第13話 招かれざる情報屋
「簡単だよ、静紅。僕たちは、より生き延びる可能性のある選択肢を選び取るだけだ。……ただ、それだけだよ」
どうせ巻き込まれるなら、自分たちに利益をもたらす方を選ぶ。ただ、それだけだ。
《死刑執行人》の都合で薬物売買の片棒を担がされることは癪だが、それで運び屋を捕まえることができれば、《Ciel》の拡散を止められるかもしれない。こうなったら、その一縷の望みにかけるしかない。
それに、東雲探偵事務所が、《ニーズヘッグ》と親しくしている深雪を差し向けてきたところに、彼らの感情を読み取ることができるような気もした。
彼らとしても、決して進んで《ニーズヘッグ》を巻き込みたいわけではないのだろう。それほど、元売りの特定に手こずらされているのだ。
そうであるなら――どうせ今回の協力要請を拒めないなら、敢えて彼らに恩を売っておくのも一つの手だ。
どの道、銀賀の言う通り、選択肢はない。このままでは《ニーズヘッグ》が薬物によって潰されるのが先かもしれないのだ。守りに入るのに限界があるなら、うって出るしかない。
亜希の揺るがぬ決意に、静紅も最後には渋々、従ったのだった。
✜✜✜ ✜✜✜
それから、東雲探偵事務所と《ニーズヘッグ》の事務所を往復する日々が始まった。
深雪は亜希らと共に入念に打ち合わせをし、計画を立てたあと、一つの噂を流布する。《ニーズヘッグ》が、《Ciel》の売買に加わりたがっている、という噂だ。
そして、魚が餌に食らいつくのをじっと待った。
もちろん、実際に動くのは《ニーズヘッグ》のメンバーだけだ。深雪たち東雲探偵事務所は指示を出したり、アドバイスするのみ。そうでなければ、意味がない。
もし《死刑執行人》が関与していると元売りに伝わってしまったら、《カオナシ》は絶対に取引をしないだろう。
ただ、実際に《カオナシ》が餌にかかるかどうかは、五分五分だろうと深雪は考えていた。《サイトウ》が《イフリート》によって殺された件を考えると、彼が新規の取引を控える可能性は高い。
一方で、元売りにとって《ニーズヘッグ》が『魅力的』な商売相手であることも確かだ。《ニーズヘッグ》はメンバー数が多く、中でも特に十代前半の若年層が多い。洗脳しやすく、あしらい易く、おまけに今のうちに薬物漬けにしておけば、末永く取引できる。売人たちがそう考えても、おかしくはない。
《オベロン》を始め、《ニーズヘッグ》と縄張りを接しているチームは続々と薬物売買に乗り出している。何も知らない売人たちには、《ニーズヘッグ》が慌ててそれに追随しようとしているように見えるだろう。
じりじりと日々は過ぎる。
程なくして、とうとう待ちに待った報せが入った。獲物が針にかかったのだ。
亜希によると、《Ciel》の売人だと名乗る男が、元売りを紹介してやると言って接触してきたらしい。男はその替わりにと、手数料を請求したそうだ。そういった人間と四人ほど接触し続けた後のことだった。
《ニーズヘッグ》の事務所に駆け込んだ深雪は、亜希と銀賀から詳細な説明を受ける。
「《カオナシ》って……本当にそう言ったのか!?」
つい前のめりになって詰問すると、拍子抜けするほどあっさりとした返答が返ってくる。
「うん、間違いないよ。巷では《カオナシ》って呼ばれてるって、わざわざ自分でそう名乗ってたから」
亜希は腕に嵌めた通信機器を示してそう言った。深雪と同型のもので、亜希の私物ではない。取引の為に、東雲探偵事務所が用意したものだ。
亜希によると、相手の男は開口一番、自分は《カオナシ》だと名乗ったらしい。
深雪は随分、無防備だな、と感じた。東雲探偵事務所がなかなか尻尾を掴めなかったことを考えると、俄かには信じられないほどだ。相手が亜希や銀賀といった、取引対象だからだろうか。
(いや……それもあるかもだけど、一番はアニムスが関係しているんだろうな)
ゴーストにはアニムスがある。おかげで、普通の人間には不可能な事を可能にすることができる。そのせいか、ゴーストには驚くほど大胆だったり、警戒心が薄い者も多い。それでもアニムスが不足分をカバーしてくれるから、問題ないのだ。
《カオナシ》のアニムスが何なのかは分からないが、どうやら接触相手の記憶を失わせる作用があるらしい。だから、自ら名乗っても正体が広まらないという、絶大な自信があるのだろう。
「どんな奴だった?」
「通信機器の音声通話を介して話しただけだから、詳しい事はよく分からないけど……結構年齢がいってるんじゃないかな? おじさんが無理して、若作りして喋っている感じ」
「ふうん……」
亜希の言葉を、深雪は脳内で反芻する。
(おじさん……か。《中立地帯》のゴーストじゃない。やはり、《アラハバキ》の構成員なのか……?)
