第8話 《休戦協定》①
新宿の街は今日も猥雑で雑多だ。人通りも多いし、路上を歩いていても、シャッターを下ろしている店は無い。
もっとも、普通であれば即座に警察の取り締まり対象になるような、危険でいかがわしい店も、堂々と看板を掲げてはいるが。
《監獄都市》の中には、街ごと廃墟と化した場所も数多くあるが、新宿界隈は都庁――現在は、関東収容区管理庁だ――があるせいか、二十年前と大きく変わりはない。《監獄都市》の中では非常に稀有な街だ。
深雪は、腕に嵌めた腕輪型通信機器の地図アプリに時おり視線をやりつつ、人通りの少ない細い路地へ入った。目指すは《タム・リン》という喫茶店だ。
そこにいるという《ニーズヘッグ》の頭、竜ケ崎亜希に会うつもりだった。
そこに亜希がいると教えてくれたのはシロだ。彼女が《ニーズヘッグ》にいた頃から、亜希はそこでバイトをしていたらしい。
ストリート=ダストとはいえ、経済活動を行わなければ、生活はできない。手っ取り早く、薬物売買などのような危険行為や犯罪行為に手を染めるチームも多いが、《ニーズヘッグ》は犯罪行為には関わらないスタンスであるようだ。
それにしても、頭が自ら喫茶店でバイトというのは、珍しいのではないか。
最近、いろいろと忙しく、深雪は《ニーズヘッグ》のメンバーとは会っていなかった。だから、久しぶりに会えるのは純粋に嬉しい。
だが、それにも関わらず、深雪は浮かない表情をしていた。いつも一緒に行動しているシロの姿も、傍にはない。深雪は一人だ。
「はあ……亜希を一体、何て説得すればいいんだ……?」
思わず溜息が漏れ、深雪はそれに気づいて更に憂鬱になった。
「マリアの立てたあの計画……上手くいくとは思えないけどな……。肝心なところは俺に押し付けるんだから……」
それは二時間ほど前のことだ。
東雲探偵事務所の二階にある会議室では、いつものようにミーティングが行われようとしていた。部屋の中央には逆ピラミッドの重厚な会議デスクが鎮座しており、流星や、奈落、オリヴィエ、神狼といったいつものメンバーがそれを取り囲んでいる。
シロやウサギのアバターに扮したマリアも同席しており、全員が揃っているが、ただ一人、所長である東雲六道の姿だけは見えない。
(最近、六道がミーティングに姿を現すことが減ったな……気のせいか……?)
だが、それは特に珍しい事ではない。六道が会議に出席する頻度が、以前より減ったのは間違いないが、もともと六道は現場を流星に一任していて、自身はあまり表に出てこない。
だから六道の姿がなくとも、誰もそれを気にしている様子はないし、深雪も特に疑問を口にすることなく、ミーティングは始まりを告げる。
しかし、会議はのっけから重苦しい雰囲気に包まれた。原因は先日のアーケード街で失敗し、捕獲対象の《Ciel》の運び屋を死なせてしまったことだ。
まず、新興チームの《リコルヌ》に紛れ込んで、薬物売買の取引現場に居合わせ、そこで《Ciel》の運び屋である《サイトウ》を拘束する、そうして捕えた《サイトウ》から情報を引き出すというのが、深雪たちの当初計画していた作戦だった。
だが、不慮の事態が発生し、肝心の《サイトウ》を死なせてしまったのだ。
深雪が《東京中華街》へと潜入する前から用意していた作戦だっただけに、その間の労力が全て無駄になってしまったのだと思うと、みな苦々しいものを感じずにはいられないのだろう。特にご立腹だったのが、運び屋の情報に大きな期待を寄せていた、情報亡者のマリアだった。
「マリア……お前、いつまでむくれてんだ?」
流星はそう言って呆れるが、ウサギのマスコットは不貞腐れたままだ。
「何よ、悪い? せっかく《リコルヌ》に潜入までしたのに、《サイトウ》を逃がすわ死なせるわ、懇切丁寧に用意した計画は全部パア! これがむくれずにはいられるかってのよ!?
