第18話 歪んだ大義名分
――冷たい。
意識の戻った深雪が最初に感じたのは、湿り気を帯びたコンクリートの床の感触だった。
次に古い油が沈殿したような異臭が鼻につく。体を動かそうと試みるが、両手が背中で拘束されていて、横向けに寝転がったまま身動きが取れない。
ぼんやりとした意識のまま、顏を傾けて周囲を見渡す。
そこは薄暗い建物の中のようだった。
天井が高く、ところどころ穴が開いている。その為、幾筋もの光が漏れ差し込み、複雑に入り組んだ剥き出しの鉄骨を照らしていた。
窓の少ない壁際には、何だかよく分からない大型の機械の残骸が積み上げられている。プレス機か何かのようだが、稼働はしていない。
他にも似たような大型機械はいくつも見られたが、見るからに錆びつき古くなっていて、今は使われていない様だった。
どうやら深雪のいるのは、何処かの廃工場跡らしい。
(ここは……?)
震える海の姿やミリタリージャケットの男のにやけた顔が、順に頭の中に浮かんでくるが、すぐに後頭部に鈍い痛みを覚えて顔をしかめる。
歯を食いしばって痛みに耐えていると、どこからか何者かの話し合う声が聞こえてきた。
「あれ……イッシー、ケンタとタクミは?」
ふざけているのかと思うほど、能天気な声。一瞬、女の声かと思うほど、中性的で高い。
「知らねーよ。そういや、見ねーな。ションベンじゃねーか?」
こちらは抑揚の少ない、野太い声だ。すると先ほどの甲高い声に苛立ちか混じった。
「ちょっとイッシー……困るなあ。ちゃんと見といてよ。あいつらが勝手な事しないように、さあ!」
「知るかよ。俺はあいつらの母親じゃねーし」
(そうか……俺、こいつらに捕まって運ばれたんだ……)
声の主は、先ほど襲ってきた四人組のうちの二人だった。
マッシュルームカットにミリタリージャケットの男と、やたらと体格のいい男――高山直樹と大石瑛太だ。
手持無沙汰でうろうろとしているのが、ちらちらと視界に入ってくる。
高山と大石は幸いな事に、深雪に背を向けていた。深雪は彼らに気が付かれないよう、何とか動けないかと身を捩ってみる。
しかし背中に回された両手はがっちりと固定され、動かない。どうやら金属製のワイヤーでぐるぐる巻きにされているらしい。
爆発物や危険物の所持の有無を確かめたのか、羽織っているコートもずいぶん乱されていた。
(くそ、解けない……!)
身じろぎを繰り返すと、その反動で足元のドラム缶を蹴ってしまった。ガンと重低音が響き、高山と大石がこちらを振り返る。
深雪は内心で舌打ちをしたが、すでに手遅れだった。高山と大石は互いに目配せをしあうと、妙に余裕のある足取りでこちらに近づいてきた。
「あ、目が覚めたんだ? どう? 話す気になった?」
高山は相変わらず、にやけた笑いを顔面に張り付かせて言った。しかし深雪は無言を貫き、高山を睨み返す。
すると、高山の軽薄な態度が俄かに豹変した。足早にこちらに歩み寄って来ると、無表情で右足を振りかぶり、思い切り深雪の鳩尾に向かって蹴り込んだ。
「うっ……!」
激痛のあまり呼吸が止まり、勢いよく咳き込んだ。両目からは涙が溢れるが、歯を食いしばって何とか痛みに耐える。
体をくの字に折って悶絶する深雪を冷ややかに見降ろし、高山は吐き捨てる。
「シカトしてんじゃねーよ。こっちが聞いてんだろ!」
「やめとけって、ナオキ。死んじまったら、元も子もねーだろ」
大石は顔をしかめた。すると、高山は剣呑な雰囲気をひっこめ、元の軽薄そうな笑顔を浮かべる。
「……。分かったよ、イッシー。確かにまあ、その通りだしね~」
深雪は高山がかなりの気分屋であることに気付いた。まるでコロコロと小さな子供のように機嫌が変わる。
相手をしている大石は、その幼稚さを持て余し、どこかうんざりしているように見受けられた。
高山の方はそれに構う様子もなく、棒付きキャンディーを口の中で転がして言った。
