エピローグ 罪と罰①
深雪は事務所の部屋でその後の二週間を過ごした。
傷は思いのほか深く、最初の一週間は一人で起き上がるのも難しいほどだった。
包帯はシロやオリヴィエが替えてくれた。特にシロは食事や水を運んでくれたり、衣服を用意してくれたりと、甲斐甲斐しく接してくれた。
何だか申し訳ない気もしたが、シロはそれを不快に思っている様子はなく、ニコニコと楽しそうにしていた。それで、深雪も彼女の厚意に甘えることにした。
さらに動いて外に出られるようになるのに、一週間ほどかかった。
深雪はシロの用意してくれた、Tシャツとデニムパンツを身に包み、部屋のドアを潜る。
「誰も、いないのか……」
廊下は相変わらず、しん、と静まり返っている。最近は深刻な事件がないのか、一階もさほど動きがない。二週間前の事件――高山たちのリスト登録と死刑執行が、派手な衝突を抑えているのかもしない。
階段の方へと向かおうとして、腹部に鈍い痛みが走った。
「いって……まだ痛むな……」
傷はだいぶ塞がってきたが、痛みはまだ残る。壁に手をついて顔をしかめていると、階下から誰かが上がって来る足音がした。
顔を上げると、琴原海とシロが姿を現した。
「ユキ!」
「雨宮さん、大丈夫ですか⁉」
二人は深雪の姿を見ると、驚いて駆け寄ってくる。深雪は何とか、弱々しい笑顔を返した。
「ああ、うん……まだ痛むけどね。寝てばっかなのも逆にしんどいし。二人とも、一緒だったんだ?」
「うん、そうだよ。二人でユキのお見舞いに行くところだったの」
シロはいつもの、ほとんど黒に近い濃紺色のセーラー服だった。一方の海は、今日は初対面の日に見かけた制服ではなく、クリーム色のワンピースを着ている。深雪の視線に気づいたシロが、にこりと笑って説明を始めた。
「海ちゃん、今はオルの孤児院にいるんだって」
「そうなんだ?」
「はい。私、孤児院の受け入れ年齢を越しちゃってて……でも、オリヴィエさんのおかげで入れてもらえることになったんです」
「そっか。それなら当分安心だね」
海はどこか安堵したような表情で頷いた。確かに、初めて会った時よりはずっと精神状態も落ち着いて見える。今の環境が良い影響をもたらしているのだろう。「でも、」と海は続けた。
「長居するわけにもいかないから、どこかで働かなきゃ……」
「あてはあるの?」
「それなんですけど……私、ここの事務所で働いてみようかと思うんです」
「えっ……?」
そんな言葉が返って来るとは、思いもよらなかった。深雪は驚き、海の顔をまじまじと見つめる。ところが彼女は真剣そのもので、それが余計に深雪の言葉を濁らせた。
「でもここは……その、いわゆる普通の探偵事務所とはちょっと違うっていうか……」
「……分かっています。マリアさんに聞きました。私は現場で動き回ることはできないけど、事務なら何とかやれるんじゃないかって……。もし、また私みたいな被害を受けた人がここに来たら、支えてあげたいんです」
「それは……気持ちは分かるけど……」
深雪としては、海には《死刑執行人》とは無関係でいて欲しい。尚も言い淀むと、海はつと目を伏せた。
「私……結局、何もできなくて……雨宮さんやシロちゃんを巻き込んだだけ。その脇腹だって、私のせいでそんなひどいことに……。でも、このままじゃいけない、何かしなきゃって思って」
「海ちゃん……」
シロが心配そうに海の顔を覗き込む。深雪も慌てて言い足した。
「俺だって、大したことは何もしてないよ。気にしなくても……」
「そんなことないです! 私、雨宮さんにすごく励ましてもらったし、シロちゃんにも助けてもらいました。二人とも、私と殆ど年齢が変わらないのに、しっかりしてて、すごいなあって……とても勇気づけられたんです。私も、強くなれるのかなって……」
「そんな……過大評価しすぎだよ。俺、全然余裕なかったし、色々必死すぎて、行き当たりばったりで……」
「だから、です」
「え……?」
「雨宮さんが一生懸命だったのは側にいて分かりました。霧と共にあの人たちが現れた時、雨宮さん、声が少し震えてた。ああ、きっとこの人も私と同じで怖いんだろうなって、そう思ったら自分の中の何かが、それまでと少しずつ変わっていったんです」
海は深雪をまっすぐに見つめる。
「あの時、私には何の力もなくて、それだけでこの世が終わったみたいだった。でも、気付いたんです。抵抗しなきゃ……自分のできる方法で抗わなければ、ただ流されるだけの木屑になってしまう。私の知らないところで自分の生死すら勝手に決められて、反論すらできなくなってしまう。
そんなのは絶対に嫌……だから私は、私自身のためにも、誰かのために何かがしたいんです!
