第1話 束の間の休息①
しん、と静まり返った夜だった。
世界の崩壊を思わせる荒涼とした廃墟群の中を、一人の男が覚束ない足取りで歩いていた。
男は自問自答していた。――何度も、何度も。
ここはどこか、己はいったい何者か。今まで一体、何をしていたのか。
これから、どこへ行けばいいのか。
だが、不思議なことに、何一つ明確に思い出せない。今まで当たり前のようにあった情報が、一つとしてまともに引き出せないのだ。
一生懸命に思い出そうとしても、まるで脳内が霞でもかかったかのようにぼんやりとし、上手く働かない。
何かおかしい……そんな気もするが、上手く思考がまとめられない。
しかし、不思議なことに男の体は歩みを止めないのだった。どこへ行けばいいのか……脳はその目的をとうに失っているのに、体は勝手に動いている。
随分前、男はそれに恐怖を抱き、必死で抗ったり、絶望に打ちひしがれたりもした。しかし今や、それらの感情さえ摩耗し、何の感慨も湧かない。ひたすら体の為すままに、ふらり、ふらりと歩くのみだった。
ただ一つだけ、男の気になっていることがある。
カリカリ、カリカリ。
カリカリカリ。
それが何の音なのか、男には皆目見当もつかない。ただ、いつの間にか聞こえるようになっていたのだ。何だか途轍もなく不快なような気もするし、逆に心地良くなってくる気もする。とても不思議な音だった。
男は首を捻る。この音は一体何なのだろう。その奇妙な音は、男の首の後ろの方から聞こえて来るような気もする。でも、何故そんなところからそんな音が……?
男は考え込んだが、すぐに思考は散漫になり、霧のようになって霧散してしまった。
何だか、無性に眠い。意識が遠くなっていく。男は何だか何もかも面倒臭くなり、考えるのをやめて惰性のままに歩き続けることにした。
カリカリカリ、カリカリカリカリ。
奇妙な音は、男が思考を停止した後も、全く鳴り止む気配を見せなかった。
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細い路地は人でごった返していた。明らかに数日前――深雪が東京に来たばかりの頃と比べると、人出が増えている。
シャッターを下ろしていた店舗も、今日はみな店を開いていた。
人通りが多いのは、太陽が頭の真上に昇る時間帯だからというだけではない。ただでさえ狭い路地の両脇には、屋台や露店が所狭しと並び、溢れた商品が通路の一部を占拠している。そのせいで、余計に人口密度が上がっているのだ。
「何だか……結構人がいるんだな」
シロと一緒に事務所の近辺を散策していた深雪は、予想外の風景に目を瞠る。久しぶりの人ごみに、懐かしささえ感じてしまう。
シロがどこか外で昼食を取ろうと提案し、最初はあまり乗り気ではなかったが、これだと食べるところにも困ることは無さそうだ。
「うん、いるとこにはいっぱいいるよ。いないとこには全然いないけど。特に、ユキがここに来た日があるでしょう? ああいう日は、みんなお店閉めちゃうんだ。トラブルに巻き込まれないように。だから、いつもはこんな感じだよ」
獣の耳を頭上に生やしたセーラー服の少女――シロは、腰のホルスターに提げた日本刀《狗狼丸》が跳ねるのも構わず、くるりとこちらを振り返りながらそう説明した。
深雪は成る程、と納得する。
《壁》の外から新しい囚人が来る日は、必然的にゴースト同士の衝突が増えるのだ。だから、まともな住人はみな巻きまれるのを恐れて家に籠ってしまうのだろう。
それも一週間ほどたってしまえば元通り、という訳だ。この喧騒が、この街の本来の日常であるようだった。
昔は東京中、どこへ行っても人で溢れていた。今はその中でも、人のいるところが一部に集中しているのだろう。
(こいつらも、みんなゴーストなのか……?)
