第42話 白い光
慧はその人物を心から信頼し、心酔しているようにも見えた。火矛威には激しい憎悪を向ける一方で、その人物の事は何一つ疑っている様子がない。
「誰なんだ、その……『あの人』って?」
「お、お前には関係ねーだろ!」
慧はまたもや、深雪の言葉を退ける。これでは、埒が明かない。この少年の話をゆっくり聞きたいが、今は作戦がいくつも控えていて、そんな時間的余裕もない。深雪は表情を曇らせ、少年に訴える。
「君が火矛威のことを憎む気持ちは分かる。でも、火矛威は今や命も危ない状況なんだ。君が火矛威を殺さなくても、火矛威はもう十分に苦しんでいる。俺には諦めろなんて言えないけど、少しだけ……ほんの少しだけでいいから時間をくれないかな?」
すると少年は、俄かに怒りを露わにした。
「はあ!? 何で俺がそんなことしなきゃなんねーんだ!? あいつは人殺しだぞ! そんでこっちは被害者なんだ! 何で被害者が加害者に対して、そんな忖度してやらなきゃなんねーんだ!」
「火矛威はただ、体が弱っているというだけじゃない。《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》なんだ。下手に刺激を与えると、アニムスのコントロールを失って、周囲に対し、無意識に大きな危害を加えてしまうかもしれない。君も巻き込まれる可能性があるんだよ」
「そ……そんな事で脅そうと思っても無駄だぞ! おれの復讐心は本物なんだ‼ たとえこの体がバラバラになろうとも、俺は絶対にあいつを殺すんだ‼ 今の俺は、そのためだけに生きているんだからな‼」
喋っているうちに、だんだん興奮してきたのだろうか。少年の目は血走っていて、怒りと憎しみに溢れている。口角には泡を飛ばし、ちょっとやそっと説得したくらいでは、考えを変える気配もない。
(どうしたらいいんだ……これから、重要な出動が立て続けに控えている。みんな邪魔はされたくないだろうし、明日の夜には火澄ちゃんを連れだす予定もある。この少年に事務所の周囲でウロチョロされたら、いろいろと困るんだけどな……)
どうしたら、この少年をうまく追い払えるだろうか。思い悩んでいると、少年の背後にすっと音もなく奈落が現れた。あまりにもその出現は唐突で、慧はそれに気づいた様子もない。
すると、奈落は少年の首根っこを遠慮会釈なくひっ掴み、持ち上げてしまった。
「うわっ、何だあ!? ……離せ、コノヤロッ、離せよーーッッ‼」
少年は手足をばたつかせて暴れ回るが、奈落の腕はびくともしない。いつもの低い声で、子ども相手にも容赦なく凄む。
「お前は何だ? 何のために事務所を嗅ぎまわっている?」
「お、俺は……事務所なんて嗅ぎまわってねーよ! 帯刀火矛威の娘に用があるんだ‼」
「あの娘は今、事務所の客人だ。そいつに手を出すというのなら、同じことだろう」
「どーでもいい……け……離せ、よ……苦、し……‼」
慧の顔色は赤から青へと急降下している。深雪も奈落に何度か締め上げられているから、その苦しさがよく分かる。
「奈落、離してあげなよ。顔がどんどん青くなってるし!」
深雪は奈落を宥めるが、奈落の返答はにべもない。
「お前は黙ってろ」
そして奈落は少年の身体を軽々と持ち上げると、青くなっているその顔を覗き込んだ。
「……容量が小さいな」
「ふぐっ……!?」
「ガキは容量が小さい。だから、「喰う」のにもさして困らない」
「喰うって……え……?」
目を見開く慧の前で、奈落は、右目にあてた眼帯を僅かにずらして見せる。すると、その奥の眼窩から、甲殻類を思わせる歪な触手が数本、はみ出してきて、身動ぎする。
それはまるで、飢えた怪獣が獲物を求めているかのようだった。おまけに、何かが引き潰されたかのような、耳障りな鳴き声付きだ。
「復讐を諦めるか、それともここで喰われ『消滅』するか。……選ばせてやる。どちらがいい?」
慧の顔色は、とうとうどす黒い紫色に転じてしまった。その顔にあった燃え上がるような憎しみは影を潜め、今や恐怖の方が色濃く浮かんでいる。
