第25話 ウサギ地獄
深雪は着替えを済ませ、軽く身支度をし、廊下に出た。しかし、辺りに人けはないし、事務所の二階や三階にはそもそも火の気がない。
臭いの元を辿っていくと、どうやら先ほどから漂ってくる焦げ臭いにおいは、一階にその元凶があるようだった。
「もしかして、キッチン……か?」
誰かが料理にでも失敗したのだろうか。深雪が階下に降り、キッチンを覗くと、そこにはシロと琴原海の姿があった。二人はコンロの前で、わたわたしている。
「きゃああああっ! シロちゃん、火を止めて! 焦げてる‼」
「あ、あわ……はい!」
シロは海に言われるまま、コンロの火を止めた。だが、その時はすでに時遅しで、土鍋の中からもくもくと煙が上がっているのが見える。海とシロは、がっくりと肩を落とした。
「……真っ黒になっちゃったね……」
「ううう……ヘンだなあ? どうして焦げちゃったんだろ?」
「火が強すぎたのかも……私、家庭科得意じゃなくて……こんなことなら、もうちょっと真面目に授業受けとくんだった……!」
見かねた深雪は、二人に声をかけてみた。
「シロ? 琴原さんも……何をしているんだ?」
すると、海とシロはこちらを振り返った。シロはいつもの濃紺色の制服姿で、海は黒いパンツスーツの上にストライプのエプロンをしている。
「あ、雨宮さん。おはようございます!」
「ユキ、おはよ!」
海とシロは一瞬笑顔を見せたが、すぐに困ったような表情になった。
「あのね……六道の為に、お粥を作ろうと思ったの。でも、シロ焦がしちゃって……」
「お粥……?」深雪は眉を顰める。
(粥って……米と水を鍋に入れて適当に火にかけたらできるだろ。どこかに焦がすような要素、あったっけ……?)
だが、シロと海は至って真剣だった。
「シロ、こういうのは下手だから……どうしたらいいか分からなくて……でも、六道の為に何かしてあげたいの」
「東雲所長、具合が悪いみたいで……昨日からずっと床に伏せっているんです」
(六道……まだ、完全には良くなっていないのか)
あれだけの血を吐いたのだ。すぐには回復しないだろう。シロや海が心配するのも、もっともだ。それに六道が倒れた事は、深雪と無関係ではない。むしろ、殆ど《タナトス》を使わせた深雪に、責任の一端があると言っても過言ではない。そう考えると、何もしないのも気が引ける。むしろ、自分も何か手伝うべきではないか。
「……じゃあ、みんなで一緒に作ろうか。俺も粥くらいなら作れるし」
深雪がシロと海に微笑むと、二人はぱっと嬉しそうな顔になる。
「え、ホント? ユキ、お粥が作れるの?」
「うん。俺、一人っ子だったし、両親も共働きだったから、一通りのことはできるよ」
「ユキ、すごーい!」
「お料理できる男性、尊敬しちゃいます‼」
海とシロから惜しみない賛辞を贈られ、深雪は苦笑するしかなかった。
「ああ、うん……はは」
(俺にしてみれば、お粥を盛大に焦がす方がすごいっていうか……)
それはともかく、深雪は自分もひどく空腹であることを思い出す。昨夜は一晩中歩き回り、何かを食べる時間も殆ど無かった。
「それじゃ、ついでに俺たちの昼ごはんも、一緒に作ってしまおうか」
すると、シロも海もその案に賛同した。
「うん、それいいね!」
「実は、私たちも昼食はまだなんです」
「それはちょうど良かった。何を作ろうか?」
すると、海とシロは、戸棚の奥にしまわれた食材を引っ張り出し、テーブルの上に広げる。
「ええと……ラーメンの袋麺が二つと、ツナ缶が一つ、サバ缶が一つ……ですね」
「あ、パンケーキの粉もあるよ!」
「何か、見事にバラバラだな……この事務所らしいっていうか」
そう考えると、何だかおかしくなって、深雪は少しだけ笑った。けれど、どうにか人数分の食材はある。みな同じメニューに拘らなければ、何とかなるだろう。
ところが、さっそく料理に取り掛かろうとしたその時、階段の方からドスンと、何か大きな音が聞こえてきた。雑誌の束がいくつも落っこちたみたいな、鈍い音だ。
「な……何だ!?」
深雪が驚いて階段の方へ目をやると、シロの獣耳もピクリと反応する。
「今、すっごく大きな音がしたね?」
「ど……泥棒……!?」
海は小さな体をびくりと竦ませた。だが、深雪はそれに首を傾げる。
「《死刑執行人》の事務所に? まさか……それはちょっと考えにくいけど」
そもそも、東雲探偵事務所の洋館は控えめに見てもオンボロで、とても金目のものがあるようには見えない。自分が泥棒でも、まずターゲットには選ばないだろう。だが、海はよほど侵入者の可能性が怖いのか、不安が隠せないようだ。