あー、今ごろ本当なら、何もかもちゃっちゃと片付いて、スッキリしてた筈なのにぃぃ~‼」
「想定外の出来事が重なったんだ。ゴースト相手だと、そういう事もある。……上手くいく事ばかりじゃない。今までだって、そうだっただろ」
「そーだけど……それはそうだけど! 何か、納得いかないぃ~‼」
ぽっちゃり体系のウサギは、じたばたと手足を振り回して悔しがる。気持ちは分かるが、これでは全く話が進まない。深雪たちの思惑などお構いなしに、薬物を巡る状況は、どんどん悪化の一途を辿っている。
「さっさと切り替えろ。こうしている間も《Ciel》は拡散し続けているんだぞ」
見かねた流星が窘めるが、マリアはそれでも「む~‼」と、不満そうにしている。
マリアはただでさえ根に持つ性格をしているが、それに『情報』という要素が加わると、余計に荒れるところがある。それに嫌気がさしたのだろうか。今度は奈落が口を開いた。
「自らは汗を流さず、文句だけは一人前か。ずいぶんと楽な生き方だな」
何も今、そんな事を言わなくてもいいのに。深雪は頭を抱えたい心境だった。すると案の定、駄々をこねていたウサギは、即座に戦闘態勢に入る。
「ちょっと……聞き捨てならないんだけど。世の中には役割分担って言葉があるの、知らないわけじゃないよね? あたしは自分の役割である頭脳労働を全うしてるだけ。誰かさんこそ、筋肉動かすしか能がないクセに、何一つ成果も残せないなんて、一体全体、どーいう事かしら!?」
真っ向から喧嘩を売られ、奈落も剣呑に目を眇めた。上手くいっていない時だからこそ、力を合わせて乗り切ろう、などという殊勝な思考は、少なくともこの二人には無い。空気を全く読まないし、いつ何時も自己主張がやたらはっきりとしている。
ある意味、個が確立していると言えなくも無いが、付き合わされる方はただの迷惑である。
「お前らなあ……」
さすがにそろそろ堪忍袋の緒が切れたのか、流星は語勢を強めた。
「やめなよ、二人とも。そんな不毛な言い争いしても、始まらないじゃん」
「そうダ。やるべきコト、やらなきゃいけナイ事……他に沢山あル」
年下の深雪や神狼にまでそう諫められ、マリアと奈落は渋々、怒りの矛先を収める。
「……フン」
「ふーんだ! 分かってるわよ!」
(二人とも、こういうとこは揃って子供みたいだなあ……)
そう思わずにはいられない深雪だった。
一方、それまで黙りこくっていたオリヴィエは、マリアと奈落の諍いが一段落したのを見てとると、静かに口を開いた。
「それにしても、最も想定外だったのが、《イフリート》の存在ですね……」
「……!」
《イフリート》――深雪はその名を聞いた瞬間、どきりとした。今まで《イフリート》とは二度ほど接触したことがあるが、何故か全くの赤の他人だとは思えなかったのだ。ただ、未だはっきりとした確証があるわけではなく、勘のようなものに過ぎないが。
俯く深雪をよそに、今度は流星が口を開く。
「《イフリート》……火だるま男か。奴が《サイトウ》を消し炭にしたっていうのは本当なのか?」
「間違いナイ。この眼で見タ」
「シロも見たよ! ……すぐにいなくなっちゃったけど」
神狼とシロは互いに顔を見合わせながら、頷いた。深雪も現場に居合わせたが、《イフリート》の出現があまりにも突然だったので、今でも信じられないくらいだ。
マリアもどことなく腑に落ちない顔をしている。
「《イフリート》の存在はこっちも前々から把握していたけど、今まで特に目立った行動に出ることは無かったのよね……どちらかと言うと、新宿から池袋辺りで頻繁に目撃される、都市伝説みたいな扱いだったのに」
「奴は何故、《サイトウ》を殺したんだ?」
「タイミングを考えると、たまたまと言うより、待ち伏せをしていたようにも見えましたが……」
奈落とオリヴィエの疑問も、もっともだった。
深雪たちは以前から《Ciel》の元売りを追っていたが、その時は《イフリート》の存在など、影も形も無かったのだ。それが何故、突然、姿を現して、《Ciel》の運び屋を焼殺したのか。マリアは肩を竦め答える。
「それは、まだ分からない。ただ、《リコルヌ》にいた篠原って奴は、気になることを言っていたわ」
篠原は《サイトウ》と《Ciel》の取引を試みた、《リコルヌ》というチームの副頭だ。取引現場である地下駐車場から逃げ出したが、神狼によって呆気なく捕えられてしまった。捕縛され、意気消沈した篠原から話を聞き出したのは、流星とマリアだ。篠原は今回の《Ciel》の取引を始める際、気になる噂を耳にしたという。
