第39話 父親
最後に流星は、みなを見渡して言った。
「何だかんだあって、ようやくここまで来た……何としてでも、成功させるぞ!」
「ええ、そうですね」
オリヴィエが頷く隣で、奈落は両手を組み合わせ、バキバキと盛大に音を鳴らす。
「今回はいつもに増して手間取らされたからな。これで存分に借りを返せる」
すると、二頭身のウサギもピョンピョンと跳ね、何かを踏んづけるジェスチャーをした。
「一網打尽にしてフルボッコよ! 徹底的にぶちのめしてオトシマエつけてやる‼」
「それじゃ、どっちが闇組織か分かんないじゃん……」
深雪が呆れて突っ込むと、マリアと奈落はほぼ同時に反応したのだった。
「それがどうした?」
「そーよ! こうなったら、仁義なき極妻のアウトレイジよ‼」
二人ともいつもは反駁し合っているくせに、こういう時だけ妙に意気投合する。
「……。何かいろいろ、混ざり過ぎてて、わけ分からなくなってるよ」
深雪がそうごちる一方で、神狼はどこか安堵したように溜息をついた。
「ともかク、これで《Ciel》の拡散モ、ようやク収束ニ近づくナ」
神狼にも、鈴華や鈴梅といった家族がいる。薬物が蔓延し、物騒になる一方の《中立地帯》に、穏やかならぬ心境でいたのだろう。
思えば、《東京中華街》に乗り込む以前から《Ciel》には振り回されてきた。《サイトウ》や《カオナシ》という貴重な情報源を失い、幾度も窮地に陥りつつも、どうにかここまで来た。
流星の言う通り、何としてでも作戦を成功させ、これで終わりにしなければならない。
ミーティングが終了し、二階の会議室を出た深雪は、三階に上がったところで火澄と出くわした。
火澄は階段のところで深雪を待ち伏せしていたようだ。深雪の姿を認めると、不安を露わにして、駆け寄ってくる。
「火澄ちゃん……」
「雨宮さん! あの……お父さんには会えた?」
「話をすることはできた。でも、面会はできなかったんだ。火矛威の決意は固くて……俺じゃそれを覆すことができなかった」
火澄は一瞬、泣き出すかと思うほど顏をくしゃくしゃにした。父親が――火矛威がちゃんと生きているという事を知って、感極まってしまったのだろう。
暫くは言葉さえ発することができないようだったが、やがて落ち着いてくると、淋しげにポツリと呟いた。
「そう……。お父さん、何をしようとしてるんだろう……? あんなボロボロの体で……。無理しないで、今すぐ帰ってきてくれたらいいのに……」
火澄は、火矛威が《Ciel》の元売りを殺そうとしていることを、知らないのだろう。自分が何故、元売りに狙われているのか、どうして火矛威があれほどまでに頑なになっているのか。
詳細な理由を何も知らされていないのだ。
火矛威は火澄を巻き込むことを望んでいない。でもおそらく、火矛威の心を動かすことができるとしたら、それは火澄だけだ。
「明日、また火矛威のところに行くつもりなんだけど、できたら火澄ちゃんも一緒に行って欲しいんだ。外国人街は決して安全とは言い切れないし、ひょっとすると道中、《アラハバキ》の追手に狙われるかもしれない。でも、多分、火矛威を説得できるのは火澄ちゃんだけなんじゃないかって気がするんだ」
深雪がそう切り出すと、火澄はこくりと頷いた。
「……うん、分かった。あたしも一緒に行く! あたしもお父さんに会いたい‼」
その瞳に宿るあまりの真剣さに、深雪は気圧されそうになる。
(火澄ちゃん……気丈に振舞っていても、まだまだお父さんが恋しいんだな……)
火澄と火矛威をどうにかして再会させてやりたい。深雪は心からそう思った。
薬物事件を解決するためというのもあるし、火矛威を《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》から人間に戻すため、という理由もある。
だが何より、火矛威と火澄、二人の親子の為に再会を叶えてやりたかった。二人のことを考えると、このまま離れ離れになってしまうのは、あまりにも忍びない。
火矛威も本心では、火澄に会いたくて堪らないだろうから。
ただ、火澄を連れて行きさえすれば、火矛威が心を開いてくれるという確証はない。逆に娘を巻き込んだことに怒りを示す可能性もある。
(でも……今は、やれることを全てやるしかない……!)