それが、私にとっての戦いだから……!」
海の瞳には強い決心が宿っていた。弱々しく儚げな彼女の、どこにそんな力があるのだろうと不思議に思うほどの強靭さが、そこにはあった。
深雪は悟る。彼女を止めようとしても無駄なのだ、と。下手に説得しようとしたところで、きっと海が考えを覆すことはないだろう。
(俺は、少しは彼女の役に立つことができたんだろうか……)
もちろん自分一人の力で彼女を窮地から救ったわけではない。しかしともかく、自分が起こした行動が、あれだけ弱々しかった海にこれだけ強い光を与えたのだ。
深雪が東京に戻って来た事、高山と対峙した事……それらの燻ってもやもやとしていた事が、決して無意味ではなかったのだと、そう思えるような気がした。
深雪はまっすぐな海の瞳を見つめ返す。
「そう……決めたんだ」
「……はい! ……って言っても、これから面接で、まだ決まってはいないんですけど」
海は恥ずかしそうに頬を染める。
「今から六道にその事おはなしするんだ。行こう、海ちゃん」
「うん。それじゃ、雨宮さん、行ってきますね」
シロと海は互いに顔を見合わせて頷くと、こちらに向かって手を振った。
「行ってらっしゃい。いろいろ手強いと思うけど……頑張って」
自分の時の過酷な面接を思い出し、一瞬、海があの迫力に耐えられるだろうかと心配になる。しかし、すぐに思い直した。今の気丈な彼女なら、きっと大丈夫だ。
二人はそのまま背を向けるが、シロがふとくるりとこちらを振り返り、ててて、と戻ってくる。そして、下から深雪の顔を覗き込んだ。
「ユキ、まだ無理しちゃだめだからね?」
「分かってるって」
「ホント? 約束だよ」
すると突然、シロが顔を近づけてくる。そして深雪が何かリアクションを返す間もなく、額と額をピタリとくっつけた。
「し……シロ……?」
深雪は動転するが、シロは額にすっかり意識を集中しているようだった。真剣な顔をして宙を睨んでいたかと思うと、不意に、うん、と頷いた。
「もう熱はないみたい、だね?」
シロは身を翻すと、ニコリと笑う。
「また後でね!」
「……う、うん」
シロと海は六道の書斎の方へと階段を下りて行った。深雪はただ、ぽかんとそれを見送っていた。何だか頬に熱を感じる。シロはおそらく無意識に行動しているのだろう。深い意味はない。分かってはいても、深雪はそれに翻弄されている気分だった。
(シロは年下じゃないか。しっかりしろ、俺……!)
