第14話 疼痛
深雪は隅で縮こまっていた命に近づいていき、その華奢な手に財布を握らせた。
「……大丈夫? はい、これ」
「あ、ありがとうございます……‼」
命はぶるぶると全身を震わせている。よほど嬉しかったのか、それとも《ディアブロ》の暴力が恐ろしかったのか。大切そうに深雪から受け取った財布を握りしめると、それを懐の奥深くに仕舞ったのだった。
ともかく、用事さえ済めばこんなところに長居は無用だ。《ディアブロ》たちはじっとこちらを睨みつけている。いつまた不条理ないちゃもんをつけて来るか、分かったものではない。深雪は命を促し、早々にその場を立ち去ろうとした。
すると、背後から坂本が声をかけてきた。
「おい」
「……何」
内心でぎょっとするが、それを表に出すわけにはいかない。あくまで冷静を装いながら、深雪は坂本の方を振り返る。
坂本はぎょろりとした目をすっと細め、冷やりとする声音で言った。
「お前、雨宮深雪……だったな? 俺は坂本一空だ。覚えとけ。……この間の落とし前は必ず付ける」
坂本は今すぐ何かをするつもりはないようだ。動き出す気配はない。だが、その全身からは直視し難いほどの禍々しい殺気を、これでもかと放っていた。坂本は、深雪にプライドを傷つけられたことを忘れていない。今はただ、腕の負傷が完治するのを待っているだけなのだろう。
そして時が来たら、今度こそ深雪を思う存分いたぶって殺す気なのだ。
深雪はそれを察して、背筋が粟立つのを感じた。次に会うときは、本当に坂本によって殺されるかもしれない。
だが、だからと言って今すぐ何かをするつもりは、深雪の方にもなかった。今ならまだ坂本は弱っているが、先回りして再起不能にさせてやろうなどという考えはない。
それで、そっと坂本から視線を外し、命に小さく囁いた。
「……行こう」
「あ……はい」
二人はその場を後にする。坂本は深雪の後ろ姿を、蛇のような陰湿な視線でずっと追っていた。そしてふと眉間にしわを入れて呟く。
「……雨宮、だと?」
「どうしたんすか、坂本さん?」
手下のごろつきが訝しげな表情で坂本を見上げる。しかし坂本はそれには答えず、独り言のように呟いて首を振った。
「雨宮深雪………。いや……まさかな……」
一方、深雪と命は、離れて成り行きを見守っていたシロと合流する。シロは深雪たちが近づいてくるのを見てとると、ほっとした表情で駆け寄ってきた。
そこで深雪は改めて、
「命、大丈夫か?」
と尋ねる。命は《ディアブロ》が姿を消したせいか、ずいぶんと肩の力が抜けた様子で、力無く微笑んだ。
「あ、はい。深雪さんとシロちゃんにはいつもいつも助けてもらっちゃって……何だかすみません」
「それはいいけど……」
すると、深雪の言葉を引き継いで、シロが質問を投げかける。
「ミコっちはいつもさっきみたいにいじめられてるの?」
すると、命は図星を突かれたのだろう、ぎくりと笑顔を引き攣らせた。気まずそうに何度も瞬きを繰り返す。
しかしすぐに、隠しても仕様がないと判断したようだ。バツが悪そうに頭を掻くと、重い口を開く。
「うっ……それを言われると、ツラいです……。僕、見かけがこんなだし、小さくてひょろひょろしてるから、ああいうのの標的になりやすいんですよ。昔から」
「大変だな……」
深雪が呻くように漏らすと、命は慌てて両手を振る。
「いやいや、そうでもないですよ。絡まれるのも、罵倒を浴び去られたり腹いせに殴られるのも、慣れてるんで。一日、三回はああやって囲まれるんですよ。任せてください、バッチリです!」
「それは全然バッチリじゃないんじゃ……」
思わず小声で突っ込むが、命はめげない様子で、あはは、と笑うばかりだ。
明るいのはいいことだが、もう少し警戒感や危機感を抱いた方がいいのでは、と深雪は心配になる。しかし、そんな深雪の懸念をよそに、命はパッと顔を輝かせて提案してきた。
「それより、お二人とも僕の家に来ませんか? 昨日、胡桃とレーズンのケーキを焼いたんです!」
「ミコっち、すごーい! ケーキ作れるの⁉」
