第24話 《死刑執行人(リーパー)》③
大石は恐怖に身を竦ませた。手を伸ばせば、簡単に届く距離だ。
これで銃撃でも受けたら、さすがの大石でも無事でいられる自信はない。
どくどくと心臓が早鐘を打ち、呼吸のペースが上がった。表情の全く分からない、暗闇に沈んだ相手の顔を睨みつける。
しばらくそうしていたが、大石はふとあることに気付いた。
――何だろう、この匂いは。いや、覚えがある。高校時代の野球部の監督がよく同じ匂いを振り撒いていた。
そう、煙草の煙の匂いだ。
はっとして視線を上げると、相手は堂々と紫煙をくゆらせていた。
よく見ると、口元にやった煙草の先が、時折ポウ、と赤く灯る。その光はやけにゆったりと、明滅を繰り返していた。
まるでこれは煙草を一服している間の、ちょっとした暇つぶしなのだといわんばかりに。
「こいつ……馬鹿にしやがって!」
随分と侮られているような気がして、大石はカッとする。こちらは命を狙われているのだ。それなのに狙っている相手は、悠長に煙草などふかしている。
これが侮辱でなくていったい何なのか。
大石は中腰になり、身構えながら声を荒げた。
「撃つなら撃てよ! 俺には効かねえけどな‼」
「……いいのか?」
お前に何ができる――返ってきた声には、そんな嘲りと失笑がはっきりと感じ取れた。それが余計に大石の癇に障った。
しかしそれには構いもせず、目の前の影はゆっくりと動き出す。
大石は銃撃を食らうものと予想し、身構えた。しかし男は銃を持った右手は全く動かさない。代わりに左手を持ち上げると、右目を覆っていた黒い眼帯を剥ぎ取る。
「……何だ………?」
大石は眉間にしわを寄せ、目を凝らした。
男の右目から濃淡の混ざった墨が滲むようにして、黒い何かが出現する。それは徐々に巨大化すると、ごつごつとしたフォルムを形成していく。
それは節足動物の足のように節くれだった形状をしていた。しかし、本当は何であるのかはよく分からない。
それが一本や二本ではなく、何本も現れ、まるで人間の掌のようにぞわりと蠢く。
「な、んだ……これ……? 何なんだよ……⁉」
この世のものとは思えない異様な有様を目にした大石は動揺し、怯えながら後ずさりする。しかしすぐに背後にあった工場の壁に背を打ち付けた。
節足動物のような足が、そんな大石を逃がすまいとするかのように、大きく掌を広げる。
怪獣の鳴き声のような不気味な咆哮が空気を震わせ、次の瞬間。
化け物の足がびゅるんと伸びたかと思うと、大石に襲いかかった。上半身に掴みかかると、そのまま容赦なく力を込める。
それは大石の《フルメタル・アーマー》をもってしても、抗いきれないようなすさまじい力だった。金属が押し潰され、ひしげるような、凄まじい破壊音が響き渡る。
「やめろ……離せ……! 離せえええぇぇぇぇえぇー‼」
大石は全力で化け物の手から逃れようともがいた。
しかし抵抗も空しく、強大な圧力が加えられ続け、それに耐えきれなくなった体が引き千切られて血飛沫をあげた。
そして遂には大石の肉体はごみ処理工場の廃棄物のように圧縮され、塵となる。
やがて化け物の手は、再びぞろりとその身を揺らす。
そして大量の鮮血を豪快にぶちまけながら、出現したときと同じくびゅるんと不気味な身じろぎをすると、奈落の右目に戻っていった。
唐突に静まり返った薄墨色の空間。
しかし耳を澄ますと、キチキチと何かを齧るような奇妙な音が響く。奈落はその奇妙な音を宥めるがごとく、右目に向かってため息をついた。
「――そう怒るな。不味いのは俺のせいじゃない」
奈落のアニムスは《ジ・アビス》。数あるアニムスの中でも、謎の多いとされる寄生型の能力だった。
