第16話 《ビースト》
シロの脚力は凄まじかった。
深雪も全力で走ってはいたが、追いつくどころかどんどん引き離されてしまう。
シロを見失わないようにするだけで精一杯だった。
何とかシロの後をついていくと、ほとんどビルが崩れ落ち、一面が瓦礫だらけになっているエリアに出る。
高い建物はすでにほとんど崩れ去ってしまっていて、見晴らしがいい。そのため、遠くからでも状況がよく分かった。
どうやら、エリという子が怪我をしているのは本当らしい。
動けなくなっている彼女を庇うようにして静紅が抱きしめ、その二人を亜希と銀賀が守っている。
彼らは一方向をじっと睨みつけており、その視線の先にはゆらゆらと不自然な動きをする男が一人いる。
その男を見て、深雪は凍り付いた。男の肌があまりにも異様な色だったのだ。
体の大半はどす黒い紫色に染まり、まるで生気が無い。表情も虚ろで、ぼんやりと空に投げられた瞳は赤く充血し、眼球が白濁していた。
手足の動きも妙にカクカクとし、緩慢でぎこちない。まるで死体が動いているかのようだった。
確かに子供たちの言った通り、ゾンビによく似ている。
よく見ると、男の腕は途中から金属のような光沢を帯び、硬質化している。そして、更にその先は両手とも変形し、回転刃になっていた。シンバルほどもある大きな円盤の刃先は、ギザギザの入れ込みがしてあり、研ぎ澄まされた表面は禍々しく光を反射している。
(回転刃……? 確かそんなアニムスを持った奴が、《メラン・プシュケー》の幹部にいたような……?)
深雪は事務所のミーティングで得た情報を思い起こす。《ロータリー・ブレード(回転刃)》のアニムスを持った幹部は確かにいた。九重竜吾という名前だったはずだ。とすると、目の前のゾンビ男は九重竜吾なのだろうか。
回転刃には黒々とした染みがべっとりと付着している。深雪はそれが血痕であるとすぐに気づいた。九重竜吾はそれを武器に、多くの者を切り付けてきたのだろう。
「あ……ああ……ううう……」
男が呻き声を発しながら、両眼の瞳孔の淵を赤く光らせると、その円盤が唸りをあげて回転し始めた。それを見た《ニーズヘッグ》のメンバーの表情が、さっと強張る。
「くそ、こいつ……どんだけ攻撃しても、ちっとも怯みやがらねえ……!」
そう吐き捨てる銀賀の両手からは、炎が吹き上がっている。銀賀の持つ能力は炎を操る力、《ムスペル》のアニムスだ。
一方、いつもは冷静な頭の亜希も、珍しく切羽詰まった様子で言った。
「僕のアニムス《バジリスク》と静紅のアニムス《ザントマン》に至っては全く効果がない……どうなっているんだ……!」
亜希のアニムス《バジリスク》は毒を操る能力で、静紅の《ザントマン》は相手を眠らせる能力だった。
しかしどういうわけか、どちらも九重竜吾には全く効かないようだった。
「亜希、それに静紅、銀賀!」
その場に到着したシロが、《ニーズヘッグ》のメンバーに声をかける。
「シロか⁉」
「……!」
銀賀と亜希は、弾かれたように顔を上げた。
ただ、援軍の到着を待ってましたとばかりに喜びを露わにする銀賀に対し、亜希の表情はどこか硬い。シロの登場を心から喜んでいるわけではないようだった。
それが何故なのか、はっきりとした理由は深雪にも分からない。ただ、このままシロを戦わせるのはまずいというのは、深雪もうっすらと感じていた。
一方のシロは、怪我をして蹲っているエリの姿を認める。
エリは命に別状はないようだが、右足のふくらはぎをざっくりと切り付けられていた。出血がひどいようで、服が血まみれになっている。何針か縫う事になるのは確実だろう。今すぐ治療しなければならないが、回転刃男が立ち塞がっているせいで身動きも取れないようだ。
静紅はそんなエリを励ますように、彼女を一生懸命に抱きしめている。
「エリ……! お前が……お前がやったんだな⁉」
シロは怒りに燃える瞳をゾンビ男に向ける。ゾンビ――九重竜吾もゆっくりとシロの方を向いた。その腕の先で鋭利な回転刃が、舌なめずりするように激しい回転を続けている。
しかし、シロはそれに臆した様子は全くなかった。
「許さない‼」
そう叫ぶや否や、腰の日本刀、狗狼丸を抜き放ち、ぐっと地を踏みしめる。
「シロ! 駄目だ」
深雪は叫ぶが、もはやシロには届かない。
シロの瞳孔の淵が赤く光ったのが見えた。《ビースト》の能力を発動させたのだ。次の瞬間、シロの両足が地に激しくめり込む。そして、一気に跳躍し男に躍りかかった。
「やああああああああっ‼」
シロは全身をバネのように使って男に狗狼丸を振り下ろした。しかし、男は腕の先の回転刃でそれを受け止め、あっけなくそれを振り払う。シロはピンポン玉のように弾かれるものの、空中で一回転し、着地すると同時に再び地を蹴る。
そして狗狼丸を構え直すと、再び男に斬りかかっていった。
シロの動きは余りにも速く、深雪は目で追うのが限界だった。彼女のアニムス《ビースト》は、一時的に全身の能力を獣のように高める力だ。感覚は鋭敏化し、運動能力も劇的に向上する。通常の人間であれば、それに対処するのはほぼ不可能だ。
しかし、ゾンビ男・九重竜吾は、そんなシロの動きを全て把握しているようだった。シロがどこから斬りかかっても、全て回転刃で弾いてしまう。目にも止まらぬ斬撃の応酬。脇差と回転刃が互いに身を削り合い、火花を吹く。
深雪は、息を切らせながら、シロと男のバトルを呆然と見つめる他なかった。
(まるで、いつものシロとは別人みたいだ……!)
