エピローグ 罪と罰②
「ところで……この事務所で働けることになったんだって?」
そう尋ねると、海は「はい」と嬉しそうに頷く。
「ホント、よく所長がオッケー出したよな」
「六道、事務員さんを雇うのはすごく慎重だったもんね」
流星とシロも感心したような表情で相槌を打った。海はその時のことを思い出したのか、僅かに俯き、小声になって言った。
「かなり厳しいことも言われました。身を守る術を持たない者は、必要ないとまで……」
「でもそれを説得したんだ?」
深雪が尋ねると、海は毅然として顔を上げる。
「私みたいな人間は、外にいても野垂れ死ぬだけです。どうせ死ぬのなら、自分に存在する意味を見出せる方を選びたいと……そう訴えたんです」
「あの所長相手に……すごいな」
深雪は素直に感想を漏らした。東雲六道がいかに手強い相手であるか、深雪は身をもってよく知っている。何せ、面と向かい合っただけで、震えが走るほどなのだ。説得するのがどれほど大変だったか、想像するにあまりあるほどだ。
そしてあの六道が認めたのなら、海の決意は本物なのだろう。
マリアもぴょんぴょんと飛び跳ね、祝福するように海の周囲を飛び回る。
「いやーホント、海ちゃんにそんな度胸があるとは思わなかったわ」
「何だか、今思い返すと恥ずかしいです」
「照れることないわよー、誰かさんもこの調子でここに居ついてくれるといいんだけどな~」
そして目つきの悪いうさぎのマスコットは、深雪にちろりと意味ありげな視線を送って来るのだった。
深雪はその意を察し、慌てて視線を逸らし、話題を変える。
「うっ……そ、そう言えば、神狼は? 姿が見えないけど……」
「ああ、もうすぐじゃねーかな?」
流星が笑いながら答えた、ちょうどその時。
部屋の扉がズバンと派手な音を立て、勢いよく開いた。
「な……何事だ⁉」
台風でも上陸したかのような剣幕に深雪は飛び上がり、ぎょっとして扉に目を向ける。
「お、来た来た」
一方の流星は、上機嫌で右手に持った缶ビールをひらひらと振った。
そこには、超絶不機嫌そうな神狼が立っていた。いつもは黒いチャイナ服を着ている筈だが、今日は真っ黄色だ。目立ちさえすればいいといういかにもなデザインは、普段着というより、どこかのチェーン店のユニフォームを思わせた。両手には、中華料理の盛られた大皿。その足元にも、岡持ちが二つほど見える。
神狼は部屋の中をじろりと見渡し、大声で告知した。
「おい、龍々亭だゾ!」
「神狼……?」
どうしたんだ、その格好――そう言おうとして、深雪はふと思い出す。
(そう言えば、神狼は中華料理店でバイトしてるってシロが言ってたっけ)
岡持ちや大皿の存在を考えても、その中華料理店――龍々亭の出前でここにきているのだろう。しかし神狼の態度は、客商売にあるまじき傍若無人さだった。愛想もなければ、気遣いもない。遠慮会釈なくずかずかと部屋に入ってくると、手に盛った料理を次々と並べていく。部屋中に、ごま油や八角などの中華料理の香りが広がっていく。
「焼きギョーザとシューマイ、炒飯、四人前。八宝菜と回鍋肉二人前。……それと流星!」
「何よ?」
「ウチは本格中華の店ダ! 長崎皿うどんとか、注文するナ!」
「そう言いつつ、注文したら作ってくれんじゃーん」
確かに、大皿の一つは皿うどんだ。パリパリに揚げた麺の上に、熱々の中華餡がこれでもかとかけてある。流星はホクホクした様子で割り箸を割ると、神狼に声をかけた。
「折角だから、お前も食ってけよ」
「だから、今は仕事中だと……」
すると、すかさずオリヴィエが、神狼に菓子の盛られた皿を差し出す。
「神狼、あなたの好きなフィナンシェも用意していますよ」
吊り上がった眉毛が、一瞬、垂れ下がるのが分かった。
「うっ……し、仕方ナイ。少しだけだゾ」
とか何とか口では言いつつも、すっかり菓子皿を独占し、幸せそうにフィナンシェを頬張っている。
「どうでもいいけど、何でいちいち俺様なんだよ?」
素直に食ってりゃいいのに、と深雪が呆れると、神狼はこちらを睨み、鋭い一言を放った。
「ウルサイ、チビのクセに」
「はあ⁉ チビって……タッパ同じくらいだろ!」
深雪は猛然と反論する。ところが、神狼は胸を逸らせ、鼻を鳴らしたのだった。
「俺はまだ十四ダ!」
「それがどうし……って、え? 十四……? マジで⁉」
「マジだ。打ち止めのお前と違って、俺には未来がある。どうだ、羨ましいだロウ⁉」
神狼はやたらと得意げにふんぞり返る。小憎たらしいこと、この上ない。深雪が、ぐぬぬぬ、と歯軋りしていると、マリアが意地の悪い笑みを浮かべながら近寄ってきた。