シロは、これまた分かりやすく、命の話題に食いつく。命はにこにこと笑って、嬉しそうの答えた。「これが、自分でいうのもなんですけど、けっこう自信作なんですよ~」
「ユキ、行こ行こ!」
シロが好奇心を抑えきれない表情で深雪の手を引っ張る。
「いいよ」
深雪は苦笑しながらも、二人と共に歩き出す。
(気のせいか……シロって食べ物に弱いよな)
確か、初めて命の家に行った時も、焼き菓子とハーブティに釣られたのではなかったか。そう思ったが、実を言えば深雪も命の隠れ家に行くことがそれなりに楽しみだった。
それに、命の出すハーブティや菓子はとろけるような美味しさで、釣られてしまったとしても無理はないと思う。深雪もあの味が忘れられない。
シロの事は全く言えないな――そう思いながら、深雪は屋上に緑を茂らせた商業施設へと向かったのだった。
温室の中は相変わらず清涼な空気と、植物たちの放つ瑞々しい生命力に満ちていた。
水を遣ったばかりなのか、青々とした葉にはどれも、透明な雫が光っている。そのせいか、空気も若干の湿り気を帯びて、肌に心地いい。
「ここは他となんか空気が違うよな。澄んでるっていうか……ちょっとほっとする」
「お花がいっぱい咲いていてきれいだし、お日様もキラキラしてるもんね!」
深雪とシロは、いっぱいに温室の空気を吸い込んだ。荒廃しきった東京の中で、ここはまるで小さな楽園のようだ。命は照れつつも、嬉しそうな声で答えた。
「はは……そう言われると、何だかうれしいです。まるで自分の事を褒められたみたいで……。あ、どうぞ座ってください。今、お茶出しますね」
深雪とシロがテーブルに着くと、命は手作りの棚に向かって何やらごそごそと取り出し始める。そして数分後には、お茶とケーキを盆にのせて出してきた。
例のアルミのマグカップには、今日は琥珀色の紅茶が注がれており、木彫りの皿にはふんわりと焼けたケーキがのっている。シロはそれを目にし、感嘆の声を上げた。
「わあ、これが胡桃とレーズンのケーキ?」
「すごいな。まるでお店で売ってるみたいだ」
深雪も素直に驚きを口にした。焼き菓子もすごかったが、このケーキはそれを更に凌駕するほどの完成度だ。美しい切り口から、胡桃とレーズンがおいしそうに顔を覗かせている。
「お酒の匂い、する!」
シロの言った通り、確かにケーキからはほんのりと甘いアルコールの匂いがする。
「ラム酒を混ぜてあるんです。いつもここまでうまく焼けるわけじゃないんですけど……。あ、お茶もどうぞ」
命から紅茶を受け取ったシロは、マグカップをそのまま口へと運んだ。一口すすって、再び驚きに目を見開く。
「これは何のお茶なの? ヘンな匂い……でも、おいしい!」
「アップルティーですよ。シナモンとレモングラスを香りづけに入れてます」
確かに、基本的な味は紅茶だ。ただ、とても甘酸っぱい香りがする。それがクセのある香辛料とレモンの香りと相まって、独特の旨味を作り出していた。
「何だか……結構、本格的なんだな」
深雪がそう言って褒めると、命は少し困ったように笑う。
「僕、昔からこういうのが好きで……ホント、よく女みたいだって言われます」
「俺も名前のせいで、同じようによくイジられるよ。でも、パティシエとか男も多いし、あんま気にすることないんじゃないかな?」
「そうかな……そうですよね。深雪さんって、本当に優しいですね」
命はそう言って、はにかんだように笑った。手作りの紅茶とケーキを前に、嬉しそうにしている命を見ていると、深雪は何だか本当に女の子と接しているような妙な気分になる。
(まあ……確かに命にちょっかいをかける奴らの気持ちも分からなくはないな……)
ゴースト如何に関わらず、命のようになよなよとした男が気に食わない、という者は少なからず存在する。ここは監獄都市で、力にものを言わせる輩が多いことから、そういった感覚を持ったものが他所より多いと考えられる。
命がそのせいで《ディアブロ》のような連中に目をつけられているのなら、それは不幸と言う他ない。だが、命がゴーストでなければ――ここが監獄都市でなく普通の街だったなら、命のような男がいても何らおかしくはないと深雪は思う。
