第43話 とある中年の憂鬱
久しぶりに一杯ひっかけたくなって、逢坂忍は行きつけの居酒屋に向かう事にした。
逢坂忍は《アラハバキ》の下桜井組幹部だ。組幹部の中では最年少となる。ただ、組全体で考えると、ちょうど中堅といったところだ。
中肉中背で、容姿にはこれと言って特徴はない。唯一挙げるなら、腫れぼったい一重瞼だろうか。親父の下桜井蝉には、その狸顔から「タヌキ」と呼ばれている。
向かった先である居酒屋・《淡路島》はカウンター席だけのこじんまりとした隠れ家的居酒屋だ。薄暗く、古臭いためか、若手は嫌がってこういう店には近寄らない。
だが齢も三十五を過ぎると、こういった店の方が却って落ち着くようになる。
店主が寡黙な性質であるせいか、静かな店で、滅多に邪魔も入らない。もし酔いに任せてうっかり口を滑らせることがあったとしても、この親父は口が堅く、他者には決して喋らない。
それが、この《新八洲特区》で生きる上では最も賢い方法だと心得ているのだ。まったくもって文句なしだ。
逢坂がいつもの席に座り、愛想のない親父に「いつものね」と注文すると、無言で焼酎の熱燗とモツの煮込みが差し出された。
勿論、組同士の付き合いはあるし、親父や兄貴分に誘われたら、断ることない。《アラハバキ》において、人脈と人間関係は生命線だ。だが逢坂忍は、本当は一人でひっそりとこうした隠れ家的な居酒屋で過ごすのが好きだった。
その時、居酒屋・《淡路島》の扉が開き、逢坂の隣の席に若い男が腰を掛ける。
「……下桜井組の幹部ともあろうお人が、こんなところで一人とは。不用心にもほどがある」
「お前……」
隣に座った男は、かなりの男前だった。すっと通った鼻梁に、シャープな顎。白いスーツに赤いシャツ、黒いネクタイを合わせているが、《アラハバキ》の中でもこのようなファッションが似合う男はそうはいないだろう。
ただ、整った顔立ちをしていて、女にも良くモテるらしいが、目元には猛禽類を思わせる獰猛さと鋭さを宿している。その眼光通り、一筋縄ではいかない男だった。
そうでなければ、競争の激しい《アラハバキ》で頭角を現すことはできないだろう。齢は確か今年で二十六になる筈だ。
隣に腰を落ち着けた男前は、さっそく逢坂に声をかけてくる。
「一人酒はお淋しいでしょう。俺がお供しますよ」
逢坂はニヤリと頬を緩め、それに応じた。
「おいおい、寂しいなんてことがあるか。むしろ兄貴分がせっかくこうやって静かに呑んでんだ。それを邪魔するのは、野暮ってもんだろう」
「俺が寂しいんです。相手をしてやってくださいよ」
そして、京極はにっこりと笑う。
ぬけぬけとそういうことを口にするところが、どうにも憎めない男だった。逢坂は苦笑すると、カウンターの向こうで鮪を捌いている店主に声をかける。
「親父、こっちにも焼酎を熱燗で」
すると親父はやはり無言で僅かに頷くと、熱した徳利と杯を取り出し、隣に座った若者の前に置いた。それを待って、逢坂は男に話しかける。
「どうだ京極、『仕事』の方は?」
「まずまずです。おかげさまで、ようやく軌道に乗ってきました」
「は……謙遜か? 本当にいい性格してるな、お前。お前らの組が博打で頭角を現しているのはみんな知ってる。親父も誉めてたぞ。今どきの奴にしては、根性が据わってるってな」
博打――ルーレットやスロット、或いはブラックジャックやポーカー、バカラ等々。ゲームそのものは典型的なカジノのそれだ。京極の店の特徴は、殆どゲームセンターのような近未来的な作りにある。
青を基調としたスタイリッシュでクールな雰囲気と、アーケードゲームのような台。実際カードゲームの殆どは、卓上ディスプレイに浮かぶ映像を操作して行われる。
擦れた雰囲気がない代わりに、高級感もない、いかにも子供が好きそうなおもちゃ箱だ。案の定、ストリートの若いゴーストに受けが良く、ここ二年ほどで五店舗を出店するまで拡大した。
もちろん、儲けの何割かは上納金として下桜井組に納められる。
「困ったことがあれば、何でも言えよ。お前が出世したら、俺も鼻が高い」
逢坂が言うと、京極はかしこまって頭を下げた。
「兄貴には何から何まで良くしてもらって、感謝してます。この恩義は決して忘れません」
