第14話 取引当日①
《カオナシ》が指定してきたのは、元・六本木駅だった。地下を通る日比谷線、その中目黒本行き方面側だ。六本木の地上は《新八洲特区》に接しているため、《アラハバキ》のゴーストがうようよしている。物騒だし、人目も多い。
だから《カオナシ》は、その地下を指定してきたのだろう。
それに、地下鉄は四方八方が閉鎖されている空間で、良くも悪くも進入路が限られているから、不意を突かれた襲撃を受けにくい。当然、その点も考慮されているだろう。
《ニーズヘッグ》から参加するのは七人だ。亜希と銀賀、そして体格のいい青年が五人。みな、《ニーズヘッグ》の中では比較的、喧嘩慣れしているメンバーだという。
それに対し、東雲探偵事務所からは流星と奈落、オリヴィエ、神狼、深雪の五名が加わる。
そのうち、直に取引に参加するのは深雪だけだ。深雪は《ニーズヘッグ》のメンバーの一人として、《カオナシ》と接触する。流星を始めとする他の四名は、地下鉄駅の物陰に潜み、《カオナシ》を待ち受ける――という計画だ。
《リコルヌ》で行った取引とほぼ同じ態勢なので、特に不慣れな点もないし、激しい緊張を感じることも無い。
深雪は、流星たち東雲探偵事務所のメンバーと共に、六本木駅の連絡通路から階段を降り、更に地下へと向かう。ホームの周辺には電灯が辛うじてついていて、僅かながら光源となっている。
駅として利用されることがなくなり、人が足を踏み入れることも無い地下空間は、辛うじて原形を保っているものの、がらんとして、どこか侘しい空気を漂わせていた。二十年前は、溢れるほどの人々が毎日この駅を利用していたのに。そう思うと、何だか同じ駅だとは思えない。
ともかく、程なくして深雪たちは、《カオナシ》に指定された地点に到達する。
「いよいよか……!」
「ここで待っていれば、《カオナシ》が現れるのですね?」
オリヴィエは耳にワイヤレスインカムをしていた。オリヴィエだけでなく、深雪以外のメンバーはみな同じものを装着している。《カオナシ》との取引時の会話が詳細に聞き取れるように、だ。深雪の腕にある通信機器がマイク替わりとなる。
「その予定だけど……一つ気になることがあるんだ。《カオナシ》の顔を見た奴は、皆もれなく記憶を無くすんだろ? アニムスを使っているのは間違いないんだ。でもそれが何なのか、どういう状況でどういう風に作用するのか、未だに分かってない……」
深雪はそれが気がかりだった。現段階で知る術はないとはいえ、相手のアニムスが分からないというのは、やはり不安を感じる。
《サイトウ》のアニムスが何だか事前に分かっていれば、あのように好き放題、暴走させることも無かっただろうと思うと、尚更だ。
「記憶を操作するアニムスだとすると……精神支配系のアニムスでしょうね」
オリヴィエも懸念を感じるのか、そう呟いた。
アニムスには物理的に作用するものだけでなく、人の精神や神経に干渉するアニムスも存在する。それらには直接、他人に危害を加えたり物を破壊したりする力は無い。だが、ゴーストを内部から崩壊させたり、精神を乗っ取って操ったりする。だから、使い方次第では物理系のアニムスより脅威になることもあるのだ。
揃って難しい表情をする深雪とオリヴィエだったが、その二人に流星が声をかけてきた。
「ま、そいつはこっちで何とかする。心配すんな」
「流星……? それって、どういう意味……」
首を傾げる深雪だったが、その時ちょうど、地下鉄の線路の反対側から人の気配がする。視線をやると、《ニーズヘッグ》のメンバーが、僅かに遅れて到着したところだった。
亜希や銀賀は、さすがに緊張した面持ちだったが、深雪の顔を見つけると、ほっとしたように表情を緩め、話しかけてきた。
「……深雪、先に来てたのか」
「亜希、銀賀……それに他の皆も、お疲れ」
深雪が答えると、次に流星が亜希に近づいていって、右手を差し出す。
「赤神流星だ」
「ええ、知ってます。僕は竜ケ崎亜希。こっちは鬼塚銀賀」
亜希が流星の手を握り返しつつ、順に自己紹介すると、その隣で銀賀が朗らかに笑った。
「俺も、あんたのこと知ってるぜ。赤い髪で『赤神』って、まじウケ狙いみてーな名前だもんな! ……あいてっ!」
