第12話 亜希たちの過去②
「今はまだ、その可能性があるっていう段階で、断定はできないんだけど」
興奮する銀賀とは対照的に、亜希は至って冷静で落ち着いていた。
「つまり君は、偽の取引をでっちあげるために、その《イフリート》が出現するかもしれない危険な現場に《ニーズヘッグ》を引き摺りだして、思う存分、利用しようっていうんだね?」
「それは……!」
それは違う――深雪は思わずそう口にしかけて、ぐっと言葉を呑み込んだ。何も違わない。深雪が違うと思いたいだけだ。誤魔化したところで、意味はない。
亜希は《タム・リン》で会った時とは打って変わって、冷徹な目――《ニーズヘッグ》の頭としての瞳を深雪に向けている。深雪はそれをどうにか見返し、相手を刺激しないように努めた。
「……利用しようというわけじゃない。協力を、して欲しいんだ」
「それはあくまで君たち《死刑執行人》の言い分だろ」
「……」
「協力を断ったら? 僕たちを《リスト入り》して処刑する?」
亜希がわざと過激な事を言っているのは分かった。こちらが激昂でもすれば、話がチャラになるからだろう。深雪は相手のペースに引き摺られないように、慎重に口を開く。
「それは無いよ。そこまでの権限は、《死刑執行人》には与えられてない」
「ふふ……それもそうだ。 ……でもまあ、百歩譲ってこれが協力要請だったとしても、だ。《Ciel》の元売りが《アラハバキ》の構成員だというなら、僕たちには協力できることなんてない。この《監獄都市》では彼らを敵に回して、生きていける場所なんてない。……それは深雪も知ってるだろ」
《ニーズヘッグ》たちゴーストギャングにも収入源は必要だ。中には会社を経営したりしているところもある。そういったところは《アラハバキ》の下部組織のようになっているところも多い。《アラハバキ》から仕事を得ることで、利益を得、同時に守ってもらっているのだ。
《ニーズヘッグ》は違法取引には手を染めていないし、《アラハバキ》ともうまく距離を取っている。どちらかと言うと、互助組織のような色合いが強い。
代わりに、その多くが労働者として働いている。飲食業や輸送業、建設業。彼らの労働の場であるそれらの会社は、《アラハバキ》にみかじめ料を納めることによって営業を認められている。
また、銀行業や保険業、金融業の存在しない《監獄都市》においては、《アラハバキ》がその一部を代行している。よって、《アラハバキ》の《監獄都市》内における権限は、一般的な反社会勢力のそれよりも、なお一層強い。
《ニーズヘッグ》は《アラハバキ》と直接の関係はない。だが、そういった会社に労働者として属している以上、敵対するのは何としても避けたいところなのだろう。
この《中立地帯》には、一見の影響はそれほどないように見える。だが、一枚皮を剥いだその下では、網の目のように至る所に彼らの影響力が張り巡らされているのだ。
だから、亜希の反応はある程度、予想できたことだった。深雪は背中に冷や汗をかきつつ、ゆっくりと唇を湿らせる。
「俺たちの見立てでは、この件に《アラハバキ》の上層部は噛んでいない」
「そうかもしれないね。……でもそれは、あくまで現段階の話だ。彼らの序列は目まぐるしく入れ替わる。《Ciel》の元売りは、この拡散で相当、儲けているだろう。そいつがその資金を元手に序列を上げる可能性も、全くのゼロじゃない」
「でも、このまま《Ciel》が広がり続ける状況は、君たちにとっても良くない筈だ」
「それはそうだけど、だからって僕たちが危険を冒す理由にはならないよ」
亜希はそう言って、深雪の言葉をはねつけた。
このままでは、会話は永遠に平行線だろう。亜希の言う事は正論だ。深雪とて、無茶な頼みをしている自覚はある。
だが、ここで引くわけにはいかない。東雲探偵事務所のためにも、《ニーズヘッグ》のためにも。
「……見返りならある。君たちは以前から《オベロン》という名のチームとたびたび諍いを起こしているよね?」
「あ、あれはあいつらが悪いんだ! 俺たちの縄張りにずかずか入ってきやがるし、女子供には手ぇ出すしよ! こっちのメンバーにガキが多いと思って、馬鹿にしてんだ‼」
深雪の言葉に激しく反応したのは、銀賀だった。よほど腹に据えかねているのか、銀賀の声には怒りが滲んでいる。
だが、亜希の氷のような声が、ぴしゃりとそれを押さえつけた。
「銀賀、うるさいよ」
「わ……悪ィ」
銀賀は瞬く間にしゅんとなった。無理もない。亜希の声は、深雪も冷やりとするほどの凄みがあったからだ。だがそれでも、ここで諦め、会話をやめるわけにはいかない。
「彼らを完全に排除することは難しいかもしれない。でも、その活動を『抑制』することならできる」
