第15話 取引当日②
《カオナシ》はとても早口で、声も異様なほど甲高い。
亜希は「おじさんが無理して若作りしている感じ」と表現していたが、どちらかと言うと通販番組の売り子に近い気がした。
相手の警戒心を解きつつも、主導権はしっかり握る。営業トークというやつだ。
「では早速、取引といこうじゃありませんか。こちらがご所望の品です。ご確認を」
《カオナシ》はキャリーバックを亜希へと手渡してくる。中には錠剤の形をした《Ciel》がぎっしりと詰め込まれていた。
亜希は深雪と銀賀に向かって小さく頷く。本物で間違いない。それを確認してから、深雪は持っていたリュックサックを、亜希へと手渡した。
「……これがこちらの用意した代金です」
亜希は《カオナシ》にリュックサックの中身を見せた。中には札束が詰め込まれている。総額は五千万、全て新札だ。因みに、《ニーズヘッグ》のものではなく、全て東雲探偵事務所が用意したものだった。
「……確かに頂戴しました~!」
《カオナシ》はにこやかにリュックサックを受け取ると、その中を覗き込む。そして、白い帯紙でまとめられた札束の一つ無造作にを取り出すと、勢いをつけて捲り、確認する。それで特に怪しい点はないと確信を得たのか、満足したように、再び唇の端を吊り上げた。
(これで終わり……か。今のところ、《カオナシ》がアニムスを使う様子は見られないけど……)
《カオナシ》の名前の由来を考えると、この男がいずれかのタイミングで記憶を奪うアニムスを使うのは間違いない。深雪が警戒していると、《カオナシ》は《ニーズヘッグ》から受け取ったばかりの現金の入ったリュックサックを、不意に地面に置いた。
「ところで……みなさんは、ポップスはお好きで?」
「……はい?」
さすがの亜希も、思わずといった調子でそう聞き返した。銀賀と深雪も、一体何の話かと、顔を見合わせる。だが、《カオナシ》は《ニーズヘッグ》の動揺など気に留めた様子もない。相変わらずの早口で、マイペースに喋り続ける。
「いや、実は僕、ポップスが大好きでね。その中でも特に、アメリカンポップスをリスペクトしてるんですよ。いいですよねぇ、アメリカンポップス! 軽快で特色のあるメロディー、単純でメッセージ性の強い歌詞! こういう仕事の後にはね、特に聞きたくなるんですよね~‼
……と言うわけで、ミュージックゥゥ~~・カモン‼」
言うや否や、《カオナシ》の腕に嵌めた通信機器から、軽快なメロディが流れてくる。どこかで聞いたことがあると思ったら、マイケル・ジャクソンの『Thriller』だ。
そして《カオナシ》はその『Thriller』を自らも口ずさみながら、踊り始めた。
曲に合わせて、腰を振り、ステップを踏む。やたらとキレのあるダンスで、歌も無駄にうまい。時おり、「フォウッ!」と自ら掛け声を入れるというクオリティの高さだ。亜希を始め、他の《ニーズヘッグ》のメンバーも、さすがに呆気に取られている。
「何だ、こいつ……?」
「これ……一体、何の儀式だよ……!?」
「ええーと……深雪サン、こういう時はどうしたらイインスカネ?」
銀河はそう会話を振ってくるが、深雪もこんな事態を想定していたはずがない。
「……俺に聞かれても、困るんだけど。取り敢えず、終わるのを待つしかないんじゃない……?」
こちらの白々とした視線などには全く臆さず、《カオナシ》はノリノリで踊り続ける。《ニーズヘッグ》はみな、呆れと戸惑いを浮かべているが、さりとて何ができるわけでもない。腕力で押さえつけることは、できなくもないだろうが、あまりにも馬鹿馬鹿しくてそんな気にもならないのだ。
ただ、《カオナシ》が歌い踊る様を眺め続けている。
すると、しばらくして深雪たちに変化が襲い掛かって来た。
「あ……れ……?」
突然、意識が朦朧としてきたかと思うと、何かに閉じ込められたかのような圧迫感が手足を支配した。自分の意識が、狭い箱の中にぎゅうぎゅうに押し込められていく――そんな感覚だ。
その頃になると、身体にもはっきりとした異常が現れる。全身の力が抜け、ずっしりと重たい倦怠感が四肢に圧し掛かって来て、身動きができなくなったのだ。
(な……何だ、これ……!?)
