第9話 《休戦協定》②
「ええと……中毒者が続出した……とか?」
深雪が答えると、マリアは満足げに胸を逸らせる。
「そのとーり! ついでにその中毒者がもれなくアニムスを暴走させて、自陣・敵陣関係なく大暴れしたもんだから、《中立地帯》のみならず《東京中華街》や《新八洲特区》でも、それはそれは甚大な被害が続出してしまいましたとさ……ってわけ」
巨大利権を諦めるほどだ。よほど悲惨な状況に陥ってしまったのだろう。続くオリヴィエと奈落の説明が、それを見事に裏付けてくれた。
「確かに《レッド=ドラゴン》や《アラハバキ》のような闇組織にとって、薬物市場は大きな資金源になり得るでしょう。けれど、《監獄都市》に存在するのは殆どがゴーストです。ゴーストが中毒症状を起こして錯乱し、暴走すると、私たち《死刑執行人》ですら容易には手が付けられません」
「《サイトウ》の件がいい例だな。《監獄都市》のゴーストが悉くああなったら、さすがに《死刑執行人》でも対応しきれない」
聞けば、《監獄都市》の大部分が目も当てられないほど荒れ果てているのも、その時代、数多のゴーストが暴走したことが原因らしい。そう説明し、流星は最後に言い足した。
「だから、薬物売買の禁止条項が《休戦協定》に盛り込まれたんだ」
薬物が広まったことが原因で、《中立地帯》はどんどん廃墟と化していった。それだけではない。ゴーストの暴走に巻き込まれ、毎日、何十人という人間やゴーストが命を落とす。
薬物で正気を失ったゴーストには理性がなく、手加減をすることもない。ちょうど、《Paradiso》を服用した《サイトウ》がそうだったように。
そしてその影響はとどまることを知らず、ついには《新八洲特区》や《東京中華街》にも及んだのだ。
さすがの《アラハバキ》や《レッド=ドラゴン》も、目先の利益より、自分の縄張りの治安を優先せざるを得なかった。それほど、この街で薬物汚染が広まると深刻だという事の証左なのだ。
薬物汚染による被害で辛酸を舐めたのは《中立地帯》だけではない。《アラハバキ》や《レッド=ドラゴン》も同様なのだ。だからこそ、休戦協定に同意したのだろう。
「だったら、《アラハバキ》も無関係だってこと?」
「そうは言ってないでしょ。ってか、噛んでるのは十中八九、《アラハバキ》よ」
「……え? ど……どーゆー事!?」
事も無げに答えるマリアだが、深雪は訳が分からない。すると、今度は神狼が詳細を説明してくれた。
「今回の《Ciel》の件ニ、《レッド=ドラゴン》ハ関与していナイ。であれバ、状況カラ考えテ、残るハ《アラハバキ》関係しかナイ……そういう事ダ」
「どうして、《レッド=ドラゴン》は関係ないって断言できるんだ?」
「それは、《レッド=ドラゴン》の帳簿をこの目で確認したから」
「……ヘ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げる深雪に、マリアは肩を竦めて見せた。
「まあ、『裏』はどうだか分かんないけどねー。《関東大外殻》の近くに支店を構えていて、彼らと商売関係にある中華系企業の取引総額と照らし合わせても、それほど数字に差異は無いから、一応、嘘はついていないんじゃないかしら」
「《レッド=ドラゴン》の帳簿って……よくそんなの、手に入れられたね」
帳簿には、ありとあらゆる資金源活動が記載される。いわば、詳細な行動記録のようなものだ。常識で考えれば、違法活動をする闇組織にとって、最も知られたくないことの一つだろう。それをそんなにもあっさり公開するなど、俄かには信じられない。
だが、マリアたちにとっては、さほど驚きではないようだ。
「神狼がこの間《東京中華街》に潜入した時、ゲットしてきてくれたのよ。ほーんと、誰かさんと違って、神狼は働き者なんだから~!」
「……別ニ、俺の手柄ト言うわけじゃナイ。《レッド=ドラゴン》としてハ、組織が《休戦協定》を侵していないト、証明する必要ガあるト判断したカラだろウ。だかラ、ここ四半期ノ帳簿一部ヲ、条件付きデ開示したんダ」
確かに、《Heaven》に端を発した《Ciel》などの《天国系薬物》は、この数か月で急激に蔓延し始めた。《レッド=ドラゴン》にしてみれば、その間の取引に薬物が関わっていないことを証明すれば十分と考えているのだろう。
それにしたって、彼らが資金の流れを明かすには、相当のリスクがある。ここまでするのは非常識だ。
(いや……そうとも言い切れない……か?)