「とにかくまあ、反抗的な態度はやめなよ。互いにさ、その方がいいじゃん? 無駄な事するのって疲れるっしょ、色々と」
激しく咳き込んでいた深雪は、引き攣る横隔膜を何とか抑え、口を開いた。
「そ……その前に聞きたい事がある……!」
「何? 通帳とカード渡してくれるなら、答えてもいいよ」
「何で……どうして殺した⁉ そこまでする必要、ないだろ!」
すると、高山の瞳が一際うれしそうに弧を描いた。
「あは、そりゃ必要はないけどさ。ゴーストは何をやっても捕まらないじゃん? せっかく東京に来たんだし、自由になったからにはそれを満喫しなきゃって思ったんだよ」
「自由……? 何だそれ、ふざけるな! やっていい事と悪い事も分からないのかよ!」
深雪は思わず声を荒げたが、高山は涼しい顔をしてそれを受け流す。
「文句があるなら、こんな馬鹿げた隔離政策を実行してる連中と、それを支持してる奴らに言いなよ。僕たちは別にこんな状況望んだわけじゃないし、生き残るのに必要な事をしてるだけ。僕たちだって、被害者なんだよ」
「黙れ! やりたい放題やっといて、自分に都合の悪い事は全部、他人のせいか⁉」
「仕方ないじゃん、だってそれが事実なんだから。ここでは法律が適用されない。誰も守ってくれないし、秩序だって無い。弱い奴は毟り取られるだけだ。
君だって覚えがあるんじゃないの?」
「……! それは……」
深雪は返す言葉を失った。初日に、溶けかかった髑髏の入れ墨をエンブレムに掲げたごろつき集団――《ディアブロ》と遭遇したことを思い出したからだ。
確かに流星とシロが現れなければ、深雪はあの場から逃れる事ができなかっただろう。そして今頃は全て奪われ、命すら無かったかもしれない。
この街ではそれは、ごく当たり前のことなのだ。
視線の揺れる深雪に、高山はしゃがみ込んで顔を近づけた。そして悪魔のように囁きかける。
「……正義は大事だ。でもね、その概念は環境によって容易く変わるものなんだよ。
ここでは弱肉強食がまかり通ってる。そういう場所では弱い奴から奪う事、そうしてでも身を守る事が正義なんだ。
でも、そのルールを作ったのは僕たちじゃない。僕たちは環境に適応してるだけだよ」
「そんなの、詭弁だ!」
「そうかな? そもそも自分の力で自立し生き抜く……それの一体、何が悪いんだ?
どうせ世の中チートが勝つんだ。ゴーストだって高アニムス値の奴ほど生き残る。それを嘆いて何もせず、誰かに寄生したりするより、生きる為に賢く立ち回った方がずっと立派で建設的じゃないか。
大体それが自己責任ってものでしょ? みーんな好きじゃん、自己責任!」
そう言うと、高山は楽しげに声を上げて笑いだした。それはまるで深雪のみならず、この世の全てを嘲っているかのような、尊大な笑い声だった。
深雪は悔しくてならなかった。高山は聞くに堪えないほど傲慢で驕り高ぶった思想の持主で、おまけに己が正しさを微塵も疑ってはいないようだった。
一方の深雪は床に這いつくばった格好で、それを見上げていることしかできない。どこまでも無力だった。
「違う……そんなの、人間のする事じゃない……!」
「まさしく、その通りだよ。僕たちは人間じゃない……ゴーストだからね」
高山はにっこりとほほ笑む。
それは圧倒的な勝者が敗者に向ける眼差しだった。深雪は激しい憤りを感じた。そしてその怒りの籠った視線を、今度は背後にいる大石へと向ける。
「お前は……お前はどうなんだよ⁉ これでいいと本気で思ってんのか⁉」
すると、大石は気まずそうに言葉を詰まらせたものの、すぐに口を開いた。
「……。別にこれでいいと思ってるわけじゃねーけど……これしかねえってのは同意だな。
俺たちはゴーストになった時点で、何もかも奪われる。それまでの生活も、叶える筈だった将来の夢も……それまで住んでいた所すら追われるんだ。
こんなワケわかんねーとこ放り込まれてさ、まるで産業廃棄物みたいによ……。その状態で生きていこうと思ったら、手段は選んでらんねーだろ」
