第18話 花言葉
沈黙が部屋を覆う中、マリアが静かな声で切り出した。
「これはあくまで推測だけど……寄生蜂の行動をコントロールしている存在がいるんじゃないかしら? それが何なのか、どうやっているのかは分からない。
でも、何かいる筈よ。そうでなきゃ、この偏りはあまりにも不自然だもの。
蜂を操っているモノ――《女王蜂》に相当する何か。そいつがいるのよ」
「…………」
深雪は自分の全身から、音を立てて血の気が引くのが分かった。
寄生蜂をコントロールする術など、想像もつかない。分からない以上、決めつけることはできない。
しかし、深雪の脳裏には『彼』の口にした言葉が鮮明に甦っていた。
『東京には、とても珍しい虫がいるんですよ。僕の、友達なんです』
(命……。まさか……まさか、な)
友達、というのがどういった関係を示すのか分からない。命はただ、蜂の存在を知っていただけという可能性もある。
しかし心の奥では、それはあり得ないと否定する自分がいた。
あのピンクの蜂は不自然なほど命に懐いていた。普通の虫であれば、人間や動物に触れられることを嫌うはずだ。だが、あの蜂は命が背に触れても大人しくしていた。
おそらく、そうなるよう飼い慣らされてあったのではないか。
深雪は自分の心拍数が異常に上昇しているのに気づいた。
背中にじっとりと冷たい汗が滲む。
(この事は、まだ話さない方がいい)
命に疑わしい部分があるのは事実だ。しかし、深雪はそれを事務所のメンバーには話さなかった。怪しいと思う一方で、命を信じたいという気持ちも同時にあったからだ。
温室のバルコニーであった事をこの場で話せば、命は一斉に吊し上げられてしまうだろう。ただでさえ手掛かりが少ないのだ。マリアなどは喜々として命の個人情報を暴き立てるだろう。
せっかくできた友人を、そんな酷い目に遭わせたくなかった。深雪は何とか平静を装い、自分の動揺を他の者に悟られないよう努めた。
(命を守る……それが俺にできる最善の方法なんだ)
しかし心ではそう決めても、理性までは誤魔化せない。もし仮に、あの少年が犯人だったらどうするのか。恐ろしい問いが、頭の隅に居座って離れない。
心なしか、右の手の平も鈍い痛みを発し始めていた。
嫌な予感がした次の瞬間、ズンとした衝撃のような激痛が右の手の平を貫き、腕から肩へと突き抜けていった。
(う、嘘だろ……⁉)
あまりの痛みに、目玉が飛び出そうだった。深雪は思わずぎゅっと瞼を閉じる。
全身の血管がドクドクと大きく脈を打ち、鼓膜の奥が熱を帯びる。
最近頻繁に起こる、右手の手の平の痛みだ。
しかし今やその痛みは、手の平だけではなく右手全体に広がっていた。
もはや体の異常は明らかだったが、今この場でそれを口にするわけにもいかなかった。みな、会議に集中している。それを中断させたくなかったし、下手に体の不調を訴えて自己管理がなっていないと思われるのも癪だった。
このまま耐え抜けば、いずれ治まるだろう。今までの経験からそう判断し、深雪は痛みが引くのをひたすら待つことにした。
俯く深雪をよそに、ミーティングは続いている。
「――まだ《女王蜂》に相当する存在がいると決まったわけじゃない。現時点で、《メラン・プシュケー》の他に犠牲者がいないとも限らないしな。断定するには情報が少なすぎる」
「じゃあ、どーすんのよぅ?」
自説を棚上げする形となったマリアは、流星に明らかな不服の表情を向ける。しかし流星は動じることなく、ウサギを横目で牽制しながら次の指示を出した。
「……まずは残りの幹部の居場所を押さえるとこから始めるぞ。おそらく、連中もかなり危険な状態にある。これが事件だろうと事件でなかろうと、野放しにしてはおけない」
「随分、慎重なのね~。まあいいわ。探し物なら、あたしと神狼に任せて!」
すぐに機嫌を取り直して胸を張ったマリアに、神狼も腕組みを解き、無言で頷いて見せる。
「俺達も引き続き情報を集めよう。おそらく、時間はもうあまり残されていない。急ぐぞ!」
流星の号令に、その場の全員が承諾の意を示す。
そこで、本日の会議は終了となった。
そのころには、深雪の右腕の痛みも、何とか治まっていた。
他の者に混じってミーティングルームを後にする間も、深雪は顔を伏せたままだった。右手の痛みの事も気になっていたが、何より命の事が気になって仕方なかったのだ。
怪しいという疑念と、命を信じたいという願望。
その二つの間で、深雪の思考は揺れていた。
バルコニーでの事は確かに引っかかるが、それ以外には命に怪しいところが何一つ感じられない。ちょっと天然は入ってるが、いつも明るく前向きで虐められても卑屈にならず、植物や昆虫が大好きというごく普通の少年だ。
(命なわけない……そんな証拠はどこにも無い。でも………。命は何か知ってるんだろうか……? どちらにせよ、確かめておかないと……!)