男らしさや女らしさを大事にする人間がいれば、そこに拘らない人間も世の中にはいる。どちらが正解という事はない。
深雪はそこでふと、不思議に思って口を開いた。
「そういえば、命っていつも一人なの? チームに入ったりはしないのか?」
深雪は命が暴力を振るわれていたら、できるだけ助けるつもりだ。でも当然のことながら、いつも一緒にいられるわけではない。命に仲間がいれば、狙われることも少なくなるのではないかと思ったのだ。
すると、命は悲しそうに表情を曇らせた。
「僕……貧弱であまり役に立たないから、なかなか入れてもらえるところがなくて……」
「……そっか」
まずいことを聞いたかな――深雪は自分のした質問を後悔する。
ゴーストのチームは、学生の仲良し集団とは微妙に違う。気が合うとか趣味が同じだからとか、そういった要素よりも、一緒にいていかに実利があるかという事が重要視されやすいのだ。
命はそういった意味で、他のゴーストに一緒にいる価値なしと判断されてしまったのかもしれない。
「深雪さんが頭になって新しくチームを作ってくれたらいいのに……。そういうの、きっと向いてますよ」
命はぽつりとそう言った。
さほど深い意味はなく、何気なく放った一言のようだったが、深雪は内心でぎくりとする。それを命に悟られないために、慌てて作り笑いを浮かべた。
「いや……それはどうかな」
深雪はあまりその話題を膨らませたくはなかった。しかし、命は自分が偶然思いついたアイディアを、いたく気に入った様子だった。
「そうですよ。僕、深雪さんだったらきっと、弱いゴーストも受け入れ守ってくれる、温かいチームを作ってくれるんじゃないかって思うんです。僕のような端くれでも仲間にしてもらえるような……そういう頭を、本当はみんな求めているんじゃないかって思うんです」
「買いかぶりすぎだよ。俺は……」
この話は良くない。
深雪は何とか無難に断ろうと言葉を探すが、命はかなり真剣な様相だった。それこそ、下手なごまかしで茶を濁そうなどという態度は許されないほどに。
しかし、どんなに期待されても深雪にはチーム頭を務めようなどという腹積もりはない。
それをどうやって命に分かってもらおうかと思案していると、右手の手の平に激痛が走った。
五寸釘で打たれたかのような、激しい痛みだった。
(何でこんな時に……!)
深雪は命やシロにそうと悟られぬよう、テーブルの下で、左手で右の手首を強く抑えた。そして歯を食いしばり、自然に痛みが引くのを待つ。
しかし目の眩むような激しい痛みは、治まるどころかどんどん強くなっていた。あまりに痛むため、指先もろくに動かせない。掌の中心が溶けた鉄のように夥しい熱を放ち、腕の血管が浮き上がってはち切れそうになる。
深雪はそれらに対して為す術もなく、悲鳴を上げないようにするだけで精いっぱいだった。
激しい痛みは思考力も根こそぎ奪っていく。命にうまい返事をしなければと頭ではわかっていたが、とてもその内容を考える余裕はなかった。
そんな深雪の葛藤をよそに、命はこちらに身を乗り出してくる。そして、興奮交じりに声を弾ませた。
「絶対に向いてますよ、深雪さん。いや、絶対にやるべきだ。この街には、僕みたいに力が弱くて暴力に怯えているゴーストたちが大勢いる。チームにすら入れてもらえず、野垂れ死ぬ者だって珍しくないんです。僕は鉄屑拾いをしているでしょう? 少なくとも一か月に一度は、そういった者たちの亡骸に出くわすんですよ。でも、ここでは誰もそんな事、問題にしない。弱い者には、声を上げる機会すらないんです。……そんなのは間違っている。彼らを救うためにも……一度、本格的に考えてみたらどうですか?」
「い、いや……でも……!」
「駄目だよ、ミコっちゃん」
すると、それまで黙って二人のやり取りを見ていたシロが、唐突に口を開く。深雪と命は驚いてシロに視線を集中させた。
シロはじっと命に視線を注いでいた。その表情には、いつもの天真爛漫さはない。つい先ほどまでケーキに感動し、はしゃいでいた無邪気さは跡形もなく消え失せていた。
それどころか、どこか挑むような声音で、命に警告を告げたのだった。