「わ、分かっ……! この事務所には、金輪際、ち、近づか……ない……! や……約束、する……‼」
途切れ途切れに発せられる言葉を聞き終えると、奈落は無造作に手を放した。少年は呆気なく落下し、その場に盛大にしりもちをつく。
「うう……くそっ‼」
慧は心底、悔しそうに、歯ぎしりをした。何故、被害者である自分がこのような目に遭わなければならないのかと、忌々しい思いをしているのだろう。
だが、奈落はやはり手加減することなく、少年を冷ややかに見下ろしている。慧は唇を噛み締め、奈落と深雪をきっと睨みつけると、全力疾走で去っていく。さすがに深雪も可哀想になるほどだった。
「子供にも容赦ないなあ……」
呆れて奈落にそう告げるが、奈落は澄まし顔だった。
「阿呆、子供だからだ。ガキは理性が未発達で、すぐ感情に突っ走る。理屈で押さえつけるより、恐怖心を植え付ける方が効果的だ」
「だからって……あれはトラウマ級だよ?」
「だからこそ、だ。あのガキも二度と事務所には近づかないだろう。だが……気をつけておけ。あのガキの目は、本気だぞ。本気で父親の敵を討つつもりでいる」
「……」
深雪はどうしても火矛威に感情移入しがちだが、慧の気持ちも分からなくはない。父親を殺されたならその報復をしようとするのは、自然な感情だろう。
慧も被害者なのだ。もっとも、だからと言って慧の思う通りにさせるわけにはいかない。悪いのは、慧ではなく、火矛威でもない。そんな事が当然のようにまかり通っているこの街だ。
(誰かが誰かを殺せば、その瞬間に報復が始まる。そしてこの街にはそれを止める十分な装置が無い。報復はさらなる復讐を呼び、憎しみはどこまでも連鎖する。《死刑執行人》の《リスト執行》とて、それは例外じゃない。いつか、終わらせなきゃいけないんだ)
六道は言った。見せかけの平穏でも、手に入れるのには莫大な犠牲を払ってきた、と。今ではその言葉の意味がよく分かる。積み上げるのは難しく、失うのはあっという間だ。
そしてそれを再び積み上げていくのは、更に多大な労力を必要とされる。
慧のようなごく普通の少年が、憎悪から解き放たれるのはいつになるのだろう。激しい憎しみに満ちた少年の目が、いつまでも深雪の脳裏を離れなかった。
その後、東雲探偵事務所の二階でミーティングがあり、明日の作戦の最終確認を行った。それが終わった後、深雪は火澄を探す。
《Ciel》の元売りと火矛威を同時におびき寄せる作戦に、火澄も加わってもらう事を話しておかなければならない。
だが、どれだけ探し回っても、事務所の中に彼女の姿は無かった。
「火澄ちゃん……どこに行ったんだ?」
もしかして、事務所を出て行ってしまったのか。そんな不安がよぎる。だが、火矛威を放ったらかしにして彼女が逃げ出すとも思えない。
それに、外では《アラハバキ》の三人組が血眼で火澄の行方を捜しているかもしれないのだ。彼女にとって、今はこの事務所が一番安全な場所と言えるだろう。
では、どこへ行ってしまったのか。
「ひょっとして……あそこかな」
深雪がふと思いつき、屋上に向かうと、そこには案の定、火澄の姿があった。
深雪は、ほっとすると同時に、やはり、と納得していた。自分もこの事務所に来たばかりの頃は、やるせない気持ちを持て余し、たびたび屋上に来ていた。風に吹かれ、空を見つめていると、落ち着くのだ。
既に日も暮れはじめ、空には星が瞬き始めていた。
「火澄ちゃん」
声をかけると、火澄は深雪の方を振り返る。朝に見た時と同じ、袖の長いニットのオーバーにショートパンツ、その下に黒いレギンスを履いている。
真っ黒い大きな瞳は、微かに残った夕日の残滓を反射し、心なしか揺れているように見えた。
「雨宮、さん……」
「星がきれいだね」
「……うん」
「やっぱり、緊張してる? 突然、事務所に連れてきちゃったもんね。うち男が多いし、気詰まりだよね」
「そんな事ないよ。シロや海さんにもいろいろ気を使ってもらってるし。でもお父さんのことを考えたら、どうしても、じっとしていられなくて……」
深雪が火澄の傍に並び立つと、火澄は夜空を見上げた。