右目に棲む化け物が何であるか。奈落自身さえそれを知らない。ただ分かっているのは、この同居人は見た目以上に悪食で、何でも喰うクセに文句もやたらと多い、ということだけだ。
怪物が右目にすっかり戻ると、奈落は再び眼帯をはめる。
後に残ったのは大量のどす黒い血痕と静寂のみだった。
深雪と高山の応戦は続いていた。
高山はもはや自分一人しか残っていないなどとは知る由もなく、嬉々として深雪と戦い続ける。
深雪もまた、アニムスを使って戦うことにもはや躊躇はなかった。これまでとは打って変わって、堰を切ったように《ランドマイン》を連発させていた。
(これ以上、こいつの好き勝手にさせてたまるか)
高山を野放しにはできない。その思いが、深雪を突き動かしていた。
高山はゴーストだ。それを止められるのは、同じゴーストの自分だけだ。
見て見ぬふりをし、逃げることなら容易くできる。だがそれは、新たな犠牲が出るという事とほぼ同義だ。高山は『殺人』という行為そのものに執着がある。生きている限り、新たな獲物を求め続けるだろう。
そこに後悔や罪悪感は無い。
深雪は次々と廃材に触れては《ランドマイン》を発動させ、高山へと仕掛けた。もちろん高山も《ブラスト・ウェーブ》を発動させてそれを防御し、或いは逆に攻める。
だが、高山の攻撃もまた全て深雪の《ランドマイン》による爆風で防ぐことが可能なのだった。その為になかなか決着がつかず、際限がなかった。
それでも高山は嬉しそうに笑顔を見せる。
「へえ……やるねえ……!」
「まだ、これからだ」
深雪は冷静にそう返した。
このままでは互いの力が拮抗した状態が続き、持久戦になる。そうなる前に何とか決着をつけてしまいたかった。
瞳孔の淵を赤く光らせ、新たに《ランドマイン》を発動させる。高山の近くにあった使用済みの赤茶に錆びた鉄筋の塊が、派手な音を立てて爆発した。
「おっと」
しかし深雪の事前の行動から、それを察知していた高山は、やはり《ブラスト・ウェーブ》を発動し、風を操って簡単にそれを防いでしまうのだった。
「何だかさあ。膠着状態だよね、こういうのって」
高山は軽々と深雪の攻撃を防いでから皮肉を頬に浮かべ、揚々と肩を竦めた。深雪が次にどういう手を打ってこようと、全て防いでみせる。そこには、そんな自信が強く滲み出ていた。
しかし、深雪もそれで終わりにするつもりは毛頭ない。
そして爆発もまた、それだけでは終わらなかった。
深雪は断続的に瞳孔の淵を赤く明滅させる。
間髪入れず、鉄筋の塊のすぐ隣に放置してあったコンクリの塊や鉄筒、事務机やコピー機の山が次々と連鎖するように爆発していった。それらはちょうど高山の周囲をぐるりと巡るように爆発していく。
深雪が高山へと仕掛ける一方で、密かに仕込んでおいた地雷――それらをみな起動させたのだ。
「な……何⁉」
三百六十度、四方を爆炎で囲まれては、さしもの高山も逃げ場がなかった。
気づいた時はすでに遅く、高山は激しい爆風に煽られて空中に舞い、次いでしたたかに地に叩きつけられる。
そのまま数回、派手に地面をバウンドすると、鉄塔の足に激突してようやく止まった。
「う……ぐう……!」
さしもの高山も、さすがに無傷ではいられなかったようだ。高山は瓦礫が散乱しているのにもかかわらず、地面の上を七転八倒した。
特に右腕をひどく打撲したようで、左手で抱え込んでいる。
へらへらと笑みばかり浮かべていた顔は、苦痛に激しく歪んでいた。
深雪はゆっくりと高山に歩み寄っていく。そして呻き声を上げ、地に転がってのた打ち回る高山を冷ややかに見降ろした。
高山は痛みに顔をしかめながらも首を巡らせ、深雪を見上げた。
「まさか、こんな手を残していたなんて、ね……!」
