第23話 譲れないもの③
その瞬間、シロの顔から一切の表情が抜け落ちた。
いつも喜怒哀楽がはっきりしていて、感情豊かな彼女が見せた、深雪の知らない初めての表情だった。
深雪はそれを見て確信する。シロは六道の体調のことを以前から知っていたのだろう。思えば、シロは時おり、妙に不安そうな面を覗かせることがあった。それに、シロは勘が異常に鋭い。さすがの六道も、シロには隠し通すことができなかったのだ。
「六道……‼」
シロは六道の部屋へと駆け込んでいく。その去り際、シロの目元に涙が浮かんでいるのが見えた。深雪はそれに気づいたが、声をかけることができず、力なくシロの後姿を見送るしかなかった。
六道が吐血したのは、《タナトス》を使ったからであり、その原因を作ったのは深雪なのだ。間接的に深雪が六道を吐血させたと言えなくもない。そう考えると、シロに何と言っていいのか分からなかった。
深雪の中に、大きな虚無感が生まれ、広がっていった。自分のやったことが六道の人生を一変させ、ひいてはシロをも苦しめている。あの時は――二十年前は、確かに正しいことをしていると思っていた筈なのに。僅か小一時間の出来事で、全てが狂ってしまった。
シロは知っているのだろうか。深雪が六道の半身を奪ったことを。いや、六道がそれを明かしているとは思わない。もし知っていたなら、シロはあれほど深雪と親しくしたりはしないだろう。
シロがもし真実を知ったなら。深雪のことを憎むだろうか。六道の仇だと、軽蔑し、糾弾するだろうか。深雪には、それは何よりも恐ろしい事であるように思えた。
ぼんやりとシロが向かった所長室を見つめていると、唐突に軽快な機械音が流れ、ウサギのキャラクターを模した立体映像が浮かび上がる。
「……お話は終わった?」
「マリア……」
「分かっていると思うけど、所長の体調の事は他言無用だからね」
マリアの声はこれ以上になく攻撃的で、彼女の本気が窺い知れた。もし周囲にばらしたら、ただではおかないと言いたいのだろう。けれど深雪は、尋ねずにはいられなかった。
「あの吐血の量、尋常じゃなかった。それに六道の背中、がりがりで骨が浮き出てて……ひょっとして、六道はもう長くないんじゃ……?」
しかし、マリアはそれを強引に遮った。
「それ以上言ったら、許さないよ」
「マリア……!」
「深雪っちは心配しなくてもいいし、そもそも知ったところで何もできる事なんて無いでしょ。責任を感じるなら、せめて肉体労働で挽回してよね。神狼と一緒に闇サイトのアドレス主を確認していくの。……分かった?」
マリアは氷のような声音で一気にそう捲し立てた。それが却って、深雪の推測が正しいのだと、証明してしまっていた。マリアらしくない失態だが、彼女にもそれを取り繕おうだけの余裕はないのだろう。それほど、六道の容態は深刻なのだ。
(六道の余命はあまり残されていない……だったら、この事務所は一体、どうなるんだ? この《監獄都市》は……!?)
深雪が何を考え、どう感じたとしても、六道がこの《監獄都市》の中で一定の役割を果たしているのは確かだ。その《中立地帯の死神》が、いなくなるかもしれない。それが現実となった時、この《監獄都市》はどうなってしまうのだろう。
マリアに尋ねようとした深雪はしかし、すぐに言葉を呑み込んだ。それを口にしてしまったら、マリアは本当に激怒してしまうだろう。
おまけに彼女は気づいている。全てが深雪が招いた事態であることを。現にマリアの言葉の端々から、深雪に対する怒りが噴出しているのを感じる。
「……。……ああ。分かってるよ」
深雪はただ、悄然とそう答え、マリアの指示に従うしかないのだった。
マリアの挙げた闇サイトには、毎日、数百件の書き込みがあり、多い時には数千件にも上ることがある。どうやらユーザーには闇サイトの匿名性が魅力らしく、特に《天国系薬物》が流行し始めてからは、その数は増えるばかりだ。
それぞれの掲示板に張り付き、一日に夥しいコメントを投稿する者も中にはいるが、利用者そのものが爆発的に増えている。目的は、薬物の売買だ。最初はそういう趣旨でなかった掲示板でさえ、最近では当たり前のように薬物の隠語が飛び交っている。