「ユキは《死刑執行人》で、シロたちの仲間なんだから。……ミコっちゃんにはあげないよ」
「シロ……?」
深雪はシロの変化に戸惑う。
確かに深雪も頭になるのは乗り気ではなかったが、シロがここまで強く命を牽制するとは思っていなかった。命も困惑を浮かべていたが、すぐにその場の空気を取り成すように、明るい声で言った。
「あ……そうですよね。今のはそうだったらいいなっていうだけの話だから……忘れてください」
命は次いでシロに紅茶のお代わりを勧める。それでシロも無邪気な笑顔に戻った。
深雪は内心でほっとする。それはシロが元に戻ったことと、命が頭の件を諦めてくれたこと、両方に対する安堵だった。
(俺にはチームの頭なんて無理だ。それに、すべきでもない。《死刑執行人》がいいっていうわけじゃないけど……)
《ウロボロス》の結末が、重く深雪にのしかかっていた。深雪は自らの手でチームを壊滅させてしまったのだ。それを考えると、とても頭になることなど考えられない。命が深雪に期待してくれるのは嬉しい部分もあるが、今の深雪にはそれに応える事は出来そうになかった。
気づけば、いつの間にか右手の痛みも引いている。
(何だか、シロに助けられたな)
彼女は悪い会話の流れを断ち切ってくれたし、痛みからも意識を逸らせてくれた。感謝の念を交えつつシロの横顔を窺うが、別に意図したわけではないのだろう、いつも通り混じりけのない無垢な笑顔を送り返してきた。
その後は和やかな時間が過ぎていく。
シロと命もいつも通りだ。先程の奇妙な空気は一瞬の事で、命が再び頭の話題を持ち出すこともないし、シロもご機嫌なままだった。
しかし突然に鳴り響く携帯の着信音が、長閑な空気を一掃する。それは、マリアによって持たされた事務所の携帯――腕輪型の通信機器から発せられていた。
顔を見合わせる三人。
「だあれ?」
「マリアだ。……何かあったのかな。ちょっとゴメン」
深雪はシロと命にそう答えながら席を立ち、温室の隅の方へと移動する。そして通信機器を通話モードにした。すると間髪入れず、通信機器からやたらとテンションの高いマリアの声が聞こえてきた。
「やっほ~、深雪っち。今、一人?」
「いや、シロも一緒だけど」
「そっかぁー、ちょうど良かった! 今すぐ事務所に戻れる?」
「……何かあったの?」
今日はミーティング以外、特に予定もなかったはずだ。一体何があったのか。嫌な予感がしつつ、深雪は声を潜めて尋ねた。
マリアはあくまでハイテンションな口調を崩さずに答える。
「ん~、流星と奈落の方がね。なぁんか、取り込んでるみたい。あいつらの事だから応援は必要ないと思うけど、まあ、念のためって事でみんな呼び戻してるの。ヨロシクしちゃってもい~い?」
「………分かった」
「ああん、深雪っち、愛してるぅ!」
マリアが、芝居がかった口調でそう言い終わった途端、ぶつんと通信が切れた。マリアはいつものふざけた様な軽いノリだったが、状況には思いの外、余裕が無いのかもしれない。
深雪も通信を切り、テーブルに戻った。シロと目が合うと、会話が聞こえて来たのか、頷き返してくる。ただならぬ気配を察したのか、命は不安そうな表情で言った。
「何か……あったんですか?」
「ごめん、今日は帰らないと。また今度、遊びに来るから」
「あ……はい。分かりました。楽しみにしていますね」
命は少し名残惜しそうだったが、二人と一緒に立ち上がった。
「シロ、行こう」
「うん!」
そして、深雪とシロは命に別れを告げ、温室を後にした。
流星と奈落が取り込んでいるという事は、よほどの事態に違いなかった。もしかすると、自分もアニムスを使わなくてはならなくなるかもしれない――そう思うと、深雪は心臓がぎゅっと掴まれたような強い緊張感を覚える。
商業施設の長い階段を降り、通りに出てからふと上を見上げると、命が温室のバルコニーからこちらを見つめているのが見えた。命は見送りをしたがったが、急いでいるからと断ったのだ。
深雪は命に向かって軽く手を振ると、シロと共に事務所に戻る道を走り始めた。




