第40話 失踪
翌日の朝早く、深雪は火澄とシロ、オリヴィエの四人でリム医師の診療所へと向かう。
今度こそ火矛威と面会し、説得して人間に戻すために。
外国人街の中を歩き、昨日と同じ《石橋内科》の建物へ向かうと、昨日話したフィリピン人医師が表に出て、きょろきょろと周囲を見回している。
「あれは……リム医師?」
「どうしたのでしょうか?」
深雪とオリヴィエは顔を見合わせ、訝しむ。すると、シロも首を傾げた。
「何だか、探し物をしているみたいだね」
シロの指摘に、深雪はぎくりとする。リム医師は何を探しているのだろう。嫌な胸騒ぎを抑えつつ、深雪たちはリム医師へ近づく。
「おはようございます、リム先生」
(って言っても、日本語は通じないんだっけ……)
昨日もリム医師は英語しか話していなかった。片や深雪も英語を話す事はできないが、きっとオリヴィエが通訳してくれるだろう。
そう思っていると、リム医師が深雪たちの存在に気づく。そして、こちらに駆け寄ってきた。
「ああ、君たちか! 大変なことが起きてしまったんだ‼」
いっそ清々しいほど流暢な日本語に、深雪は突っ込むのも忘れ、半笑いするしかない。
「ええと……リム先生。取り敢えず、日本語お上手ですね……?」
昨日、不機嫌そうに英語で捲し立てていたのは、日本語を話せないふりをしていたのだ。おそらく、深雪たちを火矛威から遠ざけるために。
リム医師も、うっかり日本語で話しかけてしまったことに気づいたのか、しまったという顔をしたが、すぐに表情を切り替える。
「い、今はそういう些末な事に拘っている場合じゃない! ミスター帯刀がいなくなったんだ‼」
それを聞いた深雪とオリヴィエの表情も、さすがに一変する。
「え……? 火矛威がいなくなった!?」
「何ですって!?」
「お父さん、いなくなったって本当? どこに行ったの!?」
最後に火澄が身を乗り出す。リム医師は見慣れない顔に驚いたのか、目を見開いた。
「……彼女は?」
「この子は火澄ちゃん……火矛威の娘なんです」
深雪が紹介すると、リム医師はぎょろりとした目元を僅かに綻ばせた。
「カスミ? そうか、君が……! ……大きくなったね」
「先生、彼女の事をご存じなんですか?」
「幼いころに、何度か診察したことがあるんだ。それにミスター帯刀は、私が処置をするとき、よく娘への思いを口にしていたよ。とても大切な存在で、何があっても自分が守らなければならないのだと、たびたびそう言っていた」
「お父さん……!」
それを聞いた火澄は、今にも泣き出しそうになってしまった。
「火矛威はどこへ行ってしまったんですか?」
「そもそも、彼は歩き回れるような状態なのでしょうか? 昨日もかなり苦しそうだったし、会話するのがやっとという口調だったように思うのですが……」
深雪やオリヴィエは、昨日、火矛威の声を聴いている。会うことはできなかったが、それでも火矛威がかなり苦しそうであるのは伝わって来た。
本当に病院を抜け出すほど、体力が残っているのだろうか。
すると、リム医師も眉根を寄せる。
「いや、あなた達の言う通り、ミスター帯刀はとても外出できるような状態ではないんだ! 安静にしていなければならないのに……あのままでは、本当に死んでしまう‼」
「……ッ‼」
火澄は医師の言葉に強い衝撃を受けたようで、全身を激しく強張らせた。リム医師はすぐにそれに気づき、申し訳なさそうな顔をする。
「あ、いや……すまない。でも、ミスター帯刀の命が危ういのは事実なんだ」
だが、例えそれが事実であろうと、火澄にとって辛い話であることに変わりはないだろう。
火澄は上から羽織ったニットのオーバーの袖を、握りしめた。袖丈が長く、指先がほんの僅かに、外に覗いているだけだ。
だが、彼女にとって辛い話でも、今は火矛威の事を聞き出さねばならない。深雪は強張った火澄の肩に優しく手を添え、リム医師に再び質問をする。
「火矛威はどうして、診療所を出て行ってしまったんでしょうか? もしかして、俺たちが居場所を突き止めてしまったから……?」
深雪が訪ねていったから、火矛威は姿を消したのか。火矛威がいなくなったのは自分のせいなのか。深雪がそう問いかけると、リム医師は僅かに逡巡し、口を開いた。
「……彼は君を守るんだと言っていたよ。今度は自分が君を守る番だ、と」
「守る……? 火矛威が、俺を……!?」
深雪は戸惑った。昨日会話を交わした火矛威は、どこか再会を懐かしむ気配はあったものの、最終的には深雪を拒み、二度と来るなと撥ね付けた。深雪はそれを火矛威の本心だと思っていたが、それは違うのだろうか。
火矛威が深雪を拒絶したのは、それが深雪のためだと判断したからなのか。