これからどうしようかと考え、再び腹部の傷が痛みだす。この調子だと、完治にはもう少しかかりそうだ。あまり無理をせず、自室に戻ることに決めた。
そして、その翌日。
思いもしなかった事態が発生したのだった。
「あの……何で俺の部屋なの……?」
深雪が東雲探偵事務所に与えられた二階の自室のベッドの上でそうぼやくと、流星が笑いながらそれに答えた。
「いやあ、だってお前、なかなか傷が完治しねえだろ。そんな奴を外に引っ張り出すほど、俺らも鬼じゃねーよ」
「……。その病人の前で缶ビール呷るのは、鬼の所業じゃないのかよ?」
「だって深雪ちゃん、未成年じゃないの」
「そういう問題じゃないよ!」
深雪は半眼で流星を睨むが、流星は缶ビール片手にすっかりご機嫌だった。床に目を転じると、他にも大瓶の瓶ビールがワンケース、持ち込まれている。流星はそれを結構な勢いで空けつつあるのだった。しかも酔ってもそれがあまり表に出ない性質らしく、どれだけ吞んでもけろりとしている。
因みに深雪に手渡されたのは、ジンジャーエールだ。それに不満があるわけではないが、目の前で盛大に酒盛りをされると、さすがにモノ申さずにはいられない。
すると、深雪のベッド脇に立った海が申し訳なさそうに口を開く。
「すみません、深雪さん。私のせいで……」
「いや、琴原さんは謝らなくていいって」
「そうだよ、今日は海ちゃんとユキの歓迎会なんだから!」
ベッドの足元に腰かけたシロは、満面の笑みを浮かべ、嬉しそうにそう言った。すると、枕元の棚に置いた腕輪型通信端末の上空に、ウサギのマスコットが浮かび、シロの言葉にうんうんと頷く。
「そうそ、こういうことはちゃんとしとかないとね~。ただでさえ、ウチは新人社員がなかなか根付かないんだし」
どうやら、そういう事らしい。
深雪はまだ怪我の治癒が十分でなく、外を出歩けない。その結果、ついでに深雪の部屋で歓迎会をしてしまおうという答えに辿り着いたのだろう。深雪としてはこの殺伐とした集団に歓迎会という概念があったこと自体が驚きだったが、どちらかというと怪我人という立場上、そっとしておいて欲しいというのが本音だった。
しかし深雪のそんなささやかな願いが聞き入れられることはなく、怪我をして身動きも取れない為、否応なしに巻き込まれてしまっているのだった。
すると、窓際で偉そうにふんぞり返った奈落が不満を口にした。
「どうでもいいが、抓みになるものはないのか」
奈落が手にしているのは、やはりというべきか、酒瓶だった。しかも洋酒の瓶だ。文字が読めないため、種類はわからないが、かなり度数の高いものではなかろうか。奈落はそれをまるで水のように呑んでいる。どうやら歓迎会とは名ばかりで、酒を飲みに来ているだけらしい。
「二人とも……もう飲んでいるのですか?」
その時ちょうど、オードブルを皿に盛ったオリヴィエが姿を現した。生真面目な神父は、早速、酒を煽っている流星と奈落を見咎め、眉根を寄せる。その様子は、悪戯っ子を叱る先生そのものだ。
しかし二人の酔っぱらいは、その程度ではびくともしない。喜々として、オリヴィエの持ってきた皿を受け取る。
「お、待ってました! オリヴィエの料理は美味いんだよな~」
「そう思うのなら、少しは手伝ってください」
「何でだ? 飯が食えると聞いてわざわざ来てやったんだぞ」
オリヴィエの愚痴に対し、余りにも傲岸不遜な態度で答える奈落に、深雪はつい、
「それって、たかりって言わない?」
と突っ込んでしまった。
すると奈落は凶悪な瞳を一際鋭く光らせ、ごつい軍靴を履いた足を振り上げると、そのまま深雪の足元に踵落としをする。
「うるせえぞ、極チビ!」
「あっぶね……ってか、極チビって何⁉」
深雪は咄嗟に足を折り曲げて、なんとかそれを避けた。奈落の足が直撃していたら、骨折どころでは済まなかったに違いない。
そうこうしている間に、深雪の部屋に、所狭しと料理が並べられていく。棚や机ではスペースが足りず、残りはベッドに並べられていく始末だ。そのせいで、深雪の居場所はますます狭くなっていく。
だが、確かに料理自体は豪華だった。クリームチーズのサーモン巻きや、アボカドのパテや生ハム、茹で卵の乗ったバゲット、ピンチョスも数種類ある。どれも手の込んだ一品だ。それらが美しく盛られていた。
海は、オードブルの中にあったチーズを口に運び、目を見開いた。
「あ、このチーズ、美味しい!」
「そうでしょう? ブルゴーニュ産のエポワスですよ」
