第20話 アヴァロン③
「無駄でしょう。確かに《アニムス抑制剤》を投与し、暴走が収まるケースもあります。しかし症状が長引くと、それすらも効果が無くなってしまう。不純物が多く、質の悪い《アニムス抑制剤》を使い続けているとそうなりやすいという噂もあります」
それでは、打つ手は何一つないというのか。深雪はたまらず叫んだ。
「そんな……じゃあ、どうしたらいいんだ‼」
「どうしようもありません。帯刀火矛威が《アラハバキ》を除名処分になったのは、おそらく彼が《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》となったことで、組織にとって厄介な存在になってしまったからでしょう。それはつまり、《アラハバキ》でさえ、彼を見限ったということです」
エニグマの返答は、あくまで情け容赦の無いものだった。深雪は顔から音を立てて血の気が引いていくのを感じずにはいられなかった。
「火矛威は……死ぬのか……?」
(弱って苦しんで……それとは逆に、アニムスはどんどん大きくなって暴走して……最後は自分の力に殺されるのか……!?)
今までにアニムスの暴走を引き起こしたゴーストは、何人か見たことがある。みな自分の力に呑まれ、正気を保つのも難しい状態だった。アニムスの保有者はもちろん、周囲の者もその暴走を止められない。火矛威もそんな状態になってしまうのだろうか。
「彼が《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》の要注意観察対象に認定されたのが二年前……あまり時間が残されていないのは確かでしょうねぇ」
エニグマはいかにも他人事と言わんばかりに、のんびりとそう付け加える。《監獄都市》で生きる者にとって、《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》の存在はそれほど珍しくないのだろう。
けれど、深雪にとっては違う。まだ、ちゃんと火矛威と再会し、話す事すらしていないのに。深雪は思わず立ち上がり、机を両手でバンと叩いた。
「火矛威は……火矛威はどこにいるんだ‼」
「彼が《アラハバキ》を抜けたばかりの頃、《中立地帯》で居を構えたことがあるようですね。これがその時の住所です」
エニグマはそう言うと、メモ書きを机の上に置いて手を乗せたままこちらに滑らせてくる。
「ただ、最近はあまり戻っていないようですが」
「……行ってみる!」
ところが、飛び出そうとした深雪を、エニグマは呼び止める。
「まあ、落ち着いてください。実は奇妙な噂を耳に挟みましてね。《東京中華街》と《中立地帯》の境界付近で《イフリート》が複数回、目撃されているのです。目撃者はいずれも男が《中華街》の方に向かって行ったようだと証言していました」
「《東京中華街》……?」
(そういえば、俺が最初に《イフリート》を見たのも、《東京中華街》の近くだった)
あの時は《イフリート》が火矛威だと知らなかったし、火矛威と《アラハバキ》の関係も知らなかった。だから特に疑問も抱かなかったが、改めて考えると、それは不自然だ。
「《中華街》の主――《レッド=ドラゴン》は《アラハバキ》と敵対しているって聞いたけど。火矛威は《アラハバキ》の人間だったんだろ。何で敵対勢力の支配地域に……?」
だが、エニグマは肩を竦める。「さあ……そこまでの事情は私にもちょっと」
そう考えると、火矛威にはまだ深雪の知らない事情がありそうだ。勢い任せに飛び出しても、いい事は何もない。深雪は再びソファに腰掛け、エニグマへと質問を向けることにした。
「火矛威は……《Ciel》の元売りの一味なのか?」
「仲間かどうかは断定できませんが……関係があるのは事実でしょう。《アラハバキ》から除名処分を受けたとしても、そこでの人間関係がきれいさっぱり無くなってしまうわけではないでしょうしね。もしかすると、その辺の事情が絡んでいるのかもしれません」
「《サイトウ》や《カオナシ》を殺したのは? 仲間割れか? ……っていうか、あんたは《Ciel》の元売りが誰なのか知ってるんじゃないか?」
「残念ですが、そこから先はお教えできません。……まあ心配しなくとも、あなたの事務所の情報屋、乙葉マリアなら、いずれ近いうちに辿り着くのではないかと思いますがね」
「……。何故、隠すんだ? 波多洋一郎の居場所は教えてくれたのに」
且つて、有名な殺人鬼の住処を教えてくれたのに、何故、《Ciel》の元売りの事は隠すのか。すると、エニグマは、ニヤリとしたたかな笑みを浮かべる。