「お父さんも、この星空を見てるのかな……?」
「その事なんだけど、ちょっといいかな」
深雪は火澄に、地下駐車場に同行してもらうこと、それが火矛威と《Ciel》の元売りをおびき寄せるためであり、事務所の《死刑執行人》が護衛につくものの、危険を伴う事などを説明する。
火澄は顔を強張らせてそれを聞いていたが、最後には協力を快諾してくれた。
「……分かった。それがお父さんを助けるためになるなら、あたし、そこに行く」
「ありがとう、助かるよ。火澄ちゃんには、絶対に危険が及ばないようにするから」
「大丈夫だよ。あたし、《監獄都市》で生まれて育ったんだし、こう見えても、けっこう根性あるんだ!」
火澄のガッツポーズを作るさまが、あまりにも勇ましいので、深雪はつい噴き出してしまった。
「ははは、そういえば、俺もスタンガンぶっ放されたっけ」
「うっ……あの時は、本当にゴメンナサイ!」
火澄は両手の指先を胸元で合わせ、ぺこりと頭を下げた。こうして落ち着いて話してみると、火澄はいい子だと改めて思う。真澄の優しさと、火矛威の明るさの両方が存在している。そのせいか、全くの赤の他人であるように思えないのだ。
まるで二十年前の平穏だった《ウロボロス》時代に戻ったかのような錯覚を覚える。
そんな感慨にふけっていると、火澄がじっと深雪の右腕を見つめているのに気づいた。どうやら、深雪の掌にある赤い痣が気になるようだ。
「火澄ちゃん? どうかした?」
尋ねると、火澄はおずおずと口を開く。
「あの……雨宮さんのアニムスって、何か聞いてもいい?」
「俺のアニムス? どうして急に……」
「あっ……ごめんなさい、あたしのアニムスも内緒なのに、図々しいよね」
確かに、ゴーストにとってアニムスの情報を他者に知られることは、死活問題に関わることもある。中には手品と同じで、種を知られた時点で、簡単に防がれてしまうものもあるからだ。
でも、深雪のアニムスはその限りではないし、相手が火澄なら問題はない。
「いいよ、別に。隠すほどのものでもないし。……俺のアニムスは二つあるんだ」
「二つ……? そんなことあるの?」
火澄は目を丸くした。ゴーストの持つアニムスは、たった一つ。それが常識だからだろう。
「はは、かなりのレアケースではあるみたいだね。そのうちの一つは《ランドマイン》といって、触れたものを爆破する能力なんだ。そして……もう一つのアニムスは、《レナトゥス》。ゴーストを人間に戻す能力だよ」
「ゴーストを……人間に……」
それきり、火澄は無言になり、何かを思案するように俯いてしまった。
「驚かないんだね」
「え?」
「《レナトゥス》は珍しいアニムスだから、大抵、びっくりされるんだけど」
「そう……なんだ」
実際にマリアや《石蕗診療所》の石蕗麗も、そんなアニムスは現時点でどこにも存在しないといっていた。だから相当に珍しいものなのだろう。
火澄は迷うような素振りを見せ、逡巡しながらこちらの様子を窺ってくる。
「あの……右手、見せてもらってもいい?」
「うん、いいよ」
深雪は火澄に向かって右手を差し出した。火澄の小さな手が深雪の右手に触れる。
火澄は肌寒いからか、上着の袖で掌をすっぽり覆い、指先しか外に出していない。昔、深雪が学生だった頃、女子高生が同じように制服の袖の先からちょこんと指先を出していた。わざと袖の長い服を着るのが流行っていたのだ。
ファッションは一周回って受け継がれていくんだなあと、妙な実感を覚える。
一方、火澄は深雪の掌を見つめて呟いた。
「真っ赤な痣……何だか、マグマの通り道みたい」
「ああ、確かに。言われてみると、それっぽいかも……」
そう応じていると、右の掌――その中心が、ぼんやりと光を放ち始めた。火澄は驚いて目を見開く。
「光ってる……!」
「ああ、時々そうなるんだ。自然に光っちゃうんだけど、危険は無いから……」
だが、いつもならその掌の光は、ぼんやり光って数分後には自然に消えるのに、今日に限ってどんどん光が強くなっていく。
(あれ、何だ……? どんどん光が強くなる……いつもと違う!)