オリヴィエは海の反応が嬉しかったのか、満足そうに微笑んだ。深雪も一切れ食べてみたが、確かに濃厚でとろけるようだった。いかにも高級チーズといった、堂々たる風味だ。すると、マリアもくるりと回転し、弾んだ声を出す。
「すごいじゃない! エポワスなんて、今の東京じゃ滅多に手に入らない贅沢品よ!」
「シロも大好き、このチーズ!」
ところがただ一人、奈落の反応は違った。相変わらずの尊大な態度で、小馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らす。
「そんなカビだらけのチーズ、よくありがたがって喰うな?」
オリヴィエはこめかみにひびを入れつつ、冷ややかに応じた。
「安心してください、あなたの分はありませんから」
しかし、奈落はニヤリと凶悪な笑みを浮かべる。
「……俺にそんな口をきいていいのか?」
そして彼が取り出したのは、一本の赤ワインだった。
「そ、それは……シャトー・オー・ブリオンのルージュ……⁉」
オリヴィエは端正な顔に激しい驚愕と動揺を浮かべ、大きく仰け反る。奈落はますます口の端を吊り上げ、完全なる悪役面をオリヴィエに向けた。
「ふ……お前が無類のワイン好きだという事は調べがついている。その為に、わざわざ苦労して手に入れたんだ」
「そ、そんな事のために……⁉」
深雪は呆れ返った。確かにシャトー・オー・ブリオンといえば、深雪も名前くらいは聞いたことがある、高級ワインの代名詞のようなものだ。この閉ざされた監獄都市では、高級チーズと同じかそれ以上に入手困難な一品だろう。値段も、元値の数倍はするはずだ。
奈落はそれを、オリヴィエに見せびらかすためだけに入手したのだ。嫌がらせもここまで来ると筋金入りだった。
しかし深雪のボヤキなど完全無視で、奈落は得意そうにワイン瓶を掲げると、オリヴィエの手の中にあるチーズをビシリと指差す。
「こいつが欲しければ、俺に跪いてそのチーズを寄越せ!」
「くっ……何て卑劣な……‼ 悪の手先には屈しませんよ……ええ、屈しませんとも!」
「……とか何とか言って、思いきり手が伸びてるよね?」
深雪が半眼で呟くと、オリヴィエは若干の涙目で反論してきた。
「だってシャトー・オー・ブリオンですよ⁉ 近年では気候変動のために、フランス産のワインは総じて生産量が減っているのです! 《東京》の外でも手に入るかどうか……‼」
「だから言っただろう、苦労したと! 全てはこの俺の優位性を確保するためだ‼」
「そんな事のために‼」
もはや、呆れを通り越して脱力感すら覚えるほどだった。神父と傭兵の二人のやり取りは、完全に子どもの喧嘩だった。
チーズとワインでよくもそんなに張り合えるなと、半ば感心すらしていると、同じことを考えたのか、流星が冷やかし半分に口を開いた。
「お前ら、ワインごときでよくそんな盛り上がるな? やっぱ仕事の後はビールっしょ」
ところが、オリヴィエと奈落の反応は優れない。
「流星……そんな安酒で満足してしまえるなんて、本当に可哀そ……いえいえ、羨ましい」
「そう仕込まれてんだろ。社畜根性極まれりだな」
などと、さんざんな言われようだった。
「どうでもいいけど、みんなどっこいどっこいだって分かってる?」
深雪は呻くような声で突っ込むが、それに関するリアクションは何故だかさっぱり返ってこない。流星を含め、普段はいがみ合っている二人も、都合の悪いことは仲良くスルーなのだった。
「ねえねえ、ワインやビールってそんなに美味しいの? シロも飲んでみたーい!」
それまで黙ってにこにこしていたシロが、小首をかしげてそう言った。どうやら、それほど奈落とオリヴィエが真剣に奪い合うワインなるものがどういう味なのか、いたく興味を抱いたらしい。
「シロの分はこちらにありますよ」
そう言ってオリヴィエがさっと取り出したのは、ブドウジュースの炭酸だった。確かに色味はワインと似ている。しかし、さすがにそれでは誤魔化せないだろうと思っていたら、シロは予想に反し大喜びだった。
「わーい‼ シロのワインだぁ!」
どうやら、オリヴィエに差し出されたブドウジュースを本物のワインだと思い込んでいるらしい。
深雪と海は顔を見合わせ、どちらからともなく微笑んだ。
「シロちゃん、かわいい……‼」
「確かに、癒される……!」
あまり笑うとシロに悪いと思いつつ、無邪気すぎる仕草に頬が緩んでしまう。深雪は込み上げる笑いを嚙み殺すのに苦労した。
隣に視線をやると、海もやはりくすくすと笑っている。最初に出会ったころに比べると、かなり元気を取り戻した様子だ。深雪はその事に、心底ほっとした。