怒り狂った野生動物のような荒々しい動き。そこには、いつもの心優しいシロの姿はなかった。一体どうすればいいのか。深雪はすっかり途方に暮れる。
すると、亜希が深雪に向かって叫ぶ。
「シロは感情に流されて、冷静さを失っているんだ! あのままじゃ危ない……‼」
確かにシロの動きは無茶苦茶だ。感情任せで、無駄も多い。あれでは長くはもたないだろう。おまけによく見ると、シロの体は男の回転刃で傷つけられ、あちこち血が出ている。だが、本人は怒りで感覚が麻痺してしまっているのか、全く構った様子がない。
今は両者の力が拮抗しているが、いつまでもその状態が続くとは限らない。
(あのままじゃ、いずれ力負けする。シロを止めないと……!)
深雪はポケットの中に常備しているビー玉を取り出して握りしめた。どうにかしてこれを男に当て、シロから遠ざけたい。
だが、男は激しく動き回っている上に、シロにもたびたび接近する。男だけを狙うとなると、なかなかタイミングが掴めない。
(失敗はできない……イチかバチかだ)
深雪は男とシロの動きをじっと見つめ、ビー玉を投げる機会を窺う。
そしてある事に気づいた。
シロの動きは、最初の頃より幾分か大振りになっている。疲労が蓄積しているのだろう。一方の男は、全く疲弊した様子を見せず、どこにそんなスタミナがあるのかと疑いたくなるくらいだったが、少なくともシロとの接触回数は少しずつ減っている。
何度か二人が激突した後、やがて男の回転刃がシロを上空へと弾き飛ばした。シロは回転刃を狗狼丸の刃先で受け止めるものの、彼女の小さな体躯は抗いきれずに空高く舞う。
(今だ!)
深雪はここぞとばかりに九重竜吾に向かってビー玉を投げつける。
赤と緑の羽の入った鮮やかなガラス玉は、一度地面をバウンドすると、ころころと転がってうまく男の足元に移動していった。
絶好のチャンスだった。
「行け!」
叫ぶとともに、深雪の瞳孔の淵が真っ赤な光を放つ。
パアン――深雪の《ランドマイン》によって、ビー玉が乾いた音を立て、爆発した。
恐るべきことに九重竜吾はその場に踏みとどまったが、さすがに爆風に煽られて大きく仰け反る。
そこに上空で体勢を取り直し、刀を握りなおしたシロが真上から斬りかかる。
「やああああああっ‼」
渾身の力が籠った一閃だった。男はそれを回転刃で受けるが、受けきれずに円盤が外れ、吹っ飛んでいく。
「ああああ……おおおおおお‼」
男はその場にがくりと膝をついた。それと同時に《ロータリー・ブレード(回転刃)》のアニムスが解け、両手が元の人の手に戻る。
勝敗がついたのは、誰の目にも明らかだった。エリを守っていた静紅や銀賀、亜希の三人は揃ってほっと息をつく。
だが、すとんと地に降り立ったシロは、まだ日本刀を構えたままだった。男を睨みつけ、小さく唸り声をあげている。まるで男の回転刃が吹っ飛んでいったことなど、目に入っていないかのようだった。
「シロ! もういい……もういいよ‼」
深雪は慌ててシロに駆け寄り、日本刀を握りしめた腕を掴んだ。すると、シロは催眠術でも解けたかのようにはっとし、パチパチと数度、瞬きをする。
そしてようやく深雪がそこにいる事に気づいた。
「あれ……ユキ?」
シロはきょとんとして深雪の方を見る。良かった――深雪は、ほっと胸を撫で下ろした。間違いなく、いつものシロだ。
深雪はシロの手足に視線を落としながら、眉根を寄せた。
「大丈夫? 傷だらけだよ」
「あ、ホントだ。気づかなかった」
そう言ってシロは朗らかに笑う。どうやら本当に、自分の負った傷に気づかなかったようだ。九重竜吾の回転刃によってつけられた傷は浅いものもあれば深いものもあり、普通であれば感知しないなんてあり得ないように思うのだが。