「あらあ、背の低い男の子も、十分魅力的だと思うわよ~?」
「あーもう、どいつもこいつも、チビチビ言うなよ!」
深雪は平均と比べても、決して極端に背が低いわけではない。ただ、比較対象が悪いだけだ。奈落やオリヴィエはそもそも日本人ではないし、流星もどちらかというと背が高い。たまたまこの中で背が低い、というだけの話だ。
そう主張したのだが、神狼の反応はにべもない。
「仕方ない、本当の事……」
と言いかけるが、その言葉はシロの上げた「ああー!」という歓声によって打ち切られてしまった。何事かとシロの方へ視線を向けると、彼女は神狼の持ってきた料理にいたく感動している。
「杏仁豆腐がある! 神狼、ありがとう‼」
よほど好きなのか、シロは乳白色のプルプルしたゼリー状の菓子をスプーンで掬い、弾けるような笑みを浮かべる。神狼は真夏の太陽のようなシロの笑顔を見て、頬を赤くした。
「べ、別に……ついでに持ってきただけダ」
乱暴な口調だったが、それが照れ隠しであるのは明らかだった。どうやら、女の子は苦手らしい。深雪に対する態度とは大違いだ。腹立たしく思う一方で、何だ、普通の十代みたいな面もあるんじゃないかと、自分も十代なのを棚に上げて深雪は思ったのだった。
その間にも、勝手かつ強引に酒盛りは進む。
「ん、龍々亭のギョーザ、いつもと違わねえ?」
「是。それ、大葉入りギョーザ。マスター、今、新メニュー開発してる」
「新メニュー? 何だか面白そうですね」
「うちでも一番人気、それがギョーザ。焼きが人気だけど、水炊きもウマイ」
「フン。ギョーザなんて、ピロシキの紛いもんだろ」
「まあ、確かに似ていますね」
「否! ギョーザ、偉大なり! ギョーザを嗤うものは全て滅すべし!」
「んなこたいいから、焼きギョーザ寄越せ。仕方なく食ってやるからよ」
「やめろってお前ら。フォークとレンゲ、振り回すな!」
「シロはギョーザもピロシキも大好きだよ!」
もはや、深雪の存在など、有って無きが如しだった。深雪は、だんだん突っ込むのも馬鹿馬鹿しくなってくる。窮状を訴えたところで、どうせスルーされるか、悪態を返されるだけなのだ。
「深雪さん、どこへ行くんですか?」
ベッドを脱出しにかかった深雪に、海が声をかけて来る。
「ああ、外の空気吸ってくるだけだから。琴原さんはゆっくりしてて」
傷の痛みも、今日は随分治まっている。事務所の建物の中をぶらぶらするくらいなら問題はないだろう。シロも深雪の動きに気づいて、手を差し出して来た。
「ユキ、一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ」
深雪はシロに微笑んで見せる。そして、ようやく部屋から抜け出した。
「あー、空気美味い……」
廊下に出ると、真っ先に深呼吸していた。深雪の部屋は酒と料理の匂いがごっちゃになって、すっかりカオスになっていた。料理はともかく、酒の匂いは苦手だ。頭がガンガンしてくる。息を吸うと肺に新鮮な空気がなだれ込み、それらを一掃していった。
「全く……ありがたいんだか、迷惑なんだか……」
せっかく料理や酔っぱらいどもを押しのけ、わざわざ抜け出してきたのだ。すぐに自室に戻る気にもなれない。かといって事務所から外出するには怪我の治癒が十分でなく、危険だった。
どこかいい非難場所はないかと思案し、深雪は、そうだ、屋上に行ってみよう――と思いついたのだった。
苦労して階段を上がり、重い鉄の扉を開けると、屋上は全くの無人だった。
二週間前、流星とやり合った時に、コンクリートの床に作った爆発跡がまだそのままになっている。深雪は手摺に近づいて行って鉄棒に掴まり、曇天の下に広がる灰色の街並みを眺めた。
海の強い決意のこもった眼差しは、どきりとさせられるものだった。
実際、深雪は海が言うほど何かをしたわけではない、と思っている。事件を解決したのは《死刑執行人》である事務所の面々だ。深雪は結局、高山を止めるには至らなかった。自分が果たした役割といえば、せいぜい東雲六道がリスト登録にまで漕ぎ着ける間の時間稼ぎだ。
そして今もまだ、自分の身の振り方を決められずにいる。
その時、街の向こうからいくつものサイレンの音が聞こえてきて、ハッとした。紛れもない、パトカーのものだ。
この一週間、部屋の中で寝ていても、サイレンが聞こえてこない日はなかった。
警察はゴーストを取り締まることはできない。そうは言っても、ゴーストの抗争に普通の人々が巻き込まれることはある。そういった事があると、彼らが出動するのだという。つまり、パトカーのサイレンの音がする時は、誰かが理不尽な暴力の毒牙にかかった時だという事だ。
