第5話 《グラヴィティ》
額に滲む汗は痛みのせいか、それとも、最悪の結末が訪れる可能性に対する恐怖なのか。
だが、やるしかない。多少の危険を冒したとしても、生き残るにはそれしかないのだ。
平太は、ふと口元を歪めて笑う。
「へ……へへ。その勝ち誇った顔……ムカつくんだよ‼」
そして、奥歯にあらかじめ仕込んでいた錠剤を、思い切り噛み砕いた。
錠剤は、《Paradiso》という名の薬物だ。《Ciel》と同じ作用があるが、効き目は《Ciel》より数倍早く、強い。
その分、『副作用』も強烈である事と、値段が少々高めであるため、《Ciel》ほどの人気は無いようだ。だが高価な分、アニムスの強化作用は《Ciel》の数倍にも及ぶ。
(情報を漏らすわけにはいかない……そんなことをしたら、俺が組織の奴らに殺される! この場を切り抜けるには、アニムスで戦うしかない‼)
噛み砕いて飲み干した錠剤は、胃に達すると同時に体内へと吸収され、早くも効果を発揮し始める。
「ふ……ぐ…………う……ああ、ひゃ……あ………‼ うぐああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼‼‼」
平太は湧き上がる高揚と万能感に身を任せ、自らを解放し、大きな咆哮を上げた。それと同時に、瞳の瞳孔が不吉なほど赤い閃光を放つ。
その様子を目にした眼帯と神父は、瞬時に後退した。さすがにこちらを警戒しているようだ。
平太の全身に、興奮と快感が走る。それらは、嵐の直後の濁流のように暴れ、うねり、全てを貪欲に呑み込んでいく。
怖いものなど何もありはしない、俺はやれる――ぶっ殺してやる!
全身でそう叫ぶ平太の周囲の空気が、波打つように一度、大きく脈打ち、そのまま急速に膨れ上がった。平太の発生させた重い空気の塊は、周囲のシャッター通りの空き店舗を巻き込み、アーケード街の天蓋をも吹き飛ばし、何倍にも膨張してとうとう大爆発を起こしたのだった。
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三橋平太――《サイトウ》の起こしたアーケード街の大爆発は、《サイトウ》の後を追う深雪の目にも入った。
「あっちは、確かアーケード街があったはず……奈落とオリヴィエか……?」
深雪たちの目的は、《サイトウ》を捕らえることだ。それが上手くいっているなら、あんな爆発など起こらないだろう。
つまり、《サイトウ》の確保は失敗し、何か不慮の事態が起きたのだ。深雪は眉根を寄せると、走るスピードを上げる。
すると、曲がり角を曲がったところにシロがぽつんと立っていた。
「ユキ!」
「シロ!? どうしてここに?」
互いに互いの出現に驚きつつも、そう尋ねると、シロは悲しそうに眉毛を八の字にした。手には日本刀《狗郎丸》がしっかりと握られている。
「オルが、危ないからここで待ってなさいって。シロもお手伝いしたいのに……シロ、邪魔者なのかな?」
「そんなことないよ。でも、オリヴィエはほら……心配性だから」
「うん……」
シロはそう返事をするものの、やはりどこか寂しそうだ。
最初は躊躇なく日本刀を振り回す姿に随分と驚かされたが、シロは必ずしも破壊行為を望んでいるわけではない、という事に深雪は気づいていた。
シロはただ、東雲探偵事務所の中で、何らかの役割を果たしたいと思っているだけなのだ。
だったら、ここに一人残しておく方が、シロにとっては却って良くないのではないか。勿論、オリヴィエや流星が心配をする気持ちも十分わかるのだが。
「……あのさ、俺と一緒に行こっか」
深雪がそう切り出すと、シロはぱっと目を見開いた。
「いいの!?」
「うん。でも、危ないのは確かだから、慎重に行こう」
「分かった。シロ、注意する!」
シロは満面の笑顔になって答えた。よほど嬉しいのか、頭頂の獣耳がぴょこんと跳ねる。手にしっかりと日本刀を提げているのが不安ではあるが、不安だからといってシロをつま弾きにしていると、いつまでも現場に慣れずに悪循環に陥ってしまう。ここはシロの言葉を信じるしかない。
(取り敢えず、今はアーケード街の方が心配だ。急がないと……!)