銀賀は脇腹を抑える。途中で、怖い顔をした亜希に小突かれたのだ。
「銀賀、お前そのピンクのモヒカン、人のこととやかく言える髪型じゃないだろ! ……すみません、言葉遣いのなってない奴で」
「いや、気にすんなって。こっちも堅苦しいのはアレだしな」
流星はそう言ってウインクを返す。こういう時の流星には、《死刑執行人》として、ゴーストの抗争を制圧している時のような威圧感は微塵もない。垂れ目がちの瞳には少年のような愛嬌や親しみ易さがある。それを向けられると、どんな初対面の相手も、警戒心を解いてしまうのだ。
亜希もそれにつられたのか、微笑を浮かべた。東雲探偵事務所の存在は知っていても、亜希が実際に深雪以外の《死刑執行人》と接するのは初めてだという。少しだけそれを心配していたが、案じていたような、ぎすぎすと強張った空気は、両者にはない。
そうやって、ひとしきり会話を交わした後、流星はふと真顔になる。
「……いろいろ協力してもらって本当に助かった。感謝する」
すると、亜希は穏やかに答える。
「いえ、深雪にも助けてもらったので……後は、運び屋が無事に現れればいいんですが」
「取引の時間まではあと三十分ある。それまでにこちらも、準備を終えるとするか」
もっとも、何をすべきかは、事前の打ち合わせで殆ど決まっている。後は最終確認をするだけだ。一方、銀賀は《ニーズヘッグ》の他のメンバーと、奈落を遠巻きに見て、ひそひそと小声で囁いている。
「すげー、でけえ……! あれが不動王奈落か……‼ 何つーか……メチャクチャ強そうだな、雰囲気が!」
「ま……まあ、確かに強そうだけど……スゲー殺気立ってるように見えるのは気のせいか……?」
《ニーズヘッグ》の青年が指摘した通り、奈落は深雪から見ても不機嫌そうで、《ニーズヘッグ》のメンバーと挨拶を交わすこともなく、黙々と煙草をふかしている。朝からずっとこの調子だ。ストリート=ダストが煩わしいというより、何かに苛立っているようにも見える。
深雪は微かに眉根を寄せたが、銀賀たちの注意はすぐに別の人物――金髪青眼で肩にキャソックをかけた、異教の神父に向けられた。
「隣にいるのは神父だよな?」
「……何故に神父? あの人も《死刑執行人》なんかな?」
「オリヴィエ=ノア。《死刑執行人》だよ」
「ふーん……」
深雪が答えると、オリヴィエは銀賀たちに向かって微笑み、会釈をする。銀賀たちはびっくりして姿勢を正し、ぎくしゃくと会釈を返した。まるで先生とその生徒みたいだ。
銀賀たちは、次に神狼へと視線を向ける。
「あっちのチャイナ服着たのは、何か女の子みたいだな」
「確かにキレ―だけど、体格からすると男だろ、絶対」
神狼は自分のことが話題になっている事に気づくと、怒った野良猫のように毛を逆立てた。
「……おイ、気持ち悪イ視線ヲ向けるんじゃねエ!」
神狼は中性的な顔立ちをしているが、本人は意外とそのことを気にしているらしいという事を、深雪も最近知った。このまま喧嘩になるのではないかとヒヤヒヤしたが、銀賀たちは相手が年下だという事もあってか、腹を立てた様子はない。
「うわ、怒った」
「やっぱ、男だな。声が男だ」
などと、会話を交わしている。一方、ついに殺気だった神狼が、暗器を取り出しかけているのを見て、深雪は慌てて神狼を宥めた。
「神狼、キレんなって!」
「俺ガ悪いんじゃナイ……男ニじろじろ見られテ、いい気ガするわけないだロ!」
「いいじゃん、みんな神狼の美貌に見とれてるんだよ。……いやあ、美人は辛いね」
深雪は軽く流そうとしたが、神狼相手にそれは通じない。
「お前、そレ、馬鹿にしてンじゃねーカ‼」
そして、取り出しかけた暗器を、深雪に向かって投擲する。深雪もそういう展開は慣れているので、あっさりとそれを避けた。もはや、大道芸かサーカスの域だ。
その様子を見ていた銀賀は、呆れたように嘆息した。
「……何か、あれだな。つくづく変わってるよな、お前んとこ」
「そうかな?」
「見事にバラバラじゃん、いろいろと。新宿で一番恐れられてる《死刑執行人》の事務所とは思えねーぜ」
確かに、東雲探偵事務所のメンバーは、国籍や人種がバラバラで、お世辞にも協調性があるとは言えない。主張の強いメンバーばかりで、全体の為に我を押し殺すという事も、あまり無いのが実情だ。