(火矛威……俺を恨んでいたんじゃなかったのか……? ひょっとして、俺を巻き込まない為に、敢えてあんな態度を取ったのか……‼)
そういえば、奈落も言っていた。「あれは説得に失敗したんじゃない」、と。火矛威は最初から、深雪がどう説得しようと、拒絶するつもりでいたのだ。
(水臭いぞ、火矛威……‼)
火矛威は深雪を恨んでいるわけではない。むしろ、その逆だ。
だからこそ、ああいう態度を取ったのだ。
それに気づいた瞬間、深雪は歯痒さのあまり、唇を噛んだ。火矛威は深雪を憎んでいるわけではない。むしろ、自分の抱えている事情に巻き込むまいとしたのだろう。
深雪は昨日、それに気づくべきだった。どれだけ拒絶されても、火矛威を信じるべきだった。
そうすることができなかったのは、自分に自信が無かったからだ。心の中で、ずっと火矛威や真澄に対し、負い目があったから。
ひょっとすると、自分の弱さがこの事態を招いてしまったのかもしれない。
こうなったら、何としてでも火矛威を追わなければ。勿論、たとえ火矛威が深雪を憎んでいようと、追うつもりではあった。でも、火矛威が深雪の為に敢えて孤独を選んだのだとしたら、絶対に放っておけない。
リム医師は決意を新たにする深雪に、付け加える。
「それから、最後の仕事を終えるつもりだ……と、そう言っていた」
最後の仕事。その言葉に、深雪は眉根を寄せた。見ると、火澄も表情を曇らせている。
(火矛威は《Ciel》の元売りとケリをつけようとしているんだ……‼)
そんな事はさせられない。火矛威にこれ以上、誰も殺させたくないし、《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》であることを考えると、関係のない人々まで巻き込んでしまう恐れもある。
それに《Ciel》の元売りとて、黙ってやられるとは思えない。火矛威は返り討ちにされるかもしれないのだ。
一刻も早く追いかけて行って、止めなければならない。でも、火矛威がどこに行ってしまったのか、その手掛かりは皆無だった。
(火矛威が動いているのは、火澄ちゃんのためだ。だったら、火澄ちゃんの中に、何か火矛威を追う手掛かりがあるかもしれない……!)
深雪はそう思いつき、リム医師へと質問を投げかけた。
「リム先生、火矛威は火澄ちゃんに関して、何か言っていませんでしたか?」
シロと火澄は、意外そうな顔をする。「ユキ……?」
それでも深雪は、リム医師へと詰め寄った。
「何でもいいんです! どんな些細な事でも! それが火矛威を救う手掛かりになるかもしれない‼」
「何かと言われても……」
リム医師は腕組みをし、考え込んだ。暫くすると、眉をひょいと上げ、口を開く。
「ああ……そういえば、以前、再婚はしないのかと尋ねたことがあるよ。子供が幼いなら、再婚するのも良い選択ではないか、と。そしたらミスター帯刀は、母親が悲しむから再婚はしないと言っていたね」
(火矛威……真澄の為に、一人で……)
今でも、火矛威は真澄のことを想っているのだろう。――昔のように、ただひたすら一途に。だからこそ、二人の娘である火澄を守りぬことしているのだ。
そのことに思いを巡らせると、胸が鷲掴みにされるような痛みを覚えるのだった。
ところが、リム医師は思わぬことを口にする。
「それを聞いて、私は言ったんだ。この街では、理想だけで子育てをするのは難しい、その方が子どものためにもいいのではないか、と。だが、ミスター帯刀はこう答えた。妻が生きているうちは、再婚はしない、いつか母親に娘を会わせてやるのが自分の夢だってね」
「えっ……?」
「その時のミスター帯刀の口ぶりから、てっきり私は彼女の母親がまだ生きているとばかり思っていたんだ。何か事情があって、別居状態にあるんだろうとね。だから、その……昨日の君たちの会話が、少々、意外でね。まさか母親が死んでいたとは……。
個人的な話だからミスター帯刀から詳しく聞き出すようなことはしなかったんだが……気になるといえば、少し気になるね」
「火矛威とその話をしたのはいつですか?」
「母親の話かい? 二週間ほど前だよ。彼は処置中、饒舌になる。おそらく……苦痛を紛らわせるため、だろうね。鎮痛効果のある薬も処方しているが、それで痛みが消える限界はとうに超えているんだ」
やはり、火矛威の容態は実際にかなり悪いらしい。こんなことなら、昨日、扉を蹴破ってでも火矛威と接触しておけば良かった。実際には昨日の状況でそれは困難だったが、火矛威の本心を知った今では、余計にそう後悔してしまう。
(それはともかく、真澄が生きている……? でも、火澄ちゃんも火矛威も、真澄はずっと前に死んだって……!)
