第18話 アヴァロン①
深雪も、自分のキャラらしからぬ行動だったという自覚はある。でも、とにかく火矛威の気持ちを繋ぎとめるのに必死だった。
正直なところ、自分らしさとか、そういう事に拘っている余裕は全くなかったのだ。
もし深雪が何もせず、火矛威が立ち去るままにしていたら、きっとその瞬間に全てが終わっていただろう。今までのような気を許し合える関係は崩壊し、ぎくしゃくとした気まずい雰囲気になって、せっかく築いてきた信頼関係も大きく損なわれたに違いない。
火矛威との間に繋がった糸は、京極の悪意に満ちた言葉で、限りなく細く頼りなくなってしまい、深雪はそれを手繰り寄せるので精一杯だった。だから、形振り構っている余裕などなかったのだ。
ただ、説得の甲斐あってか、火矛威の顔には、どうにかいつもの笑顔が戻ってきた。それでようやく深雪も安堵することができたのだった。
互いに臭い台詞を口にした反動か、暫く火矛威と一緒に笑っていたが、やがて火矛威はふっと、柔らかい表情になる。
「俺も……俺も深雪と同じだよ。真澄や深雪と出会えて、本当に良かったって思ってる。ゴーストになって、嫌なことも山ほどあったけど……それだけは俺の『宝物』だよ」
そういう風に言われたら、深雪の涙腺も崩壊しそうだった。実際、慌てて顔を背けなかったら、ボロボロ泣いていたかもしれない。
今までにも友達は沢山いた。でも、火矛威や真澄みたいに、心から信頼し合える友達はいなかった。しかも、その頃はそれが当たり前で、特に不便だったり、淋しい、空しいといった感情を抱くことも無かったのだ。
学校にも塾にも知り合いは溢れているし、そこで見つからなければSNS上で話の合う奴を探せばいい。それまでの深雪にとって、友達はコンビニで買えるスナック菓子みたいな存在だった。お手軽に見つけられ、ただ消費するだけの存在。
そして、それは何も深雪だけが特殊だったのではない。おそらく周囲の同級生もみな、同様に考えていただろう。友達が当たり前のように身の回りにいた頃は、それでも別に良かったのだ。
だが、ゴーストになってその状況は一変した。
ゴーストになり、深雪は全てを失った。家、学校、友達、将来の夢。数え上げれば、きりがない。だがその一方で、得るものもあった。世界の全てから拒絶され、忌み嫌われた代わりに、真澄や火矛威という何物にも代えがたい親友を得ることができたのだ。
失ったものは大きかったが、それで得たものも確かにあった。だからこそ、それを故意に傷つけ、奪おうとした京極に対し、膨れ上がるような憤りを感じるのだった。
(京極には注意を払っておいた方がいいかもな……でも何があっても、火矛威と真澄には絶対に手出しをさせない……‼)
その時、深雪は京極に対し、確かに強い疑心と警戒感を抱いた。だが、それから京極が即、何かを行動に移すようなことはなく、ただ日々は過ぎ去っていった。
深雪が、その時の予感が正しかったのだと思い知るのは、それから一年も後のことだ。
そしてその時には、全てが手遅れになっていた。
深雪はその日、朝から新宿の街を彷徨っていた。
一日前、深雪たちは《ニーズヘッグ》との共同作戦により《カオナシ》を捕らえることに成功した。ところが、東雲探偵事務所に輸送中、《イフリート》の襲撃を受けたのだ。辛うじて事務所のメンバーに負傷者は出なかったが、貴重な証言を得られる筈だった《カオナシ》は《イフリート》の発した炎によって焼殺されてしまった。
(あの時、俺は火矛威の名を呼んだ。そしたら、《イフリート》は確かに反応したんだ。そして、俺を見て言った。『深雪』って……!)
