第51話 黒彩水の事情
そう物思いに耽っている間にも、リムジンは《東京中華街》の長大なメインストリートを進み、やがて、《東京中華街》の端に位置する池袋駅の東口に到着する。そこにあるロータリーなら、リムジンも難なく方向転換できそうだ。
光霧はそこで深雪たちを降ろした。西口の駐車場には、見慣れた事務所のSUVが停まっているのが見える。
「ここでよろしいので?」
藍光霧に対し、リムジンを下りた六道は頷きを返す。
「ええ。あなた方のご厚意に、感謝する。黄鋼炎どのと紅家のご当主によろしくお伝えいただきたい」
「分かりました。確かに伝えておきましょう」
藍光霧は柔和に微笑むと、次に、神狼と鈴華へと声をかけた。
「それではな、神狼、鈴華」
「……多谢您的好意」
「お世話になりました」
神狼と鈴華は揃って頭を下げる。二人とも、この藍家の青年とは、ごく普通に接することが出来るようだ。緊張したりすることも無ければ、憎しみを露わにすることも無い。そう言えば神狼も、最初に頼ろうとしていたのはこの藍光霧だった。
今なら、深雪にも分かる。確かに彼なら、信頼できそうだ。
深雪や神狼が突然押しかけたとしても、《中立地帯》のゴーストだからと言って、無視したり撥ねつけたりすることはおそらく無かっただろう。
彼になら、玉宝のことを話しても問題なないのではないか。深雪は意を決し、藍光霧に話しかけた。
「あの、すみません!」
「……どうした?」
深雪に話しかけられるとは思っていなかったのだろう、藍光霧はやや驚いた表情をしたが、すぐに親身になって話を聞こうとする姿勢を見せてくれた。
そこで深雪は、《東京中華街》の中で出会った玉宝の話をする。彼女が娼館で強引に働かせられていたこと。それが嫌で逃げ出し、黄家の者に追われていたこと。深雪一人の力では及ばず、白家の人々を頼ったこと。藍光霧はじっとそれに耳を傾けていた。
「ほう、そんなことが……」
「ずっと彼女の事が気になっていて……力になってあげたかったんだけど、こっちもバタバタしていたので……玉宝の事、助けてあげて欲しいんです」
藍光霧は、もちろん、とそれに同意してくれた。
「白家や黄家と協議する必要があるから、私の一存では決められんが、出来るだけ良い方向へ向かうよう尽力しよう。……安心するといい」
「よろしくお願いします……!」
ほっとして答える深雪を、藍光霧は面白そうに眺めている。《中立地帯》のゴーストである深雪が、どうして《東京中華街》の少女の身をそれほど案じるのか、意外に思っている様子だ。
だがともかく、彼ならきっと、玉宝 に力を貸してくれるだろう。深雪は今後、そう簡単に《東京中華街》に入れなくなるだろうし、玉宝とは二度と会う事は無いかもしれない。それでも、彼女が平穏で幸福な生活を手に入れることが出来るよう、祈らずにはいられなかった。
六道や流星はそのままSUVへと乗り換える。ようやく事務所に戻れると思うと、肩の荷がどっと音を立てて下りるような心地だった。
最初は流星の言う通り、こんなところにはいられないと、事務所を出て行ったこともある。でも今は、間違いなく自分の帰る場所になりつつある。
ともかく、これで終わりだと思ったが、藍光霧は不意に声を上げた。
「……ノーリ!」
(のーり……?)
何の事だろうと思って藍光霧の方を振り返ると、藍家の若者は微動だにせず、奈落に視線を注いでいる。
「久しぶりだな。まさか、このような形で再会することになろうとは」
「……」
奈落も無言だったが、その赤い隻眼は、やはりまっすぐ藍光霧を見返していた。
(あれ……この二人、知り合い……?)