――そう、たとえ火矛威が、それを全く望んでいなかったとしても。
深雪は静かに拳を握りしめるのだった。
✜✜✜ ✜✜✜
元・《石橋内科》の病室は、こじんまりしていて、病床が二つだけの小さな部屋だ。帯刀火矛威はそのベッドの一つに横たわっていた。
火矛威の他に入院患者はいない。だが、それは幸いだった。帯刀火矛威の身体は軟膏と膿が混ざり合い、ひどい悪臭を放っていたからだ。
もし他に患者がいたら、ひどい忍耐を強いるところだった。
帯刀火矛威は全身に深刻な火傷を負っていた。火矛威のアニムスである《イグニス》は、強大化の一途をたどり、今や術者である火矛威の身体をも容赦なく焼き焦がしている。
その為、皮膚は焼け爛れ、あちこち膿み、その為に体は包帯だらけだった。それもところどころどす黒く血が滲んでいる有様だ。
呼吸も満足ではなく、空気を吸うたび、妙に空気の抜ける奇怪な音がする。まさに、生きているのが不思議なほどだった。
やがて、ノックの音が数度、響くと、病室の扉が開き、リム医師が真新しい包帯や消毒液を携えて現れる。
リム医師は帯刀火矛威の姿を目にし、一瞬、表情を曇らせたものの、すぐに穏やかに声をかける。
「気分はどうかね」
「先生……!」
「包帯を変えよう」
リム医師は流暢な日本語でそう言うと、帯刀火矛威を助けて起こし、その体を覆っている汚れた包帯を取り除いていく。
やがて火矛威の焼け爛れた皮膚が、白熱灯の下に露わとなった。火傷の傷はまばらで、裸体である筈なのに、まるで真っ赤な迷彩服を纏っているようだ。リム医師は手を動かしながら火威に話しかける。
「昼間、男の子が君に面会に来ただろう。彼は君の子どもかね?」
「いえ……あいつは俺の友達、なんです」
リム医師は片眉を上げる。友人にしては、年齢がどうにも釣り合わない。帯刀火矛威は四十近くだが、あの少年はどう見ても十代だった。
しかし、この街はゴーストの街だ。中には肉体が老化しないアニムスを持つ者もいる。何か事情があるのだろう。
リム医師はそう判断し、それ以上の詮索はやめることにした。代わりに、他の話題を口にする。
「闘病には体力がいる。それ以上の、気力もな。君の容体は決していいとは言えない。これはあくまで医者としての忠告だが……時には、誰かの力を借りる事も必要だぞ」
リム医師は、昼間に訪れた三人組みを、帯刀火矛威には面会させなかった。帯刀火矛威がそれを望んでいたからだ。
だから、敢えて訛りの強い英語を喋ってまでして、三人を追い払おうとした。
だが、彼らはそんな事では退散しなかった。特に最も若い少年は、帯刀火矛威に尋常ならざる思い入れがあるように見受けられた。
彼らは帯刀火矛威を救いたがっている。それなら、その手を借りるのも一つの選択ではないか。
しかし、帯刀火矛威の返事は頑なだった。
「………。先生は、ご存知でしょう。俺が今まで何をしてきたか」
「………」
知っている。《アラハバキ》の掃除屋だ。
「これ以上、誰かに迷惑をかけたくないんです」
「しかし、昼間の彼の様子だと、きっとまたここへ来るのではないかね?」
実際、少年は「明日また来る」と言っていた。または、「諦めない」とも。リム医師にはその言葉が偽りであるようには、とても思えなかった。
すると帯刀火矛威は、ふ、と微笑をもらす。
「ええ、分かっています。あいつはそういう奴だ。
深雪は……いつも俺と真澄を守ってくれました。あいつは責任感の強い奴で……自分の使命だと思った事を果たすためには、何でもやってしまうところがあるんです。
《ウロボロス》とのことだって、俺達がいなければ……俺達の事を守らなければならないっていうプレッシャーは無かったなら、きっとあそこまでひどい事にはならなかった。
多分、俺達が……あいつを追いつめてしまったようなものなんです。
だから、もう俺達に関わって欲しくなかったし、わざわざこっちから会いに行くこともしなかった。会って話したいことは山ほどあったけど、近づけばまた背負わせてしまう。だから、このまま最後まで他人でいようと決めたんです。
それなのに……まさかここまで来るとは思ってもみませんでしたよ」
「彼は君の事を心配しているんだよ。救いたいと言っていた」
火矛威はその言葉を聞き、びくりと肩を震わせた。そして暫くそのまま小刻みに身体を震わせていたが、やがて押し出すようにして話し始めた。