理由の一つは、ここが《監獄都市》であることだ。
仮に《レッド=ドラゴン》が帳簿を公開したことで違法な経済活動が露見したとして、絶対に警察に捕まることはない。《ゴースト関連法》の存在があるため、警察はゴーストを逮捕できないからだ。
そもそもここは既に『監獄』の中で、紅神獄は絶対的権力者である《特刑》の一人だ。悪事が露見したとして、ペナルティを科されることはない。恐れるものは何もないのだ。
その点においても、ゴーストの闇組織は、人間の闇組織と行動原理が微妙に違うということか。
或いは、《東京中華街》でも《天国系薬物》が広まり始めているらしいと聞くから、東雲探偵事務所に圧力をかける意味合いもあるだろう、と神狼は説明を付け加えた。協力してやるから、一刻も早く薬物事件を片付けろ――と、そういうわけだ。
それでも深雪は、完全には腑に落ちなかった。何となく、しっくりこないのだ。すると、何故だかマリアが、妙に得意げに口を開いた。
「それだけ、所長の名前に力があるってことよ。なんせ、《中立地帯の死神》だもの」
「いや……でも、それだけで……?」
「……三年前、《休戦協定》を結ぶ際に、九曜計都と紅神獄、轟虎郎治の三名は非公式の会談を行ったの。その席を設けたのが、我らが所長だったのよ。所長のアニムスは、《タナトス》……一定の範囲でアニムスの効力を完全に封じる力でしょ?
特にこの《監獄都市》で最大と言っていい権力を持ったゴーストである、紅神獄と轟虎郎治が一堂に会すことができたのは、《タナトス》で両者のアニムスを完全に無効化することができたからなのよ。
むしろ所長の存在がなければ、あの歴史的な三者会談は成立しなかっただろうし、《休戦協定》が結ばれることも無かった。今ごろ、《監獄都市》の中は、もっと暴力と殺戮にまみれていたでしょうね」
(そんなことが……)
確かに、今ですら《アラハバキ》と《レッド=ドラゴン》は敵対していて、仲が悪いらしい。信頼関係がなく、むしろ不信と憎悪に満ちた関係だ。
通常の環境下では、そんな組織どうしのトップが会談するなど、不可能に近いだろう。それを可能にしたのが、六道のアニムス・《タナトス》なのだ。
《タナトス》は一定範囲内で、全てのゴーストのアニムスを完全に無効化する。互いにアニムスで攻撃し合うことが、絶対に不可能な状況を生み出すことができたからこそ、会談が成立したのだ。
「だから、九曜計都と紅神獄、轟虎郎治はみな、所長には一目置いてるの。所長はこの《監獄都市》で特別な存在なのよ。……いろんな意味において、ね」
「……」
マリアはまるで、自分のことのように誇らしげだった。そして、一つの画像を会議デスクの上に浮かび上がらせる。
それは、件の三者会談の映像だった。背後の映像を見るに、場所は旧都庁内のようだ。
杖を突いた東雲六道の傍にいるのは、パンツスーツを着た凛々しい女性だ。年齢は少なくとも四十を超えているだろう。きりっとした表情のせいか、映像越しにも凄まじい威圧感がある。
「このスーツの女性は?」
「彼女が《収管庁》の長官、九曜計都。こっちの着物の老人が轟虎郎治ね」
そのパンツスーツの女性の向かいにいるのは、着物を着た老人だ。どうやらそれが《アラハバキ》の三代目総組長、轟虎郎治らしい。思ったより顔つきは柔和だが、時おり眼光の鋭さを覗かせる。やはり、一筋縄ではいきそうになさそうな人物だ。いや、見かけは優しそうな分、余計に性質が悪いだろう。
そして、中には真っ白なチャイナ服を着た美しい女性の姿もあった。年齢は三十歳をいくらか過ぎた頃だろうか。六道を含めても、最も若く見える。
消去法で考えるなら、おそらく彼女が《レッド=ドラゴン》の六華主人だろう。服装から考えても間違いない。
「それじゃ、もしかして、この真っ白なチャイナ服の女性が、《レッド=ドラゴン》の紅神獄? 女の人だったんだ?」
深雪はてっきり、その名から紅神獄を男性だと思っていたから、少し意外だった。
「確かニ、名前は男っぽいガ、神獄サンは女性ダ」