藍光霧の表情には、いつもの柔和さは無いが、かと言って敵意に満ちているわけでもない。どちらかと言うと、既知の友人に再会したかのような、親しみと懐かしさが籠っているように感じられた。
一方の奈落は、無言で且つ無表情だ。だがやはり、敵対する者に向ける時の容赦のない殺気は感じられない。
両者は無言で面と向かい合っていたが、やがて再び藍光霧が沈黙を破った。
「お前……まさか俺を追ってこの街に来たのか」
それに対し、奈落は平時よりさらに低い声音で、呟くように答える。
「ジウ。ヒョルトンは死んだぞ」
藍光霧は僅かに目を見開いた。「……お前が殺ったのか?」
「次はお前だ」
物騒で危険極まりない言葉だが、やはり奈落には殺気がない。それどころか、ありとあらゆる感情が抜け落ちてしまったかのように、混じりけの無い静謐な気配を帯びている。
深雪は少々、戸惑った。奈落のそういった姿を目にするのは初めてだったからだ。奈落は常に周囲を警戒し、心を許すことがない。孤高で高慢で唯我独尊、それが奈落なのだ。だがいつもは張り巡らせているその『壁』を、何故だか藍光霧には発していない。どういう心変わりなのだろうか。
奈落が藍光霧に抱いている感情は敵意ではない。それは確かだ。だが、友情や親愛といったものとも違う。そう言った温かさは、一切感じられない。
では一体、何なのか。二人はどういった間柄なのだろう。
まさかここでドンパチ始めるつもりではないだろうが、そうなっても不思議ではない、奇妙な緊張感が漂っている。火花を散らすような激しさは無いが、確実に何かがひたひたと押し寄せてくる感じだ。
深雪が固唾を呑んで行方を見守っていると、藍光霧はふと頬を弛緩させ、笑顔になった。
「つくづく健気な奴だな、お前も。……また連絡する」
そして、藍光霧は奈落に向かって片手を上げると、踵を返し、リムジンへと戻っていく。奈落もまた、それを呼び止めることなく、藍光霧へ背を向ける。
二人が交わした会話はそれで全てだった。その場を覆っていた緊迫感は、余りにも呆気なく消え去ってしまい、深雪はすっかり拍子抜けする。さっきの、こちらが心配になるほどの緊張感は、何だったのだろう。深雪はどうしても気になって、奈落に近寄った。
「え……何、知り合い? ノーリって? 何なの?」
「さあな」
奈落の口調は素っ気ないが、それ以上問い詰めたら殺すぞという、はっきりとした拒絶と威嚇を含んでいた。先ほどの静けさもどこへやら、すっかりいつもの不動王奈落に戻ってしまっている。深雪はつい、口を尖らせた。
「何だよ、教えてくれたっていいのに……!」
すると、いつの間にかオリヴィエが後ろに立っていて、深雪の疑問に答えた。
「ロシア語ですよ」
「へ?」
「『ノーリ』は確かロシア語で、『零』という意味です。『ジウ』は中国語、『ヒョルトン』はスェーデン語で、それぞれ『六』、『十四』という意味ですよ」
「そうなんだ……」
オリヴィエも先ほどの藍光霧と奈落の会話を聞いていたのだろう。ただ深雪とは違い、二人の関係性に対して思い当たるところがあるのが、その表情から仄かに感じられた。そしてそれは、オリヴィエにとっては好ましくない事なのか、どこか愁いを帯びているようにも見える。
(零と六と十四……番号か何かの順番が、そのまま名前になったって感じだな)
まさか本名ではあるまい。どちらかと言うと、暗号名のようなものだろう。ただ、それにしてもえらく合理的で、個人の人格に対する愛着や尊厳は全く感じさせない手法だと、深雪は思った。機械的で、効率を何よりも優先させる思想が透けて見えるようだ。
もちろん、番号で呼び合う事にも利点はあるだろう。組織内での序列や役割が明確になるし、個が重要視されない場合は、敢えて各々の人格を消去することによって物事が円滑化することもある。奈落や藍光霧が属していたのは、そういった徹底した合理性と非人間性の求められる場所なのだろう。
そう――例えば、奈落が且つて所属していたという、対ゴーストを専門とした傭兵集団のような。
(ひょっとして、あの藍光霧って人も《ヘルハウンド》の……?)
《東京中華街》に潜入する際、神狼は言っていた。藍光霧は藍家の養子であり、氏素性が知れないところがあると。彼が《監獄都市》の外からやって来たのだとしたら、《ヘルハウンド》に属していた可能性は十分にあるだろう。
それに、先ほどオリヴィエが悲しげな表情をしていたのも頷ける。神父である彼にしてみれば、傭兵などという職種はあまり好ましい仕事ではないだろうから。
だが深雪は結局、その思いつきを口には出さなかった。奈落はいつも通り不機嫌だし、オリヴィエもあまりそのことについて話題にしたく無さそうだった。話したくとも、話す相手がいない。
気にならないわけではなかったが、しつこく問い質したところで奈落が詳細を語ってくれるとも思えない。むしろ、うるさいとぶん殴られるのがオチだ。
(よく分からないけど……奈落がこの《監獄都市》に来たのは、藍光霧を殺すため……ってことか……?)
