第17話 京極鷹臣
時は二十一年前に遡る。
深雪はその日も、いつものようにカラオケボックスに向かった。《ウロボロス》のメンバーがたむろしている、廃業したカラオケボックスだ。
ゴーストだという事が周囲に露見し、居場所の無かった深雪は、そこへ通うことが日課になっていた。そのカラオケボックスに行きさえすれば、《ウロボロス》の誰かがいるから、孤独にならずに済んだ。
それにその頃は社会のゴーストに対する警戒心も増してきていたから、街中をうろつくのはかえって危険だったのだ。
けれど、悪い事ばかりでもなかった。最近、《ウロボロス》の頭が決まった。御子柴翔遥という青年だ。
リーダーシップがあるだけでなく、包容力もあり、他のメンバーの信頼も厚い。勿論、深雪も異論はなく、全会一致で決定した。
それまでの《ウロボロス》はチャットのオフ会のような側面が強く、リーダーはいなかった。だが、半年前あたりから急激にメンバーが増加し始め、リーダーを決めようという事になったのだ。
これで、チームの結束は間違いなく増すだろう。心配することなど、何もないのだ。
深雪はカラオケボックスの中に入るや否や、ぐるりと室内を見回す。その日は大切な約束があった。火武威が真澄のプレゼントを買うと言うので、何を買うか一緒に選ぶために、待ち合わせをしていたのだ。
だが、てっきり、先に来ていると思ったのに、火矛威の姿はない。
「火矛威……? どこに行ったんだ、あいつ……?」
てっきり無人だと思い、独り言を呟くと、思わぬことに返答があった。
「帯刀ならいねえぞ」
「……!」
深雪は、はっとして口をつぐむ。
カラオケボックスの中にいたのは、京極鷹臣という青年だった。カラオケボックスのエントランス脇にある待合スペース。そこにあるソファーに腰掛け、こちらを見つめていた。少し奥まったところにいたので、気が付かなかったのだ。
京極鷹臣はすらりとして上背があり、整った顔立ちをしていた。すっと通った鼻筋に、知的な光を湛えた二重瞼の瞳。薄い唇は冷たさがあるが、同時に意志の強さも感じさせる。髪型は短髪で、アシンメトリーの前髪は似合っているせいか嫌味がなく、むしろ顏の精悍さを引き立てている。服装は黒のタートルネックにデニムパンツ、革靴と、いたってシンプルだが、それが逆に京極の異様な存在感を際立たせていた。
京極は頭がきれるが、喧嘩も強い。《ウロボロス》のメンバーの一人が、街の半グレ集団に絡まれていた時、躊躇なく割って入って、その不良連中をボコボコにしてしまったという。
深雪はそれを聞いた時、報復されるのではないかと案じたが、結局、その半グレたちが《ウロボロス》に手を出してくることは二度となかった。
京極は一体、どんな手を使ったのか。だが兎も角も、その時から京極はチームのメンバーの絶大な信頼を受けることとなった。
だが、深雪には、その眼差しはどこか無機的で、何の感情も差し挟んでおらず、冷ややかに周囲を見つめていると思えてならないのだが、それは気のせいだろうか。
知的でクールだと、女の子には人気があるようだが、深雪はそうは思わない。
そう、京極は決してクールなのではない。周囲のゴーストたちを軽蔑し、見下しているのだ。京極の冷たさは、冷静沈着さから来るのではなく、周囲の人間を卑下し、自分と対等な存在だと認めていないことから来るのだ。
だから深雪は京極がどうも苦手だった。嫌いというより、こいつは危険な奴だという警戒感に近いだろうか。
京極は今も、爬虫類の様な温度の無い、陰湿な視線を深雪へと向けている。そして、おもむろに口の端を歪めて見せた。
「……なあ、フラミンゴって鳥を知ってるか?」
「ああ……知ってるけど」
折れ曲がった嘴の先端が黒く、首と足がひょろりとしていて長い鳥。動物園では、よく一本足で立っているところを見かける。体色は淡いピンクや紅色が多いが、それは餌となる藍藻のせいなのだと聞いたことがある。
「……でも、それがどうしたんだよ?」
深雪は正直、戸惑っていた。何故、京極は突然そんな話を始めたのか、見当がつかなかったからだ。でもそれを顔に出すと何だか負けのような気がして、敢えて素っ気なく尋ねた。
京極はそれを知ってか知らずか、淡々と話し続ける。