「――《Ciel》の取引現場には、炎を使う殺し屋が出るって聞いたことがあります。そいつは元売りの雇った殺し屋で、元売りに逆らったり、不用意に情報を漏らしたりしたら、みんなその殺し屋に炭にされて殺されるんだって……!」
「そいつが《イフリート》か?」
「それは……ちょっと分かんないですけど」
「その殺し屋って奴に会った事はある?」
「いや……《サイトウ》さんとは何度か連絡を取り合ったんですけど、そん時は一度もそういう人には出くわしませんでした。だから、所詮ただの噂だろうって、チームメンバーと話してたんすけど」
篠原によると、その『炎を使う殺し屋』というのも、どちらかと言うと都市伝説に近い存在だったらしい。噂にはなっていたが、実際に遭遇し、危害を加えられた者はいなかった。そういった意味においては、《イフリート》とよく似ている。
(《イフリート》……か。何故だろう……これほどまでに気になるのは……)
深雪は、《イフリート》に会った時のことを克明に思い出していた。躊躇なく《サイトウ》を殺して見せた一方で、《イフリート》は深雪たちには全く手出しをしなかった。神狼が暗器を投擲したが、反撃することもなく、逃げるようにして現場を立ち去って行った。
(『彼』は俺を知っている……? 俺たちは過去に会った事がある……《イフリート》は……もしかして、火矛威……? あの火矛威なのか……!?)
火矛威のアニムスも、炎を操るアニムスだった。《イフリート》を始めて見た時から、火矛威であるような気がしてならないのは、それが原因の一端でもあるだろう。
それに、もしそうなら――もしあれが火矛威だったなら、深雪を見て慌てたように立ち去ったことも納得がいく。だが一方で、《イフリート》が《サイトウ》の命を奪った事実を考えると、その仮定に抵抗を感じる自分もいた。
よほど深刻な表情で考え込んでいたのだろう。オリヴィエが小声で声をかけてきた。
「……深雪? 大丈夫ですか?」
「え……?」
「顔色が悪いですよ?」
「あ……うん、何でもない」
オリヴィエは良く気がきく。だから、深雪の様子が可笑しい事にもすぐに気づいたのだろう。けれど、深雪は今のところ、火矛威のことを皆に話すつもりは無かった。
まだ、そうだという証拠は何もない。それに火矛威のことを説明しようと思ったら、深雪の過去を明かさなければならなくなる。最近は以前より、事務所の面々と打ち解けてきたとはいえ、そこまでの決心はまだつかなかった。
幸い、他の面々は深雪の様子に気づくことなく、ミーティングを続けている。
「あともう一つ、《リコルヌ》の頭に小田って奴がいてな。そいつが少々、興味深いことを証言してくれたぜ」
「まあ、頭って言っても、お飾り感がハンパない奴なんだけどね」
流星の言葉に続き、マリアが呆れたように付け加える。そして、音声録音が会議室に流れた。それは、《リコルヌ》の頭、小田の証言だった。
『お、俺……前に《アラハバキ》にいた人にお世話になったことがあるんだ。つっても、もう五、六年くらい前なんだけど。……その時に聞いたことがある。《アラハバキ》の中には、相手を燃やし尽くして消しちまう殺し屋がいるって。そいつに狙われた奴は完全な炭になって、誰だか分かんねえほどに燃やし尽くされちまうんだ。だから、かなり恐れられてた。今は……その人とも疎遠になっちまって、どうだかは分からないけど』
「《アラハバキ》……!?」
「《イフリート》は、《アラハバキ》の構成員なのですか!?」
深雪とオリヴィエは、揃って目を見開く。《アラハバキ》で恐れられていたという殺し屋は、《イフリート》と特徴が酷似している。もっとも、火を扱うアニムスは珍しくは無い。別人の可能性もあるが、両者は『殺し屋』という点でも一致している。
「……そうならそうと、早く言え。もったいぶりやがって」
同じく小田の証言を聞いていた奈落は、不機嫌そうに舌打ちをすると、次いで、がしがしと頭髪を掻いた。
「話を総括すると、《イフリート》は《Ciel》の元売りの仲間で、尚且つ《アラハバキ》と繋がっていた可能性がある。そしてその《イフリート》が、《Ciel》の運び屋だった《サイトウ》を殺した……それが事実なら、元売りは《アラハバキ》に関係のある人間だろう。
とどのつまり、こいつは完全に《アラハバキ》の内輪揉めじゃねーか」
「大方、薬物売買による巨大な利権を巡って、《アラハバキ》の間で争いが起きた……といったところでしょうか?」
オリヴィエも納得のいった様子でそう呟いた。確かに、《イフリート》が《サイトウ》を殺した理由が利権をめぐる仲間割れなら、動機として自然だし、最も現実的だ。
(でも、本当にそうなのか……?)