深雪はシロと二人で、アーケード街までひた走る。
そうやって到着した時には、アーケード街は数度の爆発によって滅茶苦茶になっていた。
立ち並ぶ店のシャッターは、紙切れのように丸まって全く役割を果たしておらず、店舗の中が丸見えだが、その店舗も歪んだり傾いたり、建築基準を満たしているものは数えるほどしかない。アーケード街の天蓋も、ジェットコースターのレールのように、上下に蛇行してしまっている。
地面には瓦礫が溢れ、足の踏み場もない。もともと寂れたアーケード街だったが、ここまでではなかった筈だ。
それでも何とか内部に足を踏み込むと、すぐに奈落とオリヴィエの後ろ姿が見える。そして二人が身構えるその向こうで、《サイトウ》の姿も見えた。
服装は地下駐車場で見たものと変わらないが、ヘルメットが無くなっている。顔は意外と、普通の若者といった印象だ。でも、様子がおかしい。ゆらゆらと体を揺らしながら、妙に不敵な笑みを浮かべている。
「奈落、オリヴィエ! どうなってるんだ、これ!?」
深雪が声をかけると、オリヴィエが僅かにこちらを振り返って答えた。
「深雪……それが、彼は何らかの薬物を服用したようなのです」
「薬物って……まさか《Ciel》!?」
「いや、あれは《Caelum》か《Paradiso》のどちらかだろう。効果が現れるのが早すぎる。あらかじめ奥歯に仕込んでやがった……ゲリラの連中が良く使う手だ」
低い声でそう答えたのは、《サイトウ》に銃を向けている奈落だ。深雪は素早く記憶の糸を手繰り寄せる。
(《Caelum》や《Paradiso》って、確か《Ciel》と成分はほぼ同じだけど、アニムスを増幅させる作用は強いんじゃなかったっけ……?)
《Ciel》に《Paradiso》、《Caelum》――それらはどれも、《Heaven》に端を発する新種ドラッグだ。どれも天国を意味する単語を冠していることから、《天国系薬物》とも呼ばれている。
含有成分はどれも殆ど同じだが、《アニムス抑制剤》と危険薬物の比率がそれぞれ微妙に違う。どうやら、消費者のニーズに合わせた結果らしいが、それが《天国系薬物》の流行を生んだ要因でもあった。
《サイトウ》が呑んだのは、どうやら《Ciel》より数段、即効性があり、アニムスを強化する作用も強い薬物らしい。
それはつまり、《サイトウ》のこちらを攻撃する意志が、それだけ強いことを意味している。
「来る……!」
深雪の傍に追いついてきたシロが、《サイトウ》に視線を注いだまま、鋭く囁いた。
次の瞬間、《サイトウ》の瞳が発光し、彼を中心として重い空気の塊が膨張する。それは瞬く間に爆風へと変換され、その場にいる全員へと襲いかかった。轟音が響き渡り、アーケード街を支える鉄骨が耳障りな悲鳴をあげる。
「シロ!」
深雪は咄嗟に、シロを抱きしめて庇った。その直後、埃が煙幕となって宙高く舞い上がったかと思うと、《サイトウ》の巻き上げた無数の木片や瓦礫が弾丸と化し、こちらに向かって襲い掛かってくる。
遠くで商店が軋み、ガラスの割れ砕ける音や、塵芥が押し潰される音が、甲高い悲鳴のように響いてくる。
これは自分たちも到底、無事では済まないだろう――深雪はそう覚悟していたが、それにしては痛みも出血も無い。どういうことなのかと後ろを振り返ると、オリヴィエがこちらに背を向け、深雪たちを守るようにして立ちはだかっていた。漆黒の神父服と滑らかな長い金髪が、激しくはためいている。
「……深雪、シロ! 大丈夫ですか!?」
オリヴィエはすかさず手袋を外し、《スティグマ》を発動していた。手の甲から滴り落ちる真っ黒い血液が途中で大きく広がって、半球状の巨大な薄い膜になっている。その巨大な膜が、オリヴィエ自身とシロ、そして深雪を、《サイトウ》の放った衝撃派から守ってくれたのだ。
因みに奈落は、オリヴィエや深雪のいる所より、更に後ろへと退避していた。オリヴィエに借りを作るのは嫌なのだろう。
やがて、もうもうと立ち込める粉塵は徐々に晴れ、商店街の様子が見えてくる。前方には確か、魚屋や薬局、靴屋などがあったはずだ。だが、その周辺は大きく様変わりしていた。
いずれも店舗ごと、跡形も無く吹き飛んでいたのだ。残っているのは、名残を示す僅かな残骸だけ。商店街は順序良く店が並んでいたが、《サイトウ》の周囲だけ、まるで歯が抜けたかのようになっている。