「フラミンゴは群れで行動する鳥だ。群れるのが自然だから、仲間が少なくなると途端に不安になり、中には健康を損なう個体も出る。だが、動物園で飼う場合は何羽も飼育するわけにはいかない。購入するには金がかかるし、飼育スペースも限られているからな。
だから、檻の周囲に鏡を設置するんだ。それで間抜けなフラミンゴに、鏡に映った自分の姿を見せ、仲間が大勢いるのだと錯覚させる。哀れな連中はその幻で安心と安全を得られたと思い込むのさ」
「……何が言いたい?」
「基本的に群れたがるのは、生態系の中で底辺を占める弱い生物に多い習性だ。弱いから大勢で身を寄せ合い、固まるしかない。人間にも同じことが言えるとは思わないか? 弱い奴らほど、群れて動く。その群れから外れた奴を馬鹿にし、見下しながら、自分だけは安全な場所にいると錯覚している」
京極の口調は、まるで地面を這う蟻の群れを嘲るかのようだった。自分以外の人間、全てを馬鹿にし、自身は彼らと違って遥か高みにいるのだと信じて疑わない声だ。
深雪はそれに冷たい反感を感じつつ、努めて簡素に私見を述べた。
「人間はフラミンゴじゃない。群れるのが好きな奴もいるし、ひとりでいる方が好きだという奴もいる。……ただ、それだけだろ」
すると京極は、くくく、と喉の奥で笑う。
「本気か? まさか心の底からそう信じているわけじゃないよな? 俺たちゴーストが世の中から弾かれているのは、望んでそうなったからだとでも言うつもりか?」
「それとこれとは違う!」
「いいや、違わないさ。……お前もだ、雨宮。安心のために群れるのはよせ。そうでなければ、せめて少しは付き合う相手を考えろ」
こいつのことは無視しよう。そう思っていたが、さすがに我慢ならない。深雪は挑むような視線を京極へ向ける。
「……。それは、どういう意味だよ?」
「よく人間の価値は、誰とどのように付き合うかで決まるっていうだろ。……俺はお前のことはそれなりに評価してるんだ。他の腐ったクズどもとは違うってな。だから、くだらねえ連中とつるんで、俺を失望させるなよ」
「くだらねえ連中って、火矛威や真澄のことか?」
「他に誰がいる?」
悪びれもせずに答える京極に、さしもの深雪も沸々とした怒りを覚えずにはいられなかった。自分のことはどんなに虚仮にされても構わない。でも、あの二人のことを悪く言うのは、誰であろうと絶対に許さない。
「あいつらのこと、何も知らないくせに、何でそういう風に決めつけられるんだ!?」
すると京極は、その瞬間を待ち侘びていたと言わんばかりに、その獰猛な牙を剥く。
「知らなくても分かるさ! あいつらは奪われたことを知りながら、それを取り返そうともしない。自分たちが何故、誰の手によってこんな理不尽な状況に追い込まれてしまったのか、考えようともしないんだ。そして、全てはゴーストになった自分たちのせいだと思い込んでいる。
そんな連中はただの家畜……ただの豚だ。だが、お前は違う。奪われたら取り返す。『敵』が現れたら、服従するのではなく戦って抵抗する……そうだろう?」
「……」
「お前はあいつらと違う。どちらかというと、俺と同類なのさ。だからその牙や爪を、しっかりと研ぎ澄ませておけ。間違っても、あんな低俗な連中と慣れ合って、牙やら爪やらを鈍らせるようなことはするな。そうでなければ……後々後悔するのはお前自身だぞ」
どうやら京極は、深雪のことを自分の同類だと思っているらしい。深雪の体に怖気が走る。よりにもよってこんな奴に、仲間だと思われていただなんて。
だが、その言葉をそのまま形にしたのでは、京極の思うつぼだ。だから深雪は、無表情のまま京極を突き放した。
「……何を言っているのか、さっぱり分からないな」
「雨宮……!」
「京極、俺はお前とは違う。俺はお前みたいに、自分以外の人間を優劣で分けたりしない。それに《ウロボロス》は喧嘩や暴力とは無関係のチームにするって、頭の翔遥も言ってただろ。ナンバー2のお前は、率先してそれを支えるべきじゃないのか?」
新しく誕生した《ウロボロス》の頭、御子柴翔遥は、陰険な争いや暴力沙汰の嫌いな、まっすぐな性格だ。そしてその翔遥を支持したという事は、それが《ウロボロス》の皆の総意でもあるのだ。