(アニムスの反動かもな……)
深雪はそう思った。強いアニムスには、リスクが付きまとう。おそらく、シロは《ビースト》で全身の身体能力を上げることが出来るが、その間、痛覚が鈍くなってしまうのかもしれない。
ともあれ、シロが狗狼丸の刀身を腰の鞘に戻したので、深雪はやっと人心地ついたのだった。
「……さすがだね。《死刑執行人》の名は伊達じゃない」
《ニーズヘッグ》の頭、竜ケ崎亜希が深雪とシロに近寄ってきてそう言った。
「亜希! エリは?」
シロが血相を変えて亜希に詰め寄ると、亜希は穏やかな表情で微笑んだ。「無事だよ。怪我はしてるけど……命に別状はない。君たちのおかげだよ」
それから次に、亜希は深雪の方へと、意味ありげな視線を送ってきた。
「アニムス使うの、上手いね。ずいぶん手慣れてる。まるで、ずっと《東京》の中にいたみたいだ」
「そ……そう、かな」
深雪はぎくりとしたが、曖昧に答えて誤魔化した。チームの頭である亜希に、自分の過去を知られたくなかったのだ。
深雪が自らのチーム、《ウロボロス》を壊滅させたことを知れば、亜希はおそらく幹部失格と深雪を軽蔑するだろう。ただでさえこの小柄な頭は深雪を信用してはいない。これ以上、亜希との間に壁を作りたくなかった。
亜希との間に微妙な空気が流れる。
しかし、それも長くはなかった。
膝をついた筈の九重竜吾がゆらりと身を起こし、立ち上がったのだ。深雪を含めその場にいる全員が、はっとして男を凝視する。まだ、襲ってくるつもりだろうか――どの顔にもそんな緊張感と警戒心が滲んでいる。
だが、九重竜吾はこちらに襲い掛かってくることはなかった。
時おり低い声で呻きつつ、頭を押さえて横に振っている。その仕草は、操られていた人間が正気に戻った時の動作に似ているような気がした。
それでも警戒を怠らずに見つめていると、九重竜吾が動いた弾みで彼の纏っているTシャツが肋骨の辺りからばさりと下に落ちる。シロの狗狼丸によって生地に切れ目が入っていたのだろう。
露わになった横腹には、《メラン・プシュケー》のエンブレム――黒い蝶の刺青が鮮明に刻まれていた。
「やっぱり、《メラン・プシュケー》のメンバーか……」
深雪の呟きが聞こえていたのか、九重竜吾はこちらに定まり切らない視線を投げかけてきた。そして懇願するようにこちらに手を伸ばし、喉の奥から絞り出すようにして声を発した。
「あ……うぅ……た、助け……くれ………」
「え……?」
深雪は一瞬、耳を疑った。《ニーズヘッグ》を襲ったのは九重竜吾の方だ。それが助けてくれとは、一体どういうことなのか。
しかし、それは深雪の聞き間違いではなかった。九重竜吾は尚も苦しそうに全身を掻き毟る。
「俺達を……助けてくれ……! このままじゃ……みんな……死んじまう………! 俺が、殺してしまう…………‼」
男は顔色が悪く、足取りも覚束ない。目は充血し、口の端からは涎が垂れていて、息も荒い。
しかし、かろうじて意識はあるようだった。
よく見ると、首の後ろの付け根辺りに、妙な瘤がある。かなりの大きさで、気のせいか少しずつ膨らんでいるように見える。
ともかく会話ができそうだったので、深雪は九重竜吾に話しかけてみた。
「お前、《メラン・プシュケー》のメンバーか?」
すると、九重竜吾は荒々しい呼吸を幾度か繰り返した後、呻くようにして答えた。
「こ、九重……竜吾……」
「……‼」
深雪は息を呑む。
(やっぱりこいつ……《メラン・プシュケー》の幹部の一人だ……!)
