第52話 黒彩水の事情②
そもそも、《レッド=ドラゴン》の家同士の確執は、六華主人をどの家の者が務めるかという事に端を発している。
それは六華主人を選出した家が実質的に《レッド=ドラゴン》を支配するという理由が一つ。もう一つは、六華主人となった者が《収容区特殊刑務官》を兼任するからでもある。
《収容区特殊刑務官》――《特刑》とも呼ばれるが、この《監獄都市》では非常に特殊な存在だ。
まず、実質的に《リスト入り》を免れるため、命を狙われる危険が無くなる。また、《監獄都市》における私財を守る権利、徒党を組む権利、土地を保有する権利など、さまざまな特権が公に認められる。そのため、莫大な財産を保有し、権力を得ることが出来るのだ。
この《東京中華街》の生み出す全ての富も、面目上は六華主人のものだ。《東京特別収容区管理庁》の役人ですらも、《特刑》には干渉できない。つまり六華主人となった者は、《レッド=ドラゴン》だけでなく、《監獄都市》全体の支配者の一人にその名を連ねることが出来るのだ。
且つて、六華主人は黒家の者が務めていた。元々、《レッド=ドラゴン》は黒家が設立したのだから、それも当然だ。
だがその六華主人に今の紅神獄が選出されてから、六家の間に軋轢が生じるようになる。
紅家の者が六華主人となり、組織の主導権は目に見えて紅家と黄家へ移っていった。黒家としては、その様な事態を面白く思う筈がない。
それ故に、黒家は反乱を起こした。中心になったのは、あの黒蛇水だ。彼らは再び巨大な権力を手中に収めたかったのだろう。
だが、その目論見は儚くも砕け散った。偏に、黄鋼炎が一枚上手だったのだ。
反乱が露見した後の黒家の醜態は、目に余るの一言だった。彼らがまずやったことと言えば、最小勢力だった茶家に罪を擦り付ける事だ。そしてそれが無意味だと悟ると、今度は紫家を切り捨てにかかった。日陰者が鬱憤を晴らすために、勝手にやったことで、自分たちは関係ない、と。
確かに紫家は黒家の私設部隊という面が強かったから、全くの無関係ではなかった。彩水や狼を始め、黒家の元で反乱を成功させようと暗躍した者は相当数いる。
だが、主導権を握っていたのはあくまで黒家だ。しかし結局、待ち受けていたのは紫家の取り潰しだった。
紅家と黄家にしてみれば、主体性があろうがなかろうが、紫家が脅威であることに変わりは無かったからだろう。
《紫蝙蝠》の長であった彩水は、判断を迫られた。紫家の子どもたちを自らの手で処分するか、それとも紫家もろとも滅ぶか。
選択肢は決して多くは無く、どれを選んでも茨の道だった。自分一人だけなら、まだいい。だが、弟はどうなるのか。狼もこの手で殺せというのか。
その選択肢を考えた時、彩水の胸に去来したのは、強烈な拒否感だった。何があっても狼だけは死なせてはならない。そう思ったのだ。
それが血縁の情というものなのかは、今となっては分からない。だがともかくも、彩水は紫家の子どもたちを自らの手で屠る代わりに、狼の身の安全を黒家に約束させたのだった。
己がいかに身勝手で利己的であるのは分かっている。世間では、残忍非道だともいうのだろう。だが、他に選択肢は無かった。
そして、紫家は滅んだ。彩水と狼以外は、一人たりとも残らなかった。
地獄のような一部始終の後、平穏は得られる筈だった。だが、またしても苦難が降りかかる。彩水は事前の約束通り、黒家の庇護を受けることが出来た。だが、弟の狼は紅家へと名を連ねることになったのだ。
詳細は定かではないが、おそらく紫家の生き残った子ども二人を一緒にしておくと、将来の禍根になると黄鋼炎が判断したのだろう。
