紅龍芸術劇院で深雪と合流できるとは、言いきれないではありませんか!」
強く反発するオリヴィエに、奈落は冷やりとするほどの無機質な瞳を向ける。
「悪魔のやつが気になるか?」
鋭利な刃物を、ぴたりと喉元に突き付けられたかのような一瞥。しかしオリヴィエもそれで引き下がるつもりは無いらしい。奈落の強烈な牽制をはねのけ、果敢に反論する。
「あ……当たり前です! あなたにも聞こえているでしょう、このビルの周囲を取り囲む人々の叫びが! それだけじゃありません、破壊された建物や傷ついた人々の姿を、その目で見てきたでしょう!? それもこれも、あの悪魔が原因なのですよ!!」
「知ったことか。それは今、重要な問題じゃない。俺たちの目的は深雪だ。あいつと隠し子の回収が最優先事項だ」
「それは分かっています! でも、悪魔がこんなに近くにいるのに……!」
オリヴィエはよほどその、悪魔という人物のことが気になるらしい。物腰柔らかな彼にしては珍しく頑なだった。しかし、奈落も全く譲らない。黒い手袋を嵌めた右手の人差し指をオリヴィエの胸元へ突きつけ、上から押さえつけるような口調で命令する。
「よく聞け、どんな事情があろうと異論は認めない。俺が何のためにここにいるのか……《荒川‐二九八综合大楼》で言ったことを忘れるな。それでも足を引っ張るというのなら、お前はここに置いていく」
「何を言うのですか、とても納得がいきません! そもそも、あなたは負傷していて、帯刀さんにはアニムスがない……私がいなければ全滅の可能性だってあるのですよ!? それなのに、どうしてあなたはそんなにも偉そうなんですか!?」
「『偉そう』なんじゃない、実際にお前より偉いんだ。この場の指揮官は俺なんだからな。判断を下すのは俺だ、お前は黙ってそれに従っていればいい」
「ですから、何故あなたがそれを勝手に決めるのです!? 仮にあなたが私の上官だとして、これは明らかに不当圧力、パワハラではありませんか! 高圧的な態度で部下や同僚を言論統制するなんて異常です! 即刻、職場環境の改善を要求します!!」
オリヴィエはそう言って、ぐっと胸を逸らせた。反論できるものならやってみろと言わんばかりの態度だ。多少強引であったとしても、何とかして自分の主張を押し通したいのだろう。それに対し、奈落はこめかみに青筋を立てる。突然、訳の分からない無茶苦茶なことを言い始めたオリヴィエに、さすがの奈落もカチンときたようだ。
「お前、アホか!? 『敵兵』に囲まれ生きるか死ぬかって時に、職場環境の改善だと!? どこまでボケてやがる!!」
「おや、今度は恫喝するのですか? 精神的な圧迫も十分立派なパワハラですよ!」
「俺はただ、事実を言っているだけだ! てめえの目こそ節穴か!? 外の光景が見えていないのか!!」
「見えてますよ、見えているからこそ、全ての元凶である悪魔を放置すべきではないと言っているのです! むしろここは、あなたが私に従うべきなのでは!?」
「ふざけるな、それこそ即行で全滅エンドじゃねえか!!」
二人は途端に、やいのやいのと不毛なやり取りを始めてしまった。いつもであれば好きなだけやってもらって一向に構わないが、今は状況が状況だ。仲間割れなどしている場合ではない。火矛威は慌てて間に割って入る。
「と……とにかく!! 今はそんなことより、真澄を追いかけましょう! そこに火澄もいる可能性が高いなら、なおさら急がなければ……! オリヴィエさんも、いろいろ事情がおありかと思いますが、どうか娘のために力を貸してください。この通りです、お願いします!!」
火矛威が頭を下げて頼み込むと、さすがにオリヴィエも嫌だとは言えなかったらしい。なかなか諦めきれない様子であったものの、どうにか火矛威の願いを受け入れてくれた。
「そ……そうですね。分かりました。確かに、火澄も辛い思いをしているでしょうから……一刻も早く助け出してあげなければ。不当な圧力に屈するのは納得がいきませんが、仕方ありません。これも神の与えたもうた試練なのでしょう」
「……とどめは『神の試練』ときやがったか」
その隣で、奈落は呻いて頭を抱えた。それを見ていると、火矛威は思う。オリヴィエの目には奈落が不遜で高圧的に映るかもしれないが、奈落は奈落でオリヴィエのことをコントロールしにくい厄介な相手だと認識していて、意外と持て余しているのかもしれない、と。ある意味どっちもどっちで、釣り合いが取れているのかもしれない。
一部始終を眺めていた藍光霧は笑いをかみ殺し、肩を揺らす。奈落は半眼でそれに突っ込んだ。
「……何が可笑しい?」
「いや、なかなか面白いな、お前の職場も」
「どこがだ、こっちの身にもなってくれ! 最悪だ、頭が痛い……!!」
「ははは、まあ、頑張れよ。世の中にはいろんな人間がいる。人生、何事も経験だ」
快活に笑って奈落の肩を叩いたあと、光霧はふと真顔に戻って付け加える。
「ただ……俺が同行できるのは、立場上、ここまでだ。黄家や紅家の側に深入りして、藍家に迷惑をかけるわけにもいかないからな。悪く思わないでくれ」
すると、奈落もすぐに真顔に戻り、それに答えた。
「いや、十分だ。助かった。あとは俺たちだけで対処する。紅龍芸術劇院の場所を教えてくれ」
それから、火矛威たち一行は光霧から紅龍芸術劇院の場所と行き方を教えてもらい、《黄龍太楼》を脱出することにした。
といっても、《黄龍太楼》は大勢の群衆に囲まれているから、通常の出入り口を使用するわけにはいかない。そんなことをしたら、玄関口から表に出た途端、囲まれて袋叩きにあうのがオチだからだ。よって火矛威たちが選んだのは、《天満月》などの諜報部隊が専用に使っているという、一般には知られていない極秘の地下ルートだった。
因みに、《黄龍太楼》に潜り込む際に藍光霧が火矛威たちを案内してくれたのも、その地下ルートだ。ただ、黄家以外の者には秘されているそのルートを何故、藍光霧が知っていたのか。奈落によると、藍光霧はかつて世界を股にかけた腕利きの傭兵部隊の一員であり、都市の構造や建物の間取り、地理などを分析し記憶する能力に長けているのだという。奈落もそれを知っていたからこそ、藍光霧を頼ったのかもしれない。
その地下ルートを使って移動し、再び地上へ出ると、そこは《東京中華街》の中心部から外れたホテル街の路地裏だった。
よほど激しい抗争が繰り広げられたのだろう。一帯は見るも無残に破壊され尽くしていたが、今は閑散としている。人々が《黄龍太楼》の方へ押しかけているため、それ以外の場所は逆に人通りが減っているのだ。
火矛威たちはそこで藍光霧と別れると、紅龍芸術劇院を目指し、慎重に移動を始めるのだった。