深雪はすれ違う老若男女を見つめながら、僅かに顔をこわばらせた。
およそ三十年ほど前、ゴーストと呼ばれる特殊能力者が世界に現れ始めた。
彼らがなぜ出現するようになったのか、その理由はまだ明らかにはなっていない。ただ、彼はみなアニムスという名の力――不可能を可能にする特殊能力を持ち、次第に既存の社会を脅かす存在だと考えられるようになった。
ゴーストが社会に与える不安定性を懸念した政府は、旧首都・東京の周囲を囲むように壁を築き、その中にゴーストを囚人として収監するようになった。そして東京は、東京特別収容区――監獄都市・東京と呼ばれるようになったのだ。
ただ、囚人と言っても皆がみな、犯罪を犯したりしているわけではない。ゴーストであるという事自体が罪なのだ。
実際に通りに目を転じると、様々な者たちが溢れ返っている。背を丸め、睨みつけるようにして闊歩する屈強な男たちに、何やらよく分からない壺などを売りつけようと大声を張り上げる老婆。通りの端には、しなを作って男たちに声をかける、娼婦らしき女たちの姿も見える。
みな、見かけは普通の人間だ。
だが監獄都市にいるという事は、彼らの多くもまたゴースト(特殊能力者)であり、囚人だと判断された者たちなのだった。
深雪がその《監獄都市・東京》に入って、五日が経っていた。
深雪はとりあえず、東雲探偵事務所に身を寄せることにした。事務所の主・東雲六道とは、数日前に事務所の屋上で話して以降、会話を交わしていない。しかし当初告げられた通り、六道は深雪を《死刑執行人》として雇うつもりであるらしかった。
(俺に殺せというのか、ゴーストを……)
《死刑執行人》というのは、この監獄都市特有の存在だ。それには、ゴースト関連保護法という法律が深く関わっている。それはゴーストと既存社会の摩擦を徹底して排除するために設けられたもので、ゴーストは裁かない・殺さない・関わらないという理念のもと、一般の国民から国家権力に至るまで全ての存在をゴーストと関わらせないようにする法律だった。
それはまた、ゴーストを一般社会から隔離する政策を推し進める要因ともなった。
しかしその政策には問題点もあった。ゴーストの中には普通の人間と変わらない者も大勢いるが、当然、悪事を働く者もいる。しかし、国はそれらを分け隔てなく一緒くたに丸め、この監獄都市に放り込んでいるのだ。
結果として、東京の内部はただの一般人から殺人鬼までごちゃまぜになり、混沌状態と化してしまっていた。
東京の内部にも警察官はいるにはいるが、国家権力はゴーストに干渉できないという法律が制定されているため、何ら抑止力を持たない。
それが余計に事態を悪化させていた。
その無法地帯と化した東京に、かろうじて秩序を生み出しているのが、《死刑執行人》と呼ばれる者たちの存在だった。何者も裁けない犯罪者ゴーストを排除する――それが《死刑執行人》の負っている役割だ。
《警視庁指定ゴースト第一級特別指名手配書》――通称、《死刑執行対象者リスト》。警視庁によって発行されるそのリストに登録されているのは、押しも押されぬ凶悪ゴーストばかりだ。
彼らには相当額の賞金が懸けられており、犯罪者ゴーストが凶悪であればあるほどその金額は跳ね上がる。《死刑執行人》はそのリストに登録してある凶悪ゴーストを狩り、報奨を得て生計を立てるのだ。
だが、深雪はその『制度』をあまり好ましいものだとは思っていなかった。理由は、《死刑執行人》もまたその大半がゴーストであるという事だ。
危険なゴーストを野放しにしておけないというのは理解できる。しかし、その始末を同じゴーストにさせるというのは、果たして正しい事なのだろうか。