「俺のアニムスは《ランドマイン》だ。設置することもできる」
「……なるほど?」
もちろん起動時間や範囲に制限があって万能ではないのだが、余計なことは喋らずにおいた。
高山はまだ苦しそうに呻いている。深雪は高山の胸ぐらを無造作に掴んで、上半身を引き摺り上げると、その左腕を掴んだ。
「あは……何をするのかな?」
高山のふざけた笑みに、警戒の色が走った。
「お前のアニムスを使えないようにするんだ!」
深雪は高山の左腕を掴んだ手の中で、躊躇なく《ランドマイン》を発動させる。ボンッ、と低く篭った音がし、小規模の爆発が起こった。
見かけは小さな爆発でも、この至近距離だ。衝撃は並大抵のものではなく、高山の左腕は二の腕が本来は決してあり得ない方向へと大きく曲がった。
皮膚の表面は赤黒く焼け爛れ、肉の焦げた臭いが薄っすらとし、水疱がいくつもできている。
「うぎゃああああああ‼」
高山は絶叫を上げた。深雪は突き放すように、両手を放す。高山はがくりと地に跪き、そのまま左腕を抑え、悲鳴を上げてゴロゴロと地面を転げ回った。苦悶が皺となって、高山の顔面を侵食していく。
しかしその様を見ても、深雪は表情を変えなかった。
「お前は手首と指先で能力の風をコントロールしていただろう。まずはそれを封じさせてもらった。……今のは琴原さんの分だ」
冷徹にそう吐き捨て、両目をすっと細める。そして再び、瞳孔の淵を光らせた。
すると、高山のそばに転がっていたドラム缶が轟音を立てて破裂する。それも数分前、高山の《ブラスト・ウェーブ》を避けると見せかけて、深雪が仕込んでおいたものだった。
爆発の直撃を受け、高山はさらに吹っ飛んだ。そして勢いよく、廃工場の壁に強かに全身を打ち付ける。
しかし工場の壁は、長年風に晒され脆くなっていたらしい。高山の体はそのまま工場の壁を派手にぶち抜く。そして金属製の外壁材の破片もろとも工場内部へ突っ込んでいった。
「ぐあ……うあああああ‼」
「痛いか? 今のは久藤さんや河原さん、稲葉さんの分な」
深雪は淡々とそう言った。そして外壁材の割れ目から工場へと進入する。そして再度、高山へと近づいていき、胸ぐらを掴み上げた。
高山は爆発による火傷と金属の破片であちこち傷を作り、顔面からどろりと真っ赤な血を流していた。深雪はしかしそれに構わず淡々と続けた。
「……お前らのような奴、知ってるよ。《ウロボロス》にも、お前らみたいな奴がいた」
深雪は低い声で言った。高山が聞いているのかどうか、そもそも意識があるのかも分からないが、無視して話し続ける。
「ただ自分の力を使って優越感に浸りたいだけの奴、派手に力を使って目立ちさえすればいい、そんな自己顕示欲が強いだけの奴。
それから……ひたすら弱い奴いたぶって、快楽が得られればいいだけの糞野郎」
「ウ……」、と高山は呻いて、ぼってりと腫れた右目を薄く開く。深雪は淡々と続けた。
「……そういう奴らはさ、いくら口で言っても分からないんだよ。ゴーストったって一人じゃやっていけないだろ、他のゴーストのことも考えろ、みんなでうまくいく方法を考えよう――でも、駄目なんだ。そいつらは決してそういう考え方はしない。
例え表向きは賛同しても、裏ではそういう考えを鼻で笑って馬鹿にする。だから同じことを繰り返すんだ。
何度も、何度も……そして心の優しい奴、善良な奴が、一番に餌食になる」
深雪はかっと目を見開く。そして高山の胸ぐらを掴む手に力を込めた。
「なあ、どうすれば分かってくれる? どんなに話し合っても無駄なんだ。少しも話が通じない。恐怖で相手を支配して、対立して、傷つけあって……。どんどんエスカレートしていって、結局、どっちかが死ぬまでやめられないんだ!