ストリート=ダストは二十代がメインで、三十代ともなると殆ど見かけない。
理由はいくつかある。
世代が違うと、なかなかストリートの人間関係に入っていけない事、そもそもゴーストは短命である者が多く、三十代に入ると老化が顕著に表れてくることが多い事。
殆どのストリート=ダストは三十代を迎えるころになると、《アラハバキ》へ移行するかストリートから足を洗うかのどちらかだ。
「取引時間と場所は、後日、向こうが指定してくる予定になってる」
「分かった。連絡が来たら、こっちにも教えて欲しい」
深雪が亜希にそう頼むと、亜希は「いいよ」と頷いた。
それと同時に、銀賀が興奮した口振りで叫ぶ。
「いよいよだな……《カオナシ》とやらの面、たっぷり拝んでやろうじゃねーか‼」
だが、それに痛烈な突っ込みを入れたのは静紅だ。
「バカ銀賀! 本当に能天気なんだから……!」
静紅は、すこぶる乱暴な口調で、そう言い放った。彼女が声を荒げるところを見るのは、初めてだ。驚いた弾みで、深雪と静紅の目が合うが、静紅はぷいっとそっぽを向く。静紅は、深雪が《ニーズヘッグ》を《Ciel》の取引に巻き込んだことに対し、今でも猛烈に腹を立てているようだ。
「ごめん、静紅。こんなことに巻き込んで……悪いと思ってる」
深雪がそう声をかけても、静紅の態度は変わらず素っ気ないままだ。「今さら、そういう風に謝らないで。卑怯だよ」
「おい、静紅……!」
見かねた銀賀が、静紅の言動を諫める。静紅は尚も納得がいっていない様子だったが、不承不承、怒りを引っ込めると、深雪の方へと向き直った。そして、小さく溜息をついた後に、少しずつ話し始める。
「そりゃ、ぜんぜん腹が立っていないかって言うと、それは嘘。むしろ、超ムカついてる。でも、これは亜希の決めたことだから……。それに、私たちも決して無関係じゃない。うちの女の子メンバーの中にも、ダイエット効果なんて謳い文句につられて、何も知らずに手を出した子もいる。私たちはもう、《Ciel》とかそういうのの餌食になるのはうんざりよ。だから……悪いと思っているなら、ちゃんと終わらせて」
静紅は最後に、縋るような視線を深雪に向けた。おそらく静紅も、ここ最近の《中立地帯》の変化には不安を覚えているのだろう。街を歩けば、そこら中に薬物中毒者が溢れ、他のチームはどんどん薬物取引や武装強化に傾斜している。その上、自分のチームが《死刑執行人》の一方的な都合によって薬物取引の渦中に置かれたとなれば、怒りがこみ上げるのも当然だ。
「……ああ、約束する」
深雪は静紅のどこか頼りなげな瞳を見つめ返し、そう答えた。静紅は更に何かを言いたそうに口を開きかけたが、結局何も言わず、顔を背けると、事務所の奥の扉から出て行ってしまった。
深雪はどうしたらいいのかと途方に暮れるが、銀賀は気にするな、と肩を竦める。
その後、深雪はいつものように、亜希や銀賀と打ち合わせをした。
これから《カオナシ》は《Ciel》の取引場所や日時を指定してくるだろう。深雪は亜希と銀賀に、相手の条件はできるだけ呑むようにと伝える。《カオナシ》の機嫌を損ね、逃がさないためだ。特に《サイトウ》の件で、相手は多少なりとも過敏になっているだろう。今回は余計な波風は立てない方がいい。
そして、用事を一通り済ませると、《ニーズヘッグ》の事務所を後にする。
街中を歩くころには、すっかり黄昏時になっていた。だが、茜色に染まる街並みを眺める余裕はない。深雪はずっと、《ニーズヘッグ》の事務所で見た静紅のことを考えていた。
今まで、静紅の深雪に対する態度は決して冷淡ではなかった。抑揚の乏しい娘ではあったが、それは彼女特有の性格で、悪意があってのことではない。それが、あれほどはっきりと悪感情をぶつけられたのだ。やはり落ち込まずにはいられなかった。
(でも、静紅の言う事も、もっともだ。絶対に《カオナシ》を捕まえて、この事件を終わらせてやる……‼)
日が落ちると、この街は途端に寒くなる。暦の上では既に初夏に突入している筈だが、《監獄都市》にその気配はない。この街はずっと肌寒いままだ。