「よせよせ、堅苦しいのは嫌いだ。それより……ほら」
逢坂は焼酎の入った徳利を傾ける。すると京極は盃に両手を添え、差し出した。
「……頂きます」
京極鷹臣との出会いは、少々数奇だった。時は三年ほど前に遡る。
京極は当時、まだ《中立地帯》のストリート=ダストで、《ユルルングル》というチームに属していた。急激に勢力を伸ばしていた、新興チームだ。
特に《ユルルングル》の頭は武闘派でのさばっていた世間知らずのガキだった。
だが、下手に恐いもの知らずで腕が経つと、この街では死に直結する。《ユルルングル》の頭もその例に漏れず、どんどん縄張りを拡大し、とうとう《アラハバキ》の若手と衝突し、命に関わるほどの重傷を負わせたのだ。
いかに相手が《中立地帯》のゴーストであろうと、《アラハバキ》に歯向かった代償は支払わせなければならない。その介入という名の報復を加えるために、《ユルルングル》の元に向かわされたのが、当時まだ若手だった逢坂忍だった。
(だが、俺が《ユルルングル》と接触した時、頭はすでに死体になっていた……)
誰が《ユルルングル》の頭を殺ったのか。それは、その時のナンバー2だった、この京極鷹臣だ。
京極は、全ては頭の独断だったこと、けじめをつけるために自ら頭を殺したのだと逢坂忍に告げ、あろうことか《ユルルングル》を《アラハバキ》に加えて欲しいと土下座し、頼み込んでできたのだ。
ふざけるな――そう要求を一蹴し、撥ねつけることは、逢坂にとって簡単な事だった。そうしなかったのは、爛々と輝く京極の瞳に惹きつけられたからだ。
(こいつの目は、あの時も今も、底が知れない。ストリート=ダストとはいえ、ゴーストギャングに加わるような奴はそれなりに腹が据わっているもんだが、こいつはそういうのとはレベルが違う)
現に、《ユルルングル》の頭の返り血を全身に浴び、その死を淡々と説明する京極は、異常という他なかった。
そもそも人間は血を目にすると、多少なりとも刺激を受けるものだ。ある者は興奮し、ある者は気分を害して青ざめる。
だが京極は、そういった感情の揺らぎなど、全く見せなかった。それどころか後悔も激憤も、僅かばかりの動揺すらない。
その徹底した冷静さには、荒事に慣れている筈の逢坂も、背筋が寒くなるほどだった。
おまけに、殺気立つ逢坂たちの眼前で《ユルルングル》を《アラハバキ》の傘下に加えて欲しいと頼む度胸まであった。肝が据わっていると言えなくもないが、それにしても度が過ぎている。まるで、こういった修羅場をいくつも潜り抜けてきた百戦錬磨の兵のようだ。
ただ、京極がそれを経験で得たわけではないことは、一目瞭然だった。人生経験を積むには、あまりにも若すぎる。だからその京極の気質は、幾多の修羅場で磨き込まれたものではなく、京極鷹臣という人間が生まれ持ったものなのだ。
それが逢坂を更に戦慄させた。時おり、こういう人間が現れる。一般社会では、ただの危険人物だろう。だが、逢坂たちの世界では、それを『才能』と呼ぶのだ。
時々、逢坂は思う。こいつの皮を剥いだその奥底には、何が眠っているのだろう、こいつが感情を揺さぶられることがあるとしたら、それはどういう時なのだろう、と。
だが皮肉な事に、その京極の持つ得体の知れなさ、不気味さが、逢坂がこの男を拾おうと思った要因の一つでもあった。《アラハバキ》でのし上がるには、普通の人間では限界がある。ある程度の『化け物』でなければ、生き残ることはできない。
こいつはうまく育てれば絶対に化ける。逢坂は京極を見た瞬間、そう思った。同時に、《死刑執行人》にでもなられたら、将来、大きな脅威になるだろう、とも。
メリットとデメリットを考慮した結果、京極を《アラハバキ》に入れべきだと、そういう結論に至ったのだ。
だが、さすがに《アラハバキ》と揉め事を起こした者たちを、すぐさま組織に入れるわけにはいかない。だから、京極とその仲間を下桜井組の傘下組織に入れ、様子を見ることにした。
すると京極はめきめきと才能を発揮した。任されたシノギを完全にこなし、大きな利益を上げ、組織に多大な貢献を果たしたのだ。
その評判はやがて親父の下桜井蝉の耳にも入るところとなった。やがて京極は独立を許され、新しく組を持つまでになる。京極の年齢を考えると、異例のことだ。その時の義理かけを世話してやったのも逢坂だった。