勿論、奈落は今、東雲探偵事務所にやとわれているのだから、それだけが目的ではないだろう。だが、さりとて全くの無関係というわけでもあるまい。
その昔、世界中で恐れられたという傭兵団は、今は消滅してしまったと聞いた。彼らはどこに行ってしまったのだろう。奈落はどうしてその《ヘルハウンド》を抜け、この街に来たのだろうか。
互いに少しずつ距離感が掴めてきていて、行動を共にするのも以前のように苦痛ではない。でも、それでも分からない事はまだまだある。
ただ、その事実に突き当たっても、一時のように焦りを覚えることは無かった。強引に突っ走るのが全てではないし、時が自然と解決してくれることもある。
知るべき時が来れば、自ずと知ることになるだろう。驕りでも過信でもなく、その時がいずれ来るであろうことを、深雪は確かに感じていた。
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深雪たちが《東京中華街》の外へ向かっていた頃。黒彩水は黒家の当主、黒蛇水に呼び出されていた。
黒家の屋敷は、《東京中華街》の北端に位置する。他家と比べると、最も街の中心から離れたところに居を構えていた。
眼前には《関東大外殻》が聳え立つ、『辺境』の地だ。《レッド=ドラゴン》の中でも明らかに冷遇されていたが、それは気のせいでもなければ、被害妄想でもない。厳然たる事実だった。
数年前に黒家が謀反を企てそれが露見した時に、黄家と紅家によって黒家の財産資産は半分近くが没収となった。そして、屋敷も中心街からこの寂れた北部へと転居するよう言い渡されたのだ。
彩水の目の前に立つ、質素で小さなこの中華洋式の古屋敷が、《レッド=ドラゴン》における黒家の現状全てを物語っていた。
もっとも、彩水にしてみれば、これでも十分、豪華な方だ。紫家の屋敷は、決して日の当たらぬ薄暗い地下にあった。そこで百人近くの子どもたちが寝食を共にし、日夜、暗殺・諜報技術の獲得に汗を垂らしていた。
そう、まさに《蝙蝠》のように。贅沢など、一かけらも許されなかった。
そもそも、屋敷は広ければ広いほど良いというのは、めでたい金持ちの発想だ。暗殺や諜報を主にこなしてきた彩水にしてみれば、広すぎる家など、外敵や侵入者からの守備・防衛が大変になるだけだ。手間がかかるだけで、いいことは一つもない。
真っ黒な玄関の扉を開くと、古い木造の扉は軋んで獣の悲鳴のような音を出す。蝶番が錆びついているようなのだが、今の黒家にはそれを修繕する財源すら満足に残っていない。彩水は彩水で、何者かが侵入を試みた際、警報機の代わりになるので放置しているが。
彩水の来宅に気づいた侍従たちが滑るようにやって来て、足元に跪く。みな顔に割しわが深く刻まれており、頭髪は白く、黒家よりほかに行く当てもない年寄りばかりだ。追い出すわけにもいかず、仕方なく雇い続けている。
だが、彩水は手を振って彼らを全て下がらせた。大した荷物も持っていないし、そもそも自分の事を誰かの手に委ねるのは好きではない。
そしてそのまま屋敷の暗い廊下を進み、黒蛇水の寝室の扉をノックした。
「彩水です。お呼びになられたと聞き、参りました。入ってもよろしいでしょうか?」
返事は無い。いつもそうだ。黒蛇水は彩水を養子と認めていても、息子だとは認めていない。
だが彩水も、そういった老人のわだかまりに付き合うつもりは毛頭なかった。さっさと扉を開け、入室する。
蛇水の寝室は、黄家の客間などと比べると、随分狭い。天蓋つきの寝台と寝台棚が三つ、テーブルに椅子、照明器具など、必要最低限のものを並べただけで、大部分のスペースが埋められてしまう。
唯一、称賛すべき点があるとすれば、窓から優美な中華庭園が見えるところだが、蛇水はいつもカーテンをきっちり引いているので、実際にこの部屋から庭園が見えたことは一度もなく、ほぼ台無しになっているのだった。
何か重苦しいものが沈殿し、どんよりと籠った部屋の空気に早くもうんざりしていると、寝台の上で身動ぎをする気配があった。黒家の現当主、黒蛇水が目を覚まし、上半身を起こしたのだ。