どの店もすでに廃業しており、人の住んでいない廃墟であったことが唯一、不幸中の幸いだ。
「あれは……!」
霞む視界の中、靴屋があった辺りから、ふらりと一人の人影が浮き上がる。黒づくめの服装に、真っ赤なスポーツシューズ。《Paradiso》を服用した《サイトウ》だ。
中肉中背の青年は、焦点の定まらない目を虚空に投げ、その瞳孔の淵はリング状に赤く光り続けている。痛覚が完全にマヒしているのか、瓦礫による擦過傷や出血が体のあちこちにみられるが、痛がる素振りも見せない。
奈落に撃たれたはずの腿にも構わず、まるでそんな事は最初から無かったかのようだ。
「う……あ……あ…………! あひゃ……あひゃひゃひゃひゃああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ‼‼」
《サイトウ》は凄まじい背筋力で大きく仰け反り、狂ったように笑い始めた。瞳孔は完全に開き、紅い光を放ち続けている。
何をするつもりなのか。深雪たちがぎくりとして警戒態勢に入った次の瞬間、《サイトウ》の体が、周囲を包む空気ごと、地面に大きくめり込んだ。そしてその反動で、広範囲に衝撃派が広がっていく。巨大な鉄球が上空から落ちてきて、周囲のものを吹き飛ばすのと、原理は同じだ。
ただでさえ半壊状態だった商店街の建物は、為す術も無く粉砕されていく。そしてとうとう、それはオリヴィエの《スティグマ》をも吹き飛ばした。
「くっ……!」
衝撃波の直撃は免れたものの、その反動で後方によろめくオリヴィエ。すると、深雪の背後で怒号が上がった。
「どけ!」
声の主は奈落だ。振り返ると、《サイトウ》に向かってハンドガンを構えている。
「オリヴィエ、伏せろ!」
深雪は奈落の意図を瞬時に察し、そう叫びつつ、自らも地面に伏せた。オリヴィエもまたそれに反応し、身を屈める。それとほぼ同時に、奈落は《サイトウ》に向かって連続して数発、発砲した。
しかし銃弾はいずれも、《サイトウ》に届く数センチ手前で、ぴたりと空中に制止する。そして宙に浮いたまま、小刻みに震えると、空き缶のようにくしゃっと潰れ、コロコロとその場に落下してしまった。
「……!」
「これは……!」
奈落とオリヴィエは、揃って顔を顰めた。《サイトウ》を取り巻く分厚い空気の層のようなものが、銃弾を防ぎ、ただの鉄屑にしてしまったのだ。
「くっ……俺の《ランドマイン》ならどうだ!?」
深雪はパーカーのポケットの中にいつも常備しているビー玉を握りしめ、それを《サイトウ》に向かって転がす。そして《ランドマイン》を発動させ、爆発を試みるが、やはり見えない空気の壁に阻まれ、爆発が《サイトウ》に届くことは無かった。
「な……何だあれ!?」
深雪の《ランドマイン》は防がれてしまったものの、それに伴う爆風が、《サイトウ》の周囲を覆う空気の層の形をくっきりと浮かび上がらせていた。
それは完全な球体をしていた。《サイトウ》はまるで、ウオーターバルーンの中にいるかのようだ。やがて《サイトウ》は、球体状の透明なシールドごと徐々に地面から離れ、空中に浮遊する。
「浮いてる……!?」
深雪が驚いて呟くと、オリヴィエも何かに気づいたかのように、目を見開いた。
「ひょっとして、彼は重力を操っているのでしょうか……?」
「んー、何? お前ら、お、お、俺のアニムスに興味あんの? の、の、のののぉぉ~!?」
球体に守られているという安心感からか、それとも単に薬物の作用なのか、《サイトウ》は異常に興奮して捲し立てた。唾を吐き散らし、かっと見開かれた眼球は血走っている。
「うぜえ……」
奈落はその性格から殺気立つことは珍しくなかったが、《サイトウ》に向かって放っている殺気は、明らかにそれとは性質を異にしていた。深雪は思わず、「奈落、抑えて!」と小声で突っ込む。
だが当の《サイトウ》は、そんな事には気づいた様子も無く、異様なハイテンションだ。
「俺のアニムスはあー、《グラビティ》って言いまーす‼ 俺に近づいてくるお前らをぉー、みーんな木っ端微塵にしちゃう能力でぇぇーす‼」
「成る程、《グラビティ》……やはり重力というわけですね?」