深雪は唇を噛みしめる。
(《イフリート》は火矛威なんだ。それは間違いない……‼)
そう断じる根拠は、いくつもある。
《イフリート》とは今まで三度ほど接触したが、いずれの時も深雪を意味ありげに見つめていた事。火矛威のアニムスも《イフリート》と同じで火を操る力だった事。そして、《サイトウ》や《カオナシ》は殺しても、決して深雪やその仲間には手を出さなかった事。
中でも、最も確信を抱いた根拠は、声だ。《イフリート》が深雪の名を呼んだ時の声が、火矛威のものに酷似していたのだ。
火矛威は生きていた。この《監獄都市》の中で。
そしておそらく、一連の《天国系薬物》を巡る事件と関わりがある。
そう思うと居ても立ってもいられなくて、深雪は朝から街をあてどなくうろうろと彷徨っていたのだった。
だが、《イフリート》の姿はおろか、《イフリート》の居所に繋がる手掛かりすら得られない。路地をうろついているゴーストギャングを、片端から捕まえて尋ねて回ってみたが、彼らも《イフリート》の存在は知っているものの、詳細は全く知らないようだった。
(考えてみれば、当然だよな……マリアや神狼でさえ、居所を掴めていないんだ。俺がちょっとやそっと聞き込みをしたくらいじゃ、分かるわけない)
しかし、とてもじっとはしていられない。気になることが、山ほどあるからだ。
火矛威は今までどうしていたのか。真澄はどこにいるのか。どうして、火矛威が《Ciel》の元売り組織の一味と関係があるのか。《サイトウ》と《カオナシ》を殺したのは何故なのか。
疑問だらけだ。
知りたい。一刻も早く火矛威と接触して、どういうことなのか確かめたい。
それに、他にも一つ、気になることもある。
(火矛威の《イグニス》は、確かに炎系のアニムスだった。でも、あんな風に、全身が炎に包まれるような激しい力じゃなかった……‼)
実際、火矛威はあまり喧嘩が得意ではなかった。喧嘩に適するほど、アニムスが強くなかったからだ。ましてやそれを使って誰かを殺すなんて、二十年前の火矛威には考えられなかったことだ。
それなのに、何故、今は全身を炎で包み、人を襲い殺しているのだろう。それを考えると、どうしようもなく嫌な予感がするのだった。
火矛威の身に、間違いなく何かが起こっている。二十年前には無かった、何かが。
しかし、どれだけ探し回っても、火矛威の行方は杳として知れなかった。
(火矛威……この街のどこかにいるのは間違いないのに、こんなにも会えないなんて……‼)
あまりの口惜しさと歯がゆさに、深雪は拳を握りしめ、それを振り上げた。けれど結局、それをどこにもぶつけることができずに、再び項垂れたのだった。
深雪は疲れ果て、失意と共に東雲探偵事務所に戻った。誰もいないのか、一階に人けは無く、ひっそりと静まり返っている。古い事務所の中は薄暗く、物音が良く響くし、人の気配が無いとまるでお化け屋敷みたいだ。
でも、今はその方が有難かった。
(これから事務所の皆に、火矛威のことをどうやって説明したらいいんだ……?)
これからやらなければならないことに思いを馳せると、余計に気が重くなってくる。自ずと脳裏に浮かぶのは、昨日の事務所のメンバーとのやり取りだ。
火矛威が《カオナシ》を殺し、深雪たちの前から去った後、深雪は奈落にしっかり胸倉を掴まれ、締め上げられた。
「……お前、《イフリート》が何者か知っているな?」
「そ、それは……」
奈落は久々に本気で怒っていた。激怒していたと言ってもいい。深雪が銃口の前に不用意に飛び出し、おまけに《イフリート》を逃がしてしまったのだ。その怒りも当然だが、《イフリート》が火矛威である以上、深雪もどうしても撃たせるわけにはいかなかった。
だがそれは、事務所のメンバーには理解不能の行為だったのだろう。いつもはある程度、深雪の立場を考慮してくれる流星も、疑心も露わに、質問を繰り出してくる。
「『カムイ』って誰だ、深雪? 《イフリート》もお前のことを知っているようだったな? 何でお前、《イフリート》と知り合いなんだ!?」
口を開こうとした深雪は、すぐにその口を噤んでしまった。
《イフリート》のことを――火矛威のことを事務所のメンバーに話してもいいのだろうか。《イフリート》は《カオナシ》や《サイトウ》を殺している。皆が火矛威の味方になってくれるとは限らない。
それに――
(駄目だ……火矛威のことを話そうと思ったら、《ウロボロス》のことも話さなきゃいけなくなる……‼)
火矛威のことを話そうと思ったら、深雪が二十年前の人間だというところから説明しなければならない。そうなってくると、《冷凍睡眠》のことや、自分が《ウロボロス》を壊滅させたこと、《ウロボロス》のみなをこの手で殺したことも、芋づる式に話さなくてはならなくなる。
(《ウロボロス》のことを、みんなに……いや、誰にも知られたくない……‼)
