第10話 《休戦協定》③
会議室は、ふと沈黙に包まれた。流星や神狼、オリヴィエ――みな、しかめっ面をして、何事か考え込んでいる。
《天国系薬物》の調査だけでも手一杯なのに、その上まで絡んできたのだ。おまけにそれらの関係性がさっぱり分からないせいで、どう手を打っていいのかも分からない。
暗澹たる気持ちになるのもよく分かる。
だがその中でただ一人、空気を全く読まない奈落が、遠慮なく声を上げた。
「……で? 結局どうするんだ、これから」
確かに、いつまでも黙りこくっているわけにはいかない。流星は小さく息を吐きだし、それですぐに気分を切り替えたのだろう。右手の内、三本の指を立てて言った。
「現状、俺たちに残されている手掛かりは三つだ」
「一つ目は《イフリート》ですね?」と、オリヴィエが即座に返す。
「ああ。今までの行動パターンから判断すると、奴さんは次の元売りによる《Ciel》の取引現場にも現れる可能性がある」
「しかし、もし《サイトウ》の殺害で彼の目的が達せられたのであれば、出現しない可能性も勿論ありますよね? それに、その元売りによる《Ciel》の取引がいつ、どこで行われるのかは、今の我々では把握できないのではないですか?」
オリヴィエの指摘は、なかなか鋭い。マリアも腕組みをし、うんうんと頷いた。
「そうなのよね~。《イフリート》はその外見の異様さから、目撃証言は結構あるんだけど、こちらから探すとなると案外見つからないのよね―、これが」
「見つからナイようニ、細心ノ注意ヲ払っているンじゃないカ?」
「……確かに。意外と、慎重で用心深い性格なのかもしれないわね。今までの出現場所から、法則性を探っているんだけど、今のところ、《Ciel》の取引現場に頻繁に出現していること以外、それらしいパターンは見当たらないし」
そして、神狼やマリアの考えが当たっているなら、《イフリート》はどさくさで《サイトウ》を殺したわけではないという事になる。決して場当たり的な犯行でなく、入念に調べて用意をし、あそこに《サイトウ》がやって来るのを待ち構えていたのだろう。
《イフリート》と《サイトウ》の間に何があったのか。ただの私怨トラブルである可能性も勿論あるが、もっと込み入った事情がある可能性も考えられる。
そうであるなら《イフリート》を追うという線もアリだ。ただ、問題もある。
「仮に《イフリート》を発見したとしても、奴が動き出してからその後を追ったのでは、後手に回るだけだぞ」
奈落も同じことを考えたのか、的確にその問題点を指摘した。
今の段階では、深雪たちには《イフリート》の居場所を特定する術は、何もない。だが、だからといって《イフリート》が動いた後に行動を開始しても、《サイトウ》の時の二の舞になるだけだ。
オリヴィエもその意見に同意を寄せる。
「……そうですね。《サイトウ》のように元売り組織を死なせてしまっては、我々としても元も子もありません。もう少し確実性のある線から当たった方が無難でしょう」
深雪たちにとって、《サイトウ》を目の前で失ったことは、かなりの痛手だった。二度と同じ轍を踏むわけにはいかないし、その分、慎重になるのも致し方ない事だ。
「だから、今のところ《イフリート》の件は保留だ」
流星はそう断言した。勿論、マリアを始め調査は続行するが、現段階の《イフリート》には不確定要因という側面が強すぎる。今はまだ、そこに重点は置かないということだろう。東雲探偵事務所は、少数精鋭だ。個々の能力は高いが、何と言っても数で劣る。割ける人員には限りがある。
「二つ目の手がかりは?」
深雪が尋ねると、マリアが新しい画像を表示した。
「ちょっとこれを見て欲しいんだけど」
それは、いくつかのサイトや掲示板のようだった。トップに平仮名の掲示板名があり、その下はびっしりと、アドレスや書き込みで埋められている。
「……これは?」
「《監獄都市》のゴーストが主に利用している闇サイト……その中で最も書き込み量の多いベスト5ね」
ざっと目を通すと、「そちらに林5はありますか?」とか、「林5・大特価‼‼‼」などといった文章が目立つ。
「林5(はやしご)……?」