ゴーストとゴーストの殺し合いは熾烈を極める。それはさらに混乱を加速させることになりはしないか。
だから、六道に《死刑執行人》になれと言われても、はい分かりましたと素直に頷くことができないでいるのだった。
ただ、それでも深雪は東雲探偵事務所の二階で寝泊まりしていた。
「ゴーストを殺す」――そんな事務所の『仕事内容』に決して納得したわけではない。だが、単独で動き回るにしても今の東京の現状をあまりにも知らなさすぎる。
普通であれば、嫌なら事務所から出ていけばいいだけの話なのだが、ここは監獄都市だ。迂闊な行動をとると命取りになりかねないという事を、深雪は経験により痛いほど思い知らされていた。
《死刑執行人》になるのか、どうか。今も深雪は、はっきりとした答えを出していない。だが、どちらにせよ情報収集やそのための拠点は必要だった。
今の東京は、深雪の生まれ故郷である東京とは全く違う。異国同然の地なのだ。
幸い今のところ、大事件が起きる気配も、《死刑執行人》として駆り出される様子も無い。深雪は平穏な日々を送っていた。
ただ一つ、事務所に所属する《死刑執行人》の赤神流星からは、新宿以外の街には行くなと釘を刺された。それで情報集がてらに、事務所の近辺をぶらぶらする事にしたのだった。
路地の中には、屋台も複数見受けられる。ラーメン、カレー、ハンバーガー店に弁当屋。タコスやケバブサンドの店もある。
「何にしようか?」
深雪がシロにそう問うと、シロはくっきりとした瞳で深雪を見返し、小首を傾げた。
「ユキは何がいいの?」
「う~ん……ラーメン、かなあ?」
「ラーメン! シロも大好き!」
「へえ……意外だな。女の子って、すぐダイエットとかいうじゃん。あんま好きじゃないのかと思ってた」
「シロはラーメン好きだよ! 味噌や醤油も好きだけど、豚骨が一番好き!」
無邪気に両手を広げ、笑うシロを見て、深雪も思わず頬が緩む。
「じゃあ、ラーメンにしようか」
深雪はちょうど目に入ったラーメン屋を指さした。
その店もまた他の店と同様に、屋台に毛が生えたような簡素なつくりの店だった。見ると、愛想のない中年のオヤジが狭い厨房を捌いている。そこそこ人気もあるようで、人の入りは多いが回転も速い。
豚骨の濃厚な匂いに誘われて集まってきた空腹客を、次々と貪欲に呑み込んでは吐き出していく。
深雪とシロは、そのラーメン屋の暖簾をくぐることに決めた。
ラーメン屋で昼食を済ませ、深雪とシロは事務所に戻る。
見慣れた通りに入ると、すぐに赤煉瓦の三階建ての洋館が目に入った。
この、重要文化財にでも指定されそうな重厚感のある建物が、東雲探偵事務所の本拠地だ。内装はリフォームしているらしく、見た目ほど旧式ではないのだが。
昼間の事務所は大抵、閑散としているが、今日も特に人けはなさそうだった。昼間から頻繁に事務所のメンバーが出入りする時は、何か事件があった時だ。誰もいないという事は、今日も街は平穏であるという事に違いなかった。
深雪は無人の屋内に、ついほっとしてしまう。
ここ数日、事務所は全体的に静かだった。数日前に大量殺人事件を解決したせいか、街中で発生する凶悪事件もやや減少傾向にあるらしい。尤もそれがゼロになることは決してなく、おまけにこの平穏もあくまで期間限定のものであったが。
とにかく、深雪は自分たち以外に、事務所に人影はないと思っていた。ところが客間に足を踏み入れると、黒い神父服とキャソックを羽織った外国人の姿があったので、驚いた。
「オル!」
シロも意外そうな様子で、彼のあだ名を口にした。
オリヴィエ=ノアは神父だ。砂金のような透明感のある金髪に、秋空のような真っ青な瞳が好印象を残す人物だった。彼は教会に併設されている孤児院で働くと同時に、《死刑執行人》の仕事もこなしている。と言っても、昼間は大抵、孤児院の方にかかりきりで、事務所に顔を出すことはあまりない。