「もしかしたら、何も知らない可哀想な泥棒さんなのかもしれません」
「飛んで火にいる夏の虫だね……!」
「顔が悪徳代官みたいになってるぞ、シロ……」
くっくっく、と妙な笑いを漏らすシロに、深雪はそう突っこんだ。確かに、うっかりこの事務所に忍び込んでしまった泥棒がいたとしたら、夏の虫より不運だとしか言いようがない。
もっとも、まだ泥棒だと決まったわけではないが。
ともかく、キッチンであれこれ詮議していても始まらない。深雪は事実を確認するために、廊下に出てみた。薄暗い廊下は人の気配が全くない。向かって右手に階段、左手には玄関があり、その間に奥へ続く廊下がある。もし、何者が身を潜めているとしたら、階段の裏側くらいしかない。
「階段の方、か……? とにかく俺、ちょっと見てくるから、二人はここにいて」
「うん、分かった」
「気を付けて下さいね」
海とシロをキッチンに残し、深雪は階段へと向かった。万が一何かあった時の為に、慎重に足を運ぶ。
だが、階段の裏側には誰もいなかった。代わりにあったのは扉だ。目立たぬよう、ひっそりと備え付けられている。
「あれ……? こんなところに、扉なんてあったっけ……?」
どちらかと言うと、折り畳み式の柵のようにも見える。古い映画などでよく目にする、アンティークのエレベーターだ。それが証拠に、壁には上下を指したボタンもついている。先ほど聞こえてきた物音は、このエレベーターと関係があるのだろうか。
深雪は取り敢えず、壁のボタンを押してみた。すると、扉は難なく開く。
そして現れた小さな部屋に、深雪は足を踏み入れた。やはり中はエレベーターだ。振り返ると、扉の傍にはボタンがあり、B1Fの文字も見える。
「B1F……? この事務所、地下があったのか」
驚いていると、扉が閉まり、エレベーターは下降を始める。
「でも、地下に何があるんだ……? 駐車場……なわけないよな」
《カオナシ》を輸送する途中で《イフリート》に燃やされてしまったが、この事務所にはSUVがあった。だが、事務所の裏にガレージがあり、車はそこに停めるようになっていたので、駐車場には困っていなかった筈だ。では、地下には何があるのだろう。
間もなく、エレベーターはガコンと音を立てて止まり、自動で扉が開く。深雪は周囲を警戒しつつ、エレベーターを降りた。
そこは真っ暗な部屋だった。広さ自体はそれなりにあるが、如何せん物量が凄まじく、妙に手狭に感じる。
まず目に入ったのは部屋の壁三枚分を一面に占める、大小のディスプレイの数々だ。全部で二十近くあるだろうか。入口近くには、黒くて巨大な箱が鎮座しており、何かの電子機器なのか、大小のコードがいくつも繋がっている。
その他にも、深雪にはよく分からない機器がそこかしこに積まれている。
部屋の中央には回転椅子が横倒しになって倒れていた。先ほどの大きな物音は、この椅子が原因か。
ただ、それだけなら深雪も、さして驚きはしなかっただろう。深雪が呆気にとられたのは、部屋中を埋め尽くす大量のウサギのマスコットたちの立体映像だ。
「な……何だ、この部屋?」
ディスプレイの中だけではない。空中にも、見覚えのある大勢のウサギが浮かびかがっている。普段、乙葉マリアがアバターとして使っているものだ。
それぞれ酒盛りをしたり、ゲームに興じたり、ラジオ体操をしたりと、めいめい勝手に動いている。他にもオタ芸に励む者、油絵を描いている者、マジックショーで胴体切断をしている者もいる。勿論、マジシャンも客もみんなウサギだ。
それらを目にした深雪は、「ヒッ!?」と小さく悲鳴を上げてしまった。
「ま、マリア……? 何でこんなに、うじゃうじゃ……!?」
深雪の目の前に現れるのは、いつも一人――もとい一匹だけだ。だからその実、こんなにたくさんいただなんて、知らなかった。このマリアたち全員に、いつもの如くいびられたら、とてもではないが精神がもたない。
半ば青くなり、茫然としていると、ウサギの一人が深雪に気づいた。
「あれ、深雪っちじゃん!」
すると、他のウサギも次々と深雪へ視線を向ける。
「ホントだ、深雪っちだ」
「深雪っちー!」
「何してんの、こんなとこでー?」
「へ? い、いや……。何してんのって、聞きたいのはこっちの方なんだけど……」
ウサギたちは、わらわらと無邪気に深雪の方へ集まってくる。気のせいか、いつもの底意地の悪そうな雰囲気はない。昨日のマリアは深雪にひどく腹を立てていたが、今はそんな様子も無かった。ごく普通に歓迎されている。
深雪はそれを意外に思いつつも、ほっと息をついた。
(でも……この部屋、何なんだ……?)