すると、火澄も、訝しげな表情をする。
「お父さんは、お母さんはあたしがずっと小さいころに死んだって……」
ただ、火澄は真澄の顏や声を全く知らないという。火矛威は火澄の母親に関して、動画や映像の類を、徹底的に残さなかったらしい。
考えてみれば、それも奇妙な話だ。火矛威が今でも真澄のことを思い慕っているのなら、むしろその記憶の片鱗を残そうとするのではないか。
(何故、そこまでして……? 火澄ちゃんの母親が真澄だと知られたらまずい事でもあるのか……?)
火矛威は、こと火澄に関しては、神経質に過ぎるほどだったという。それと何か関係があるのだろうか。
(ひょっとして……火澄ちゃんの母親は、真澄じゃない、別人……?)
しかし、火澄の顔立ちは間違いなく真澄によく似ている。それに、『火澄』という名も、明らかに真澄と関係がある事の証だ。火澄が真澄の娘でないのなら、それほどまでに似通った名は付けないだろう。どうにも違和感がある。
(駄目だ、何かが……何かが違う!)
だがいずれにせよ、《Ciel》の元売りが火澄を狙っている件と、火矛威が真澄の生死に関して食い違った発言をしていた件、そして火矛威が過剰なほど火澄を守ろうとしていた件、それら全てには関わりがある気がした。
火澄の中には、何か大きな秘密が眠っているのではないか。
(一つ気になるのは、火澄ちゃんのアニムスだ。火矛威は彼女に自分のアニムスを封じ、決して他人の目に触れさせないように言い含めていた。きっと、よほどの能力なんだろうし、元売りがそれを狙っている可能性はある)
火澄のアニムスが稀少であったり価値のあるものだとしたら、元売りがそれを狙っている可能性はある。或いは、火澄のアニムスが、薬物売買に必要な能力だという事も考えられるだろう。
火澄のアニムスは何なのか。だが、火澄の様子だと、他人には自分のアニムスをそう簡単に打ち明けないだろう。
「とにかく、今は帯刀火矛威を探し出さなければ……!」
オリヴィエはそう言ったが、シロは悲しそうな表情をする。
「でも、どこに行っちゃったんだろう? 新宿の中を探す? それとも東京駅の方? 渋谷?」
「もし、《八洲特区》に入り込まれていたら……見つけ出すのは難しいでしょうね……」
《アラハバキ》を除籍された火矛威が、《新八洲特区》に戻るとは考えにくい。だがその一方で、絶対にあり得ないという確証もない。
探すにしても範囲が漠然としていて、どこから手を付けていいのかも分からない状態だ。完全に振出しに戻ってしまった。
火矛威も《イグニス》を使用して《イフリート》となっていたら、監視カメラにすぐ引っかかるだろうが、そうでなかったらマリアが特定するのも難しいだろう。
(火矛威が《Ciel》の元売りを狙っているなら、元売り組織を先に抑えた方が手っ取り早いか……? いや、それだと後手に回る可能性もある。火矛威と元売り組織がぶつかってから動き出したんじゃ、遅いんだ!)