一方のオリヴィエは、妙に冷静に呟いた。《サイトウ》のうざったいテンションにも特に気分を害した様子はない。さすが孤児院で鍛えられているだけあって、鋼のメンタルだ。
深雪はついそんな感慨を抱いてしまったが、まるでその隙をつくかのようなタイミングで、濃紺のセーラー服が傍を駆け抜けていく。深雪があっと思った時には、シロは《サイトウ》に向かって飛び出していった後だった。
「やああああああ‼」
「シロ!?」
「ちょっ……ああもう、慎重に行くって言ったのに!」
深雪は頭を抱えるが、シロの表情は真剣そのものだった。愛用の日本刀を抜くと、真正面から《サイトウ》に斬りかかる。だが、奈落の銃弾さえ届かなかったのだ。日本刀で《サイトウ》を包む球体状の層を、破壊できるはずも無かった。
「来るなっつってんだろーがあああああぁぁぁぁぁぁぁ‼」
《サイトウ》は怒りを滲ませて絶叫した。シロの攻撃がいらぬ刺激を与えてしまったのだろう。完全に逆上している。そして、それに反応したのか、《サイトウ》を守っていた圧縮空気の塊が、一気に膨張した。そして、地面に向かって激しくバウンドし、シロの小さな体を弾き飛ばしてしまった。
「ふにゃあ‼」
シロの体は、それはもう軽々と吹っ飛んでいった。平太の重力壁の作用で、尋常ではない勢いだ。そのままアーケード街に連なる商店の一つに突っ込んで行く。《グラヴィティ》は術者の身を守る鎧でもあり、攻撃する剣にもなるようだ。
「あひゃ……あひゃあぁぁぁ‼ ざ、ザマあみやがれ‼」
それを見た《サイトウ》は、狂喜の声を上げた。手を叩き、大はしゃぎだ。大方、目障りな敵をやっつけたとでも思っているのだろう。
「……シロ!」
《サイトウ》は奈落やオリヴィエに任せて問題ないだろう。それよりは、商店に突っ込んでいったシロのことが心配だ。深雪はオリヴィエに「俺が行く!」と言い残し、シロの元へと駆け出したのだった。
シロが突っ込んだのは、元は個人経営の書店らしき店舗だった。『本』の一字が入った看板が、壁から所在無げにぶら下がっている。
店内を覗くと、今は本や本棚は全て撤去されており、梱包材や緩衝材、段ボールなどが、ごみ置き場のように積み上げられていた。完全にゴミ屋敷だが、今回ばかりはそれが幸いした。そのゴミがクッション代わりになり、シロを受け止めてくれたからだ。
「シロ! 無事か!?」
声をかけると、緩衝材や段ボールの間から、獣耳が二つ覗いた。次いでもぞもぞとシロが這い出してくる。深雪はシロに駆け寄って、それを手伝った。
時おり気になって振り返ると、背後では、奈落とオリヴィエが《サイトウ》に攻撃を試みている。
奈落は銃弾を撃ち込み、オリヴィエは《スティグマ》による血の鞭を閃かせる。しかし、いずれも分厚い重力の壁に阻まれ、攻撃は《サイトウ》まで届かない。銃弾や血の鞭と、《サイトウ》の重力の壁がせめぎ合い、激しく火花を散らしている。
「まずはあの壁をぶち壊さない事には、始まらねーな」
奈落はそう吐き捨てた。様々な角度から銃弾を撃ち込んでいるようだが、どれも《サイトウ》の体には掠りもしない。球状の空気層を解除しなければ、どうにもならないのだ。
オリヴィエもそれに頷いた。
「……そうですね。少し様子を見てみましょう」
オリヴィエの《スティグマ》が攻撃する合間を縫って、奈落が銃を撃つ。二人はこういう時は、何故だか見事な連係プレーを見せる。
ただ実質的には、致命傷狙いの攻撃ではなく、相手の出方を窺い、《グラビティ》というアニムスの性質を探っている段階だ。しかし、それも捗っているようには見えない。《スティグマ》は全て弾き返され、銃弾は全てが拉げた鉄屑となってばらばらと《サイトウ》の足元に落下している。
テンションがやたらと高く、ふざけた《サイトウ》の言動とは裏腹に、そのアニムスに隙は無い。
「ち……!」
奈落は顔を顰めながらハンドガンの弾倉を詰め替える。銃器は扱い方さえ慣れれば強力な武器だが、弾がきれるのが玉に瑕だ。
それを察したオリヴィエは、その間隙を埋めるかのように動きだしていた。それまで鞭の形状をしていた黒い血(《スティグマ》)が変形し、いくつかの短剣となって浮かび上がる。
オリヴィエの合図と共に、その血の短剣は《サイトウ》を狙って一斉に襲いかかる。しかし、やはり《グラビティ》に阻まれてしまう。
「やはり……あの重力の膜を何とかしない事には……!」