あれから、三年。たった三年だ。その短期間で京極がここまで頭角を現すとは、さすがに思ってもみなかった。その間、京極がどんな手段を用いてきたのか。想像するだけで鳥肌が立つ。あの時、『味方』に引き入れておいたのは英断だったと、つくづく、そう思う。
逢坂が物思いに耽っていると、京極が不意に話しかけてきた。
「そう言えば……兄貴、知ってますか? 最近、《中立地帯》のガキどもに流行っているクスリの件」
「ああ……知ってるよ」
「あれ、うちの組の者の仕業なんでしょう?」
「……」
逢坂は俄かに、すっと目を細める。最近、逢坂が頭を痛めている案件の一つがそれだ。
《アラハバキ》の若手の中にも、《休戦協定》の存在を知ってか知らずか、《天国系薬物》に手を出す輩が出始めている。《中立地帯》のストリート=ダストがあれほど《天国系薬物》で荒稼ぎしているのだ。指を咥えて黙って見ていろ、などという命令がとても聞けないというのは分かるが。
だが逢坂の心情をよそに、京極は会話を続ける。
「元売りはさぞ儲けているんでしょうね」
京極の言葉の中に、純粋な羨望の感情がある事に気づき、逢坂は苦々しく思った。確かに元売りは上手くやっていると言えるだろう。だが、どれだけ連中の懐が潤っていようと、逢坂たちがそれを真似るわけにはいかないのだ。
「お前、あれには手を出すなよ。薬物売買は《休戦協定》で禁止条項にもなっている。それを侵せば、いくら相手が《アラハバキ》といえど、《死刑執行人》が黙ってない。親父にも迷惑がかかる」
すると、京極は口元に優美な笑みを浮かべた。
「分かっています。でも……勿体ないですね。薬物市場は巨大だ。それを手にすることができたなら、この《監獄都市》の覇権を狙うことも夢ではないのに」
「どれだけ潤おうが、駄目なものは駄目だ。総長である轟の親父が決めたことなんだからな。問題を起こしているのは上松組の者だ。組の問題は組が落とし前をつける。下桜井の俺たちはただ、静観していればいい」
「……ええ。俺は何もしませんよ。今回は……ね」
その言葉が妙に引っかかり、逢坂は京極の方へと顔を向けた。
「お前……? どういうことだ、それは?」
すると、京極はどこか挑むような視線を逢坂へと向ける。
「この《監獄都市》は普通の都市じゃない。経済活動そのものが著しく制限されているため、俺たちの資金源活動にも限りがあります。実際、《アラハバキ》も、末端は上納金の負担や義理かけの支出にいっぱいいっぱいで、貧苦に喘いでいる。せめて薬物市場だけでも解禁してもらえたなら、ずいぶんと助かるんですが」
「……」
(確かに、先日の轟親父の息子、鶴治さんの十三回忌も、必要以上に派手だったしな)
《アラハバキ》の三代目総長である轟虎郎治には、鶴治という息子がいた。虎郎治は息子の鶴治を溺愛していたが、息子は十二年前に他界してしまう。享年三十二。生きていたら、今年で四十五になっていただろう。
その十三回忌が今年あったが、逢坂から見ても、大々的に過ぎる行事だった。勿論、総長の一族の法要なのだからというメンツはあるだろう。だが、法要や祝い事、襲名披露などのいわゆる義理かけは《アラハバキ》の幹部にとって収入源でもあり、莫大な金が動く。その為、ただでさえ派手になりがちで、若手にはかなりの負担となっている。
京極もそれを思い出したのか、僅かに眉根を寄せて言った。
「俺たちにとって、《レッド=ドラゴン》は敵だ。だが、経済活動では連中の方がよほど上手くいっている。うちの若手の中にも、あの摩天楼を羨む声は相当数、存在しますよ。ただ、みな親父たちを恐れて口に出せないだけです」
それは逢坂も薄々感じていた。逢坂は年齢的に若手から中堅の間に入るため、若い連中の面倒を見る機会が多い。だが最近、若い連中の中で、どれだけ働いても利益を上げられないという事に対する燻った感情が蔓延していることを、折に触れて感じる事が増えた。
実際、逢坂も親父である下桜井蝉に、《新八洲特区》に大型カジノを設け、外部から観光客を呼び込んでみたらどうかと、それとなく話を振ってみたことがある。巨額の投資が必要だが、上手くいけば《アラハバキ》にとって、新たな資金源になるだろう。《東京中華街》という成功例もあるのだから、メリットも体感しやすい。悪い話ではないと、逢坂自身も思っていた。