ところが、ウサギの中の一匹が、不意にジトっとした目で腕組みをし、刺々しい声を上げる。
「ってゆーかあー、何で深雪っちがここにいるのよ? 乙女の部屋に勝手に侵入したりして、一体全体、どういうつもり!?」
すると、今まで好意的だったウサギたちの雰囲気も一変し、一斉に剣呑な様子になってしまった。
「そーいえばそうだよねー。深雪っち、これは一体どういうこと!?」
「ノゾキ? デバガメ!?」
「この《監獄都市》最強の情報屋、マリアちゃんに向かってそんな愚行を働くなんて、いい度胸してるわよね?」
「ふてえ野郎だわ、ぜーったい許せない‼」
「深雪っちのくせにナマイキよ!」
「みんな、どうする!?」
「処・刑! 処・刑‼」
「逆さに吊るし上げて、超絶に恥ずかしい過去を暴いてやる‼」
ウサギたちは深雪をぐるりと取り囲み、口々に野次を飛ばし始めた。真剣に怒っているウサギも中に入るが、明らかに尻馬に乗っている者、この状況を楽しんでいる者、画像を撮ったり、深雪と一緒に自撮りをしている者までいる。
「ち、ちょっと待って! 俺はただ、大きな物音がしたから確認しに来たっていうだけで……‼」
取り敢えず、盛り上がるウサギたちを落ち着かせようと、深雪はわたわたとしながら弁明を始める。ところが、いくらも説明しないうちに、突然、足首をがしっと掴まれた。
「う、うわあ!?」
跳び上がって視線を足元に向けると、そこには見たことも無い女性が倒れていた。
まず深雪の目を引いたのは、赤みがかった金髪だ。ディスプレイの光を受けて、淡い珊瑚色に輝いている。珍しい髪色だが、地毛なのだろか。女性は豊かに広がるその髪を、頭の両脇で無造作に括っている。
うつ伏せなので、顔は見えない。ただ、素足や腕の色は抜けるように白く、目に眩しかった。タンクトップにデニムのショートパンツという、やたらと露出の多い恰好なせいもあるだろう。何故だか、その上から着物を羽織っている。真っ黒な地に、兎の模様があしらってある打掛だ。ジャケットかコートみたいに肩に引っかけていて、帯は無い。《監獄都市》の中に於いても、かなり変わったファッションなのではないかと深雪は思った。
(……誰だ、この人?)
見たことも無い女性の姿に、深雪は戸惑った。誰なのかは分からないが、さりとて泥棒であるようにも見えない。そもそもここは地下空間である上、密閉されていて窓やドアは無い。移動手段はエレベーターだけだ。
(そういや、どっから入って来たんだ、この人……?)
それはともかく、こうして床に倒れているという事は、どこか具合が悪いのかもしれない。
「あの、大丈夫ですか!?」
助け起こそうとすると、女性は僅かに身動ぎをし、呻き声を漏らす。
「み……深雪っち……? 良かった、このままこの部屋で遭難するかと思った……!」
「その声……もしかして、マリア!?」
間違いない。いつもウサギのマスコットが発している声と、全く同じだ。彼女が分身の主なのだろうか。
(いやでも、だったらこのウサギたちは一体……?)