「……俺はね、先生。過去と同じ過ちは繰り返してはならないと思うんです。
俺はもう、子どもじゃない。子を持つ親だ。守られる方じゃなく、守る方になったんだ。
だから、あいつが傷つかない方法を探すべきだと思うんです。
あいつは二十年前、俺たちのことを命がけで守ってくれた。今度は俺が、あいつを守りたいと思うから。
でも、ただ撥ねつけただけでは、きっとあいつは何度でもここに来る。どんなひどい言葉で遠ざけたとしても、それだけではきっと諦めようとはしないでしょう。そういう奴なんです。
だから俺……ここを出ようかと思っています」
「そんな体で? ここを出て、どこか行く当てはあるのかね?」
「いえ……でも、どの道、俺は長くはない。ここにいたら、大勢の人を傷つけてしまう。それに先生も……。いずれはここを去るつもりでした」
「ここは《監獄都市》だ。誰も巻き込まずに済む方法など、存在しないよ」
「そうですね。でも、壁側か、或いは海側に行けば少しは……。そしてその前に、最後の仕事を終えるつもりです」
帯刀火矛威の決心は固く、何を言っても揺るぎそうになかった。リム医師はそれを悟り、口をつぐむ。
帯刀火矛威と最初に出会ったのは、もう十年近く前の事だ。その時、リム医師はこの診療所を開いたばかりだった。そこへ帯刀火矛威が幼い娘を抱いて駆け込んできたのだ。
娘はインフルエンザで、高熱を出していた。リム医師は不思議に思ったものだ。《アラハバキ》の構成員なら、まずは《新八洲特区》で開業している医者を当たるだろうし、それが無理でも《中立地帯》へ向かうだろう。
《東京中華街》が近いこともあり、外国人街へやって来る《アラハバキ》の構成員は非常に珍しい。
だが、帯刀火矛威は何か事情を抱えているらしく、娘を絶対に《新八洲特区》や《中立地帯》の医者には見せたくないのだという。
理由は分からないが、どうやら娘の存在を周囲に知られたくなかったらしい。
奇異に思う事はあったものの、患者は患者だ。リム医師は娘にインフルエンザのワクチンを打った。
帯刀火矛威とは、それ以来の付き合いだ。
帯刀火矛威が《アラハバキ》の殺し屋だと知った時は、さすがに恐ろしくもあったが、彼が手にかけるのは身内ばかりで、外国人ゴーストや《東京中華街》のゴーストには手出しをしない。だから、そのまま付き合いを続けた。
あれから娘も大きくなっているだろうが、まだ成人はしていないだろう。父親がもし、このまま他界してしまったら、娘はどうなるのだろうか。
帯刀火矛威も娘を一人残し、あの世へと旅立つことを、心苦しく思っているに違いにない。それを思うと、リム医師はこの親子が気の毒でならないのだった。
やがて新しい包帯を巻き終えると、リム医師は帯刀火矛威に声をかける。
「終わったよ。さあ、少し休みなさい」
「先生……最後まで面倒見てくれて、本当にありがとうございます。俺は何も恩を返すことはできないけど……先生の恩情は最後まで忘れません」
「私は医師としての仕事をしているだけだよ。……薬をここに置いていくから、ちゃんと飲むようにね。さあ、もう遅い。……おやすみなさい」
リム医師はそう告げると、火矛威の病室を出る。
実のところ、帯刀火矛威の言う「ここを出ようかと思っている」という言葉を、リム医師はあまり信じていなかった。実際のところ、帯刀火矛威の病状は深刻で、とても歩き回れる状態ではなかったからだ。
闘病生活の長い患者は、よくこういった話をする。この命が燃え尽きるまでに、一度でいいから叶えたいことがある――そういった、強い願いを口にするのだ。
ただ、願いが実現するかどうかはさほど重要ではない。重要なのは実際に口に出し、言葉にすることだ。そうすることで、生きる力が湧き上がってくるのだろう。
だからリム医師は、患者の訴える願いを否定しない。ただ、受け入れ、寄り添うのみだ。帯刀火矛威に対しても同様で、そんな事は不可能だと決めつけたり、良くない事だと諫めたりはしない。
彼はただ、少しでも生きようとしているだけなのだから。
この時、リム医師はまさか、帯刀火矛威が自分の発した願いを実行するとは、思ってもみなかった。
よって、その病室がもぬけの殻になっているのを、リム医師が発見するのは、翌日になってからのことだった。