だが、親父の反応は芳しくなかった。親父が言ったのはこうだ。「俺たちは成熟した組織だ。成り上がりの中国人を真似てどうする? 《アラハバキ》の構成員としての、誇りと美意識を持て」――と。
(いや、カジノの件だけじゃない。親父は昔に比べて、ずいぶん決断能力が鈍くなってきた)
下桜井蝉は今年で齢六十五になる。人間にとってはまだかくしゃくとしている者も多い年齢だが、ゴーストは短命で老化も早い。上松組の組長である上松将悟が六十八歳、総長である轟虎郎治が七十二歳。《アラハバキ》の上層部は高齢化が顕著であり、深刻な問題となっている。
そのせいか、御三家と呼ばれるそれらの三大連合会は、最近、特に変化を嫌うようになった。このままではジリ貧で先が長くない、何らかの改革を施さなければならないと分かっているのに、有効な手立てを打とうとしない。
誇りだの美意識だの、そういった曖昧模糊とした言葉を口にするのが増えたのも、結局は変化を嫌っているからではないか。「俺たちは成熟しているのだから、これ以上の変化や改革は必要ない」と、つまりはそういう事が言いたいのだろう。
そうして、若手には、目の前に立ち塞がる自力ではいかんともし難い困難を、漠然とした根性論で乗り越えろと言う。控えめに見ても無茶苦茶だ。
だからこそ上松組の愚かな下っ端も、薬物売買を禁じられている事を知りながら、敢えてそれに手を出したのだろう。
おまけに《アラハバキ》自体は組織が大きく、今でも上層部には傘下組織から吸い上げた潤沢な資金が流れ込み続けている。その為、親父たちは余計に貧困に対する実感が乏しいのだ。
《休戦協定》で一番割を食ったのは、実は《アラハバキ》ではないかと逢坂は思っている。《中立地帯》や《レッド=ドラゴン》との衝突は劇的に減ったが、そのおかげで上層部はひどく保守的になり、自分の地位を守ることにのみ腐心するようになってしまった。まさに牙を失った老いぼれ狼だ。
そしてそれこそが《収管庁》の目的だったのではないか、と。
いずれにしろ、組をまとめるべき上層部が、現実を直視していないことに変わりはない。
(それでも、鶴治さんが生きてたら、少しは違ったのかもしれねえが……)
《アラハバキ》の総長を後継する最大有力候補、それが轟鶴治だった。鶴治が存命で世代交代がつつがなく終わっていたら、まだこの状況も少しはマシだったかもしれない。鶴治は轟親父の寵愛を受けていたし、組の下の者たちの人望も得ていた。彼が生きてさえいれば、もっとスムーズに改革を進めることができたかもしれない。
だが、いくら仮定の話をしても意味はないだろう。鶴治は死んだのだ。そしていかなゴーストと言えど、一度死んでしまった者は二度と生き返ることはない。それは逢坂も、よく理解している。
末端の貧困化がこのまま続けば、組織そのものが崩壊しかねない。実際の財政破綻が先か、それとも若手の不満が爆発して内部抗争が起きるのが先か。
危機はひたひたと音も無く、しかし確実に忍び寄っている。
《アラハバキ》という組は、おそらく逢坂たちが認識しているよりもずっと微妙なバランスの上に成り立っていて、いつそれが崩壊しても、おかしくはないのだ。
だが、逢坂にはそれを理解していても尚、親父たちの意志に逆らうわけにはいかない理由があった。親分に逆らう事は、この《アラハバキ》では許されざる大罪だからだ。
「――若い連中の気持ちは、俺も分かっているつもりだ。だが、それでも親父の決定は絶対だ。俺たちが《アラハバキ》で一人前になれたのも、全ては親父たちに拾ってもらったおかげなんだからな。親父たちには恩義がある。俺たちにとって杯を交わした関係は、血縁よりも濃く絶対なんだ」
逢坂が屹然とした態度でそう言うと、京極は声を潜め、密談でもするかのように囁く。
「それが兄貴の決めた道なら、俺も従います。俺はどこまでも兄貴について行く。でも……俺は『その時』は必ず来るだろうと思っています。だから、兄貴には『その時』をピンチではなく、チャンスにして欲しいんです」