事務所を出たら、真っ先に命の温室に向かおう。そう心に決めた時だった。
「……おい、邪魔だ」
後ろから低い声で咎められ、深雪は、はっと我に返る。気づけば、ミーティングルームの入り口で立ち止まっていた。振り返ると、奈落が早く退けろと言わんばかりにこちらを見下ろしている。
まるで犬や猫に対するかのようなそれに、さすがの深雪も少々カチンとした。だが、自分が入り口を塞いでいるのは確かだ。それに今は、余計な揉め事を起こしている場合ではない。
「……ああ、ごめん」
大人しくそう言うと、再び歩を進める。
一方の奈落は、面白くもなさそうに深雪の後姿を見ていたが、後ろから来た流星に、不意に話しかけられる。
「あいつ、会議中ずっと顔色悪かったな。まだ早すぎたか……?」
確かに、会議中に映った画像には生々しいものも多かった。奈落を始め、監獄都市での生活が長い事務所の人間はある程度の免疫があるが、慣れない者にとってはかなり精神的に負担になっただろう。
しかし奈落にとっては、役に立つかどうかも分からないチビガキの精神的負担など、明日の天気よりどうでも良い事だった。
「どっかで頭でも打ったんだろ」
ぞんざいな態度でそう答える奈落に、流星は「雑だな、おい」と、呆れた表情で苦笑したのだった。
とにかく、急がなければ。
深雪は足早に、事務所の玄関へと向かう。
すると途中で客間を通りかかった。何気なく視線をやると、オリヴィエが部屋の入り口に立ち尽くしているのが見える。
何をしているのだろうと視線を送っていると、どうやら花瓶に注目しているらしいという事が分かった。
アンティーク調の簡素なガラス瓶には、白とピンクの花が飾ってある。命の温室でもらったゼラニウムだ。
そういえば、シロが客間に飾ると言っていたっけ、と深雪は思い出す。
二輪のゼラニウムの花は、手折られてもなお、瑞々しい色を保っていた。
「これは……ゼラニウムですか」
オリヴィエは花の種類をすぐに言い当てた。オリヴィエも命と同じく、植物に詳しい。それを耳にしたシロが、嬉しそうに首を縦に振る。
「うん、お友達から貰ったの!」
「お友達……?」
するとゼラニウムの花の、房と房の間から、大きな黒い虫がひょっこり顔を出した。いつの間にか事務所に入り込み、花の間に潜んでいたらしい。
換気をするためか、事務所の窓は開け放たれている。花の匂いに誘われ、そこから侵入してきたのだろう。
虫はそのままブウンと唸りを上げると、大きな羽を広げ、部屋の中に飛び立った。部屋が薄暗くてよく見えないが、どうやら大型の蜂のようだ。
「シロ! こちらへ!」
オリヴィエは慌ててシロを引き寄せる。スズメバチほどもある蜂だ。刺されては大変だと判断したのだろう。
しかし、蜂はそんなオリヴィエたちを嘲笑うかのように悠々と羽を羽ばたかせ、窓の外へと飛び立っていく。
オリヴィエは眉をひそめつつ、手早く客間の窓を閉めた。
「珍しいですね……この建物に、虫が入って来るなんて……」
「このお花の匂いに引き寄せられたのかな?」
シロは首をかしげるが、オリヴィエは納得のいかない様子だった。
「そうですね……でも、大抵の昆虫は、ゼラニウムの匂いを嫌うものですが……。実際、この花は虫よけとして用いられることも多いですし」
「そうなんだ。じゃあ、何しに来たのかな? それに……確かあのハチって……」
何かを思い出すように、顎に手を当てるシロ。しかし彼女の言葉は、途中から部屋に押し入ってきた奈落によって、すぐに中断を余儀なくされた。
奈落は、深雪がいる入り口とは別のドアから客間に入ってきたようだ。深雪は何となく自分の存在を悟られたくなくて、黙って成り行きを見つめる。
「おい、今の蜂、何故逃がした⁉」
奈落も先程の黒い蜂を目撃したのだろう。部屋に入るなり、オリヴィエにそう詰め寄った。
「何故って……危ないからに決まっているじゃありませんか」