原因は分からないが、《監獄都市》の気温は年中通して変化が乏しいのだそうだ。真夏がない代わりに、真冬も無い。一説には、街の外側を囲む壁――《関東大外殻》のせいではないかとも言われているらしい。だが、科学的に証明できる根拠は何一つないのだそうだ。
自分が生きていた時代からさらに二十年たっているというのに、それでも科学で解明できないことがあるなんて。何だか不思議な感覚になる。
(まあ、それを言うなら、そもそもゴーストが何なのかって事も、分かってないんだけど)
路上に人通りは少ないが、これから徐々に増える時間帯だ。不夜城と称された時代ほどではないが、新宿は今でも夜が長い。それは同時に、この街が物騒な時間帯に突入するという事でもあったが。
深雪は足早に帰路を急ぐ。すると不意に、「にい」と小さな鳴き声が聞こえた。
「あれは……」
足を止めると、道路わきに真っ黒くて小さな黒猫が佇み、こちらを見上げていた。首には赤い首輪をし、小さな鈴がついている。つぶらな瞳が、何とも愛らしい。
子猫は、足を止めた深雪に近寄って来て、体を擦り寄せてきた。甘えた仕草が実に可愛い。
「お前、確かエニグマといつも一緒にいる……?」
子猫の赤い首輪には見覚えがある。情報屋、エニグマが連れている黒猫だ。どうしてこんなところに――それとも、猫違いだろうか。
深雪は腰を屈めて子猫の頭を撫でようとした。ところが、先ほどまであれほど甘えていた子猫は、急に体を仰け反らし、「にゃっ!」と、小さな口で深雪の指に噛みついてきた。
「いっ……痛!」
(か……噛みついた!? さっきまですり寄って来てたのに!)
相手はチビだし、言うほど痛くはない。だが、突然噛みつかれたショックはある。ガーンと呆気に取られていると、子猫はさっと逃げていった。
その先には、全身黒づくめの、怪しさの権化みたいな情報屋、エニグマの姿があった。
「これはこれは、雨宮サン! こんなところで出会うなんて、何という奇遇、何という運命のイタズラなんでしょう!」
エニグマは大仰な仕草で、ヨーロッパの貴族みたいな挨拶をして見せた。痩せ型ですらりと手足が長いが、黒づくめであるせいか余計に長く感じられる。目元には真っ黒いサングラスで、頭にはやはり黒いハンチング帽。身振り手振りといい、《監獄都市》の中でなければ、間違いなく変質者の範疇に仲間入りだろう。
「単に俺を待ち伏せしてたんだろ。そういうのは奇遇とは言わないよ。……っていうか、こういう会話、以前にもしたよね?」
深雪は素っ気なく答えるが、エニグマは気分を害した様子も、懲りた様子もない。
「良いではありませんか、ビバ、様・式・美‼ ……でも、私のことを覚えていただいてもらえているようで安心しましたよ。最近、すっかりご無・沙・汰……でしたからねぇ?」
「俺に何の用?」
「ああ、冷ややかなその視線! 何だか妙な性癖が目覚めそうになってしまうではありませんか‼」
エニグマはヒョロヒョロした体を器用にくねらせる。最早、変質者というより妖怪か何かのようだ。深雪は思わず後ずさりしつつ、顔を顰めた。
「……何もないなら、もう行くよ」
「いえいえ。お話なら、ちゃあーんとありますよ? 時に雨宮さんは、幽霊をご覧になったことは?」
「……は?」
一体何を言い出すんだと、深雪は思い切り白けた表情をエニグマへと向ける。だが、エニグマは全くお構いなしだ。両手を大空に広げ、陶酔したように一人、喋り続けた。
「いえね、私には霊感がさっぱりありませんし、特に何らかの宗教を信じているわけでもありませんので、そういう経験をしたことが一度もないのですよ。だから是非とも聞いてみたいのです。……死んだと思っていた相手が生きていたというのは、一体どういう感覚なのでしょう? その亡霊と共に、己の使命を果たそうとする心理……私はそういったものに関して、たいへん興味があるのです」
(死んだと思っていた相手が生きていたって……それって、六道のこと……か?)