「あの件は特別ですよ。あの時点で、波多洋一郎の居所が世間に露呈するのは時間の問題だった。だから私の実力を知って戴くために、敢えてお教えしたのです。ただ……実は相当の危険を冒していたのですよ。おかげで不動王奈落あたりには、かなり睨まれましてね。暫くはあなたの事務所に近づくこともできませんでしたよ」
「確かに……あの時は俺も、奈落にぶっ殺されるかと思った」
奈落は、深雪がエニグマから情報を買ったことを、ひどく怒っていた。おそらく、深雪を介して事務所の情報が漏洩することを嫌ったのだろう。
今はあの頃より、幾分か話し易くなったとは言え、エニグマと取引したことが知れたら、やはりいい顔はしないだろう。
(でも、この手のことで一番怖いのは、マリアだな……多分。情報屋としてのプライド、めっちゃ持ってそうだし)
エニグマも、いかにも切実な問題なのだと身振りで訴えながら、後を続ける。
「私は、あなたと商売をしたいと考えていますが、あなたの事務所は敵に回したくない。何せ、東雲探偵事務所は大変おっかないですからねえ。
……あなたの事務所は現在、《Ciel》の元売りを追っている。私がそれを先回りして調べ、どこかの陣営にその情報を流そうとしているなどと『誤解』されれば、あなたの事務所から確実に敵認定を受けるでしょう。我々にとって、それ以上に恐ろしいことなど、この世にはありません。ですから、基本的には必要以上に踏み込みませんし、知っていたとしてもお教えできない……と、そういうことです。どうか、ご理解を」
「……あんたが情報を秘匿することで、《監獄都市》が混乱に陥ってもか?」
深雪は射るような視線をエニグマに向けるが、エニグマは何食わぬ顔だった。
「そうなればそうなったで、それに対応した商売をするだけです。私は《死刑執行人》ではありませんのでね。治安だとか秩序だとか、人の命の重要性だとか、そういったものを喧々諤々とするつもりは毛頭ありませんよ。自分一人が生きていければ、それで十分なのです」
分かったような、分からないような、微妙な答えだ。上手くはぐらかされただけのような気もする。情報屋には情報屋のルールがあるということだろうか。
いずれにせよ、これ以上問い詰めても、エニグマは決して答えないだろう。深雪にとっても、最も重要なのは《Ciel》の元売りの素性ではない。欲しいのは火矛威に関する情報だ。
「分かった。要は、そっちにはそっちの都合があるってことだろ。……これ以上は聞かないよ」
「雨宮さんは話が早くて、大変助かる。……代わりと言ってはなんですが、もう一つお教えしましょう」
エニグマはにっと笑うと、いかにも特別な情報なのだと言わんばかりに、深雪に向かって身を乗り出し、囁いた。
「……帯刀火矛威には娘がいます」
「―――――………」
すぐにはその言葉の意味を理解できず、深雪は硬直する。ようやくリアクションを返せたのは、たっぷり五秒ほど経った後だった。
「……娘!? 火矛威に!?」
そうオウム返しに叫んでも尚、深雪はポカンとしていた。それほどその情報は、深雪にとって思いも寄らぬものだった。
何せ、深雪の中では、火矛威と分かれたのは僅か一年ほど前の出来事なのだ。その同い年の親友に、今や娘がいると知らされても、すぐに実感をもって受け入れるのは難しい。
だが、対するエニグマは、しごく涼しげな表情だった。
「帯刀火矛威は現在、三十七歳です。それを考えると、別に不思議な事じゃないでしょう。名前は帯刀カスミ。彼女は今年で十四歳になるそうですよ。……どうします? 気になるのであれば、こちらも調べておきますが」
「……えらく気前がいいんだな?」
疑わしげな視線を向けると、エニグマは大袈裟な仕草でわざとらしく嘆いた。
「おや、心外ですね。私はいつだってサービス精神が人一倍旺盛なつもりなんですがねえ」
しかし、サングラスの下の口元は、すぐに引き締まる。
「……実を言うと、帯刀火矛威の現在の居場所に関して、どうもはっきりした情報が入って来なくてね。大変弱っているのですよ。ここは《監獄都市》……閉鎖された街であるのに、こんなにも情報が少ないのは珍しい事です。娘の方も行方が分からないのですが……もしかしたらそちらの線を探る方が、手っ取り早いのではないかと思いましてね」
「……分かった。火矛威の事も……もし何か分かったら、教えてくれ」
「ええ。新しい情報が入り次第、ご連絡差し上げますよ。……ところで料金の方ですが」
そこで深雪は、ふと気づいた。エニグマは情報屋なのだから、料金がかかるのは当然だ。だが、こういった場合、普通は取引を始める前に金を支払うのが普通ではなかろうか。先に情報をばらしてしまったら、客に支払いを踏み倒され、逃げられる恐れもある。