いくら牙や爪を研いだところで、それを使う機会が無ければ、無いのと同じことだ。少なくとも深雪はそう思っている。
だが京極は、深雪とは考えが違うらしい。興醒めしたように、すっと真顔になる。
「……。お前にはがっかりだ、雨宮。もう少し、話の分かる奴だと思っていたがな。……まあ、いい。いずれお前にも分かる日が来る。自分の考えがいかに甘っちょろいかって事をな……‼」
「そっちこそ……今はうまく自分の本性を隠しているつもりかもしれないけど、そういう化けの皮はすぐ剥がれるってこと、忘れない方がいいぞ」
京極は、他のメンバーがいる前では、絶対にこの手の話はしないし、そんな素振りさえ見せない。だが、考えを改めない限り、いつかは偏った思想の持ち主だと、皆の知るところとなるだろう。人の世というのは、京極が考えているほどチョロくはないのだ。
だが京極は、それを聞いてもせせら笑うばかりだった。
「忠告されるまでもないさ。下等な連中ごときに本性を見破られるようなへまなどしない。奴らは俺の糧となる『餌』……うまく手懐けるさ」
「吠えてろよ。言っとくが、俺がこのチームいる限り、絶対にお前の好きにはさせないからな!」
深雪が決然と吐き捨てると、京極は、にい、と唇を吊り上げる。
「好きにするといい。……俺もお前を見ているぞ、雨宮。いつでも、いつまでも……な」
京極は最後まで、爬虫類のような温度の無い視線を深雪から外さなかった。深雪は纏わりつくような不快感を振り払うようにして、入ったばかりのカラオケボックスを後にする。
「くそっ、胸クソ悪い……‼」
京極の事は初めて会った時から苦手だった。あの、自分以外の全てを見下しているかのような、冷徹な目――他人の優しさや温かさを認めず、弱さや愚かさを決して赦さず、そのくせ自分の驕りは正当だと思い込んでいる、高慢な口ぶり。京極は間違いなく、深雪の一番嫌いなタイプの人間だった。
でも、そんな『ただの嫌な奴』なら、深雪もそれほど警戒はしなかったし、相手にもしなかっただろう。
京極は不気味な男だった。一緒にいると、いつも見張られ、観察されているような感覚になる。実際、先ほどのフラミンゴの話や、火矛威や真澄に対する侮辱も、深雪がその手の話題を嫌がるのを知っていて、敢えて振ってきたようでもある。
おまけに、他の《ウロボロス》の他のメンバーの前では決して見せないその傲慢な『本性』を、京極は深雪の前だけでは遠慮なくさらけ出す。だがそれが何故なのか、あの男の本心がどこにあるのか、何一つ掴めない。
ただ一つ分かっているのは、そこにあるのは、おそらく真っ黒に塗りつぶされた無条件の憎悪だという事だ。だが、深雪はそのようなものを向けられる覚えは全く無く、気味が悪かった。
そもそも、それほどの確執を生むほど、付き合いが長いわけではない。互いに《ウロボロス》を結成した時に、初めて出会ったのだ。
苛々しながら、カラオケボックスから伸びる階段を上っていると、ふと頭上に人の気配を感じた。顔を上げると、階段の上に佇む火矛威と目が合った。
「火矛威……!」
「深雪……」
火矛威はいつも通り不良みたいな恰好だったが、いつもと違って元気はなかった。それどころか気まずそうな、どことなく申し訳なさそうな表情をして俯いてしまう。それを見て、深雪は瞬時に悟った。
「お前……もしかして、さっきの俺と京極との会話、聞いて……!?」
「な……なんかゴメンな! 俺のせいで、嫌な思いさせて……」
「火矛威っ……」
無理矢理に笑顔を浮かべる火矛威を見て、深雪は階段を駆け上がった。だが、火矛威は深雪が傍に駆け寄っても、顔を見ようとはしない。向かいの民家に視線を投げ、一気に捲し立てた。
「俺たち、深雪の足を引っ張ってばかりだもんな。真澄は体が弱いし、俺のアニムス《イグニス》も、深雪の《ランドマイン》みたいに戦える能力じゃない……俺ら、いつも深雪に守ってもらってばかりだもん。そりゃ、京極みたいな奴には、金魚のフンにしか見えねえよな」
「やめろよ、そういう言い方!」
深雪は一年にあるかないかくらいの、激しい怒声を上げた。火矛威を傷つけた京極も許せなかったが、京極の言葉に簡単に傷ついてしまう火矛威にも苛立っていた。自分には何もやましいところはない。そう、堂々としていて欲しかったのだ。