最近、事務所のメンバーとは、ようやく普通に会話が交わせるようになってきた。みな秘密が多く、分からないこともまだ多いが、それぞれ互いに信頼関係を築けるようにもなってきていると思う。
それなのに、自分の過去がばれてしまったら、その関係が崩れ、振出しに戻ってしまうのではないか。いや、完全に軽蔑され、二度と信用してもらえなくなるのではないか。
この事務所で得たものは、深雪がこの《監獄都市》で唯一、手にしたものなのに。自分の過去が、それを全て破壊し、押し流してしまうのではないか。
そう考えると、途轍もない恐怖を感じた。怖くて怖くて、仕方がない。そう――体が、ガタガタと震え始めるほどに。
心なしか、《ウロボロス》の刺青を剥ぎ取られた時にできた背中の傷も、痛み始めているようだ。そして、それは決して気のせいではなかった。
深雪の顔色は真っ青になり、胃の辺りの異物感によって吐き気を催し、激しく肩で息をしていた。
「い……今は、まだ……話せない……」
「何だと?」
奈落はあくまで容赦がない。ぎりぎりと、締め付ける腕に力を籠める。息ができず、深雪が魚のように口をパクパクさせていると、今度は流星が深雪を問い詰めた。
「深雪、今は時間が無いんだ。《カオナシ》を殺されてしまった以上、《イフリート》の情報は残された唯一の手掛かりと言っていい。何でもいい、知ってることがあるなら話してくれ!」
「そ……それは、分かってる! でも、俺も何が何だか、混乱していて……時間を……少しでいいから、時間が欲しい。ちゃんと……説明するから……‼」
すると、見かねたオリヴィエが深雪と奈落の間に割って入ってくれた。そして、腕の力を緩める気配の一切無い奈落から、力尽くで深雪を解放してくれた。
「二人とも、少し待ちましょう! 深雪は理由も無いのに、重要な情報を隠したりするような性格ではありません。何より、《ニーズヘッグ》と共に《カオナシ》を追い詰めたのは、他ならぬ彼自身なのですよ。《Ciel》の蔓延を食い止めたいのは深雪も同じはず……ここは何か事情があると考えるべきです!」
「オ……オリヴィエ……」
「……分かった。確かにオリヴィエの言うことも一理ある。ただし、長くは待てないぞ。一日だけ待つ。その間に、腹を決めてくれ」
流星はどこか感情を押し殺したような声音で、深雪にそう告げた。流星が奈落と同じく、深雪の取った行動に納得していないのは明らかだった。
それでも時間をくれたのは、オリヴィエに諭されたからであるのと、深雪を信じようとしてくれたからだろう。
だが、そうであるなら尚のこと、深雪は全て包み隠さず打ち明けるべきだった。
(俺は、本当はあの時、ちゃんとみんなに説明するべきだった。でも、《ウロボロス》のことを考えたら、体が竦んで、どうしようもなく震え始めて……何も言えなかった……!)
深雪は久々の激しい自己嫌悪に陥っていた。自分が《監獄都市》に入れられたばかりの頃と、何も変わっていないとは思いたくない。でも、己の弱い部分をまだ直視できていないのも事実だった。
逃げたくない。卑怯者になりたくない。でも、対峙するのはまだこれほどまでに怖い。
(俺は最低だ……卑怯で弱くて、自分の罪と向き合うこともできない大量殺戮者 。それが俺なんだ……‼)
だから、せめて自分の手で火矛威を見つけ出したいと思った。会って話して、どういうことか確かめよう、と。だが、それも思うようにはいかない。
(いや、火矛威の事は言い訳だ。俺が自分自身の過去と向き合わなければ……そして己の罪を償う術を見つけ出さなければ、根本的な解決にはならないんだ)
深雪は身体的にも精神的にも、ずっしりと重い疲労感を覚えていた。これは、是が非でも対峙しなければならない問題なのだ。深雪が過去から目を背ければ背けるほど、事務所の皆の信頼を失い、火矛威を見つけることもできなくなってしまう。
逃げることは絶対に赦されない。――そう、分かってはいるのに。
深雪は暫く事務所の廊下に立ち尽くしていた。だが、いつまでもこうしているわけにはいかないと、一歩を踏み出す。そしていつもの癖で、ふとパーカーのポケットに手を入れた。
すると、指先に紙切れが触れた。深雪は何げなくそれを取り出してみる。
「……! これ……」
それは、黒い名刺だった。エニグマから手渡された、黒地に赤い文字の入った名刺。角ばった斜体の英字で《アヴァロン》と書かれてある。同時に、エニグマの言葉がはっきりと蘇った。
『雨宮さん……あなた、誰かお探しの人物がいるんじゃありませんか?』
『いいえ、あなたは私の情報を必要とする筈です。これから先、必ず……ね。』
『もし、何か知りたいことがあったら、ここにおいでください。お待ちしておりますよ』
(もしかして、あの時の『お探しの人物』って……《カオナシ》じゃなくて火矛威のことだったのか!?)