「……《死刑執行人》の『権限』で?」
皮肉の籠った亜希の言葉に、深雪は黙って頷くと、淡々と続ける。
「《オベロン》はとっくの昔に《Ciel》の売買に手を出してる。これから先、今以上にのさばることはあっても、勢いが自然に衰えることはない」
「ずいぶん、なりふり構わない提案だね?」
「それだけ、こっちも本気だから。でも……そういうの抜きにしても、亜希や銀賀なら協力してくれるんじゃないかと思ったんだ。《ニーズヘッグ》を……《ヴァースキ》の二の舞にはしたくないだろうから」
その瞬間、それまで冷静だった亜希が、僅かに息を呑んだのが分かった。銀賀も動揺し、表情を歪めている。《ヴァースキ》――その単語が、彼らを激しく揺さぶったのだ。
事務所の中はしんと静まり返る。
やがて暫くすると、亜希は小さく溜息をついて、ポツリと呟いた。
「……。全部お見通しか」
「うちにも情報収集に長けたメンバーがいるからね」
《ニーズヘッグ》と交渉に出かけるにあたって、深雪はマリアからある程度、《ニーズヘッグ》に関する情報を教えられていた。彼らが《オベロン》という武闘派チームに目を付けられ、たびたび、ちょっかいを出されている事。そして亜希と銀賀、静紅の三人が《ニーズヘッグ》を結成する前、《ヴァースキ》という別のチームに属していたこと。
「《ヴァースキ》は薬物の売買で荒稼ぎしていたチームだった。その分、メンバーには厳しいノルマが課せられていたらしいね」
深雪がそう続けると、亜希はどこか遠い目をして話し始めた。
「……あの頃は、まだ《休戦協定》も無かったし、《監獄都市》内の薬物売買もまだ自由だったからね。地獄だったよ。売人は、その多くが自らも消費者であることが多いんだ。どっぷりクスリ漬けにして、薬物から簡単には逃れられないようにするために。
男はもちろん、年端もいかない女の子まで売人として働かされ、役に立たなくなったら売春を強要して……酷い依存症を起こして廃人になったメンバーも何人もいる。余りの過酷な環境に発狂した奴や、命を落とした奴も……ね。そうやって使い物にならなくなるまでわざと厳しいノルマを押し付けて、使い潰すんだ。下剋上を起こそうにも、頭のアニムスは強力で、誰も逆らうことができなかった」
「そして中毒を起こしたメンバーの一人がアニムスを暴走をさせ、壮絶な衝突が起こって、《ヴァースキ》は瓦解した……そうだよね?」
それもマリアから聞いたことだ。初めて聞いた時は、どこか《ウロボロス》の末路と重なり、胸が痛んだ。銀賀は苦々しい表情で、それに首肯する。
「末端の俺らが命を削って稼いでも、得た利益はみな頭と一部の取り巻きが独占してやがった……あんなクソども、滅んで当然だ! 俺らはみな、《ヴァースキ》の頭のやり方には反感があった……だから、残った奴らを引き連れて《ニーズヘッグ》を結成したんだ!」
「あんな思い、うちのチビたちには絶対にさせない……‼」
亜希は体の前で右手の拳を左手で包み込み、それを強く握りしめた。それは今まで冷静沈着で毅然としていた亜希が初めて見せた、頭としての強い責任感であり、使命感だった。
《ヴァースキ》のことがあったからこそ、《ニーズヘッグ》は《Ciel》の売買に一切手を出さなかったし、《アラハバキ》とも一定の距離を取ってきた。それなのに、それが故にこんなことに巻き込むことになってしまって、本当に申し訳ないと思う。
でもそれでも、深雪たちには《ニーズヘッグ》の協力が必要だった。
「俺たちは《死刑執行人》だ。だからどうしたって、亜希や銀賀とは立場が違う。でも……その思いは一緒だよ。俺も、《Ciel》の餌食になる子たちをたくさん見てきた。こんな状況、これ以上、絶対に許しちゃいけないんだ!」
それはまごう事無き深雪の本心だった。深雪たちが《ニーズヘッグ》を一方的に利用しようとしているのは確かだ。だが、もし《ニーズヘッグ》がパートナーになってくれるなら、心強いというのも偽らざる本音だった。彼らなら十分に信頼できると思うからだ。
本当なら、もっと違う形で協力し合いたかった。
亜希はじっと黙り込んでいる。彼らにとっても薬物汚染は脅威だ。だが、それでもチームを危険に晒すわけにはいかないと考えているのだろう。
一方、隣に座る銀賀は、何かを決心したように、宙をきっと睨むと、勢い良くその場に立ち上がった。
「亜希、やろーぜ!」
「銀賀……」
「どの道、俺たちにゃ選択肢はねーんだ。《オベロン》だけじゃねえ……これ以上《中立地帯》のパワーバランスが崩れたら、《ニーズヘッグ》を守れなくなっちまう……! どうにかこうにかチームの運営を軌道に乗せることができるようになるまでに三年もかかった。それを今、失いたくない!