これは、おかしい。今すぐ動いて、ここを離れなければ。頭ではそう思うものの、体は全く言う事を聞かなかった。危機感と焦燥感が胸の内を焦がすが、それでも手足は動かない。まるでアクセルを踏んでも全く動かない自動車に、閉じ込められたみたいだ。
「うう……!」
「何だこりゃ……気持ち悪っ……‼」
何とか周囲を見渡すと、亜希や銀賀、他の《ニーズヘッグ》のメンバーにも似たような症状が現れていた。みな、立っていられなくなったのか、バタバタと倒れたり、その場に両ひざをついて蹲ったりしている。
それを見た《カオナシ》は、ようやくダンスを停止した。そして、軽薄な顔にニタリと邪悪な笑みを浮かべる。
「……僕のアニムスの名は《セイレーン》と言うんですよ~。ま、有り体に言うと、強力な催眠術をかけて記憶を削除する能力なんです。つまり……僕の《カオナシ》という通り名の由来なんですけどね」
「て……てめえ……‼」
「申し訳ありませんねぇ。僕の顔を覚えてもらったら困るんで、今から忘れてもらいますぅ。あ、心配しなくても、大丈夫ですよ~。僕の顔を忘れるというだけで、特に後遺症なんかは無いんで。あなた方は大切なお客様だ。キズモノにするわけにはいきませんからね~。もっとも……僕が実際に現場で取引するのは、今日が最初で最後なんですけどねっ!」
やがて《カオナシ》は右手を掲げ、フィンガースナップのポーズをとる。指をパチンと慣らしてどうするつもりか知らないが、深雪たちにとって、少なくとも今より悪い状況に陥るのは間違いない。
(……誰も動けない……このままじゃ、逃げられる……‼)
流星やオリヴィエが動き出す気配がない。彼らもインカムを通して、深雪と《カオナシ》の会話を聞いていた筈だ。だが誰一人、動き出す気配がないところを見ると、みな《カオナシ》のアニムス、《セイレーン》の影響を受けているのだろう。
深雪の意識は、殆ど朦朧とした状態だった。視界は狭窄し、倦怠感もどんどん増し、何だか異常に眠い。しかし、何とか力を振り絞って意識を集中させ、アニムスを発動させようと試みる。
(発動してくれ……頼む‼)
するとその直後、《カオナシ》に渡したリュックサックの取っ手が爆発を起こした。その場を破壊するような、大きな爆発ではない。ただ、爆竹を鳴らした時のような、パアンと乾いた音が鋭く響き渡る。
「これは、アニムス……? ゴーストギャングのくせに、なかなか小癪な真似をしてくれますねえ……‼」
《カオナシ》は一瞬、顏を顰めたが、すぐに小馬鹿にしたような笑みを顔に貼り付ける。この程度の小さな爆発で、何ができるのかと思っているのだろう。
確かにその通りだが、全くの無駄でも無かった。爆発が起きた次の瞬間、深雪に圧し掛かっていた奇妙な圧迫感が無くなり、身体がふっと軽くなったのだ。
(……! 《カオナシ》の《セイレーン》が解けた!?)
でも、すぐには動き出すことができなかった。倦怠感はそのまま、ぐったりとした疲労感に変わり、しつこく居座っている。どうやら《カオナシ》の《セイレーン》は、ただの催眠術とも違うらしい。少なくとも、精神を支配する度合いは、かなり強力なのではないか。
(く……くそ……! 《カオナシ》を逃がしてたまるか……‼)
《ニーズヘッグ》を巻き込み、ようやく引き摺りだした運び屋だ。絶対に、このまま逃がすわけにはいかない。手足が動かないなら、引きちぎってでも、捕まえてやる。深雪は歯を食いしばって、その場に立ち上がる。
だが、流星とオリヴィエが先に動いていた。物陰から飛び出してくると、打ち合わせ通りに線路の両端を塞ぎ、《カオナシ》を挟み込む。意外そうに眉を押し上げる《カオナシ》は、だがしかし、驚いた様子も無ければ焦った様子もない。
「……そこを動くな‼」
流星は銃を構えるが、《カオナシ》はそれを嘲るように肩を竦める。
「おっと、仲間がいたんですか? 伏兵? いただけませんね……取引は互いの信頼関係が何よりも大事なんですよぉ?」
「聞こえなかったのですか!? 大人しくその場に伏せなさい‼」
オリヴィエも警告するが、流星と同じく、その顔色はいつもより悪い。やはり彼らも、《カオナシ》のアニムスによる攻撃の直撃を受けたのだろう。《セイレーン》によって受けた精神的打撃から、完全には抜け出せていないのだ。