《イフリート》の姿に火矛威が重なるせいか、どうしてもそれが理由だと思えない。そもそも、《イフリート》は薬物には全く興味を示していなかった。《Ciel》が目的なら、取引現場の方に姿を現していたはずだ。何故、取引に失敗し、薬物を持っていなかった《サイトウ》を襲ったのだろう。
すると、意外にもマリアが、奈落とオリヴィエの見方を否定した。
「はいはい、はーい。早まらないの。まさか《休戦協定》の存在を忘れたわけじゃないわよね?」
「ああ、確かに……それでは、辻褄が合いませんね」
オリヴィエは溜息をつく。当てが外れ、肩を落としているようだ。だが深雪は、何が何だか分からない。《休戦協定》とは何なのだろう。深雪はマリアに小声で尋ねた。
「休戦協定……? って、何?」
「《収容区特殊刑務官》――通称、《特刑》である紅神獄と轟虎郎治、そして関東収容区管理庁の長官である九曜計都。この三者の間で交わされた、非公式の《休戦協定》。その中にはさまざまな条項があるの。
例えば、互いに互いの領域を侵さない、決して宣告なしに抗争を仕掛けたりしない……とかね。
その中に、依存症を併発する危険薬物には、いずれの組織も手を出さないっていう項目も含まれているのよね~」
紅神獄は《レッド=ドラゴン》の六華主人、轟虎郎治は《アラハバキ》の三代目総組長だ。彼らはこの《監獄都市》に収監された『囚人』でありながら、《特刑》という巨大な特権を付与されている。いわば《監獄都市》における、事実上の最高支配者だ。
そして、名義上の最高責任者、収管庁長官・九曜計都。《休戦協定》とはその三者で定めた、《監獄都市》内における非公式の共通ルールということだろう。法律や条例を制定しても、ゴーストには全く適用されない。それ故の、苦肉の策だ。
そしてどうやらその中に、薬物売買の禁止も盛り込まれているらしい。
「でも……《レッド=ドラゴン》や《アラハバキ》はよくその条件を呑んだね。薬物をうまく捌けば、相当、儲かるだろ。実際、麻薬の密売や売買は、闇組織の専売特許みたいなもんだし、貴重な資金源になりそうなものなのに」
すると、それに応えたのは流星だった。
「残念だが、そいつは人間の発想なんだな、深雪ちゃん」
「どういう事?」
「忘れたのか、深雪? 俺たちはゴーストだぞ。ゴーストにとって、一番の脅威とは何だ?」
深雪はその言葉でピンとくる。「そうか、アニムスの暴走……!」
普通の人間においても、薬物依存は深刻な問題だ。薬物中毒者の中には裸になって大騒ぎする者や、幻覚を見て刃物を振り回すもの、中には車を暴走させて幾人もの通行人の命を奪う陰惨な事件を起こす者もいる。ただの人間が起こす薬物中毒さえそれほどひどいのだから、それがアニムスをもつゴーストの身に起こったらどうなるか。言うまでもない。
ただでさえ《監獄都市》は閉鎖環境にある。そんな状況下でゴーストの暴走が蔓延すれば、《レッド=ドラゴン》や《アラハバキ》も影響を受けるのは必至だ。それこそ、決して無視する事ができないほどに深刻な事態を引き起こす可能性もあるだろう。それほど、アニムスの暴走は恐ろしい。
彼らは巨額の利権と自らの身の安全を天秤にかけ、最終的に後者を選択したのだ。
「実際、以前はそんな協定なんてもの無かったから、《監獄都市》の中では薬物がバンバン蔓延してたの。それこそ、《Ciel》だ《Paradiso》だなんて比べようもないくらい、作用が強烈で種類も豊富。
……さて深雪っち、その結果、何が起こったでしょう?」