何かの記号か。深雪が首を傾げると、マリアが皮肉交じりの口調で説明を加えた。
「それは『りんご』って読むの。林檎……つまり、《Ciel》の隠喩よ。『エデンの園』の禁断の果実にかけてるんでしょ」
厳密に言うと、エデンの園は楽園であって天国ではないのだが、《Heaven》にはどうやら『楽園』という意味も含まれているらしい。それで、《Ciel》を禁断の果実に当て嵌めるようになったのだろう。
「こういったサイトや掲示板も、《Ciel》拡散の一助となってしまっているのですね」
オリヴィエは嘆かわしいと、表情を曇らせる。
「こいつらの送信元は特定できないのか?」
流星も眉根を寄せ、マリアにそう尋ねた。確かに、書き込んだ主が分かれば、その中に元売りに近い者もいるかもしれない。
だが、事はそう簡単ではないのだという。
「今、売買を行ったとみられるアドレスを抽出して解析中よ。ただ……闇サイトだけあって、海外のサーバーを経由してるものも多いから、特定にはもう少し時間がかかる」
「その結果ヲ待つしかナイ……カ」
神狼は溜息をつくが、流星はニヤリと妙に自信のある笑みを浮かべた。
「いや、まだあるぞ。最後の一つは、《カオナシ》……《リコルヌ》のメンバーが口にしていたっていう、運び屋だ」
「《カオナシ》……ですか?」
オリヴィエはその名を耳にするのが初めてなのか、目を瞬いている。すると、流星がこちらに視線を投げ、説明を促して来た。《カオナシ》の情報を《リコルヌ》から聞き出したのは深雪だ。もっとも、いくつか会話を交わす中で偶然知った情報なのだが、ともかく流星は深雪に説明させた方が手っ取り早いと考えたのだろう。
そこで、深雪は《リコルヌ》で耳にした情報を皆に話した。
「元の中谷って奴が言っていたんだ。《Ciel》の運び屋にそう呼ばれている奴がいるって。かなりの大物らしくて、でかい取引じゃないと出てこないらしい。それに一度会った人間とは、二度と接触しないそうだ。
そいつの顔を見た人間は、みなその顔をすぐに忘れてしまう……顔だけじゃなくて、容姿も声も、ぼんやりとして思い出せなくなる。だから、《カオナシ》って渾名がついたんだって」
「見た顔を忘れる……? 声や容姿まで……そんなことがあるのでしょうか? よほど特徴のない姿をしているとか?」
オリヴィエは顎に手を当て、考え込む。すると、マリアはニヤニヤと意地の悪い視線を、深雪へと向けた。
「まあ、確かに存在感が空気な奴っているわよね~、例えばぁ、深雪っちみたいに」
「……何でそこで俺が出てくるんだよ?」
深雪は、あからさまなマリアのいじりに、半眼で返す。自分がいろいろ薄いのは分かっているし、それ自体に腹は立たないが、こうやって馬鹿にされたりいじられたりすると、それなりに腹が立つ。
ところが意外な事に、神狼が真面目な顔をして話し始めた。
「それとハ違ウ。もっト根本的な現象ダ。《カオナシ》といウ運び屋と取引きしたゴーストは、他にモ何人かイル。俺モそいつらに接触しテ、《ペルソナ》で記憶を探ッテみタ。だガ、何故カ《カオナシ》という名ノ運び屋の姿ヲ記憶している者ハ、一人もいナイ。記憶が根こそギ、無くなってイルんダ」
神狼が言うなら、それは間違いなく事実なのだろう。《ペルソナ》は行使対象の姿や声音をコピーするだけでなく、記憶を読み取り、複製する機能もあるからだ。
ただ、記憶の読み取りができない場合もある。それは、行使対象者の記憶が曖昧で薄れかかっている時だ。或いは、すっかり忘れてっしまった記憶などは、殆ど読み取ることができないらしい。
(《ペルソナ》を使っても、接触者の記憶に《カオナシ》の情報は一切、残って無かった。つまり、《カオナシ》と接触した奴らは、何らかのことが原因で、《カオナシ》の記憶を完全に消去させられてしまうってことか)
だが、通りすがりの人間の顔ならともかく、取引相手の顔などそう簡単に忘れるだろうか? 緊張し、警戒した精神状態の中で会った人物のことは、むしろはっきりと覚えている方が普通なのではないか。
(これは自然現象じゃない……アニムスによって記憶の喪失を引き起こされたんだ!)
