第53話 和解
(そうか。神狼は、本当は《東京中華街》に……あの彩水って人のところに戻りたいんだな、きっと……)
深雪はふとそう思った。
もしかすると、神狼自身も己の本心に気づいていないのかもしれない。もし今、自分が《東京中華街》に戻ったら、紫家の子どもたちの辿った悲劇が、再び起こってしまうかもしれない。そんな事は二度と起こしたくないという一心で、神狼はその本心を封じ込めているのだろう。
「気にすることはないよ。これは俺が自分で選択したことなんだし」
深雪はそう答えるが、神狼は激しくかぶりを振って詰め寄ってくる。
「だガ……一歩間違えれバ、お前は死ぬところだっタ!」
「そうかもしれない。でも、黄家の屋敷で鈴華の話を聞いてて、俺思ったんだ。神狼って本当はすごく良い奴なんだなって」
「俺ガ……?」
神狼は俄かに、訝しげな表情になった。あれほど嫌いだ、嫌いだと連呼したのに、何故そのようなことが言えるのかと、深雪の正気を疑っているのだろう。
「だって神狼は、《レッド=ドラゴン》にいる仲間のために、すごく自分を犠牲にしてるだろ。大切な人と一緒にいたいっていう気持ちを押し殺して、住み慣れた場所を自ら離れて……よっぽど、大事に思っていないと、そんなことできない」
「……」
「いつか……いつか分かってもらえるといいな。あの兄貴、相当頑固そうだけど。そして、いつか《レッド=ドラゴン》に戻れる日が来たらいいのにな」
「お前……」
かつて情報屋のエニグマは深雪に言った。神狼はいずれ必ず深雪たちを裏切る、と。
最初にそれを聞いた時、深雪はそれも致し方ないと、どこか冷めた感想を抱いた。深雪と神狼とではバックボーンが違うのだから、そういう事も十分起こり得るだろうと。でも今は、その考えは少しだけ変わった。
神狼には神狼の大切なもの、守りたいものがある。それは決して悪い事ではないし、事務所の中で亀裂を生んだりして、絶対にマイナスの結果をもたらすとも限らない。
深雪たちや神狼の関係次第で、プラスに持っていくことだってできるのではないか、と。
神狼はふと肩の力を抜いた後、複雑な色を切れ長の双眸に浮かべ、深雪を見つめる。未だ戸惑っている様子の神狼に、深雪は「ああいや」と付け加えた。
「でもそしたら事務所が困るか。神狼は俺たちの仲間でもあるんだし」
「仲間……?」
「うん、仲間だよ」
深雪はそう言って笑うが、神狼は瞳を揺らし、俯いてしまう。
「俺にとっテ、事務所ノ仕事はバイトの延長線みたいなものダ」
「だったら、これから仲間になりゃいいじゃん! 俺ももっと神狼から潜入方法とか学びたいし。そんで、代わりに俺が料理を教えるよ! 俺んち、両親共働きで一人っ子だったから、こう見えても、けっこー自分で料理作るんだ!」
思わず身を乗り出すと、神狼は思い切り嫌そうな顔をして仰け反ってしまった。
「……何デ、男同士で料理なんカしなくちゃならナイんダ!?」
「別に照れることないじゃん。それなりに楽しいって!」
「嫌ダ! 絶対に嫌ダ‼」
「だったら……二人きりが嫌なら、鈴華やシロを誘えばいいしさ」
「女子デ誤魔化すんじゃネエ!」
深雪が思っている以上に料理が苦手なことがコンプレックスなのか、神狼は凄まじい剣幕で怒鳴ってくる。そんなに拒否らなくていいのに。深雪は唇を尖らせるが、そういう風に青い顔をして慌てる神狼を見るのは、意外性があって何だか面白い。事務所ではめったに見せない姿だ。
そんな感想を抱いていると、神狼は再び、つと視線を俯けた。そして暫く躊躇していたが、低い声で訥々と話し始める。
「……。俺ハ……今でモお前のことが苦手ダ。何ヲ考えているのカ理解できなイ。苛つくシ、不気味だシ、こっちのことをからかってんのカと思ったこともあル」
「は……はっきり言うなあ……」
「でモ……どうであれ、受けた恩は返ス。……必ずナ」
神狼は顔を上げ、深雪の目を真正面から射貫くように見た。その言葉は静かで、ぽつりと呟くように儚げだったが、同時に鋼のようなしっかりとした芯を内包していた。
深雪は咄嗟に、返す言葉に詰まった。自分は別に、神狼に恩義を感じて欲しくて行動したわけではない。あくまで黒彩水が許せないと思ったから決闘に応じた――ただ、それだけなのだ。
神狼もその経緯が分かっていないわけではないだろう。けれど、きっと深雪に恩義を返すのが神狼なりのけじめのつけ方なのだ。そう気付き、深雪もまた無言で神狼の眼を見つめ返した。
そうしていると、じわりと胸の内が温かくなるのを感じる。返す返すも、決して神狼の恩返しを無邪気に喜んでいるわけではない。ただ、深雪の存在を認めてくれたようで、途轍もなく嬉しかった。神狼が深雪のことを、恩を返すべき人物だと認めてくれたことが、何より嬉しかったのだ。