何事かと眉をひそめるオリヴィエ。奈落は苛立ちも露わに怒鳴り返す。
「この……ボケ神父! あれは、例の寄生蜂だろ!」
「言われてみれば、似ている気もしますが……あの寄生蜂は強いピンク色をしていたでしょう?」
「光の当たる角度で体色が変化して見えるんだ。ここは屋内だろう。だから、黒く見える」
深雪は三人の会話を立ち聞きしながら、自分の表情が強張るのを感じた。
(確かに……言われてみたら、形が似ていたかも……)
客間から飛び去って行く蜂の姿は、深雪にも見えた。ところが部屋の中には日が差さず、照明も点灯していない事から、蜂の色まではよく分からなかった。でも、指摘されてみたら確かに少々フォルムが歪だったような気がする。
「まさか……そうだとしても、何故その寄生蜂がこんな所へ……?」
オリヴィエの発した疑問に、シロがゼラニウムの花を指さす。「お花にとまってたよ」
「花……?」
奈落は訝しげな声で首を巡らせた。どうやら、そこに花がある事をその時始めて知ったらしい。シロは嬉しそうに説明を始める。
「このお花、新しいお友達から貰ったんだ。ピンクがシロので、もう一つの白い花はユキにくれたの。いっぱい咲いてたよ! 植物が大好きな子なの。それでね、このお花の花言葉はね、《尊敬》、《信頼》、《真の友情》っていうんだって! お友達がそう教えてくれたって、ユキが…………」
「シロ!」
気づけば深雪は客間に身を乗り出し、強い調子でシロの言葉を遮っていた。
シロは喋りすぎだ。このままでは、オリヴィエはともかく、勘のいい奈落に命の存在を察知されてしまう。そうなれば、事務所にすべて筒抜けだ。下手をすると、命は疑われ、《リスト登録》の候補者とされてしまう。それは絶対に避けたかった。
「深雪……⁉」
オリヴィエが驚いた様子でこちらを見ている。シロや奈落の視線も一斉にこちらに注がれていた。深雪は気まずさを感じ、慌ててシロに声をかける。
「……早く行こう」
「あ……うん。待って!」
シロはそれ以上喋ることなく、すぐにこちらへと駆けって来る。深雪はそのことに内心でほっとしつつ、踵を返す。
そして奈落とオリヴィエの視線から逃れるようにして客間を後にした。
深雪とシロの去った客間では、オリヴィエが顎に手を添え、何事か一心に考え込んでいた。その薄いスカイブルーの瞳は、じっと二輪のゼラニウムの花に注がれている。
「…………。ゼラニウムの花言葉……」
「おい。何、ボサっとしてるんだ。あいつらを追うぞ!」
奈落はオリヴィエに向かってそう怒鳴りつけた。
あのチビガキが何かを隠しているのは明白だ。しかも一連の流れから考えるに、今回のゾンビ騒動にまつわる事だとみて間違いない。圧倒的に情報の少ない中で、これを逃す手はなかった。
すると、オリヴィエはムッと不機嫌になり、半眼で答える。
「――本当に失礼な人ですね、あなた。ちょっと考え事をしていただけですよ」
「考え事?」
「………。ゼラニウムの花言葉をご存知ですか?」
突如飛び出した、やたらとメルヘンな言葉に、こんどは奈落が半眼になる番だった。
「花言葉、だぁ? ガーデニングには興味無い。」
そう言い捨てると、オリヴィエはすました顔で嫌味を返す。
「でしょうね。あなたに植物が育てられるとも思えませんし。聞いた私が、浅はかでした」
「草木は放っておいても勝手に生える」
奈落もムッとしてそう言い返すと、今度は、オリヴィエは呆れ返った表情になった。
「何言ってるんですか。サボテンだって水をあげなければ枯れてしまうのですよ」
「サボテンはまだいい。食えるし、酒にもなる。お前が言っているのは観賞用だろう?」
「それが何か?」
「食えもしない植物を、わざわざ鑑賞する為だけに育てる方がどうかしてると思うがな。不毛だとは思わないのか?」