情報――火矛威に関する情報さえあれば。深雪は唇を噛む。
(エニグマなら……あの情報屋なら、何か知っているかもしれない……‼)
そう思った次の瞬間には、走り出していた。エニグマに紹介された《アヴァロン》――あの店に行けば、情報を買えるかもしれない。
突然駆けだした深雪に、シロは驚いて声を上げる。
「ユキ?」
「俺、ちょっと行くとこがある! みんなは先に事務所に戻ってて!」
「深雪!?」
しかし深雪はオリヴィエの声も無視し、走り続けた。
全速力で走り続け、深雪はようやく《アヴァロン》に到着する。しかし、店は閉まっていた。扉に手をかけても、開く気配がない。
「閉まってる……? 朝だからな」
この手の店は、夜が稼ぎ時で、朝になると閉まる。それは致し方ないが、深雪もだからと言って、このまま手ぶらで引き返すわけにはいかない
「あの! すみません‼ 誰かいませんか!?」
古びて今にも朽ち果てそうな扉をどんどん叩くと、隣のカラオケボックスから中年女性が気怠げに顔を覗かせた。今の今まで眠り込んでいたのか、寝間着姿だ。
「うるさいね、何なんだい!? こんな朝っぱらから!」
「あ、すみません。俺、ちょっとこの店に用があって……」
すると、カラオケボックスの中年女性は、鬱陶しそうに欠伸を噛み殺した。
「はあ? そこの店はもう、誰もいないよ!」
「え?」
「何年前だったかね、バーをやってた老夫婦が亡くなってからは、そのまんまだよ」
「い、いや……《アヴァロン》ってバーが入っている筈なんだけど……!」
実際に、数日前に訪れた時は、店は開いていた。中に入ったし、カウンターにバーテンダーが立っているのもこの眼で見た。だから、確かである筈なのだ。
ところが寝間着姿の中年女性は、胡散臭そうに深雪を見やり、肩を掻くばかりだ。
「《アヴァロン》……? 知らないね。聞いたことも無いよ。とにかく、こっちは夜通し働いて寝てないんだ! これ以上騒ぐってんなら、ただじゃ済まないよ!?」
女性は荒々しくそう言い残すと、カラオケボックスに引っ込み、乱暴に扉を閉めてしまった。一人その場に残された深雪は、途方に暮れて立ち尽くす。
「う、嘘だろ……!?」
火矛威が姿を消した今、唯一、頼りにできると思っていたのに。
だが、目の前のバーが閉店してしまったのは事実であるようだ。よく見れば、ドアノブには埃が積もり、壁の一部は崩れ落ちている。バー・《アヴァロン》は、存在そのものが忽然と消え失せてしまったのだ。
それでも簡単には諦められず、暫く店の前をうろうろしていたが、やはり得られるものは何もなかった。深雪は失意と共にそこを離れる。
(どうすればいいんだ。どうやって火矛威の行方を探したら……?)
せめて、この高架橋の上に登ることができたら、エニグマのアジトへ辿り着けるかもしれない。そう思って高架橋沿いに移動していると、不意に、頭上から小さな鳴き声が降って来た。
「みうぅ」
深雪は顔を上げ、傍にあったフェンスの上へと視線を向ける。そこには、紅い首輪をつけた小さい黒猫が佇んでいた。小さなガラス玉のような目が二つ、まっすぐに深雪を見下ろしている。エニグマがよく連れている黒い子猫だ。
「黒猫っ!」
深雪が叫ぶと、黒猫は驚いたのか、ぱっと身を翻してフェンスの上を小走りで駆けていく。深雪は弾かれたように走り出すと、その黒猫の後を追った。
入り組んだ路地をいくつか曲がると、その先に人影が待ち構えていた。
「これはこれは、雨宮さん! まさか、あなたの方から私を探していただけるとは! 私の事を少しは信用していただけた……と考えてよろしいのでしょうかね?」
嬉々として両手を広げ、深雪を出迎えたのは、黒づくめの情報屋・エニグマだ。箸って黒猫を追いかけてきた深雪は、肩を上下させながらも、どうにか叫んだ。
「み、店っ……何で閉まってたんだ!?」
「すみませんねえ、商売柄、どうしてもこう……警戒心というのでしょうか。注意深くなりがちでね。一つ所に長く店を構えていられないのです。新装開店した暁には、またこちらからご報告させていただきますよ」
エニグマはそう言うと、怪しげな営業スマイルを浮かべる。
「いや、そんな事はいい……火矛威が! いや、火矛威には会えたんだけど、いなくなったんだ‼」
深雪が身を乗り出しつつ捲し立てると、エニグマは口元に優美な弧を浮かべる。
「おやおや……いよいよ薬物売買組織の元売りと直接対決というわけですね?」
エニグマは飄々とした様子で、さらりとそう言ってのけた。深雪は目を見開く。おそらく、この男は何もかもお見通しなのだ――そう思った次の瞬間、深雪は両手でエニグマの胸元を掴んで壁に叩きつけていた。
「やっぱりあんた、全部知ってたんだな!? 火矛威がどうして元売りを殺そうとしているのか、どうしてその元売りが火澄ちゃんを狙っているのか……本当は全部知ってて隠してるんだ‼」