そして、最後に吐き捨てる。
「綺麗ごとってのはな、ファッションと同じだ。恵まれた人間の、おままごとなんだよ……!」
どうやら大石も、百パーセントではないものの、ある程度高山の考えに賛同し、行動を共にしているようだ。
絶句する深雪を前に、高山は薄ら笑いを浮かべて肩を竦め、立ち上がる。
「……だってさ。残念だったね。――さあ、お喋りは終わりだ。今度は君が話す番だよ」」
そして次の瞬間には、年齢に不釣り合いな子供っぽい眼差しに、冷徹な光を浮かべる。
「…………‼」
深雪は唇を噛み、同時に確信する。
一見すると、高山の行動は幼稚で子供っぽい。しかし一方で、自分の非道さや残虐者を客観的によく理解しているのだ。そこには迷いや躊躇はない。完全に、自分はゴーストだからと割り切っているのだろう。
そしておそらく、大石たち他のメンバーもある程度それに同調した上で、共に行動している。生きていくためには他者をも食い物にする――倫理的にはどうあれ、すでにそこには強固な目的意識が共有されているのだ。
だから深雪が何を言っても通じないし、理解し合う余地も無い。説得が成功する可能性は絶望的だと言えた。
(くそ……とにかく今は、この状態から脱出しないと……!)
逃げるにしても戦うにしても、今の芋虫のような体勢のままでは何もできない。後ろ手に組まれた腕を何とか動かそうともがくが、やはり拘束は解けない。
先ほどより、幾分か金属ワイヤーが緩んできているのは感じるのだが。
深雪は諦めず、ワイヤーを解こうと試みた。高山はそれを無駄だと考えているのか、蔑みの目で見降ろすだけだった。
おそらく、仮に拘束が解けたとしても、深雪一人なら余裕で抑えられると思っているのだろう。
するとその時、入り口の方から人影が二人、入って来るのが見えた。
ノッポとチビの二人組、酒井匠と小西健太郎の二人だ。高山もそれに気づき、視線をそちらに向ける。
「……どこに行ってたの、二人とも?」
高山はいつもの軽薄な態度だが、心なしか先ほどより機嫌が悪そうに見えた。小西と酒井もそれを感じ取ったのか、気まずそうに顔を見合わせる。
「た……大したことじゃねーよ。ちょっとゴミ掃除してただけだ」
背の高い痩せぎすの長髪、酒井が慌ててそう答えた。
ところが高山は、今度は目に見えて不機嫌になる。
「ゴミ掃除って、まさか誰かと接触してたわけじゃないよね?」
「いやほんと、マジ大したことないんだって! ちょっと脅したらすぐに逃げてったし、東京っつってもすげえ弱ぇ奴ばっかでさ……」
今度は小西がそう答えた。悪気が無いということをアピールするためか、半笑いでわざとらしく肩を竦めて見せる。
すると突然、高山の腕が伸びたかと思うと、小西の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「あほか、てめえの脳みそは糞の塊か⁉ 勝手なことするなって言っただろうが!」
高山はそれまでにない怒号を上げた。目を仁王像のようにカッと見開き、犬歯を剥き出している。
そのあまりの豹変ぶりに、場の空気が一瞬で凍りついた。胸倉を掴まれ、半分宙づり状態の小西は、恐怖のあまり涙目で震えながら訴える。
「わ……分かったって。悪かったよ!」
「ナオキ、やめとけって。ここで仲間割れしててもしょうがねえだろ」
大石が慌てて止めに入った。高山は舌打ちをし、突き飛ばすようにして手を離す。小柄な小西は為す術もなく、後方に吹っ飛び、壁際に積み上げられた機械類に強かに体を打ち付けた。
高山はそれを冷ややかに見降ろしながら、苛ただしそうに吐き捨てた。
「……場所を変えるぞ」
「えっ……また?」
酒井が思わずといった様子で声を上げる。高山はそれをじろりと睨みつけた。
「そう。また、だよ。文句あんの、タクミ? ……誰のせいだろーね?」