先ほどまで深雪を取り囲んでいたウサギたちは、半分ほどはまだ深雪の周囲に残っているが、残りの半分は飽きてしまったようで、各々、また好きなことをし始めている。
「深雪ッチ、腹減ッタ……アタシ、死ヌ……マジデ……‼」
生身の方のマリアは、機械音声みたいな片言でそう言い残すと、ガクッと力尽きる。
「ええと……取り敢えず、ラーメンかパンケーキならあるけど……食べる?」
「……食ベル」
「じゃあ、キッチンに行こう。立てる?」
すると、マリアは、よろよろとした仕草で回転椅子の奥を指さした。深雪がそこを覗き込むと、その椅子とコンソールのような大きなキーボード台との間に、折り畳まれた車いすが仕舞ってあるのが見えた。
(あれに乗せろってことか)
深雪は車いすを引っ張り出し、マリアを乗せると、それを押してエレベーターに乗り込み、一階へと向かった。
一階に到着し、廊下に出ると、キッチンからシロと海が顔を出す。二人とも未だ泥棒説を信じているらしく、フライパンとおたまをそれぞれ手にしている。
「雨宮さん、どうでしたか? 遅かったから心配してたんですよ」
「ああ、それが……泥棒はいなかったんだけど……」
「……って、その人は一体……?」
海は車いすに目をやって、首を傾げた。深雪もつられて視線を下に向けると、車いすに乗せたマリアはぐったりとして力なく仰向けになり、完全に白目だった。
どう説明したものかと困っていると、シロが嬉しそうに車椅子へと駆け寄ってくる。
「あ、マリアだ!」
「マリアさん……? この人が!?」
海もマリアの本体を見るのは初めてだったのだろう。驚いたような声を上げた。すると、それに反応したのか、深雪たちの周囲にウサギの立体映像がいくつも浮かび上がる。
「やっほー、マリアちゃんだよ~ん!」
「海ちゃん、シロ、おっはよー!」
「今日も頑張っていきましょー!」
わらわらと、雨後のタケノコのように湧いて出るウサギに、海も戸惑いを隠せない。
「な……何か、今日のマリアさん、妙に数が多いですね……?」
「恐ろしい事に、下の部屋には、もっとたくさんいるんだよ……!」
深雪が海に応じると、それを耳聡く聞きつけたウサギたちは、揃ってムッとした顔になる。しまった――深雪はそう思ったが、すでに手遅れだった。
「何よそれ、たくさんいちゃ悪いっての?」
「深雪っち、ムカつくー!」
「ウ・ザ・イ! ウ・ザ・イ‼」
全員で「ウザイ」の大合唱を始めるウサギたち。立体映像だから物理的に危害を加えられることは無いが、それにしてもすさまじい罵声の嵐だ。精神は容赦なく削られる。
深雪はうんざりして額に手を当てた。
「と……取り敢えず、マリアはお腹が空いてるそうだから、早く昼ごはんにしよう。そして、一刻も早く地下に送り返そう」
「そ……そうですね、早く昼ごはん作っちゃいましょう!」
おたまを握りしめてそう答えた海は、ウサギまみれになっている深雪に同情を禁じ得なかったのか、苦笑いを浮かべるのだった。
取り敢えず、車いすでぐったりとしている本体マリアを居間に連れて行くと、深雪たちはさっそく手分けして、料理に取り掛かる。具材を切ったり、水の分量を量って鍋にかけたり。しかしその間も、ウサギの集団がしきりに深雪の周囲をチョロチョロとする。
「深雪っち、何を作ってるの?」
「深雪っちー、お腹空いたー!」
「ねえ、深雪っち、深雪っちー!」
「ああもう……うっとーしーぞ、お前ら‼」
堪りかねて怒鳴るが、ウサギたちは恐れるどころか、キャッキャと歓声を上げて騒ぎ始める始末だ。
「あはは、深雪っちが怒ってるー!」
「キモ~イ‼」
一方、シロはその様子をにこにこと眺めている。
「ユキ、何だか大人気だね」
「これは人気があるわけじゃなくて、ただの冷やかしだよ、絶対……!」
すると今度は、海がどことなく気の毒そうな視線を深雪に向けた。
「何だか、女子高の先生みたいですね……」
「女子高と違って、全っ然、楽しくも嬉しくもないけどね……‼」
海は《監獄都市》に来る前は、女子高に通っていたと言っていた。だから、余計にそういう感想を抱くのだろう。深雪のこの状態が女子高の先生みたいなら、先生もさぞかし大変であるに違いない。
そんなこんなで、どうにか料理が完成した。ラーメンが二つと、パンケーキが二皿。深雪とシロがラーメンで、海とマリアがパンケーキという、何ともちぐはぐなメニューだ。
居間でみんな揃って食べることにするが、その前にシロが六道に粥を持っていくと言って、土鍋を持って台所を後にした。
暫くして六道の部屋から帰ってきたシロに、深雪は声をかける。
「六道の様子はどうだった?」
「まだちょっと顔色が悪いみたい……でも、昨日よりは元気になったよ。お粥も食べられるって」
「そうか……早く、良くなったらいいな」
「……うん」
シロはコクリと頷いた。だが、シロの表情は沈んだままだ。おそらく、六道が自分で言うほど、回復しているようには見えなかったのだろう。