中には勿論、一人のユーザーが複数のアドレスを使用している場合もあるし、掲示板そのものが毎日、新しいものが立てられ、その数を劇的に増やしている。
その中から最も使用頻度の高いアドレスを特定し、そこから更に使用端末や端末の持ち主を特定していく。そして、疑わしい者を絞り込んでいくのだ。いくら電脳空間上の作業とはいえ、全てを一週間で終わらせることができたのは、マリアのアニムス、《ドッペルゲンガー》があってこそだ。
深雪と神狼は、そうやってマリアが疑わしいと絞り込んだ者に、片端から接触し、情報を収集していた。もっとも、何の当てもなく、闇雲に聞き回っているわけではない。そんな事をしていたら、いくら何でも人では足りないし、時間も足らないからだ。
神狼によると、マリアの制作した名簿の中に、情報屋をやっているゴーストが含まれていたらしい。《Ciel》は今や、《監獄都市》全体に広まりつつある。情報屋がその売買に手を出していたとしても何ら不思議ではない。
情報屋なら、商売柄、何らかの情報を握っているだろう。神狼はまずそのゴーストから情報を得ようと深雪に言った。そして、その情報屋を起点として、その他のゴースト達を探っていく。まさに、太い幹から細い枝葉へと延びるように。
日は既に傾きかけ、街中はネオンが瞬き始めている。だが、ゴースト=ギャングに聞き込みを行う場合は、その方が都合がいい。こちらも闇に紛れることができるし、何よりゴースト=ギャングたちが最も活発的に活動する時間帯でもある。
今、神狼と深雪が捕まえている男は、最初の情報屋から数えて十四番目のゴーストだった。特定のチームには属さず、闇サイトを使って《Ciel》を転売し、日銭を稼いでいた男だ。
いわゆる転売屋だが、ここのところ《Ciel》の価格は急騰し続けている事もあり、羽振りはかなり良さそうだった。
深雪は神狼と共に件の男の後をつけ、一人になるのを見計らい、人けの無い路地裏で取り囲む。だが、深雪と神狼がどう見ても未成年で、しかも二人のみという事もあり、男は《死刑執行人》という言葉を耳にしても全く怯んだ様子が無かった。
「だ~か~ら~、俺は知りませんって!」
「知らない筈はナイ。お前が闇サイト・《クリフォトの手紙》で、《Ciel》の売買に手を染めていタのハ知ってるんだゾ!」
ふてぶてしい態度を続ける男に、神狼は業を煮やし、暗器を突きつけた。すると、男はようやく少しだけ大人しくなる。
「そ……そんなん、みんなやってんだろ! 俺だけじゃねえし! 俺はただ、転売で稼いでただけだ! 元売りなんて知ってりゃ、こっちからお近づきになりたいくれーだっつの!」
「……それガ本当かどうカ、これから確かめさせテもらウ!」
神狼は男に《ペルソナ》を使った。一瞬にして男の姿を模したが、暫くしてすぐ元の姿に戻った。その一瞬の間に、相手の記憶を読み取ったのだろう。そして、その曇った表情から察するに、収穫はあまり芳しくなかったようだ。
「……嘘ハ言っていナイようだナ。行っていいゾ」
「だから言っただろ! 何なんだよ、くそっ!」
男は小声だったが、しっかりとそう吐き捨て、舌打ちまでしてその場を去っていく。神狼と深雪は、苦々しい表情でそれを見送った。
情報の秘匿性を考え、可能性の高い者から順序だてて調べてはいるものの、そう簡単に情報は得られない。収穫が得られる時より空振りの方が、圧倒的に多いのが現実だ。こういう時、情報収集は、地道な作業の連続なのだと思い知らされる。
おまけに深雪は、神狼との聞き込みの間、ずっと身が入らず、視線もどこかぼんやりとしていた。決して、今やっている地道な作業に、うんざりしていたわけではない。ただ、六道のこと、シロのこと、火矛威のこと。いろんなことが脳裏に浮かび、どうすべきなのかと考えすぎて、集中できなくなっていたのだ。
神狼は深雪の心が情報収集には無いと、とうに見抜いていたのだろう。尋問していた男が去ったのを見届け、深雪に声をかけてきた。
「……帯刀火矛威とハ、どういウ関係なんダ?」