(それとも……一応、俺のことを信用しているのか)
或いは、信用を得ようとしているかのどちらかだ。そう考えると、あまり冷遇するのも悪いような気がしてくる。もっとも、それがエニグマの狙いなのかもしれないが。
「どれくらいなんだ?」
「帯刀火矛威の調査料が七万、娘の調査料が三万、締めて十万といったところでどうでしょう?」
深雪は仰天する。「ち……ちょっと高くないか!?」
「これでも、かなりお安くしているんですよ。ゴーストには住民票や戸籍がない。探し出すのは相当、手間がかかるのです。ただ、どちらの案件もまだ調査中ですので、お支払いは全て調査が終了した時点で結構です」
深雪には斑鳩科学研究センターから、《冷凍睡眠》の実験に協力した報酬という名目で、一千万が支払われている。だが、この《監獄都市》の中には銀行窓口がない。それでも今の時代、電子マネーに変換して引き出すことはできるかもしれないが、どうにも億劫で手を付ける気にならなかった。まだ、心のどこかで、二十年も眠っていたのだという事を、受け止めきれていないからかもしれない。
深雪の今の生活費は、東雲探偵事務所の仕事で得た報酬の中から捻出しているが、今はあくまで仮契約という形なので、正直この出費はかなり厳しいものだった。
(でも、今更いいですなんて言えないよな……。何とかなる……か……?)
当面、ぎりぎりの節約生活を続ければ、どうにか支払える。事務所に住み込みなので、家賃を払わずに済んでいるのが、かなり助かっている。それでも、小さなため息が出るのは、止められなかった。
「……分かった。それでいいよ」
「それでは、取引成立ということで結構ですね? 何か新しい情報が出て来次第、こちらからまたご連絡差し上げます」
これで、今現在、報告できる情報は全てなのだろう。エニグマは立ち上がって、扉のところまで移動する。そこで深雪も、ソファを立ち上がる。
すると、水槽を眺めていたシロがそれに気づき、近寄って来た。
「もう、終わったの?」
「ああ。とりあえず、ここを出よう」
深雪とシロは、エニグマが開いた扉を大人しく潜った。すると、扉の傍で丸まって眠っていた黒い子猫がそれに気づき、すぐに身を起こす。そして、「にゃあお」と一声鳴くと、軽快に歩き出す。どうやら来た時と同じく、後について来いと言っているようだ。
「……ご利用ありがとうございました。今後ともどうぞ御贔屓に、お願いしますよ」
エニグマはいつもの胡散臭い笑みを口元に浮かべ、最後まで扉の傍で、深雪たちを見送っていた。
関わりを持たないに越したことはないのかもしれない。だが、エニグマのもたらす情報は、深雪にはなくてはならないものだった。
(まだ、信用できる奴なのかどうかは分からないけど)
情報屋と取引はするなという奈落の忠告と、胡散臭さの塊のようなエニグマ。どちらを信じるかなど、言わずもがなだ。深雪にとって、エニグマはあくまで且つてのネットと同様の存在だった。信頼と警戒をうまく使い分けて接するツールなのだ。
(取り敢えず、今は事務所に戻らないと)
深雪とシロは、前を歩く子猫の後を追いかけて歩いた。子猫が向かったのは、深雪たちが下りてきたのと逆の線路側だ。やはり荒れ果てた高架橋上のレールの傍を歩いていくと、いくらも経たぬうちに橋げたが途中で途切れ、地面に向かって傾いている場所がある。
その橋げたの脇には、比較的新しい鉄製のはしごが設置してあり、地面から一メートルほどの高さで途切れていた。どうやら、帰りはこれを降りろという事らしい。
「にゃあん」
エニグマの黒猫は、一声鳴くと元来た線路を戻って行った。それを見送り、深雪とシロは順に梯子を下りていった。
地面に足がつくと、やはり少し安心感がある。高架橋が頑丈なのは分かっていたが、あまりにも寂れていたので、どうしても不安感を掻き立てられずにはいられなかったのだ。
おまけに防音壁に視界が遮られているので、余計にだ。
小さく息を吐き出していると、続いて梯子を降りてきたシロが、深雪に尋ねる。
「お友達がどこにいるか、分かったの?」
「ああ。以前、この場所に住んでいたらしい。さっそく、今から向かおう!」
深雪は、エニグマから手渡された紙片に目を通しながらそう言った。こうなったら、一刻も早く火矛威に直接会って真相を確かめたい。
ところがその時、腕輪型の端末に着信が入った。ディスプレイを立ち上げ確認すると、通信は東雲探偵事務所のマリアからだった。
(くそ……こんな時に!)