神狼はそう答える。神狼もまた紅家の一員だが、紅神獄と血は繋がっていない。神狼は元々、紫家の生まれだったが、いろいろあって、紅家に引き取られたのだ。その神狼が証言するのだから、この女性で間違いないのだろう。
「彼女は確か今年で三十五歳になるそうよ。その年齢でこの体型、この美貌、チャイナ服もばっちりって、ある意味すごいわよね~。でも、彼女は最近、公の場にはあまり姿を現さなくなっている。健康不安説は本当なのかもね」
「ふうん……」
マリアの説明に、深雪は相槌を打った。確かに、深雪が《東京中華街》へ行った時も、紅神獄は姿を現さなかった。代わりに対応したのは、黄剛炎という黄家の当主だったのだ。その時は特に気にならなかったが、今思うと、紅神獄はあの時も体調を崩していたのかもしれない。
深雪は改めて、映像の中で九曜計都と挨拶を交わす紅神獄を見つめる。確かにかなりの美女で、スタイルもいい。メイクは濃い目で、特にマスカラが強いようだが、こういった場なので敢えてだろう。いわゆる戦闘態勢というやつだ。この中では最年少なので、馬鹿にされてはならないという心理も働いているだろう。
「ま、それはともかく……実際、《休戦協定》が結ばれて以降、《監獄都市》の中でこれほどまでに大規模な薬物の拡散は無かった。ホント、ナメた真似してくれたものよね。……これは明らかな宣戦布告よ。あたしたち《死刑執行人》だけじゃない。《監獄都市》全体に売られた喧嘩なのよ!」
(そんな、大袈裟な……)
マリアは柄にもなく正義感を雄々しく滾らせ、憤慨した。彼女がこんなに熱くなるなんて、珍しいことだ。どうやらマリアはそれほど、この薬物事件を絶対に解決へ導かなければならないという、強い使命感を抱いているらしい。
しかし一方で、深雪にはどうもマリアの感覚を心の底から共有することができなかった。薬物で汚染されていた頃の《監獄都市》を直に自分の眼で見ていないせいだろうか。
(でもまあ、確かに、これ以上《Ciel》を放置しておくわけにはいかないっていう点は、同感だけど)
ともかく深雪は、話題を元に戻すことにした。
「……取り敢えず、《監獄都市》に薬物がこれほどまでに蔓延するのは、普通じゃないっていうのはよく分かったよ。でも、要するに黒幕は《アラハバキ》なんだろ? だったら《アラハバキ》を潰せばいいだけなんじゃないの?」
「事はそう簡単じゃないのよ。じゃあ実際に《アラハバキ》のどの部分が噛んでるのかってのが問題なの」
どういうことなのか。深雪が眉根を寄せると、元警官だけあってそういった情報には詳しいのか、流星が《アラハバキ》に関しての情報を淀みなく説明してくれた。
「《アラハバキ》の構成員数は《レッド=ドラゴン》のおよそ八倍、支配地域の総面積はその十倍にも及ぶと言われている。その関係者、関係地域となると、数十倍に膨れ上がる。
現・総組長は轟虎郎治だが、その下には《御三家》と呼ばれる上松組、藤中組、下桜井組という三大連合会があって、そのさらに下には無数の傘下組織が存在する」
「今回の件に、おそらく総組長の轟虎郎治は関与していない。……彼の《特刑》としての立場は《休戦協定》によってさらに強固なものになったわ。それなのにわざわざ禁止条項である薬物売買に手を出して、自らその特権を反故にするとは思えない」
「かと言って、《中立地帯》のゴーストの仕業とも考えにくい。《中立地帯》は辛うじて警察による治安維持の影響が残っている地域だ。《死刑執行人》もわんさかいる。《中立地帯》のゴーストの平均年齢を考えても、これほどまでに薬物を大胆に拡散させ、おまけにその情報を徹底的に隠ぺいするなんて芸当をかませる奴が、そういるとは思えない。
《中立地帯》のゴーストでもなく、《レッド=ドラゴン》も噛んでいないとなると、消去法で導き出される答えは一つだ」
流星やマリアの説明を総括すると、つまり。
「……そういったことに手慣れている《アラハバキ》の手下の誰かが、幹部クラスにも内緒で勝手にやってるってこと?」
「分かりやすく言うと、そーいう可能性が高いってこと」