未来に行けば、何かが変わるかもって思った。でも……二十年経とうが何年経とうが、ゴーストは……俺たちはずっと同じことを繰り返してる……‼」
怒りに満ちていた深雪の表情が、不意に歪んだ。
飢えた獣のごとく、際限なく傷つけ合い、奪い合う。そこには話し合いの余地も、理解し合う意味さえない。どんなに呼びかけても、結局は力を使って解決しようとしてしまう。
どのゴーストも、決してアニムスの呪縛から逃れられないのだ。それは、常人にはない力を持ってしまった者たちの業なのだろうか。
「俺たちは……ゴーストは所詮、変われないのか⁉」
肺の奥から絞り出すような声で、そう吐き捨てた。
ゴーストになってしまった者たちはみな、獣じみた惨めな生き方を選ぶことしかできないのか。
高山は満身創痍で、かろうじて呼吸ができる状態だった。ただぼんやりと焦点の合っていない視線を深雪に向けていたが、なぜか不意に「フ……フフ」と、肩を揺すって笑い始める。
「何がおかしいんだ」
「フフフ……。そう、その目……その表情だよ……! やっぱり僕の直感は正しかった」
「……何の話だ?」
「君も僕たちと同じという事だよ」
「何だと? どこが同じだっていうんだ‼」
「僕にアニムスを使っていた君は優越感に浸っていた。いわゆる、ヒーロー気取りってやつさ。……違うかい?」
「何を言って……」
しかし、深雪は最後まで反論を続けることができなかった。高山が、にい、と半月上に口を歪ませ、不気味な笑みを浮かべるのを目にしたからだ。
「アニムスを使い、暴力によって相手を支配する――爽快だろう? 僕は満足しているんだよ。君の本性をこの目で確かめることができて」
高山は神々しいまでに落ち着いていた。それどころか、迷い子を諭し、あるべき道へと教え諭すような、奇妙な威圧感さえ放っている。深雪はぞっと背中が粟立つのを感じた。
(こいつ……まさかそれが目的で……⁉)
冷静になってみれば、確かに深雪は当初に比べ、アニムスを使うことに抵抗をなくしていた。それは高山に対する憤りと、放ってはおけないという正義感からだと思っていたが、ひょっとすると高山はその感情すらも利用し、深雪がアニムスを使うように仕向けたというのだろうか。
更に、その為に《ランドマイン》を身に受け、自ら酷い傷を負ったというのか。
もしそれが本当なら、アニムスを使う事は高山に対して、何ら牽制になっていなかったということになる。それどころか、本当にアニムスで高山の行動を止めようと思うなら、命そのものを奪うつもりでないと意味がないという事だ。
しかし、その解決法では《ウロボロス》の最期と同じ結末を招いてしまうのではないか。
(駄目だ、それだけは……!)
顔から血の気が引き、鼓膜の裏で心臓の鼓動が嫌に鮮明に響く。まるで氷混じりの冷水を浴びせられたかのように、全身が硬直して動かなくなった。
そして、あの赤い地獄――二十年前の凄惨な光景が瞼の裏に甦る。
取り乱しそうになるのを必死にこらえた。
高山はまるでそれら全てを見透かしたような目で、じっと深雪を見つめた。
「いいじゃないか。君はゴーストだ。恥ずべき事じゃないよ。むしろ、君も僕たちと同じ……こちら側だったというだけだ」
「お……俺は、お前らとは違う!」
「そうかな? 君は思った以上に手際がいい。ゴーストと戦うことにも慣れている。その気弱で内向的な性格を思わせる言動に、騙される人もいるだろう。だが、その奥に眠っているのは激しい怒りと、恐ろしいまでの冷酷さだ」
高山はいやに落ち着いた様子でそう言った。ひどい負傷も、先ほどまでのた打ち回っていた事も、全てが嘘のようだ。
深雪は再び絶句した。
(違う……俺は、もうあの時のようなことは繰り返さない! もう、二度と……!)
そう心の中で叫ぶが、何故だか声となって出てこない。
「……ただ、残念なことに、人間だったころの価値観が君の判断を鈍らせているんだよ!」
動揺を見せた深雪の隙を見逃さず、高山は一気に行動に出た。
火傷や打撲傷をものともせず、勢い良く立ち上がると、懐から何かを取り出した。それが何であるのかを確認する間もなく、高山が全身を使って深雪に体当たりを仕掛けてくる。
「なっ……」
深雪は、高山がそんな行動に打って出るとは思いもしなかった。一瞬の判断の遅れが命取りとなり、高山の体当たりを真正面から受けてしまった。
「ぐっ……!」
衝撃の後に、脇腹に熱を持った痛みが襲う。深雪は思わず高山の胸ぐらを掴んでいた手を放し、後ずさった。
高山は左手をかざし、恍惚の笑みを浮かべた。
その手には銀色に輝くバタフライナイフが握られていた。
かなり大型のナイフで、血の付いた刃先が冴え冴えと光を放っている。どうやら、体当たりを食らった瞬間にあれで刺されたらしい。
「あっはははははは‼ ゴーストだからって武装してないとは限らないよね? 残念だったねぇ⁉」
形勢逆転した高山は、再び高らかに笑い始めた。深雪は脇腹を押えるが、ぬるりとした血は次から次へと溢れ出し、手の平をじっとりと濡らす。
高山は目を細めて満足そうにその光景を眺めると、ナイフを手の中でクルクルと弄び始めた。