《レナトゥス》を使う時の、熱く激しい感じでもない。ただ、光の奔流が次から次へと溢れ出して止まらない。その光に照らされ、事務所の屋上は真昼のように明るくなった。それでも、光は止まらない。右手にいくら意識を集中させても、光を止めることができないのだ。
右手から溢れ出すその白光は、深雪のコントロールを完全に離れている。
こんなことは、今までなかったのに。
「何でこんな……!?」
深雪は混乱した。どうして掌の光は、通常とは違う反応を見せているのか。《レナトゥス》が発動する気配もないし、白光が翼の形になることもない。痛みや違和感も皆無だ。ただ、中途半端にアニムスが発動した状態で、光だけがどんどん溢れ出していく。危険はないようだが、気味が悪い。
(ひょっとして……原因は俺じゃない……? 何かに、反応している……!?)
もしかして、この掌の光は、深雪自身に原因があるのではなく、何か外部の要因に反応して発動しているのではないだろうか。
そう気付いた次の瞬間、深雪はハッと息を呑む。
自分の右手ばかり見つめていたので気付かなかったが、よく見ると、火澄の両手からも、同じ真っ白い光が溢れ出しているではないか。服の袖で掌を隠しているが、さすがに光は誤魔化せない。服の上からも、彼女の両手が光を放っているのがよく分かる。
「火澄ちゃん、それって……‼」
深雪の視線は火澄の掌に釘付けになる。
(俺と、同じ……白い光……!?)
火澄も自分の両手の異変に気付き、ぎょっとした。そして、さっと両手を自分の背後に隠すと、早口で深雪へと告げた。
「ご、ごめんね、雨宮さん! お休みなさい‼」
火澄はそのまま両手を隠し、屋上から逃げるように走り去っていく。深雪は呆気に取られてその後姿を見つめていた。火澄がいなくなると、右手の掌の光もスイッチが切れたように消えてしまう。
「光が……消えた……」
数度、掌を開いたり閉じたりしてみたが、やはり光を発する様子はない。最近は掌の痛みも殆ど感じなくなり、そのおかげか、この白い光も発することは少なくなっていた。
こんなことは久しぶりだ。
(何だろう、こういうの。同調……いや、共鳴……?)
深雪には、どうにも先ほどの光が、火澄が原因であるように思えて仕方なかった。
(でも……何で、火澄ちゃんと……?)
火澄は自分のアニムスを周囲に隠していた。彼女のアニムスとは、一体、何なのだろう。
(ひょっとして……)
深雪の脳裏に、ある仮定が浮かび上がる。だが確証はない。それにそれを確かめようとしても、火澄は嫌がるだろう。
且つてマリアは、深雪の《レナトゥス》はとても珍しいアニムスで、世界中を見渡してもそんな能力は他にないと言っていた。医師であり数多くのゴーストを診察してきた、石蕗麗も同じことを言っていたから、間違いないだろう。
では、どうして火澄の両手に、深雪と同じ光が宿っていたのだろう。
深雪の胸の内は、激しくざわめいた。火澄は一体、何者なのだろう。どうして火矛威は火澄に、決してアニムスを使うなと言い含めたのだろう。
気になって仕方ないが、今はそれを火澄に問い詰めるわけにはいかない。火澄との間に、要らぬいざこざを起こすわけにはいかないのだ。彼女には、《Ciel》の元売りや火矛威をおびき出す手伝いをしてもらわなければならないのだから。
火澄のアニムスの件はそれらを全て解決した後だ。
日が完全に落ちると、屋上に吹き付ける風も一気に冷たさを増す。深雪は身震いをすると、屋上を後にし、自室に戻ったのだった。
明日の明朝に作戦決行とあって、その日は早めに就寝した。
屋上で火澄と一緒の時に発生した、あの現象は何だったのだろう、火矛威は今頃、どこで何をしているのだろうか、明日の二十時までに、火矛威が《Ciel》の元売りとぶつからなければいいが――そんなことを考えているうちに、眠りに落ちた。