狼は紫家が崩壊したことでかなり精神的に不安定になっており、記憶も混濁し始めていた。不必要な精神的打撃を与えたくなかったのだ。彩水はどうにかしてそれを阻止しようと画策したが、功を奏すことは無かった。
結局、兄弟は離れ離れとなった。
そして、恐れていたことが起こった。突如として、狼が紅家から姿を消したのだ。
その話を聞いた時、彩水はすぐにその理由に思い当たった。狼は紫家の仲間たちがどこかにいると錯覚し、彼らを探しに行ったのではないか、と。
狼は生まれてからずっと《紫蝙蝠》の中で育った。一人でいることに慣れていない。記憶も曖昧になっていたから、あり得ることだ。だからこそ、彩水がそばにいなければならなかったのだ。
そして、狼が彩水の元に戻って来ることは二度となかった。わざわざ《龍々亭》まで迎えに行ったが、返ってきたのは頑なな拒絶だけだった。
《東京中華街》の外で植え付けられた余計な記憶が、狼にそうさせているのだろう。ああなってしまうと、再び記憶を『リセット』する他ない。
この街では、権力がなければ大切なもの一つ守れないのだ――彩水は改めてそう、思い知らされた。力がなければ、この街には居場所すら無い。紫家を破滅へと追いやった、憎き黒蛇水に大人しく従っているのも、全て『居るべき場所』を得るためだ。
(黒蛇水、か。若い頃は相当なやり手だったが……年は取りたくないものだな)
黒蛇水は妄執に囚われた哀れな老人だが、彩水と一つだけ目的を共有している部分がある。それは今でも《レッド=ドラゴン》での覇権を狙っているという点だ。
彩水としては黒家などどうなってもいいし、はっきり言って後ろ盾が得られるなら何でもいい。ただ、もう日陰者でいる事にはうんざりだった。
どれだけ紫家で研鑽を積み、矢面に立って《アラハバキ》や《死刑執行人》と戦い、組織の為に尽くしても、家同士のつまらぬ権力争いでいとも簡単に潰されてしまう。生き残るためには――安息を得るには、権力側に成り代わらねばならないのだ。
彩水は四年前、それを嫌というほど思い知らされた。
狼を――弟を守ってやれるのは、この世で自分だけなのだ。彩水は昔も今も、そう固く信じている。
(……見ていろ。これからは我々が世界を支配する番だ)
黒家の暗く、粗末な廊下を足早に歩きながら、彩水は感情を昂らせることなく、ただ煌々と冷たい瞳を光らせた。
まるで雪山の中、獲物を待つ雪豹のように。
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藍光霧が去った後、深雪たちはSUVに乗り込んで新宿まで戻ることになったが、一つ問題が発生した。それは、いくらこのSUVがでかいとはいえ、総勢八人もの人数を乗せるわけにはいかないという事だ。
最初にそれに言及したのは深雪だった。
「っていうか、これ全員乗れるの?」
「確かに……幾らこの車が大きくても、この人数ではすし詰めになってしまいますね……」
オリヴィエも困ったような表情をするが、そのすぐ傍に、二頭身のウサギがポコンと浮かび上がり、意地の悪い笑みを浮かべた。
「深雪っち、一人で歩けばいいじゃん」
「え、俺だけ!?」
思わず唇を尖らせると、流星までニヤリと性質の悪い笑みを浮かべる。
「一人が寂しいなら、奈落とオリヴィエもつけるぞ?」
「いや、そういう問題じゃないって!」
「だって、所長を歩かせるわけにはいかないし、神狼も病み上がりだし、鈴華とシロは女の子で、流星は運転手でしょ? ……だったら残った男三人、歩くしかないじゃない」
因みに、マリア自身はノーカウントなのだろう。こういう時、質量の無い存在は羨ましい。いや、むしろ質量が無いからこそ、完全に他人事なのか。