《カオナシ》もそれを見透かしているのか、囲まれているにも関わらず、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。
「あなた達こそ、立ったままでいいんですか? かなり顔色が悪いようですが。まあ……こちらは何度でも《セイレーン》を発動させればいいだけなんですけどねっ‼」
その時、《カオナシ》の背後から低い声がし、その動きを制止した。
「……よく喋るな。そろそろ気が済んだだろう」
「なっ!?」
突如として響いた声音に、さすがの《カオナシ》も驚きを禁じ得なかったようだ。何事かと、勢いよく振り返る。
そこには不動王奈落の姿があった。不思議な事に、インカムをしているにも拘らず、奈落はダメージを受けた気配など全くなかった。常と同じで悠々と煙草をふかしている。
対する《カオナシ》は、先ほどまでとは違い、探るような視線を奈落へと向けた。
「気配を感じなかった……あなた達、さては《ニーズヘッグ》の仲間ではありませんね?」
「ふん、少しは頭が回るようだな」
これ以上、不遜な返答はないというほどの、踏ん反り返った口調だ。
「俺たちは《死刑執行人》だ!」
流星は辛うじて《カオナシ》へハンドガンを向けた態勢で、そう叫んだ。すると《カオナシ》は目を見開いたものの、すぐに眉を八の字にし、笑い声をあげ始める。
「《死刑執行人》!? 本当に、本物の? ひょっとして……僕は嵌められてこの場におびき出されたってことですかねえ!?」
「そうなるな」
奈落はようやく分かったか、とばかりに紙煙草を摘み、紫煙を吐き出した。しかし、《カオナシ》の態度も余裕に溢れている。にやっと笑って長身の奈落を見上げた。
「あなた、どうして立っていられるんですか? もしかして、耳を塞いで僕の『歌声』を聞いていなかったからですかねえ? だから、自分は《セイレーン》の餌食にならずに済むと、それでそんなにも余裕をかましていらっしゃる!?」
「……」
「でもそれはね、あまり意味がないんですよ。何故なら、僕の声そのものが人の意識を潜在意識レベルにまで引き摺り込む触媒なのだから‼」
《カオナシ》は悦に浸って一気に捲し立てた。彼曰く、《セイレーン》を使う際に歌っていたのは、その方が確実に催眠状態に導けるからだ。勿論、別にアメリカン・ポップスである必要は無い。ただ、精神支配系のアニムスは術者の精神状態によって強弱が決まる。だから《カオナシ》の一番好きな曲を選曲しているに過ぎない。
ダンスの方に至っては、完全にオマケで趣味なのだ、と。
「あなたは僕と会話した。僕の音声はあなたの脳を蝕み、深くはっきりと刻み込まれている。そのうちだんだん、意識が朦朧としてくるはずですよ。ほ~ら、少しずつ……少しずつね。そして最後には、僕に会った事ぜ~んぶ忘れるんだ。そう、この指を鳴らした瞬間にね! ……そらっ‼」
《カオナシ》は指をパチンと慣らした。その瞬間、深雪の脳内が弾け飛ぶ。物理的にではない。ただ、頭の中が真っ白になり、視界も白化し、何もかも分からなくなってしまったのだ。
自分が何をしていたのか、何の為にこんなところにいるのか。つい先ほどまで、何かをしなければならないと思っていた筈なのに、それすらも思い出せない。まるで、いつまでも醒めない性質の悪い悪夢に放り込まれたように。
深雪を始め、《ニーズヘッグ》のメンバーや流星、オリヴィエも、呆けたように茫然として、佇んでいる。それを見た《カオナシ》は、自らの術が成功したのを確信し、大きく仰け反って哄笑を上げた。
「あははははは! あーははははははははははは‼」
しかし、その中で唯一、奈落は何食わぬ顔で煙草をふかし続けている。
「……で?」
「あ、あれ? 変化ない……!?」
《カオナシ》は奈落へ右手を突きつけると、パチパチと何度も指を鳴らす。しかし、やはり奈落に変化は起きない。《カオナシ》の表情に、徐々に焦燥が広がっていく。先ほどまで軽薄な笑みを浮かべていた顔には、今は冷や汗が大きな粒となって浮かんでいた。
やがて奈落は、今度はこっちの攻撃ターンだとばかりに首を回すと、次に両手を胸の前で組んでバキバキと鳴らし、凶悪な笑みを浮かべる。
「いいことを教えてやろう。俺がこの世で嫌いなものが二つある。一つは精神に作用するアニムス……もう一つは、べらべらとよく喋り、意味も無く歌って踊りだす野郎だ!」