慌てて名刺を裏返すと、小さな文字で住所が刻んであった。この住所を訪ねたら、エニグマに会えるということだろう。エニグマはこういう事態になることを予め想定していたのだ。
「紛らわしいんだよ、くそっ……‼」
だったら、もう少し分かりやすいヒントを残しておいてくれれば良かったのに。内心で毒づきながらも、事務所を飛び出そうとする。
すると、事務所の二階からシロが下りてきて、声をかけてきた。
「ユキ!」
「シロ……?」
「どこか行くの?」
「うん、まあ。ちょっと……ね」
適当に誤魔化し、その場を離れようとした深雪だったが、その意図を汲み取ったのだろうか。いつもの濃紺色のセーラー服に身を包んだシロは、悲しげを通り越して、どこか恨めしそうな表情を浮かべた。
「シロ、またお留守番……?」
「え? いやでも、どうしても行かなきゃいけないところがあって……!」
「ユキが《ニーズヘッグ》に行ってる間も、シロ、ずっとお留守番だったよ? ずっと、ずっと……ずーーーーっと」
「わ、分かったよ! 一緒に行こう!」
深雪はつい反射的にそう答えてしまった。確かにシロを一人にしてしまっている自覚はあったし、申し訳ない気持ちもあったからだ。
すると、それを聞いたシロは嬉しそうに小走りで駆け降りてくる。顔もニコニコしているが、何より獣耳が喜びを目一杯に表現していた。ぴょこぴょこと忙しなく跳ねている。
(しまった……まあでも、シロ一人なら何とかなる……かな?)
シロはこう見えて結構、口が堅いし、決して深雪の邪魔をしたりもしない。エニグマと情報をやり取りする場に一緒に行っても、すぐさま事務所の皆に筒抜けになるようなことはないだろう。
今は一刻も早く、火矛威の情報を得なければならない。そう判断した深雪は、シロと一緒に《アヴァロン》を探すことにした。
深雪はシロと共に鉄道の高架下へと向かった。
どっしりした柱と橋げたに囲まれた空間には、小さな店舗がぎゅうぎゅうとすし詰めとなり、その光景が線路沿いに延々と続いている。
一時期は高架橋の耐震強化とかで、こういった店舗は立ち退きを迫られたこともあったようだが、この二十年の間にそれはすっかり元通りになってしまったようだ。
もっとも、今は高架上の鉄道は運用されていないので、仕事帰りのサラリーマン客は見込めない。どうしてこんなところに店が密集しているのだろうと不思議に思ったが、すぐにその理由に思い至った。理由はおそらく、店舗の頑強さだ。高架に挟まれているので、他の建物よりは幾分、頑丈そうに見える。もっとも、ゴーストの抗争に巻き込まれたら、それもあまり意味を成さないかもしれないが。
高架下に立ち並ぶ店は見たところ、居酒屋やカラオケバー、スナックなどが多いようだ。だが、今は昼間という事もあってか、その多くは閉まっている。
その中で、古いバーが一軒、開いていた。間口が狭く、入口の木製のドアもやたらと細い。高架下に並ぶ店舗の間の、更に奥まった場所にひっそりとあって、《アヴァロン》という看板も小さくて色褪せ、あまり目につかない。気をつけなければその店の前を通り過ぎてしまうほどだ。
おまけに、店の外観も古い。《タム・リン》とは違い、悪い意味で昭和臭が漂っている。いかにも、寂れた場末のバーという感じだ。
「ここ……だな」
深雪は辛うじて読める《アヴァロン》の看板を見つめ、そう呟いた。正直に言うと、戸惑いを隠せない。エニグマからもらったスタイリッシュな名刺と眼前のバーが、どうも結びつかないのだ。
そもそもこのバーは、本当に営業しているのだろうか。
シロもまさか、こんなところが目的地だとは思っていなかったのか、不安そうな面持ちで尋ねてくる。
「ユキ、どうするの?」