「珍しいね、こんな昼間に事務所にいるなんて。何してるの?」
深雪が尋ねると、オリヴィエは品の良い笑みをその端正な顔に浮かべる。
「孤児院で育てた花を、お裾分けしようかと思いまして」
オリヴィエの手元を見ると、植物の鉢が三つあった。蔓性の植物で、特徴的な形の紫がかった青い花が咲き綻んでいる。他にも白い花や赤みがかった花が見られた。
「何て言うか……ちょっと変わった花だね」
深雪が感想を述べると、オリヴィエは、
「クレマチスという花ですよ」
と、教えてくれる。シロも、鉢の中を覗き込んだ。
「綺麗なお花だね!」
「ええ。でも、花のように見える部分は実は花弁ではなく、がくなんです。花言葉は『高潔』、『美しい心』、『たくらみ』……などですね」
オリヴィエは淀みなく、すらすらとそう答える。昨日や今日、丸暗記しましたという風ではない。植物に詳しくない深雪は、思わず感心してしまう。
「ふうん……花言葉とか、良く知ってるね」
すると、オリヴィエはどこか嬉しそうに微笑んだ。
「植物を育てるのは好きなんですよ。それでつい、色々と」
「そうなんだ。俺は、理科とかあんま得意じゃなかったな。特に育てる系。朝顔とかひまわりとか……結構難しくてさ。クラスで何人か枯らす奴とか出るだろ。あれ、すんげー居たたまれなくなる」
当時の事を思い出すと、自然としかめっ面になってしまう。オリヴィエはそんな深雪の様子を目にし、くすくすと笑った。
「それは……気の毒でしたね」
「笑い事じゃないよ」
「確かに、大変な面はあります。与える水の量や方法、日当たり、風通し……温度管理や肥料の具合など、植物の種類によってみな違いますしね。でもだからこそ、うまく育った時の喜びはひとしおですよ」
「シロもクレマチス、育てられる?」
シロはこの風変わりな花が気に入ったらしく、盛んに耳をひょこひょこ動かしている。オリヴィエは柔らかな表情で頷いた。
「手間はかかりますが、難しくはありません。一緒にやってみましょうか」
「うん!」
「何か手伝おうか?」
深雪が尋ねると、オリヴィエは「そうですね……」と、顎に手を当てて考え込む。
「それでは、じょうろを持ってきてもらえますか?」
「どこにあるの?」
「キッチンの勝手口を出たすぐのところに、ガーデニング棚がありまして……」
どうやら、その棚の中にじょうろが収容されているらしい。何だそんな事か、と深雪は言われた場所へと向かった。
何気なく、木製の古びた勝手口の扉を押し開ける。
てっきり無人だと思っていたが、そこに人影があり、ぎょっとした。
「おわ、びっくりした!」
そこにいたのは、軍服を身に纏った、眼帯の男だった。かなりの長身で、鍛えられた体をしているのが、分厚いコートの上からも分かる。銀髪で、ワインレッドの瞳は刃物のように鋭い。毛虫でも見るかのような一瞥をこちらに向けられ、深雪はびくりとする。だが、次の瞬間にはそのワインレッドの瞳は、完全に深雪から関心を失っていた。
奈落は深雪を盛大に無視し、優雅に煙草などふかしている。その巨体が邪魔で、深雪はじょうろをとることが出来ない。
「……ちょっと、邪魔なんだけど」
深雪は抗議するが、奈落の態度はあくまで尊大にして不遜だった。身じろぎ一つ、する様子がない。深雪はさすがに、内心でムッとする。この至近距離で、まさか聞こえなかったという事はないだろう。無視されて愉快な人間など、この世にはいない。
文句の一つも言ってやりたいところだが、正面からやり合っても蹴りか拳が飛んでくるだけだ。そこで深雪は、遠隔から様子を探ることにした。