どきりと心臓が高鳴った。今までも何人か《メラン・プシュケー》のメンバーは見つかっているが、どれもすでにこと切れているかゾンビ化が激しく、まともな情報が引き出せる状態ではなかった。
しかし、九重竜吾はゾンビ化が進行してはいるものの、何故か途中で意識を取り戻し、会話をできる状態になっている。うまくすれば、何か聞きだせるかもしれない。
「頼む……助けて……!」
九重竜吾は裏返った声で、泣き声を上げた。深雪は躊躇いながらも次の質問をぶつける。
「……。加賀谷ってヤツ、知ってるか?」
「か、カガ……ヤ……?」
「頭の加賀谷祐馬だ。今、どこにいる? お前ら、あちこちで喧嘩売って回ってるんだろ。何でそんなことするんだ」
「わ……分から、ない………」
「分からないって……どういう事だよ?」
「体が、支配されていて……自由が、効かない……! このままじゃ、きっと意識も全部、乗っ取られちまう……‼ だから……そうなる前に……頼む………‼」
深雪とシロは、不可解な面持ちで顔を見合わせる。九重竜吾の話は、まるで要領を得ない。一体どういうことなのか。見ると、シロも困惑している表情だった。
「ユキ、どうする?」
「…俺達だけじゃ、判断できない。誰か呼ぼう」
シロにそう答えながら、深雪は腕の装着型端末を取り出す。確か、流星は取り込み中の筈だ。とりあえず、事務所の乙葉マリアに連絡を取ろうと考えた。
しかし、その時だった。
「うう……うううううう!」
九重竜吾が突然大きな呻き声を発し、深雪は驚いて携帯を操作する手を止めた。
「あ……あぐ……! や、やめてくれ……これ以上……喰わないでくれ…………‼」
そう喚き散らしながら、九重竜吾は急に頭を抱えて前屈みになると、そのままガクガクと痙攣し始める。
ただでさえ土気色の顔を苦しそうに歪め、口をカッと開き、ゼイゼイと喘いだ。
やがて白目を剝き、大きく仰け反って絶叫を上げる。
「あ、ああ……うぐぅぁあ……んごああぁぁぁぁぁあああああああ‼」
「お……おい、大丈夫か⁉」
深雪は動揺を隠し切れず、そう言葉をかける。しかし九重竜吾にはその声が届いた様子も無い。やがて大きく見開いた眼球の、瞳孔が上下左右に激しくぶれる。
それと並行して聞こえて来るのは、ガリガリという、何かを食い荒らすかのような不気味な音。
――ガリガリ、ガリガリガリ。
やがて、九重竜吾の眼球がボコリ、ボコりと異様な音を立てると、顔面からはみ出すほど膨らんで反り出した。
そしてパシャリと生々しい音を立てて破裂する。
「ユキ……!」
ぎょっとしたシロが、驚きのあまり深雪の背後に身を隠す。
「うわっ……⁉」
深雪もまた、驚いてその場で固まった。
眼球を破裂させた九重竜吾の体は、そのままがくりと膝をつく。
目や鼻、口から滝のようにどす黒い血が溢れ出す。
目の虚の中も口腔内も真っ黒だ。
ほとんど黒に近い、どろりとした血液は、九重竜吾の眼窩からどんどん溢れ出すと、地面に大きな血溜まりを作っていく。
「九重って奴……もしかして、死んだ、のか……? 一体、どうなっているんだ……⁉」
何が男に起こっているのか。深雪は息をするのも忘れ、じっと九重竜吾を凝視した。
九重竜吾に起こった変化は、とても尋常なものではない。深雪の背中をじっとりと冷たい汗が濡らす。
しかしそれでも、九重竜吾に近寄って確かめてみたいという衝動に駆られた。それほど奇異な現象だったのだ。
「ユキ、駄目!」
ところが、深雪の腕をシロがぐいと引っ張って押し留めた。
するとその刹那、九重竜吾の眼球の奥から、真っ黒い何かが飛び出してきた。
一つ一つはとても小さい。小さいが、数が半端ではなかった。
ウワーンという、耳鳴りのようなすさまじい音。無数の小さな個体は、勢いよく外に跳び出てくると、大きな塊をつくり、上空へと飛んでいく。
「な……何だ⁉」
深雪とシロは何が何だか分からずに、立ち尽くすしかなかった。見ると、亜希や静紅といった《ニーズヘッグ》のメンバーも、呆気に取られてその場に固まっている。
やがて数分ほどたち、ようやくその黒い塊がどこかへ飛び去っていくと、その場はようやく静かになった。
残された九重の体は、うつ伏せにどさりと倒れ込む。