一瞬、その通信を無視して火矛威を探しに行きたい衝動に駆られるが、どうにかそれは堪えた。事務所の皆は、深雪を信じて一日待ってくれたのだ。自分の感情を優先し、それを裏切るわけにはいかない。それくらいは深雪にも分かる。
仕方なく腕輪型通信機器の受信をオンにすると、ウサギのマスコットが勢いよく飛び出した。
「は~い、深雪っち。タイムアップよ~ん!」
「マリア……!」
「これからミーティングだからね~。ガチで洗いざらい吐いてもらうから、ヨロ!」
マリアは一方的にそう言い残すと、深雪の言葉も待たず、すぐに姿を消してしまった。どうやら、深雪の反論は一切受け付けないつもりらしい。苛立つ深雪を、シロは心配そうに見つめる。
「ユキ……」
ここで腹を立てていても仕方ない。深雪は深い溜息をつく。
「……いったん事務所に戻ろう」
本当は、火矛威が住んでいたというこの紙切れに書かれた住所に、今すぐにでも向かいたかった。火矛威の話を聞きたい。火矛威に会いたい。真澄はどうなったのか――生きているのか、それとも死んでしまったのか、それを確かめたい。
けれど、願望のままに行動するわけにはいかなかった。深雪はもう、一人ではない。仮とはいえ、東雲探偵事務所に所属しているのだ。だから、自分勝手な行動を取るわけにはいかないのだ。
逸る気持ちをどうにか押し殺しつつ、深雪はシロと共に事務所へと戻ることにしたのだった。
事務所に戻り、二階のミーティングルームへ行くと、会議室には深雪とシロ以外の全員がすでに揃っていた。扉を開くと、全員の目が深雪に集中する。みな、深雪が到着するのを、首を長くして待っていたのだろう。
真っ先に口を開いたのは、指揮官である流星だった。
「……来たか、深雪。《イフリート》について話す気にはなってくれたか?」
「そ……それは……!」
深雪は言葉を発しかけ、しかし何も言えずに俯いた。顔が青ざめ、喉が震え、それが瞬く間に全身へと伝わって、身体が小刻みに震え始める。
――言わなければ。そう思えば思うほど、胸が苦しくなり、深雪は思わずぎゅっと目を瞑った。それを目にしたオリヴィエが心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「深雪……? 顔色が悪いですよ、大丈夫ですか?」
「お、俺は……俺は……‼」
言い出したくても言えない。脳裏に甦るのは、あの十二月の夜のことだ。
深雪を取り囲み、仲間だとは思えないほど冷徹で凶暴な瞳を浮かべた《ウロボロス》のメンバーたち。爆発による炎の海に呑まれた彼らの姿。音、匂い、肌を焼くような炎の熱さ。全てを昨日のことのように思い出すことができる。
それだけで心臓の鼓動が速くなり、体が竦むのだった。話そうとしても、体が全力でそれを拒絶している。
(駄目だ……どうしても話せない。《ウロボロス》のことを考えると、何も言えなくなってしまう……‼)
深雪のその有様を見て、他のメンバーが何を思ったかは分からない。だが、少なくともマリアは、冷ややかな声で吐き捨てた。
「……ま、こうなるだろうとは思ってたけどね~。深雪っちには最初から特に何も期待してないしぃ。でも、こっちも時間が惜しいから、勝手に調べさせてもらったわ。《イフリート》が現れた時、深雪っちは『カムイ』って呼んだそうね?」
「……」