それを目の当たりにした《カオナシ》は、はっきりと狼狽し、上擦った声を上げた。
「ば、バカな……僕の《セイレーン》が効かない!? そんなことは今まで一人も……あべしっ!!」
奈落の拳が《カオナシ》の顔面に炸裂する。その弾みで、原色のどぎつい色をした赤縁眼鏡が吹っ飛んでいき、地面に落ちてレンズにひびが入ったが、《カオナシ》はそれに抗議する気配も無い。
どうやら小太りの体型からして、決して鍛えているわけではなかったのだろう。《カオナシ》はその奈落の一撃で卒倒し、呆気なく気を失った。
やたらめったら騒がしかった《カオナシ》がひっくり返り、地下鉄の中は、俄かに静まり返った。
眼前で何かが起こっているのか理解できない深雪たちは、呆気に取られて奈落と《カオナシ》のやり取りを見つめていたが、《カオナシ》が気を失うと同時に、はっと我に返る。《セイレーン》で奪われた記憶が戻って来たのだ。
どうやら、術者が気を失ったことで、アニムスの効力も無効化してくれたようだ。
アニムスから解放されたのは、深雪だけではないようだ。あちこちで呻き声や溜息が聞こえてくる。みな《セイレーン》の呪縛が解け、ほっと一息ついているようだった。
暫くすると、銀賀が感嘆の声と共に、深雪に話しかけてきた。その目は、相変わらず不遜な奈落へと向けられている。
「すごいな……あの《セイレーン》とかいうアニムスを受けても動けるなんて」
「まあ、奈落は中でもいろいろ破格だから……」
深雪が苦笑しつつそれに応じると、今度は亜希が声を上げる。
「そういう深雪も、機転が利いてたよ。あの爆発がなかったら、今ごろ僕たちの記憶は完全に無くなっていたかも」
「ははは……咄嗟の行動だったんだけどね」
深雪が笑うと、亜希たちもつられて笑う。しかし、銀賀はすぐに顔を顰めた。
「つっ……まだ頭がくらくらするぜ。……全員無事かぁ!?」
「あ、はい!」
「無事っす!」
《ニーズヘッグ》の他のメンバーにも、怪我や負傷は見られない。《セイレーン》のせいで、どことなくげんなりした表情をしているが、《カオナシ》も後遺症はないと言っていたし、少し休めばすぐに回復するだろう。
深雪はそれを見てほっとした。《カオナシ》のアニムスは手強かったが、命を取られるような凶悪な力ではなかったというのは、唯一の幸いだ。
奈落は、気絶している《カオナシ》の両手を背中へ回すと、手錠を嵌めた。普通の金属製の手錠だ。《カオナシ》は声さえ出せなければ、普通の人間と変わりはない。手錠の中にはゴーストのアニムスを抑制する機能がついているものもあるが、それを使わないのは、必要が無いと判断したからだろう。
それと共に、流星やオリヴィエもこちらに近寄って来た。
「くそっ、突然、歌い出したと思ったら……それが奴のアニムスだったとはな」
「薬物取引の現場で歌って踊りだすなんて……ある意味、驚異的なほど常人離れした図太さの持ち主ですね」
《カオナシ》のふざけた言動は、おそらく自らのアニムスに対する信頼と、数々の取引の成功体験に裏打ちされたものだ。実際、これほど派手なファッションに身を包んでいるというのに、《カオナシ》の情報がストリート=ダストの間で殆ど広まっていないのが、その証拠だ。流星は言う。
「精神支配系のアニムスは、防御する術が殆ど無いからな。《セイレーン》にしても、知ってりゃ防げたんだろうが、その記憶ごと葬り去って、知識として広まらないようにしてたんだろう。精神支配に耐性のある奈落がこの場にいなけりゃ、おそらく逃げられてた」
(心配するなっていうのは、そういう事だったのか)
流星は、《カオナシ》がどんな精神支配系のアニムスを持っていようと、奈落には通じないことを知っていたのだ。そうならそうと言ってくれればいいのに、と思わないでもないが、流星たちも実際に目で見た方が早いと思ったのかもしれない。
アニムスに関する情報は、ゴーストにとって最も繊細な話題だ。そのせいもあるかもしれない。
(奈落が、精神支配系のアニムスが嫌いっていう理由はよく分からないけど……それはまた今度、機を改めて聞いてみよう)
ともかく、《カオナシ》を捕えることはできた。深雪たちの目的は、達せられたのだ。
同じ感慨を銀賀も抱いたのか、不意にポツリと呟く。