深雪にとって、エニグマの条件に該当するのは六道だけだ。六道にとって深雪はまさに、とっくに死んでいたはずの『亡霊』だろうから。
だが、そう思ったとたん、深雪の背に冷たいものが駆け抜けた。エニグマは――目の前のこの胡散臭い男は、深雪の過去を知っているのだろうか。二十年前、《ウロボロス》で起こった事を、どこかで調べ出し、突き止めたのだろうか。
「お……俺が知るわけないだろ。話はそれだけか?」
深雪はさっさと会話を切り上げ、エニグマの前から立ち去ろうとする。しかし、エニグマもそう簡単には逃がしてくれない。
「まあまあ、そう焦らず。今のは、ほんの世間話ですよ」
「世間話にしては、ずいぶん悪趣味だな」
「おや、興味ありませんでしたか? 残念です。雨宮さん好みの話題を振ったつもりだったのに……次はもう少し、楽しい話題を用意しておきますね」
深雪はこれでもかと不愉快な顔をして見せる。「次なんて無くていいよ」
「ふふふ、雨宮さんは本当に面白い人だ。……それでは本題に入りましょう。雨宮さん……あなた、誰かお探しの人物がいるんじゃありませんか?」
エニグマは、ようやく『商売』をすることにしたようだ。何か必要としている情報はないかと、そう尋ねているのだろう。
深雪としても、探している人物はいる。《Ciel》の運び屋、《カオナシ》だ。だが、《ニーズヘッグ》に協力してもらっていることもあり、このままいけば《カオナシ》とはうまく接触できるだろう。エニグマの手を借りるまでも無い。
「いるけど……そいつに接触する計画は着々と進んでいるから、あんたの手は必要ないよ」
深雪は冷ややかにそう突き放すが、エニグマは妙に食い下がってくる。
「いえいえ、《カオナシ》のことではありません。もっと他にいるでしょう? ご自分の胸に手を当てて、よーく思い出してください。……さん、はい!」
エニグマの掌は、指揮者のように華麗に宙を舞った。だが、深雪の目はそれを追うことなく、驚愕に大きく見開いた。
深雪は《カオナシ》のことなど一つも口に出していない。それなのに、どうしてエニグマは深雪たちが《カオナシ》を追っていると知っているのだろう。
「あんた……本当にどこまで知ってるんだ……? 何が目的なんだ!」
深雪は再び警戒心を露わにする。だが、エニグマはニヤニヤと薄気味の悪い笑みを浮かべるばかりだ。
「目的は決まっています。仕事をしに来たのですよ。情報屋としての仕事を……ね」
「あんたから買う情報なんて無いよ」
深雪の脳裏に、且つて奈落から告げられた言葉が蘇る。情報を買ったら買った分だけ、自分の情報を売られていると思え――と。情報屋は便利だが、信用ならない。関わらない方が賢明なのだ。
深雪はいよいよその場を離れようとする。ところが、エニグマは急に、深雪の目の前に立ちはだかって、こちらに面長の顔を近づけてきた。
「いいえ、あなたは私の情報を必要とする筈です。これから先、必ず……ね」
「な……?」
深雪がその妙な迫力に押されていると、エニグマはすっと身を引き、演技かかった仕草で胸ポケットから名刺を取り出した。肩にはいつのまにか、黒い子猫が乗っかっている。
「もし、何か知りたいことがあったら、ここにおいでください」
名刺は真っ黒で、赤い文字が記されていた。斜体のゴシック体で《アヴァロン》と読める。エニグマのくせに、妙にスタイリッシュなデザインだ。裏には小さな文字で、住所らしきものも書かれている。
「お待ちしておりますよ、雨・宮・さん……!」
「あ、ちょっと……!」
こんなものを押し付けられても困る。ところが、名刺から視線を外し、周囲を見回した時にはもう、エニグマの姿は無かった。
「……。何なんだ、一体……?」
エニグマは相変わらず腹の底が読めない。一体、何をどこまで知っているのかもわからないし、何が目的でこんなにも深雪に接触してくるのかも謎だ。
ただ一つ明らかなのは、エニグマがただの善意で深雪に近づいてきているわけではない、という事だろう。エニグマにはエニグマの目的があり、深雪に接触を図っているのだ。
(一体、エニグマの目的は何なんだ……?)
一人残された深雪は、言葉もなく、その場に立ち尽くすばかりだった。