深雪は少し驚いた。神狼が火矛威のことを聞いて来るとは思わなかったからだ。
「友達……だったんだ。親友、だった」
すると、神狼は怪訝な表情をする。
「親友……? 三十七歳の元・《アラハバキ》構成員ト、カ?」
「いろいろあって……でも、本当のことなんだ」
「ふうン……?」
神狼が、その話に違和感を抱かなったはずがない。《監獄都市》にやって来てまだ間もない深雪が、どうやって《アラハバキ》の構成員と知り合ったのか。そもそも現在、深雪と火矛威の年齢には二十もの差がある。そんな年齢差で、本当に『親友』になれるのか。
突っ込みどころはいくらでもあるだろう。だが、神狼はそういった違和感には目を瞑ってくれた。そして、ずばりと単刀直入に本題に入った。
「大切なのカ、そいつノことガ」
「神狼……?」
深雪は神狼の顔を見たが、すぐに罪悪感が湧き上がって来て、顔を俯けた。「大切だ! 世界で一番目か二番目くらいに、大事な奴なんだ‼」――本当は、はっきりとそう伝えたかった。だが、深雪には自分にそれを伝える資格が無いような気がしたのだ。
血を吐いた六道の姿が、瞼の裏から離れない。彼をあのような目に遭わせてしまっておいて、火矛威が大事などと、どうして臆面もなく言えるだろうか。
すると神狼は、呆れと苛立ちを足して、半分にしたような感情を浮かべて言った。
「お前ハ、いつもそうだナ。妙なところデ根性があルくせニ、肝心ナところでハすぐに諦めル。だが……そいつの事ガ本当に大切なラ、手ヲ放すべきじゃナイ」
「でも……私情を優先させたら、みんなに迷惑がかかるし……」
現に六道の所長室に乗り込み、吐血させてしまった。深雪が過去を言い出せないが為に、事務所の皆に迷惑もかけている。それを考えると、これ以上、勝手な真似をするわけにはいかない。
だが神狼は何を思ったか、ふと自らのことを話し始めた。
「俺ハ、自分で選んデ《導師》と袂ヲ分かっタ。でももシ、《導師》が《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》だったラ、真逆の選択ヲしたかもしれナイ。《導師》ノ事を嫌いなわけでもないシ、憎んでいルわけでもナイ……俺にとっテ、とても大切ナ存在だかラ」
神狼は、深雪をまっすぐに見つめる。中性的な吊り目はとても真剣で、且つ、真摯だった。あまりにも、ひたむきなので、深雪もその目から視線を話すことができない。見つめ合ったまま、神狼は口を開いた。
「決別ヲ選んだのハ、その方ガ自分と《導師》ノ為になると思っタからダ。だから……お前モ、帯刀火矛威の為になるト思う選択をシロ。そいつガ本当ニ《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》なら……このままじゃ絶対ニ後悔することニなるゾ」
「神狼……」
帯刀火矛威の捜索を諦めるな。神狼が言いたいのはとどのつまり、そういう事だろう。深雪にとって、後悔の無い選択をしろと言ってくれているのだ。
その事に気づき、深雪は両目を見開いた。まさか、あれほど仲の悪かった神狼が、自分の肩を持ってくれるとは夢にも思わなかったからだ。
すると神狼は、はっとして俄かに顔を赤くし、乱暴な口調で締めくくった。
「べ……別ニ、お前がどうなろうト知ったことじゃないガ、このまま上の空で仕事をされてモ迷惑だからナ! ただ、それだけダ!」
深雪は、その神狼の慌てぶりがおかしくて、つい笑いだしてしまった。
「すっげえツンデレ……!」
「う、うるサイ!」
「でも……ありがとう。その気持ちだけでも嬉しいよ」
神狼は深雪の話を自分のこととして置き換えて考え、その上でアドバイスをくれたのだ。無責任な煽りとは違う、ちゃんとした助言だ。
そして神狼なりに熟考した上で、深雪のためを思い、背中を押そうとしてくれている。深雪はその気持ちだけで、十分嬉しかった。
(でも……みんな、それぞれ背負って戦っている。神狼も、六道も……そして多分、流星や奈落やオリヴィエ、シロにも、みんな譲れない大事なものがあるんだ。それを踏みにじってまで我を通す資格が、俺にあるのか……?)