「世の中あなたのように、銃を分解して組み立てる事に生きがいを感じる人間ばかりではないという事ですよ。少なくとも、植物を愛でる方が趣味としては真っ当です」
「くだらねえ、よほど暇を持て余しているとみえる」
「失礼な。余暇を意義のある者にしようと、最大限、努力しているだけですよ」
「んな事ばかりしているから、年寄り臭くなるんだ」
「それはどうも。あなたは逆に、年相応の落ち着きを身につけるべきですね」
「―――……おいおい、何の話してんだ、お前ら」
客間に顔を出した流星が呆れ顔でそう突っ込んできて、奈落はいつの間にか話がかなり脱線していることに気が付いた。
苛正しく舌打ちをすると、オリヴィエも気まずいのか咳払いをしている。
この金髪碧眼の神父は、その柔和な風貌からなかなか気づかれることはないが、実はかなりの毒舌家だ。おかげでついついこちらも言い返してしまい、しばしば話があさっての方向へ行ってしまう。自覚はあるが、だからといって嫌味を言われ黙っているのも、負けたかのようで腹立たしい。
いや待てよ、ムキになるのもかえって大人げないか――そう気づいた奈落は、こちらから話を振ってやることにした。
「……それで? 花言葉がどうした?」
「興味があるなら、最初から素直にそう聞けばいいじゃないですか! 全く……」
オリヴィエは非難がましい口調で愚痴をこぼしたものの、すぐに気を取り直して説明を始めた。
「――確かにゼラニウムの花言葉は《尊敬》、《信頼》、そして《真の友情》ですが、実は色ごとにも細かく存在するのです。赤は《君ありて幸福》、黄色は《予期せぬ出会い》、ピンクは《決意》・《決心》。もちろん、白にもあります」
「いちいち勿体ぶるな。白は何なんだ」
悪態をつくが、オリヴィエは説明に集中しているらしく、それには反応を示さない。代わりに花瓶に差したシロのゼラニウムを取り出すと、顔の近くまで持って行って答えた。
「白いゼラニウムの花言葉は……《私はあなたの愛を信じない》。――友達から貰ったにしては、なかなか意味深ではありませんか?」
奈落はしばし、黙考した。
実のところ、『友達』という概念が奈落にはよく分からない。東京に来る前は傭兵として、ある傭兵部隊に属していた。
《ヘルハウンド》という名のその組織は、他とは違った特殊な傭兵集団で、構成員の九割はゴーストだった。戦争や紛争といった人間同士の揉め事には殆ど関わらず、凶悪なゴーストを狩ることを専門とした部隊で、金をもらってゴーストを殺すことを生業としていた。
もちろん傭兵といえど、好き嫌いや相性といった問題はある。しかし、それらは最も重要な問題ではない。傭兵の世界は、全ては金がモノを言う非情な世界だ。雇い主次第で昨日の味方と銃口を向けあうことも珍しくはない。そういった世界に於いては、友情や信頼といったセンチメンタルなシロモノは、あまり意味を成さないのだ。
代わりに重視されていたのは、主に二つだった。一つは部隊の絶対的『規律』に従うこと。そしてもう一つは、組織にとってどれだけ役に立つか、その有用性だ。それらの条件に満たないものは、容赦なく銃口でもって排除される。生きて組織を抜けられる者は、ほぼ皆無だ。
だからはっきり言って、呑気に他人とお友達ごっこに耽っている余裕などない。毎日が組織の中で生き残っていけるかどうかの、過酷なサバイバル戦なのだ。最大の敵はターゲットのゴーストでも、雇い主でもなく、身内そのものだともいえた。
そんな環境に身を置いていたからだろうか。『友達』という存在にやたらと重きを置く《東京》の人間の考え方は、どうにも肌に馴染まない。
ただ、そんな奈落にも、真正面から「お前のことは信用しない」というメッセージを発せられることがどういう事なのかは理解できた。
傭兵の世界でも、面と向かってそんな台詞を吐く莫迦と、進んで組もうという奴はさすがにいない。