高山の剣呑な態度に、酒井は返す言葉を詰まらせ、バツが悪そうに下を向く。ただ、それでは気持ちが収まらなかったのか、ぼそりと聞こえよがしに呟いた。
「何だよ、勝手に仕切りやがって……!」
「……何だって?」
「お、俺らも悪かったけどさ、あんまピリピリする事ないんじゃないかな? 俺らゴーストだし、アニムスだってあるわけだし。
確かに《ディアブロ》とかいう奴らと睨み合ったけど、ホントにただそれだけなんだよ。他には小汚いホームレスの爺さんとかしかいなかったし……」
酒井は自分の言い分を並べ立てるが、高山のわざとらしい溜息がそれを情け容赦なしにぶった斬る。「何だよ……」と、会話を遮られ不服そうな表情をする酒井に、高山は改めて大仰な溜息をつきつつ、首を振って見せた。
「あのさ、僕たちつけられてるんだよ。気づいてた?」
「は……?」
「僕のアニムスは《ブラストウェーブ》……風を操る能力だ。君たちより周辺の音がよく聞こえるし、認知範囲も広いんだよ。
大体さ、ここは圧倒的に人間よりゴーストの方が多いでしょ。たかがホームレスって言うけどさ、そのホームレスがゴーストじゃないって証拠がどこにあるの?」
「いや、でも……例えゴーストだったとしてもさ、あんなのに負けるわけ……」
食い下がる酒井。だがそれも、高山にはただの愚行にしか見えなかったようだ。高山は眉間に深い谷間を作ると、腕組みをして苛々と靴の先を打ち鳴らし、貧乏ゆすりまで始めた。
「……あんまり苛々させないでくれるかな? どうして僕の言う事が理解できないの?
何のために獲物を厳選してるか……何度も説明してんじゃん。そんな難しい事、言ってないよね?
そもそも、誰に養ってもらってるんだっけ? 何の権利があって僕に逆らってんの? 無能は無能らしく、静かに言うこと聞いてりゃいいんだよ」
「おい、ナオキ……!」
大石は眉をひそめ、高山を諫める。だが当の高山は、どうやら自分の意見を改めるつもりは更々ない。あまりの傲岸不遜な態度に、さすがに小西と酒井もむっとしたようだった。
「何だよ、その言い草はよ……」
もともと仲が良いようには見えなかったが、ここにきてチームの間にはっきりとした亀裂が入り始めた。深雪は息を詰め、注意深く四人を観察した。
高山はおそらく自分のアニムスに自信はあるが、過信はしていないのだろう。だから知識も実力も乏しい、自分よりも弱い者ばかりを選んで狙ったのだ。それが最もリスクが少ないと理解している。
一方の小西や酒井もそれを分かってはいるのだろう。ただ、彼らは自分のアニムスを使ってみたくて仕方ないのだ。
それは子供が、買ってもらったばかりのゲームソフトをプレイしたくて我慢できないのと似ている。せっかく手にした未知の力を思う存分試したくて堪らず、他のゴーストと接触するリスクを理解しつつも、誘惑に勝てないのだ。
深雪にも覚えがある。それは特殊能力に目覚めたばかりのゴーストに起こりがちな症状だった。
(……とにかく、今しかない!)
理由はどうあれ、彼らが仲間割れを始めたのはまたとないチャンスだ。チームの輪が乱れれば、その分だけ漬け込む隙ができる。
結局、手首を縛っているワイヤーを外すことはできなかったが、ごそごそと身動きをし続けたおかげで背後にあった工場の鉄骨柱に身を寄せることができた。
深雪は一際大きく身を捩る。
背筋が悲鳴を上げたが、それに耐え、何とか鉄骨の柱に掌を触れさせることができた。そして己のアニムスである《ランドマイン》を発動し、触れた部分を爆発させる。
パアン――と、乾いた爆発音が大きく響き渡り、こだました。一泊遅れで強烈な爆風が周辺一帯に襲い掛かる。
「なっ……⁉」
「あいつ‼」
仲間割れにすっかり気を取られていた高山らも、その爆音で異常事態に気付く。すぐに深雪の仕業と見当をつけるが、《ランドマイン》による爆風に煽られて身動きができない。
舌打ちをしつつも、後退を余儀なくされる。