深雪は分からなくなっていた。かつての親友を助けに行くべきか、それとも事務所の皆が解決してくれることを信じ、関わらずにいるべきか。或いは、六道の命令に諾諾と従い、自らの判断で行動を起こすことを放棄するか。
どれもが正しいように見え、その実、そのどれもが間違っているようにも思える。何より、どれを選択しても、悪い未来が待ち受けていそうな気がして恐ろしかった。二十年前の、あの忌まわしき夜のように。
それを考えると、いくら神狼が善意で助言してくれたとはいえ、火矛威を探しに行くわけにはいかないような気がしたのだった。
結局、深雪はその日、神狼と最後まで行動を共にした。深夜になり、繁華街の喧騒もさすがに落ち着いてくる。けれど、その頃になっても、有力な情報は何一つ得られずじまいだった。
明け方になって、事務所にある自室へと戻った時には、すっかりへとへとになっていた。靴も脱がずにベッドに俯せに倒れ込むと、もうそれ以上、指一本たりとも動かすことが出来なかった。
ひどく疲れ果てていて、足の裏に鈍い痛みが巣食っているし、締め付けられるような激しい頭痛もする。おまけに身体的な疲労以上に神経が摩耗していて、思考が錯乱し、何もすることができなかった。
深雪はそのまま引き摺り込まれる様に眠りに落ちた。
暗闇の中を、ただ、あてどもなく歩いていた。進んでいるのか、後退しているのか。自分がどこへ向かっているのか、全く分からない。
――俺は今まで、どこで何をしていたんだっけ。何かしなくてはならなかった筈だが、それは一体、何だったのだろう。
様々な疑問が、ポコン、ポコンと、水泡のように浮かび上がっては消えていく。
ふと、どこかで名前を呼ばれたような気がして、深雪は目を開いた。
そこに広がっていたのは、嘗ての首都の姿だった。二十年前の、深雪の良く知る東京の街並みだ。大勢の行き交う人々、激しく行き交う車の数々。そこら中に情報が溢れ、古いものと最先端のものがごった煮のように一緒くたになって同居している。
道路の両側には、林立するビル群が聳え立っているのも見えた。建物はみなきれいで整然としており、そこには破壊の痕跡どころか、ひび一つすら見当たらない。
自分が先ほどまで立っていた、救いようのない廃墟はどこへ行ってしまったのか。深雪は呆気に取られて眼前の光景を見つめた。深雪にとっては、こちらが見慣れた東京の姿である筈だ。それなのに、廃墟を長く目にしていたせいか、まるで全く違う街に放り込まれたような、奇妙な感覚になってくる。
すると、茫然として佇む深雪に、話しかける声があった。
「深雪ってば! ねえ、大丈夫?」
聞き覚えのある、少女の声。はっとして声のした方を向くと、式部真澄が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「真澄……」
深雪は、咄嗟に言葉を失った。あれほど会いたいと願った友人。それが今、目の前にいる。すると、更に背後で別の声がした。今度は、底抜けに明るい少年の声だ。
「どうしたんだよ、ぼうっとして。らしくねーぞ」
「火矛威………」
振り返ると、そこに帯刀火矛威もいた。明るく染めた髪に、ピアス。いつもの火矛威だ。おかしそうに笑いながら、こちらを見ている。
深雪は何度も目を瞬いた。間違いない。真澄と火矛威だ。記憶の中の姿と何一つ変わっていない。深雪が一番大事な存在だと信じ、どんなことがあっても守り通すと誓った、親友の二人。
火矛威も真澄も、何事も無かったかのように笑っている。そんな二人を見ていると、《関東大外殻》のことも、《死刑執行人》のことも、東雲探偵事務所のことも――全てが夢だったのではないかと思えてくる。
(いや……そうだ。今までのが夢だったんだ。気が付いたら二十年経ってたとか、東京が《監獄都市》とか……考えたら出鱈目だもんな)
そう考えると、無性におかしくなって深雪は思わず笑い出してしまった。そう、自分は何も失ってなんかいない。誰も傷つけていないし、奪ってもいない。
(そうだ。あんなの、夢に決まってる)
一度湧き上がってきた笑いは、なかなか止めることができなかった。自分の幸せを噛み締めるかの如く、深雪は笑い続ける。真澄と火矛威は、そんな深雪を不思議そうに見つめていた。
「ちょっと……何?」
「おいおい、大丈夫か!?」
深雪は、笑い過ぎて目元に浮かんだ涙を拭いつつ、それに答える。
「いや……ゴメン。おかしな夢を見てたんだ」
「夢?」
「どんな夢だよ」
説明を促され、深雪は僅かに逡巡する。深雪にとっては、言葉にするのも辛く苦しい内容だ。けれど、すぐに思い直した。どうせ夢の話だし、話したって減るものじゃない。いや、むしろ言葉にした方がきっと、気が楽になる。
そう、あくまであれは夢物語に過ぎないんだ。