みな、深雪がそこまで思い当たったのと、同じ結論に達したようだ。中でも奈落は、不愉快そうに目元を険しくし、吐き捨てた。
「……記憶を操作するアニムスか」
「対象者の記憶を消すことができれば、自分の顔を覚えられることもないし、知れ渡ることもない……確かに、こういった危険な取引をするにはもってこいですね」
オリヴィエも納得したように頷く。奈落とオリヴィエの二人は、基本的に反目することが多いが、意見が合う時は素直に認め、協力し合う。性格の不一致というより、単に二人とも自己主張が強いというだけなのかもしれない。それはそれで、もう少し穏便にやってもらい所ではあるが。
ともかく、《カオナシ》のアニムスが、記憶を左右するものであること、そしてそれを薬物の取引に悪用していることは、間違いなさそうだ。
マリアも確信を深めたのか、ぎろりと挑戦的な目つきになる。
「元売り組織の情報がなかなか割れないのも、これだけの薬物汚染で少数精鋭が可能なのも、全てはそのアニムスが犯行を可能にしているってわけね。何が起きても全部忘れさせれば、万事オッケーって感じ? 是非ともその《カオナシ》くんをとっ捕まえて、いろいろお話をお伺いしたいものよね~」
「まあ、そういうことで、だ。現段階で《イフリート》の出現に賭けるのはあまりにも危険が大きすぎるし、ネット上のアドレス特定はマリアに任せるしかない。だから俺たちは、この《カオナシ》って運び屋を追うぞ」
流星のその一言で、深雪たちの《カオナシ》攻略が決定した。確かに、今の段階では、《カオナシ》の行方を追うのが最も確実だろう。
だが、懸案事項がいくつかある。深雪はさっそくその一つを口にした。
「でも、《カオナシ》はかなり警戒心が強いんじゃないかな。《リコルヌ》との取引にも姿を現さなかったし」
「それに、顔を覚えている者がいないのであれば、聞き込みをしても殆ど意味はないでしょうし……ね」
オリヴィエも相槌を打つ。
おそらく、《カオナシ》は売人の中にある取引の記憶は、全て奪ってしまっているだろう。特に、自分に関わった部分は徹底して消去している。だからこそ、これほど不自然なまでに元売りの情報が漏出していないのだ。
だから、いつものように地道に情報収集をして、外堀を固めていくやり方は通用しない。
流星もそれは分かっているだろう。それでも勝算があるのか、にっと笑みを見せる。
「だから、引き摺り出すんだよ。俺たちの目の前に、な……!」
「どういう事?」
「《カオナシ》と接触するには、そいつが取引現場に現れるよう仕向けるしかない。今の段階では、それが唯一、《カオナシ》と確実に接触できる方法だ」
つまり、《リコルヌ》の時と同じように、再び偽の取引を仕掛け、《カオナシ》をおびき寄せようというのだろう。だが、それを聞いた奈落は、浮かない顔だ。
「だが、連中も警戒しているだろう」
「そうですね……《サイトウ》があのような死に方をしたのです。生半可な取引では決して姿を現したりしないでしょうね。新興チームとの取引も、当面は控えるでしょうし……」
深雪もオリヴィエの意見に賛成だった。
元売りがどこまで事態を把握しているかは分からない。だが、《サイトウ》を《イフリート》に殺され、取引現場に《死刑執行人》まで出現したとなれば、常識的に考えれば当分、取引は控えるべきだと考えるのではないか。
よほど魅力的な条件を用意するか、或いは、確実に身元の信用されているゴーストとの取引でなければ、彼らも当分は取引そのものを控えるだろう。いずれにしろ、大変な困難が伴うように思えたが、マリアは何故か余裕のある表情をしている。
「そう。だから、今度は既存のチームを利用するのよ」
つまり、今度は《リコルヌ》のような急拵えのチームではなく、ある程度、知名度のあるチームを利用するということか。
「でも、《死刑執行人》に協力してくれるチームが、そうあるとは思えないけど」
基本的に《死刑執行人》は、他のゴーストから恐れられ、避けられている。嫌われていると言っても過言ではない。それなのに、すんなり協力してくれるだろうか。だがマリアは、澄ました顔でつづける。
「あら、そう? 深雪っちと仲のいいあのチームとか、最適じゃない?」
「俺と仲のいいチーム……? って、まさか……!?」