行動を多少、共にしたからと言って、簡単に理解し合えるわけでない。でも、ぶつかったり、反発し合ったりしながら、互いの事を少しずつ理解していけばいいのではないかと深雪は思っている。「嫌い」から「苦手」に昇格しただけでも、神狼との関係はずいぶん前進したと言えるのではないだろうか。最初は無視されていて、互いに口も利かないような状態だったのだから。
神狼は最後に付け加えた。
「……もシ、困ったコトが出来たラ、俺に言エ。できるダケ、手伝っテやル」
最初からそのことを深雪に伝えたかったのだろう。言うべきことを言い終わり、どことなくすっきりした顔で身を翻すと、その場を歩み去っていく。
「はは……律儀だなあ。やっぱ、いい奴じゃん」
思わず笑みが零れた。わざわざ、そんな事を言いに来なくてもいいのに。そう思うが、神狼はその辺をはっきりさせておきたかったのだろう。適当な対応をし、うやむやにするのが嫌だったのだ。それも、神狼の真面目さ故だろう。
深雪は神狼のそういうところに、心から尊敬と好感を抱いた。
神狼が事務所のSUVの方へ立ち去ったのと入れ替わりに、今度はシロが小走りに近づいてくる。
「ユキ、一緒に帰ろ!」
「シロも一緒に歩いてくれるの?」
「ううん、六道がタクシー使いなさいって。……ほら!」
シロが指し示す方向へ視線を転じると、駅の端に個人タクシーと思われるボロいセダンが何台か停まっていた。
とはいえ、タイヤは今にも脱輪しそうだし、サイドミラーが片方もげていたり、ライトが一つ潰れていたりと、見るからに整備などされていなさそうだ。あまり進んで乗りたいとは思わないが、シロは慣れているのか、気にした様子もない。
それよりは深雪の手足に多数刻まれた擦過傷の方が気になるらしく、心配したように言った。
「帰ったら、ちゃんと消毒しなきゃだね。しっかり手当てしないと、傷口が化膿するんだって」
「うん、そうだな。そうしよっか……」
決闘の最中は神経が高ぶっていたからか、傷を負い血が滲んでも、殆ど気にならなかった。でもこうやって冷静になると、あちこちがひりひりと焼け付くように痛む。おまけに全身がぐったりとして疲れ切っていた。できるなら、一刻も早く自室に戻って休みたい。
シロの言葉にそう応じつつ、歩き始める深雪だったが、ふと視線を感じ、足を止める。
「あれは……?」
視線を転じると、ロータリーを挟んだ向こう側に五階建ての小さな雑居ビルがあり、その屋上に真っ赤な火が燃え盛っているのが見えた。
火事だろうか。一瞬どきりとするが、煙も出ないし、火がそれ以上燃え広がる気配もない。それどころか、その炎塊は不意に身動ぎをしたのだ。
そして、まるで生き物か何かのように身を起こしたのだった。
そうやって立ち上がったのは、ちょうど成人男性ほどの大きさをした、炎に包まれた人間だった。
輪郭はおぼろげだが、間違いない。頭部があり、手足があり、はっきりと二本の足で直立している。胴体や四肢のみならず顔も全て炎に包まれていて、視線の矛先は分からないが、何となくこちらを見つめているような感じがする。
「なんだ、あいつ…!?」
深雪がぎょっとして呟くと、シロも深雪の傍にやって来て、火に包まれた人間を見上げた。
「あの人、火だるま男……《イフリート》じゃないかな?」
「火だるま男……?」
「うん。最近、新宿の方でも噂になってるゴーストだよ。流星が言ってた」
「……何だろ。俺たちを襲うつもりかな……?」
火だるま男――《イフリート》はまんじりとも動かず、その顔はじっと深雪たちの方を向いている。
何か仕掛けてくるつもりなのだろうか。事務所のSUVは既に駅前を後にしているし、奈落やオリヴィエの姿も無い。何かあれば、深雪とシロだけで対処せねばならない。
深雪は緊張し、火だるま男をじっと観察していたが、次の瞬間、火だるま男――《イフリート》は唐突に身を翻した。
そして、そのままビルとビルの間へと姿を消す。
「……行っちゃった」
「うん……何だったんだろう?」
正直、もう一戦する体力など、少しも残っていなかった。だから、《イフリート》が大人しく去ってくれたことに、大きな安堵を覚えていた。その一方で、気になる点も残る。
(俺たちの方を見てたような……気のせいか……?)
《イフリート》は何者で、どういったゴーストなのだろうか。どうしてこちらを凝視していたのだろう。
気にはなったが、相手の姿は既に無く、それ以上の情報は得られそうにもない。新宿でも知られた存在なら、また会う事もあるかもしれない。深雪はそう思いつつ、シロと共に歩き出す。
その時、深雪はまだ知らなかった。火だるま男――《イフリート》が離れたビルの陰から、立ち去る深雪たちの後姿を見つめていたことを。
そして、彼の発した微かな呟きを。
『深雪……お前、生きていたのか……‼』