それに……俺たちみてえなゴーストギャングを喰い物にして、のうのうと稼いでる奴が、どこかにいるんだろ!? ガキだと思ってナメやがって……このまま毟り取られるだけじゃ済まさねえ! そいつらに一矢報いてやろーぜ‼」
亜希は尚も俯いて考え込んでいたが、やがて小さく、しかしはっきりと呟いた。
「……条件がある」
「何?」深雪は尋ねる。
「その偽の取引とやらに、うちの女の子や子どもたちを巻き込まない事」
「……もちろん」
「それから、もう一つ。《アラハバキ》に目を付けられることだけは、何としても避けたいんだ。《アラハバキ》の肩を持つわけじゃない。ただ、僕たちにとって、それは死活問題だから。それは理解して欲しい」
「ああ」
「取引現場に現れる可能性がある《イフリート》も、《アラハバキ》のゴーストかもしれないんだろう? 僕たちのチームにも戦える奴はいる。でも、僕たちは絶対に手は出さない。僕たちが戦うのは自衛のためだけだ」
「分かった。こちらとしても、その方が助かるよ」
《ニーズヘッグ》に犠牲者が出たら、それこそあまりにも申し訳なさすぎる。戦うのはあくまで東雲探偵事務所の領分だ。《ニーズヘッグ》には、《カオナシ》を引き摺りだす役目を担ってくれたら、それだけで十分だ。
「その三つを守ってもらえるなら、協力する」
挑むような瞳を向ける亜希に、深雪は「約束するよ」と返事をする。そして、右手を差し出した。亜希は少し迷ったようだったが、その手を握り返してきた。
「ありがとう、味方になってくれて。……よろしく頼むよ」
深雪は強張った頬の筋肉を何とか動かし、僅かに笑みを作った。
「……こちらこそ」
亜希は深雪と違って笑顔ではなかったものの、東雲探偵事務所へ協力することに関しては決意を固めてくれたらしい。不平や不満はなく割り切った表情をしている。
亜希も銀賀と同じで《ニーズヘッグ》の将来を案じていた。このまま《Ciel》が蔓延した状況では、明るい未来はやって来ないという事を、内心では理解しているのだろう。
どうやって《カオナシ》と接触するか、詳しい打ち合わせは後日にすることにして、深雪はその日はいったん、《ニーズヘッグ》の事務所を去ることにした。
(取り敢えずは、何とかうまくいった……か)
《オベロン》や《ヴァースキ》の件は、《ニーズヘッグ》や亜希にとっていわばアキレス腱のようなものだ。正直に言って、それを突くのは罪悪感があった。相手の弱みをネタにして揺さぶりをかける。それでは、マリアのやっていることと何ら変わりがない。
だが、どうにか協力の承諾を取り付けることはできた。
(俺たちも背水の陣だ。《ニーズヘッグ》に協力してもらう以上、絶対に失敗することはできない……!)