「マリア、それ《ニーズヘッグ》のこと?」
それまで黙って皆の会話に耳を傾けていたシロが、唐突に声を上げた。
確かに、深雪が懇意にしているチームは一つしかない。竜ケ崎亜希が頭を務める《ニーズヘッグ》だ。マリアは嬉しそうに、それに答える。
「ピンポン、ピンポーン! チームの規模や組織年数、知名度……《ニーズヘッグ》は、あたしたちの探しているチームの条件にぴたりと合致するのよ! 更に幸いなことに、《ニーズヘッグ》はまだ《Ciel》の取引には手を出していない。これはもう、利用するっきゃないでしょ!」
深雪は慌てて反論した。
「いや、でも……ちょっと待ってよ。それってつまり、《ニーズヘッグ》のメンバーをこの事件に巻き込むってことだよね?」
「まあ、そうなるわね」
「当事者でもないのに、そんなことできるわけないよ! それに、《ニーズヘッグ》は薬物に手を出していない貴重なチームだ。メンバーは殆ど、十代前半から二十代前半の若者ばかり……十歳未満の子どももたくさんいる! そんなチームに、薬物取引を強要するのか!? おかしいだろ! それに……取引現場には、《イフリート》が現れるかもしれないのに……‼」
深雪たちは確かに《リコルヌ》を利用したが、それは《リコルヌ》が薬物取引を目的として結成されたチームだったからだ。
だが、薬物と距離を取っている《ニーズヘッグ》を巻き込むとなれば、話は違う。深雪たちの一方的な都合で、《ニーズヘッグ》のメンバーに、犯罪へと加担させることになるのだ。
しかし、マリアの反応は冷ややかだった。
「お言葉だけど深雪っち、彼らもすでに当事者なのよ。この《監獄都市》にいる限り、部外者なんて一人もいない。《Ciel》が蔓延し続ける限り、いつか彼らも犠牲になる。《カオナシ》を早急に捕らえることが、《ニーズヘッグ》のメンバーの安全を確保することにも繋がるのよ」
「それは詭弁だ! だいたい、頭の亜希をどうやって説得するんだよ!?」
「そうね~、深雪っちとシロがお願いすれば、あたしたちが脅して命令するより、事がうまく運ぶかもね?」
あまりの言い分に、深雪は呆気に取られて息を呑む。
「そんな……! 無茶苦茶だ! 流星、こんなのアリかよ!?」
「私も……こういうやり方は承服しかねます。守るべき子供たちを巻き込んでは、本末転倒です!」
深雪に続いて声を上げたのは、オリヴィエだった。オリヴィエは孤児院で子供たちの面倒を見ている。だから、子どもが巻き込まれることに我慢がならなかったのだろう。
だが、それでも流星の表情は変わらない。
「深雪……オリヴィエも聞いてくれ。作戦上、《ニーズヘッグ》に危険が及ぶ可能性があるのは確かだ。本来なら巻き込むべきじゃない。……《ニーズヘッグ》は比較的、問題の少ない優良チームだからな」
「だったら……!」
「友情を大切にする深雪の気持ちは分かる。子供を守りたいというオリヴィエの信念もな。……だが、俺たちは《死刑執行人》だ。俺たちには、他の何よりも優先させなければならないことがある。それは何だ? 平然と犯罪に手を染め、他者を蹂躙して血肉を貪る悪しきゴーストを排除することだ。……他の誰にもできない、俺たちにしかできない事だ」
「流星……」
「残念ながら、取るべき手段はそう多くは残されていない。一刻も早くこの事件を終わらせて、《Ciel》を撲滅する……そのためには、リスクを承知で選択しなきゃならない。だから……これは『命令』だ。逆らう事は一切許さない。……いいな?」
流星は他の皆を率いる立場で、実質上のリーダーだが、『命令』だという強い言葉を使う事は滅多にな
い。それをあえて使ったところに、流星の決意の固さが表れていた。流星もマリアの考えた作戦に賛同していて、深雪やオリヴィエが異議を唱えたところでそれは覆らないという事だろう。
《サイトウ》を死なせてしまったことを考えれば、形振りを構っていられないというのは理解できる。でも、頭では理解できても、感情はそれについて来ない。
「く……!」
俯いて唇を噛む深雪に、すこぶる冷徹な視線を向ける者が、他にも一人いた。奈落だ。
「『トモダチ』のことになると、すぐに逆上する……お前の悪い癖だ」
「奈落……。でも、それは当然のことだろ! 仲間なんだから……‼」