マリアは深雪が《東京中華街》に勝手に潜り込んだことに激怒していたし、そのことに対する嫌がらせは、多少は仕方ないと思える。だが、こういう謂れのない嫌がらせは断固、抗議すべきなのではないだろうか。
「歩く分には、私は構いませんが……」
「珍しく意見が合うな。俺も狭苦しいよりは歩く方がましだ」
オリヴィエと奈落は涼しい顔をして答えるが、そもそも彼らは怪我などしていないし、体力も有り余っているだろう。黒彩水と決闘をして満身創痍の深雪とは、条件が違う。
「いや、俺も結構な負傷者なんですけど!? ほら見て、この血! 血‼ ダラッダラじゃん‼ 足だって、すんごい痛いし!」
「大ジョーブ、舐めてりゃ治るわよ。男の子でしょ?」
「いやいや、いやいやいや‼」
「まあ、っつーわけでそろそろ移動すんぞー」
流星はそう言うと、さっさと運転席に乗り込んでしまった。マリアも深雪の状態には全く関心が無いようで、クラゲのようなふにゃふにゃした顔でぷかぷかと宙を漂っている。事情を察してくれそうにもないので、自らアピールを試みたのだが、全く効果は無かった。
「マジですか……!」
がくりと肩を落としていると、不意に後ろから声をかけられる。
「……おイ」
振り返ると、そこには神狼が立っていた。
神狼は、黒彩水と離れたからか、黄龍大楼にいた時より随分、顔色が良くなった。病状は未だ回復しきっていないようだが、精神的余裕は戻ってきたのだろう。
けれど、どこか申し訳なさそうな表情で逡巡している。真面目な神狼の事だ。彩水の決闘で負傷した自分に気を使っているのだろう――深雪はそう思いつき、慌てて両手を振った。
「神狼……! いや、いいよ。まだ熱があるんだろ? 俺が事務所まで歩くから……」
すると神狼は、意を決したように口を開く。
「そうじゃなイ。お前、生まれはどこなんダ?」
「俺? 俺は東京だよ」
「東京? この《監獄都市》でカ?」
神狼は眉根を寄せる。深雪はしまった、と思った。ついうっかり、本当のことを答えてしまった。
《関東大外殻》が建設されて、二十年。その間、東京はずっと閉ざされた街だった。中に入るゴーストはいても、外に出て行くゴーストは皆無だった。
片や深雪はどう見ても十代にしか見えない。この《監獄都市》の中で生まれたのなら、どうやって外に出たというのか――神狼はそう疑問に思っているのだろう。
「あ、いや……」
(そうだった。《冷凍睡眠(コールド=スリープ)》で二十年眠っていたから……それを今、説明すると長くなっちゃうし、適当に誤魔化すか……?)
しかし、深雪はすぐに首を振った。
(いや……何か、そういうのはもう嫌だな……)
話せば長くなるのは確かだが、その場しのぎの為に適当に誤魔化して嘘をつき続けるのも、何だか嫌気がさし始めていた。
嘘をつくという事は、相手を騙すことであると同時に自分を偽ることでもある。たとえその嘘が相手にばれる可能性の低いものだったとしても、不必要に欺きたくはない。
それに、以前は自分の事を知られるという事に対して強い警戒感と恐怖感を抱いていたが、今はそれも徐々に薄まってきた。神狼や事務所の面々の事を知ることで、自然にそういった心の壁が薄らいできたのだと思う。
「ええと……うまく言えないんだけど、東京出身なのは本当だよ」
「ふうン……? そうなのカ」
神狼はまだ完全には納得しきれていない様子だったが、深雪にも何か事情があると察したのか、それ以上追及することは無かった。
やがて《東京中華街》の摩天楼へと視線を転じると、静かに話し始めた。