《カオナシ》は大きな取引でないと姿を現さない。《ニーズヘッグ》との取引に現れるかどうか、今の段階ではまだ、確たる勝算があるとは言えないだろう。よしんば取引に出てきたとしても、《サイトウ》のように死なせてしまったら元も子もない。
もう二度と、失敗は犯せない。深雪は決意も新たに、事務所へと向かったのだった。
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その頃、《ニーズヘッグ》の事務所では、いつもクールな静紅が珍しく声を荒げていた。
「……はあ? 《死刑執行人》に手を貸すために、《Ciel》の元売りと偽の取引をするって……何それ? 何で私たちがそんな事……!?」
静紅の怒りももっともだった。《ニーズヘッグ》は今まで、徹底的に《Ciel》とは距離を置いてきた。周囲のチームが次々と《Ciel》の売買に手を染める中、決して関わらないという方針を貫いてきたのだ。
それを突如、方向転換しただけでなく、その原因が《死刑執行人》などという、関わってもおよそ碌なことはない連中だというのだから、納得できないと憤るのも無理はない。
「うっせーな、もう決めたんだよ!」
銀賀は、静紅の言葉を乱暴に遮る。銀賀や亜希としても、決して《ニーズヘッグ》を危険に晒したいわけではない。塾考の上での判断だが、それを静紅に納得してもらうのは難しいだろう。
すると案の定、静紅はむっとして銀賀を小突いた。
「バカ銀賀! この、どピンク単細胞‼ そんなだから、すぐにいいように利用されるのよ‼」
「いてっ! 何すんだよ!?」
「大丈夫だよ、現場に同行するのは僕と銀賀、あと数名の戦える奴だけだから。静紅はチビたちを頼む」
台所でコーヒーを淹れていた亜希は、振り返って淡く微笑む。
どの道、静紅を始めとしたチームの女の子たちは、最初から取引に関わらせるつもりは無い。だから、彼女たちに災難が降りかかることはない。
「そういう事じゃないよ、バカ……!」
静紅は悔しそうに唇を噛んだ。分かっている。静紅が、我が身可愛さに腹を立てているわけではないことくらいは。
けれど、亜希にはそれでも、決定を覆すわけにはいかない理由があった。
「……静紅。深雪はああ言っていたけど、僕たちには最初から選択肢は無かったんだよ」
亜希はコーヒーカップに二個の角砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜながら言った。それを聞いた静紅は、訝しげな表情を送ってくる。「どういう、事……?」
「深雪は最後に言ったんだ。『ありがとう、味方になってくれて』って。それは裏を返せば、断れば敵になるってことだよ」
「そんな……私たちが《死刑執行人》の敵? 何の理由で? できない事をできないって言ったから!?」
静紅はとうとう、激昂した。あまりの理不尽さに我慢できなくなったのだろう。亜希はそれに対し、あくまで穏やかに答える。
「彼らはやろうと思えば、僕たちを強引に従わせるくらい簡単なんだよ。何せ、彼らは《死刑執行人》で、いつでも僕たちをこの世から消し去ることができるんだ。僕たちが束になっても、深雪の事務所には敵わない」
「それは……そうだけど、幾らなんでもそんなこと……! どうして私たちがそんな目に遭わなきゃならないの? 他に悪い事をしている奴らはいっぱいいるのに……!」
正しくあろうとしたが故に《死刑執行人》に目をつけられたのであれば、どうにもやりきれない。亜希とて憤りを感じるし、完全に納得したわけでもない。
――だが、それでも。
「やるしかねえんだ、静紅。このままじゃ、俺たちだけの力だけでは《ニーズヘッグ》を守れなくなっちまう。《中立地帯》の問題は俺たちの問題でもあるんだ。薬物汚染の恐ろしさは、《ヴァースキ》でこれ以上ねえってほど思い知らされているだろ」
銀賀はそう言って、静紅を宥める。静紅は肩を落とし、眼鏡をはずすと目元を拭った。どうやら怒りのあまり、涙が浮かんでしまったらしい。
「それはそうだけど……《死刑執行人》と《アラハバキ》の二つに挟まれて、どちらかを選べだなんて、理不尽すぎる……!」
確かに、どちらを選んでも亜希たちにはリスクが付きまとう。ストリート=ダストは立場が弱く、《アラハバキ》であろうと《死刑執行人》であろうと、恐ろしい相手であることに違いは無いからだ。
そして片方を選ぶという事は、残った方を敵に回すという事でもある。