「きっと……今この瞬間にも、この街では誰かが理不尽な死を強いられているんだ。そして、《死刑執行人》たちがそれを狩る。それはある意味では正しいのかもしれない。でも……」
高山は快楽殺人鬼だ。彼らと話し合いが可能だっただろうか。答えは否、だ。あの場で《死刑執行人》が一定の役割を果たしたのは紛れもない事実だろう。
それに、東雲探偵事務所は無差別にゴーストを攻撃して回っているわけではないし、警察ですら見放された海も保護してくれた。
それに彼らの深雪に対する処遇も、むしろいい部類だろう。高山らに連れ去られた時には助けに来てくれたし、ひどい傷の手当てもしてくれた。しかもそれらにかかる如何なる経費も、請求されていない。
ゴーストである深雪にここまでしてくれる者は、おそらく世界中を探しても他にはいないだろう。それは海やシロたちと共に助けを求めて入った警察署の対応からも、簡単に想像がつく。むしろ、このまま何もせずに出ていくのは申し訳ないくらいだ。
しかし一方で、脳裏に二十年前の恐ろしい映像が、鮮烈に甦って離れないのだった。
「俺はもう、あんなことは二度と繰り返したくない。そう思うのは、間違っているのか……?」
そう呟いてみる。しかし、問いはただ風に乗って流されていくのみだった。
そのまましばらく風の流れに身を任せていたが、ふと屋上の扉が開く重々しい音がした。深雪は一体誰がと、背後を振り向く。
そこに立っていたのは流星だった。深雪に気付くと、飄々とした様子でこちらに歩み寄って来る。
「よう、深雪ちゃん。元気そうじゃないの」
「……。その『深雪ちゃん』っての、何とかならない?」
深雪はジト目で反論するが、流星は笑って「いいじゃねーか。呼びやすいし」と、肩を竦めた。そして、両手を腰のあたりでごそごそさせると、くたびれた煙草の箱を取り出す。
「健康に良くないよ」
煙草、吸うんだ――少し意外に思いながら、深雪は忠告する。
「お前なぁ、お袋みたいなこと言うなって。せっかく屋上まで登って来たってのによー」
流星は情けない顔をしたものの、深雪の忠告には構わず、煙草を一本取り出して口にくわえるとライターを取り出して火をつけた。つんとした刺激臭と共に紫煙が風になびいて消えていく。それを見るともなしに見つめていると、再び流星が口を開いた。
「……驚いたか?」
「……。ちょっとね」
《死刑執行人》のことを言っているのだと、すぐに分かった。深雪は束の間逡巡し、こくりと頷く。
「あのさ、《死刑執行人》って……どんな感じ?」
「ん?」
「高山って奴のことは、絶対に許せないと思った。だから手伝ったんだ。でも、俺にできる事はきっとその程度が限度だと思う。……自信が無いんだ。このままここにいてもいいのかって。俺はきっと、あんたたちみたいにはなれない」
「まあ、そうかもな」
流星は呆気ないほどあっさりと、そう頷いた。深雪が戸惑っていると、ふうっと煙草の煙を吐き出しながら言葉を続ける。
「……だとしてもウチが人手不足で、お前の力を必要としているのもまた事実だ。それに……所長はお前を選んだ。だったら、それが正解なんだろう」
所長――東雲六道のことだ。彼の顔を思い浮かべると、何故だか深雪は沈鬱な心持ちになる。
「……信頼してるんだね」
「俺を《死刑執行人》にしたのも、あの人だからな」
「後悔、してないの?」
「ああ」
即答だった。
「俺はただ、ゴーストになったことを、自分の中でマイナスにしたくはなかった。……それだけだ」
「………」
流星の目は終始、街の方に注がれていた。彼の目には今の東京がどう映っているのか、本当は何を見ているのかは分からない。ただ、そこには簡単には覆せないほどの、強固な意思が宿っているように見えた。
「まあ、強制はしねえよ。うちにもいろんな奴がいる。居場所が欲しい奴、金が欲しい奴、誰かを守りたい奴……。決めるのはお前自身だ。けどまあ、俺としては残ってくれた方が助かるけどな」
「な……何で?」
身構えて尋ねると、流星は不意に悪戯っぽく、にっと笑う。
「だってよ、優秀な後輩が入ってくれれば、俺も楽できちゃうじゃない。これぞまさにウイン・ウインって奴?」
「知るか! ……ってか、そんな理由かよ⁉」
「そんなもんだって」――そう言ってからからと笑う流星は、最初の軽快で捉えどころのない雰囲気に戻っていた。
深雪は肩透かしを食らった気分になったが、同時に流星に感謝してもいた。
流星は部屋を抜け出した深雪を気にかけ、屋上へと追ってきてくれたのだろう。残ってくれた方が助かるというのが本音かどうかは分からないが、その気遣いが純粋にうれしかった。