だが、不思議と強固にまとまる事がない代わりに、ひどく破綻することも無い。最初はあまりにもばらばらで身の置き所がなく、戸惑ったものだが、いつの間にか深雪もすっかりそれに慣れてしまっている。
だが、いくら協調性がないとはいえ、今日の奈落は少し度が過ぎている。にこりともせず、口を開く気配もない奈落に、深雪はそれとなく近づいていって小声で話しかけた。
「あのー、何かいつもに増して機嫌悪くない? めっちゃ怖がられてるよ」
「……あ? 知るか」
言葉こそ素っ気なかったが、声音は雄弁で、機嫌の悪さをこれでもかと伝えてくる。
「ほら、そーいうとこ! コーヒーで例えるとさ、いつもの状態がブレンドだとすると、今はエスプレッソみたいになってるよ!」
すると、奈落は久々と言うべきが、片手で軽々と深雪の胸倉を掴み上げた。
「うっせーんだよ、このどチビ……いま、自分で上手いこと言ったと思って、悦ってやがっただろう!?」
「ち、ちょっとたんま! 騒ぎを起こすのはまずいよ! 《カオナシ》がすぐそばまで来ているかもしれなのに‼」
慌てて指摘すると、奈落は忌々しげに手を放す。
「ちっ……とにかく邪魔だ。チビはどいてろ」
吐き捨てるような口調で、おまけに大きな舌打ちというおまけつきだ。そこまで徹底して態度が悪いと、まるで話しかけた深雪が、何か悪いことをしてしまったかのように思えてくる。
「俺はただ、《ニーズヘッグ》の皆には無理を言って協力してもらっているから……互いの為に、少しだけでも愛想よくして欲しいだけだよ」
深雪はそれとなく抗議するが、そこで決して謝ったりはしないのが奈落だ。
「……俺に愛想、だと? お前は一体、何を期待しているんだ?」
「いやだから、何なの、その俺の方が間違ってるみたいな言い方!」
するとオリヴィエが、いかにも嘆かわしいといった様子で首を振りながら、会話に加わってくる。
「深雪、おやめなさい。どんなに望んでも、松の木に蜜柑が生ることも無ければ、桜の木に梅の実が生ることも無いのです。世の中には神の教えですらどうしようもない事も、確かに存在するのですよ」
「……。おい、どうしてくれんだ、この二次災害」
半眼でぼやく奈落に、さすがの深雪も同情を禁じ得なかった。
「いや……うん、ごめん。そういうつもりじゃ無かったんだけど。……作戦の前だからさ、少しでも気が紛れるかなって。……心配だったから」
深雪には、奈落が今回の作戦にはあまり乗り気でないように見えた。ただ、東雲探偵事務所は人員が少なく、奈落が抜けるのは戦力的に厳しい。それが分かっているから、渋々、加わっているのではないか。そんな気がしたのだ。
奈落は、今度はさすがに、深雪を乱暴にあしらうようなことは無かった。ただ、短く嘆息すると、低い声で付け加えた。
「……集中したい。離れてろ」
「そう……分かったよ」
そのように言われたら、しつこく食い下がるわけにもいかない。深雪が奈落の元を離れると、オリヴィエもそれについて来た。
「何か……奈落、機嫌が悪いというより緊張してるような……気のせいかな」
しかし、深雪はすぐにいや、と過去の事を思い返す。
(そういえば……初めて組んだ時も似たようなことがあったな。少女ばかりを狙った連続猟奇殺人事件……あの時も犯人グループの中に他者の精神を支配するゴーストがいて、奈落はすんごい不機嫌そうに顔を顰めてた)
奈落のアニムスは深雪も見たことがある。実際に目にしたわけではないが、マリアが映像を見せてくれたのだ。奈落のアニムスは、精神系のアニムスと相性が悪いのだろうか。確かに恐ろしいアニムスではあるものの、そのような事実があるようには見えなかったのだが。
すると、隣を歩いていたオリヴィエが、ふと笑い声を漏らす。
「ふふ」
「え、何?」
驚いてオリヴィエの顔を見上げると、透き通ったスカイブルーの瞳は、柔和な笑みを浮かべていた。
「深雪は普段はふんわりしているけれど、意外と良く周りを見ていますよね。それに、よく気が付く。今まで東雲探偵事務所にはいなかったタイプです」
「そう?」