「……俺ハ、この《東京中華街》で生まれたんダ。そしテ、外の世界を全く知らずに育っタ。その頃ハ、それニ不満も違和感もなかったんダ。そばにはいつモ《導師》がいタ。俺はただ、《導師》ノ言うことを聞いていれバよかったシ、褒めてもらえることガ何よりも嬉しかっタ。ずっト……それが当たり前だト思っていたんダ」
「まあ……兄貴があんなだと、いろいろ大変そうだな」
深雪だったら、あのような高圧的な兄が近くにいると考えただけでストレスになりそうだ。少なくとも、心穏やかには暮らせないだろう。神狼には心の底から同情を禁じ得ない。
ところが当の神狼は、どこか悲しげに表情を曇らせて呟いた。
「あの人ガ、あんな風に強行的な態度をとるのハ、俺のためダ。俺だけじゃなイ。あの人ハ、《紫蝙蝠》ヲ誰よりも大事にしていタ。四年前、黒家が反乱を起こしテ結果的に紫家が取り潰された時にモ、何とか皆ヲ救おうト、最後まで奔走していたんダ。お前ハ嫌な奴だと言っていたガ、それだけじゃなイ。とてモ……情の深いところモある人なんダ」
「そうだったのか……」
「だかラ、兄に代わっテ謝りたイ。……いろいろ、悪かったナ」
ならば、深雪の知っている黒彩水は、ごく一部分ということなのだろう。
だが、そうだとしても、深雪は黒彩水に対して好感を抱くことができなかった。彼の抱えている感情の澱はあまりにも淀み、濁っている。それは将来、《監獄都市》の中で深刻な摩擦と衝突を生み出すのではないかと思われてならないのだ。
黄雷龍も確かに野心が強く、油断できない存在だ。だが、黄雷龍にはまだ、自分の仲間を守りたいという前向きな意志が感じられる。それに、この《東京中華街》の威容を目の当たりにすると、拡大に対する野心を抱くのが自然な流れのようにも思えた。彼は自分たちの力に一定の自信があり、拡大してもうまくやっていけるという確信があるのだろう。
だが、黒彩水のそれには、そういった建設的な意志が感じられず、不気味で底知れなさを感じさせられる。
例え彼が《レッド=ドラゴン》の六華主人となったとして、それで満足するだろうか。《中立地帯》や《アラハバキ》と協調しようとするだろうか。答えは否だ。決闘でもそれは顕著だった。
黒彩水は黒家の若者の憎悪や鬱憤を煽り、自らの支持へと転換することに、何ら躊躇がなかった。それどころか、彼は人の抱く負の感情を見抜き、くすぐることに長けてすらいるように見える。それを鑑みても、六華主人となった時に同様の扇情主義に走る可能性は高い。
敵を見つけ出し、無ければその存在を作り上げ、完膚なきまでに打ちのめす――それが彼のやり方なのだ。
彼は黄家や紅家という身内の敵を下した後、今度は外に敵を見出すだろう。差し詰め、最初の敵は《アラハバキ》といったところだろうか。
そしてどちらかが疲弊し、立ち上がれなくなるまで戦い続けるだろう。その次は《中立地帯》だ。
そして、次々と新たな敵を見出し、破壊し続ける。いずれ《監獄都市》全てが焦土となるまで他者を排除し、攻撃し続けるだろう。
そして最後に何が残るだろうか。いや、何も残りはすまい。
どれだけ正当であっても、憎しみや復讐で自己や他者を幸せにすることはできないのだ。
(もしそうなったら……本当に怖いな)
もっとも、まだ本当にそうなってしまうと決まったわけではない。黒彩水は六華主人の一候補に過ぎないし、今のところはまだ黄雷龍の方が有利であるようだ。
それに、深雪にしてみれば、どう見てもパワハラにしか見えない兄貴だが、生まれた時から一緒に生きてきた神狼には、ちゃんといいところもあるし、大切な存在なのかもしれない。そうでなければ、自分の事でもないのに、こうやって深雪に頭を下げたりはしないだろう。
だから、まだ黒彩水を危険な存在だと決めつけるには時期尚早かもしれない。