「み、深雪……」
深雪の剣幕の、あまりのすごさに、呆気にとられる火矛威。相手を驚かせてしまったのは分かっていたが、深雪は構わず、更に詰め寄った。
「俺は……火矛威と真澄に出会って、本当に良かったって思ってる。ゴーストになって、家にも学校にも居場所を失って……ずっと憎んでたんだ。自分のことも、周りのことも。全てに失望して許せなくて……そんな自分も嫌で、何度も消えてしまいたいって思った。
だけど、火矛威と真澄に出会って変わったんだ。二人は誰かのことを恨むことも無く、まっすぐで、俺のことも普通に受け入れてくれて……何ていうか、そういうのにすっげえ救われた。ここにいてもいいんだって、そう言われたような気がしたんだ!」
すると火矛威は、卑屈にも見える笑いを浮かべる。
「俺たちは、ただ単に、誰に怒りをぶつけていいか分からなかっただけだ。バカだからさ。京極の言う通りなんだよ。逃げてるだけだ」
「違う! 敢えて明るく振舞って、恨みや憎しみに呑み込まれず、日々を大切に生きる……そういうのは逃げじゃないし、誰にでもできる事じゃない!」
深雪は知っている。火矛威や真澄も、深雪と同じでゴーストになって沢山、辛い思いをしていることを。どうして自分がこんなことに。好きでゴーストになったわけじゃないのに――そういう、悲しい思いを山ほどしていることを。
でも、二人は決して明るさを捨てなかった。能天気だからじゃない。鈍いわけでもない。火矛威や真澄にとっても、深雪と三人で過ごす時間が、きっと大事だからだ。大切な『居場所』を、きっと二人とも憎しみで汚したくなかったのだ。
「……そんな大層な事じゃねえよ、マジで。俺には、何の力も無いから……そういう風にしか、生きられないってだけで……!」
自信無げに言葉を濁す火矛威の腕を、気づけば深雪は強く掴んでいた。火矛威は驚いて顔を上げる。その火矛威の眼を、深雪は真剣に見つめ返した。
「そういう言い方、するなよ! 俺には……俺には大切なものなんだ。くだらない話して、わいわい盛り上がって……二人と過ごすそういう時間が、かけがえのない宝物なんだ! だから、大層な事じゃないなんて言うなよ! 自分たちのこと、バカだって……何の力も無いなんて卑下するなよ‼」
「わ……悪ィ」
「俺が火矛威や真澄を守ってるのは、結果的にそうなってるっていうだけだよ。アニムスがちょっと……二人のより攻撃的だから。でもそれだって、俺が好きでそうしてるんだし、嫌だとか負担だとか、ましてや足を引っ張られてるなんて思ったことは無い。
俺は……火矛威と真澄に笑って欲しいんだ。いつまでも……どんなことがあっても、笑っていて欲しいんだ」
それは偽らざる深雪の本心だった。どんなに辛いことがあっても、火矛威や真澄の笑顔があれば、乗り越えられる。そんな気がするのだ。
すると、深雪を見つめていた火矛威の瞳が、不意に揺らいだ。春先の風を受けた湖面のようにさざめき立つと、大きな雫が浮かび上がり、瞳から溢れて頬を伝い落ちていく。
今度は深雪が驚き、息を呑む番だった。火矛威は込み上げる涙を誤魔化すように、慌てて目元を乱暴に拭い、わざと明るい声を出す。
「……分かったし。悪かったよ、変なこと言って」
「火矛威……」
「俺……昔からこうだったんだ。ガキの頃からバカだったからさ。空気読んで明るく振舞って、せめて邪魔にならないように、不愉快な奴って思われないように、最大限、虚勢を張るしかなかったんだ。ゴーストになってもそれは何一つ変わらなくて、でもそれがすげえ情けなかった。人間でもなければ、ゴーストとしても半端で、何ができるわけでもない。こんなんで、ホントに良いのかなって……。
そんなだったから……俺、そういう風に言われたの初めてでさ。その……ホント何て言ったらいいか分かんねえ。……けど、嬉しいよ。すげえ嬉しい。宝物なんて……まじ、照れるし」
「そんな……急に改まんなよ。こっちまで恥ずかしくなって来るだろ!」
深雪が、火矛威の胸を拳で軽く小突くと、火矛威も照れ隠しか、にかっと笑い、同じように小突き返して来た。
「はは、今さらかよ! 俺、深雪がこんな熱いこと言う奴だなんて、思わんかった!」