「私は最初、実は自分が《ニーズヘッグ》の交渉に出向くつもりでした。今までそういった事は私や流星の仕事でしたし、それが良いと考えていたのです。でも、彼らの重圧の無い、リラックスした表情を見ると、《ニーズヘッグ》の交渉をあなたが担当したのは、正解だったように思います」
「はは……何か照れるな、そういう風に言われると」
深雪は照れ隠しに思わず頬を掻いた。確かに、東雲探偵事務所のメンバーと《ニーズヘッグ》のメンバーがこうして集う事には不安があった。亜希たちは当初、深雪らが薬物取引に巻き込んだことをひどく怒っていたからだ。
けれど今は、互いにそういったわだかまりも無い。亜希や銀賀が努力してくれているのもあるだろうが、何度も深雪と打ち合わせを重ね、多少なりとも信頼関係を築くことができたからだろう。
そう考えると、少しだけ嬉しい。《ニーズヘッグ》を利用しているという事実が消えてなくなるわけではないが、どうせなら気持ちよく事を進めたいからだ。それに険悪な空気は、円滑な作業を阻害し、作戦を失敗させる確率も押し上げてしまう。
(これで無事、《カオナシ》を捕獲できたら、苦労した甲斐もあったってものだけど)
その時、流星の号令が地下空間に響いた。
「よーし……そろそろ、最終確認と行こうか!」
「うーっす!」
それから全員で集まり、最後の打ち合わせが始まった。亜希が取引を主導し、銀賀や他の《ニーズヘッグ》のメンバーはすぐ後ろでそれを見守る。その中には、キャップを目深に被った深雪も紛れる。
奈落やオリヴィエはどう見てもゴーストギャングには見えないし、流星は顔を知られ過ぎている。だから、柱の影やホームの脇、階段の陰などへと分散し、それぞれその場で待機する。
流星たちは、《カオナシ》が現れたら、闇に紛れて地下鉄の東西を塞ぐ。そして、取引が終わった瞬間に《カオナシ》を拘束するのだ。
打ち合わせが済むと、それぞれの持ち場について《カオナシ》が現れるのを待った。みな、言葉少なで、地下鉄の構内には無機質な空気が流れる。
十五分ほど後、地下鉄の北千住方面から、ゴロゴロと何かを転がすような音が聞こえてきた。最初小さかったそれは、徐々に大きくなり、ついには何者かが接近してくるのが見える。
その瞬間、《ニーズヘッグ》のメンバーに緊張が走った。
ところが、現れたのはこの場には相応しくない、少々、異様な男だった。
小柄で、体型は小太り。短い頭髪はきれいにセットし、栗のようなフォルムになっている。顔には真っ赤な赤いフレームの眼鏡をし、白いスーツに、オレンジのワイシャツ、水色の水玉模様の蝶ネクタイと、かなりカラフルな色使いだ。どことなく、バラエティ番組のMCを彷彿とさせる。
ゴロゴロと音を立てていたのは、何かと思えばキャリーバッグだ。しかしこれも鮮やかなピンク色で、とても薬物取引をしようという格好には見えない。
(あ……あいつが《カオナシ》……?)
男はこちらに気づくと、陽気に手をあげながらキャリーバッグを引き擦り、歩み寄ってきた。真っ白い革靴を履いた足は、小太り体型にしては妙に軽やかで、今にもスキップを始めそうだ。
「いやあ~。どーも、どーも。お待たせしちゃって申し訳ありませんね~!」
「あなたが《カオナシ》さん……ですか?」
亜希が進み出ると、《カオナシ》はにこにことそれに対応する。
「え、そうです。《カオナシ》ですぅ~。そういうあなたは、《ニーズヘッグ》の竜ケ崎さん?」
「ええ」
「随分、お若いんですね~。その年齢でチームをまとめてらっしゃる?」
「ええ、まあ」
「いや~それはスゴい! いや、優秀かどうかに年齢は関係ないって言いますもんね~。僕なんて、こう見えても四十過ぎちゃってるんですよー! ま、大気晩成……なあーんて言葉もありますしね!」
「……そうですか」
《カオナシ》はやたらベラベラと良く喋る。同じ《Ciel》の運び屋、《サイトウ》とは大違いだ。《サイトウ》は必要最低限のことしか話さなかった。むしろ、それが普通だろう。
亜希はそつなく《カオナシ》に対応しているが、若干、戸惑い気味なのがその背中から伝わってくる。取引は初めてだという銀賀も、さすがにおかしいと感じたのだろう、深雪に小さく耳打ちしてきた。
「なあ、大丈夫か、このオッサン……?」
「確かに。何ていうか……運び屋っていうより、どっかの営業マンみたいな口調だな」