彩水は即座に寝台の傍に近寄って行って、首を垂れる。
「遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
もちろん遅くなってなどいない。ただの社交辞令だ。そして彩水はゆっくりと顔を上げ、義父の顔を見る。
黒蛇水は七十を過ぎた老人で、肝臓が悪く、数年前から病に伏せっていた。今も起き上がってはいるものの、寝所から出ることができず、彩水がその枕元に呼び出されたのだ。
最近はあまり調子が良くないようだったが、今日は特に体調が悪いらしく、どろりと淀んだ目の下には、黒々としたクマが浮かんでいる。腰から下は布団の中で、その上には枯れ木のような痩せ細った両手が頼りなく組み合わさっていた。
「彩水よ。わしが何故、お前を呼び出したか……分かっておろうな?」
甲高く潰れ、耳障りな声だった。ちょうど、先ほど入って来た黒家の玄関の扉が、ぎいぎいと軋むのに似ている。だがその様なことを考えているなどとはおくびにも出さず、彩水は再び頭を下げた。
「私はただ、《東京中華街》に忍び込んだ鼠を始末しようとしたまでです」
だが、老獪なる黒家の当主は、露骨に胡散臭そうな視線を彩水へと向ける。
「ふん……本当にそうか? その鼠とやらの中に、実の弟の姿もあったのだろう?」
「……」
狼の事を口に出され、内心で激しく舌打ちをした。
彩水が『黒彩水』と名付けられ、黒家に籍を置くことになったのは、あくまで成り行きだ。他家に紫家の事をとやかく言われたくなどない。
すると、蛇水は彩水のそういった感情を見透かすかのように落ち窪んだ目を細め、声を潜めて囁いた。
「紫家でのことは忘れろ。お前は黒家の人間になったのだ。お前にはこの黒家をまとめ、行く行くは六華主人となってもらわねばならん。そして、紅家や黄家の連中から《レッド=ドラゴン》における主導権を取り戻すのだ。それが果たされてこそ、黒家の再興が叶うというもの。その為に、今は慎重に動かねばならんのだ」
「……分かっております」
「彩水よ、お前は賢い。なればこそ、お前を紫家から救い出し、我が黒家の養子として迎えてやったのだ。お前の中に少しでも恩義というものがあるなら、見事わしの期待に応えて見せよ。そして、お前の中にある心・技・体、全てを黒家に捧げるのだ。六華主人となるために、余計な執着は全て捨てよ。……良いな?」
彩水は顔を上げると、蛇水に向かって静かに微笑んで見せる。
「もちろんです、わが父よ。私はいかなる執着も、持ち合わせてはおりませんよ」
「ふん……」
蛇水は疑い深く彩水の顔を観察していたものの、数度えずき、激しく咳き込み始める。彩水は素早く近寄って、その干からびたミイラのような痩せ細った背中を擦った。
「大丈夫ですか? かかりつけの医師を呼びましょう」
「いや、その必要はない。もう下がれ。わしは少々、疲れた」
そして、蛇水は彩水の手を振りほどくと、再び身を横たえた。
「……そうですか。どうか、お風邪など召されぬよう、ご自愛ください」
しかし、蛇水はもはや返事もしない。彩水は蛇水の部屋を退出し、自室へと向かいながら、胸の内でほくそ笑んだ。
(やれやれ……もはや、家にしがみつくしか能の無い老いぼれが。……黒家に迎えてやった恩義、だと? 紫家を見捨てた、の間違いだろう!)
彩水にしてみれば、蛇水の説教はちゃんちゃらおかしくて聞くに堪えないものばかりだった。
蛇水は彩水を拾ってやったと思っているようだが、彩水に言わせれば、こちらがわざわざ黒家の養子になってやったのだ。そうでなければ、こんな落ち目の家など誰が相手にするものか。
そもそも己に待っているものは、もはや死のみだというのに、今更、黒家の再興などと拘ってどうするというのか。
それに、狼の事にしてもそうだ。彩水は決して狼に執着などしていない。自分の傍に狼がいるのはごく当然のことなのだ。
そう、自分は間違っても執着などしていない。本来、当然手元にあるべきものを、取り戻そうとしているだけだ。