マリアは、自信たっぷりにニヤリと笑う。この薬物売買に《アラハバキ》が関わっているのは間違いないが、それは組織全体で仕組まれたものではない。そもそも《アラハバキ》は巨大組織であり、上が下のことを、完全に把握しているとは限らない。
むしろ幹部クラスも《Ciel》の売買を行っているのが誰なのか、知らない可能性すらある。――と、どうやら、そういうことのようだ。
「相手ハおそらく、かなりノ少数精鋭ダ。売買ニ関わる人間ガ増えれば増えるホド、情報モ漏洩しやすくナル」
神狼の指摘は、確か一理ある。現に深雪たちも、殺された運び屋の《サイトウ》の素性ですら、未だに掴めずじまいだ。
《リコルヌ》の面々を始めとするストリート=ダストたちも、元売り組織に関しては、殆ど何も知らないようだった。薬物の広まり方に比べ、情報流出の方は徹底して管理されている。必要最低限であり、尚且つ相互に意思を共有した人員でなければ、それは不可能だ。
すると、深雪と同様に難しい表情をしていたオリヴィエが、俄かに呟いた。
「けれど、その彼らにとっても、《イフリート》の襲撃は予想外だった……?」
「《サイトウ》の殺された状況を考えると、おそらくそう考えるのが妥当だろうな。もし連中が《サイトウ》を端から切るつもりだったなら、そもそも《リコルヌ》との取引現場に《サイトウ》を送り込んだりはしなかった筈だ」
流星の指摘もまた、的を射ている気がする。元売り組織が《サイトウ》の死を予測できていたら、少なくとも《リコルヌ》の取引には応じなかった筈だ。
運び屋が死ねばそれだけ取引自体が失敗する可能性も高くなる。情報漏洩を徹底して阻止してきた彼らが、そういった愚を犯すとは考えにくい。元売りや《サイトウ》自身もまた、あそこで《イフリート》が襲撃してくることを予期していなかったのではないか。
「そんで、ちょっと気になって調べてみたんだけど……まず、これがこの一か月で《イフリート》の姿を捕らえていた監視カメラの分布図ね。それに、《Ciel》の売買が行われた取引現場のうち、把握できているものを重ねると……」
マリアが空中に浮かび上がらせた二つの地図画像には、それぞれの分布が点となって記してある。半透明になったその二枚を、一枚に合体させると――
「……見事に重なりますね」
オリヴィエの言った通り、二つの地図に刻まれた点の分布が、ぴたりと一致する。
「《イフリート》は以前カラ、《サイトウ》ヲ狙っていタ……?」
「どういう事でしょうか……? 《イフリート》は元売りの一味なのでしょう? やはり仲間割れでしょうか?」
「その可能性は高いと思う。……まあ、理由までは分かんないけど。利権絡みのごたごたか、或いは個人的な恨みがあったとか……」
神狼とオリヴィエの疑問に、マリアはそう答えるが、どうにも歯切れが悪い。情報が無さ過ぎて、断言するには時期尚早だからだろう。
だが一方で、確かに、マリアの示した二枚の分布地図の一致具合を考えると、少なくとも《イフリート》が《Ciel》の取引現場を巡っていたという事実には、間違いがなさそうだ。
「……。《イフリート》はひょっとして……今は《Ciel》の元売り組織と距離を取っているんじゃないかな。彼の手元には《Ciel》売買に関する詳細な情報が一切ない。……だから、手当たり次第に取引現場を当たっているんじゃないかな?」
深雪が何とはなしに呟くと、マリアはちらりと視線を送ってくる。
「これだけ取引現場の周辺をうろうろしてるってことを考えると、その仮説も全くあり得ない話じゃないわね」
マリアは深雪の意見を真っ向から否定することはなかったが、積極的に肯定もしなかった。深雪の言った事には何ら証拠がなく、あくまでただの推測だからだ。
いやもしかすると、そうであって欲しいという願望が多分に含まれているのかもしれない。火矛威の姿が重なるせいか、《イフリート》には積極的に、薬物売買に関わっていて欲しくなかったのだ。
マリアも薄っすらとではあるが、それを感じ取ったのかもしれない。




